玉 響  参十四






「どうしたのだ、総司」

先程よりも大きな近藤の声に現(うつつ)にもどされ、総司はようやくぎこちない笑い顔を作った。


「・・・子楽さんです。土方さん、最近上七軒にご無沙汰しているから、つれないお客だと、自分でもそう言っていました」
「子楽と言うのか。俺は会わなかったからどんな女かは知らんが、わざわざこんなところまで尋ねてくるとは大した度胸だな。それだけ惚れこんでしまったと言う事か」

女の大胆さに少しばかり興をそそられたのか、近藤が考え込むように腕を組んだ。

「近藤先生、もう行きます。明日から巡察にでます」
そんな近藤に殊更明るく告げると、一礼して総司は立ち上がった。


「・・・・土方さんには、近藤先生から伝えて頂けますか?」
室をでる前に足を止め、一瞬躊躇うように言葉を途切らせたが、次には吹っ切るような笑みを浮かべた。

「やはり歳には言ってはいなかったではないか」
「すみません」
もう一度頭を下げると、そのまま視線を合わせる事無く障子を閉めて廊下に出た。





暗い廊下を渡りながら、知らず小さな溜息が漏れた。
近藤の前で動揺を隠せなかった己が情けなかった。


土方は近藤に何と告げるのだろう。
まさかあからさまに二人の秘め事を話すとは思えない。
だが土方はこうなってから、この間柄を他人に知られても構わないと言い切った。
それに必死に頭(かぶり)を振ったのは自分だ。

土方の将来(さき)に開ける道を、天に見限られた自分が邪魔することだけは絶対に許されないことだった。
傍らにいて土方を守ることこそが、自分の生涯を掛けて願うことなのだ。
だから子楽のことも、先ほど自分が土方に告げた事も、それを成す為の過程にすぎない。


自分が望んだのは、未来永劫土方を繋ぎ止めておくことではない。
それは僅かな間で十分なことなのだ。
ほんの少し、土方が自分にその時を分けてくれれば、それで良い筈だった。
だからもう願いは叶ったのだ。

それなのにいくら言い含めても、聞かない自分がいる。
土方を誰にも渡したくは無い。
現(うつつ)にある時も夢の中にある時も、いつも自分だけのものなのだと、その身も心も欲しい。

そんな己の欲の深さに思わず目を逸らせたくなる。
それでも自分の胸の内にある真実は押し殺さねばならなかった。



相容れぬ二つの心の果て無き葛藤を立ち切るように、総司は伏せていた瞳を上げて、廊下の先に続く闇を見据えた。








新撰組の朝は早い。
たった数日袖を通さなかった浅葱の羽織がひどく懐かしい。
それを身に纏(まと)うと、すでに隊列を整え終わっているであろう一番隊の待つ表口に向かった。



朝の陽射しが目に痛い。

結局昨夜はまどろむことも敵わなかった。
途中からはもう眠ることは諦め、瞳を開いてただ暗闇を見つめていた。
寂と静まる夜陰(やいん)の中で同じように土方が息をしていると思えば、胸が締め付けられるようだった。



「沖田さん」

背後から呼び止められて振り向いた視線の先に、山崎蒸がいた。
総司を見る目は穏やかに和んでいたが、ただそこに立っているだけだというのに、その身には一分の隙も見当たらなかった。

山崎が自分を呼び止めた理由は、土方に係わることだと咄嗟に思った。
それは確信にも似た総司の勘だった。


「山崎さん・・・、何か御用でしょうか?」
思わず自分が身構えるのが分かった。
「土方先生が沖田さんに副長室に来られるようにとのご伝言ですが」
予期していたことは外れなかった。

「土方さんは、山崎さんをわざわざそんな用事の遣いに?」
「いえ、私は丁度副長に用事がありまして、その時についでに言付かったのです」

それは嘘だろう。
いくら土方でも、山崎を事のついでの伝言に使うわけがない。
山崎は土方が最も信頼する観察方の一人だ。
その山崎をして言付ければ自分が嫌とは言えないと、土方は踏んだのであろう。


「山崎さん、土方さんの用件は巡察から戻って来てからでは遅いのでしょうか?」
総司の瞳が真剣だった。
共に生死をかけて白刃を潜る覚悟をして自分を待ってくれている仲間の元に、総司は一刻も早く急ぎたかった。

「いえ、お話は戻られてからでも差し支えは無いと思いますが」
山崎の顔に珍しく困惑の色が浮かんだ。
土方はかなり強引だったのだろう。

「それでは戻ってから副長室にゆきます」
土方との間に挟まれて、どうしたものかと思案気の山崎を見れば申し訳なさに気が咎めるが、今は仕事を優先させたかった。

これ以上山崎の顔を見ないようにして、軽く一礼をするとそのまま横を通り抜けて、もう振り返らなかった。







この頃新撰組の巡察は主に京都市中の南側一体を任されていた。
市内の要所は、会津藩、見廻組の管轄に置かれていた。
それはとりもなおさず単なる浪士組の結社にすぎないという偏見が、幕閣内に根強く残っていたせいでもあった。

近藤はそれを大層不服としていたが、土方はこの処遇を冷ややかに受け止めていた。
だがそれは決して満足しているのではなく、土方の燃えるような憤りの裏返しだということを、総司は知っている。

土方は新撰組を最強の組織に造りあげることで、幕閣への報復とするつもりなのだ。



「もう身体はいいのですか」
とりあえずは何事も無く東山界隈までの巡察を終えて、じきに西本願寺の広大な敷地をめぐらす黒い板塀が見えてこようかと言う時に、つと隊列からひとつ身を乗り出して、気さくに声を掛けて来た者がいた。
宮川信吉という隊士だった。


宮川は近藤の従兄弟にあたり、今年春、土方が隊士募集の為に江戸に下った際に一緒に連れて来た若者だった。
同郷で、幼い時から共に見知っているせいか、他の隊士に対するのとは違って総司も気が緩む。


「もうすっかり。・・・心配をかけてしまいました」
申し訳なさそうに告げる言葉にも、つい肉親に対するような情が走る。

「それならば良いのです。ただ叔父も心配をしていました」
公務中に身内に対する会話になったのを少しばかり慮って、信吉の声が低くなった。

「総兵衛さまが?」


宮川総兵衛は近藤の次兄だった。
今月新撰組の事情を見がてら、京都見物の為に上洛していた。


「先日屯所に来たのですが、丁度沖田さんの具合の悪い時で、会えずに帰ったのです。それをずいぶんと心残りにしていたようです」
「知らなくて・・・」
寝込んでいる間に総兵衛が来たことすら、総司の耳には届いていない。

「申し訳ないことをしました」
「叔父はそんなことは気にしてはいませんが、ただ沖田さんの身体の事だけは酷く気がかりにしていました」

その総兵衛はすでに京を発って江戸に向かっている。
一瞬総司の脳裏に姉光の顔が浮かんだ。



自分の病の事はまだ姉に知らせてはいない。
近藤にも、土方にも、それだけは懇願するようにして承知させた。
隊内では隠して隠し通せるものではないから、諦める気持ちもあるが、それは労わられるのが嫌だからで、姉の光に知られるのとは叉違うものだ。

姉が自分の事を知ったらどうするのだろう。
江戸に帰って来いと言うだろう事は、火を見るよりも明らかだ。

総兵衛がただの風邪だと思ってくれていることを、総司は願った。






巡察から戻れば否応なしに土方に会わねばならない。
それは新撰組副長と、一番隊を率いる者として、当然果たさなくてはならない義務だった。
まして自分は今朝出掛ける前に、山崎を通しての土方の伝言を無視した。

副長室に向かう足取りはこの上なく重い。
止めてしまえばそこから動くことが敵わなくなってしまいそうだった。



「沖田です」
障子に手を掛けるまえに、ひとつ呼吸を整えて、己の感情を律した。

「はいれ」
間髪をおかずに聞き違える事の無い、それでもいつもよりは低い声が返ってきた。

障子を開け、俯き加減に後ろ手で閉じて端座するまで、総司は視線を土方に向けようとはしなかった。


「市中巡察が終わりました。その報告です」
「何事も無ければそれでいい」

やっと顔をあげて見た土方は、正面から自分を見据えて動かない。
居たたまれない思いに、小さく頭を下げてすぐに出て行こうとしたそれよりも、土方が素早く左の腕を掴んだ方が早かった。


「総司」
「放して下さい」

手を振りほどこうと激しく抗うが、土方は更に右の肩を掴み、総司の身体だけを前に向かせた。

「お前が何をどう思おうがそんなことは知らん。だが俺から離れるなどという勝手は金輪際許さん」

背けていた顔をその声の主に向けると、土方の射抜くような双眸があった。
その激しさに引き込まれそうになりながら、しかしもうひとつの心は怯える。
縋ってしまいたい己の心のままに動いたら負けだ。


「私は、私の意思で決めたのです」
上半身を拘束されて、総司は瞳を逸らせる訳にはゆかなかった。

土方の込める力が瞬間強まった。
痛みに苦痛の色が面(おもて)を走った。
その総司の様子すら、今の土方に察する余裕はなかった。


「おまえは・・・」

何かを言いかけたその時、外の廊下を近づいて来る足音が聞えた。
それに反応して力が緩んだ僅かな隙に、総司が腕を解いて土方から離れた。


「もう、決めたのです」
言い切った時には、立ち上がっていた。
これ以上土方と言葉を交わし続けることで、心に決めた何かが壊れるのを恐れるように素早く身を翻すと障子の桟に手をかけた。

が、それよりも早く、外から障子が開いた。




「何だ。総司も居たのか」
「・・・近藤先生」
「丁度良い。お前にも話がある」
「・・話?」
総司の声の硬さから、その様子のおかしいことに初めて近藤が気がついた。
「何かあったのか?」

「何も無い」
不審気な近藤の声に応えたのは土方だった。
その土方にしても近藤を見る事無く、横をむいている。


「近藤先生、お話は急ぐ事なのでしょうか?」
「いや、急ぐというものではない。もう少しあとでも構わない。俺が長州に下るにあたっての留守の間の事だ」
「・・・少しやらねばならない事があるのですが、その後でも構わないでしょうか?」
「構わぬが・・・」
「すみません。あとで先生の所に伺います」

何時にない不自然な態度を訝しげに見る近藤の目から逃れるように、総司は背を向けた。





少しも早く土方から遠くに行きたかった。
そうでもしなければ、心は脆く崩れ去ってしまいそうだった。


自分は土方から離れると告げたのだ。
そうしなければいけなかったのだ。
それが自分ができる土方への精一杯の事なのだ。
否、自分にはそれしかもうできない。

なのに心は今すぐに土方の元に戻りたいと急(せ)く足に枷をする。
言い聞かせる自分と、聞かぬ自分と、己の中でせめぎあい、どれが本当の自分なのかも分からない。

いっそ気がふれて、何もかもが分からなくなってしまえば良いと思った。




縺(もつ)れる足を叱りながら、ただ歩を進めるだけの胸の裡には、もう一欠片の感情も残っていなかった。






     






         裏文庫琥珀    玉響 参十五