玉 響  参十五






どの位の間、こうして過ごしていたのか、すでに計る事も敵わない。
ふと見遣れば、あたりは昏くなり始めている。
土方の処から戻ってきてから、ずっとこうして座っていたらしい。

それでも廊下を渡り、近づいてくる人の気配くらいは察せられた。
それを意識の外の出来事のように思いながら、その方向に目を遣って通り過ぎるのを待った。
が、意外にその人物は室の手前で立ち止まった。


「沖田さん」
障子に闇よりもひとつ濃い人の影が映ると、同時に声が掛かった。
「どうぞ。居ます」
ずっと無言でいた声は少し掠れた。

「いえ、こちらで用件を申します。近藤先生が沖田さんに起こしになるようにと。伊庭殿がお見えです」
障子の向こうの人物は、言葉を語る口元だけが影絵の様に動いた。

「もう休んでしまったと、申し訳ないのですが伝えて貰えますか?」
ぼんやりと、総司はまだ心が戻らないまま無機質に応えた。
「どこか具合がお悪いのでしょうか?」
案じる声で、影の人物がようやく山崎だと知った。


ゆっくりと大儀そうに立ちあがると、自分から障子を開けた。
やはり其処に山崎が立っていた。


「少し疲れてしまって。情けない話です。山崎さんから近藤先生にはよしなに伝えては貰えないでしょうか?」

いつも屈託の無い笑い顔を見せるこの若者からこんな事を聞くのは、山崎にとっては初めての事だった。
訝しく思って改めてその顔を見れば、薄闇にあってもまるで血の気の通わぬような酷く悪い色をしている。


「分かりました。私から近藤先生には必ずお伝えします。が、沖田さん、本当に身体が辛いのではないのですか?」
山崎の声には労りの色があった。

「今日久しぶりに巡察に出かけたので、そのせいだと。まだ身体が言うことを聞いてくれなくて・・・恥ずかしい事です」
「それでは今日はもうお休み下さい。明日もあることです」
瞳を伏せてしまった総司に、それだけでは無いものを感じつつ、山崎は穏やかに笑いかけてそれ以上の詮索を止めた。







「総司の奴、やはり無理をしおって」
山崎から連絡を受けて、それまで機嫌よく酒を飲んでいた近藤が眉根を寄せた。

「歳、お前からも良く言ってやってくれ。焦っても身体の負担になるだけだ」
「言って聞く奴でもない」
どこか投げやりに、土方が手にしていた盃を一気に煽った。


「どうした。喧嘩でもしたのかい?」
そんな土方の様子を、伊庭八郎は傍らで面白そうに眺めている。

「そんなものはしない」
「にしては、ずいぶんと不機嫌だね。土方さん」
八郎の声音に微かな笑いが含まれている。
「お前は上機嫌だな」
「最近面白くも無い話ばかりで些かうんざりしていたところだ。あんたの不機嫌を見れば多少胸がすく」
「結構なことだな」
「あんたのお陰さ」

お互い遠慮の欠片も無い言葉を交わしながら、それでも胸にしこりが残らないのは、長い歳月の積み重ねがもたらすものなのかもしれない。



「総司、この間まで寝込んでいたのだって?」
「風邪を少々こじらせてな」
今もそれを憂慮しているのだろう。
土方に代わって後を応(こた)えた近藤の声が浮かなかった。

「総司自身が自分の身体を労わらねばどうしようも無いものを、あいつが一番頓着がないから始末におえん」
心底それを困っているのだろう。
近藤が誰に言うとも無く、愚痴を零すように呟いた。

それを聞きながら、土方も八郎も無言でいる。




総司を江戸に連れて帰るという意志を、八郎はまだ捨てた訳ではない。
諦めろと心裡(こころうち)に言い聞かせたところで、それほど簡単に主の言うことを聞く己でもない。
野暮は承知で割って入った横恋慕を、引っ込めるにはまだ早すぎる。

我ながら業の深さにはうんざりとするものがあるが、これが目を逸らすことのできない己の本心ならば、とことん付き合う他はない。
八郎はそんなことを、最近思っている。



「見舞いに行っても構わないか?」
「まだ起きているだろう」
「何故分かる?」

やはり土方と何かがあったらしい。
間髪をおかずに返ってきた土方の応(いら)えは、総司の様子をよく分かっているからこそのものだ。
それを探る気も俄かに動いたが、それよりも八郎は立ち上がった。


「眠ってからでは気の毒だから、先に見舞ってくるよ」
「眠っていたら起こさないでやってくれ」

不機嫌そうに黙って盃を重ねる土方ではなく、近藤が気遣って言った。







つけた行灯の灯も消さずに、総司は敷かれた夜具にただ横になっている。
少しも眠ることなどできはしない。
心は自分で無いように空っぽなのに、頭は残酷な程に冴え冴えとしている。
或いは自分はずっとこのまま死ぬまで眠りに付く事などできないのではと、ふとそんな風に思った。

室の外に人の気配を感じて身体を起こしたのと、外から声を掛けられたのが同時だった。



「総司、起きているか?」
それは怯えながらも、その実誰よりも望んでいた人の声とは違った。
「起きています」

応えながら、これが薄い闇の中であることを総司は感謝した。
顔に浮かんだ表情だけで今の自分の心の機微を、八郎の鋭さは容易に察してしまうだろう。


するりと障子が開き、幾分室の中よりも冷たい空気が流れた。
それよりも音も無いように、八郎は静かな身のこなしで入ってきた。


「風邪だって?」
「風邪はもう治った」
浮かべた笑みに、まだぎこちなさは有ったかもしれない。
けれど応えた自分の声音はいつもと同じだったことに、総司は安堵した。

「病み上がりには変わり無いだろう」
夜具の横に腰を下ろして、胡座をかくと八郎は改めて総司の顔を見た。



元気そうに振舞ってはいても、行灯の仄かな灯りの中で頬に落とした影は隠せない。
それがそのまま八郎の胸の裡にも、重く圧(の)し掛かる。
総司を江戸に連れて帰りたいと、切実に願うのはこういう時だ。

本人の意志など見ぬ振りをして、今この新撰組から離れさせれば、あるいは人並みな寿命を全うさせてやることができるのではと、針の先程にも似た微かな光に縋りたい自分が止められなくなる。



「・・・八郎さん」

そんな八郎の感傷など知らない総司の声に、俄かに己に戻された。

「何だ?」
逆に問われて、今度は総司が躊躇したように黙った。

「言いかけて止めるってのは、いけ好かないぜ」

何かを言いたいのに言えない、或いは聞きたいのに聞けない、そういう感情の狭間にある時、人はよくこういう反応をする。
今の総司がちょうどそういう事なのだろう。

沈黙をしつつも、総司の瞳の奥で何かが揺れている。
それが自分に縋るように向けられていると思うのは、確かに自惚れだろうと、八郎は胸の裡で自嘲した。



「土方さんのことか」
笑いながら水を向けてやったのは、大方それを予想しつつも、このまま総司から話を引き出すのは、なかなかに手間がかかると思ったからだ。

「・・・土方さん、何か言っていましたか?」
己の意図したことと寸分も違(たが)わずに、総司がためらいがちに問い返した。

「いや。何も言わない。喧嘩でもしたのか?」
総司が微かに首を振った。
だが何かを考え込んでいるように、その瞳には精細がなかった。

「よせよせ、どうせお前がまた一人で埒も無い事を考えているのだろう。つまらん悩みを持つだけ無駄だ。あの唐変木には通じないさ」
それが満更己の偽りの気持ちででも無いように、八郎の言葉は辛辣だった。

「そうかな」
やっと浮かべた笑みが、薄い闇の中で酷く寂しそうだった。


「お前、本当にどうした?」
つい真顔になったのは、まだ総司が土方にその想いを打ち明けられずにいた頃、よくこういう表情を見たことがあったからだ。

己の真実に枷(かせ)をし、決してそれを表に出すまいと、それが土方その人の為になると、頑なに信じていた頃の総司はこんな笑みを浮かべることがあった。

だが八郎の憂慮がそれだけに留まらなかったのは、そういう時の総司が誰よりも激しい感情を、裡(うち)に秘めていると知っているからだ。
それは時に己の命を投げ出す事をも厭わない、危うさの裏返しだった。

何かを覚悟した時、総司はこんな瞳の色をする。



「土方さんと何かあったな」
八郎の眸がまっすぐに総司を見据えた。
「さっきから何も無いと言っている」
「嘘を付け。・・・と、言ったところで、お前は本当の事は口が裂けても言わないだろうな」
「嘘じゃない」
「嘘でなくとも、本当でもないだろう。が、それは俺の知ったことではない。お前と土方さんの間で何があろうと、そんな事は俺には斟酌の外だ。だがな、総司。ひとつ覚えておけ」

八郎の語尾が低く沈んだ。


「俺はようやく、俺という人間が分かった」
八郎が何を言い出したのやら分からず、総司は黙ったままその顔を見つめている。

「野暮は好かない江戸っ子と気負ったところで、所詮俺はただの人だった。
武士(もののふ)ならばせめて潔く想いを断ち切れと、ずっと己に言い聞かせてきた。
いつまでも未練たらしくいる自分には反吐が出る。
それでも俺は未だ足掻いて足掻いて、とっくに終わっていいはずの呻吟の中からいまだ抜け出せずにいる」

静かに語り続ける八郎を映す総司の瞳の奥で再び何かが、今度は先ほどよりも大きく揺らいだ。


「そうだよ」
それを見とめて、八郎が自嘲するように形良い唇を緩めて笑った。



「俺はまだお前を諦めきれずにいる」

八郎の射竦めるような眼差しが総司を貫いた。
それに反応するかのように、体中のありとあらゆる神経が張り詰めてゆくのが分かった。





凝視する総司の瞳は見開かれたまま、静かに八郎はそれを逸らさず、時は遡りもせず、進みもせず、ただそこに刻むのを止めてあった。




息を詰めたかのような静粛の時を動かしたのは、総司だった。


「・・・・私は八郎さんの気持ちに応える事はできない」
やっとそれだけを搾り出すように掠れた声で告げた。
今八郎に応えを返した自分は、酷く残酷で恐ろしく冷酷な、血の通う心など微塵も持たない人でないもののように総司には思えた。


「知っているよ」
八郎はむしろ淡々と翳りない。
「では・・」
思わず乗り出そうとした身体を押し留めるように、或いは総司の否という意思の表れを受け入れぬというかのように、八郎が両の手の平を総司の目の前に差し出した。


「この手を見ろよ。今この手には何も無い。剣もなければこれまで得てきた物は何も持ってはいない。だがこれこそが、素の俺だ。見栄っ張りで格好付けで、お前に想いが通じなければ、そこで忘れることを潔しとした俺ではない。己を拒む相手を恨み、諦めきれずにもがき苦しむ、そんなみっともない人間が俺だ」

煩悶を繰り返した末に得た心裡(こころうち)を語る八郎の声は、穏やかに清々と澄んでいた。

「情け無い奴だと些かうんざりする。が、これが己の本当だと知ってしまえば、否が応でも認めざるを得ない」



総司の沈黙が、どのような意思を持って成されているかは、八郎には分からない。
だがもう止めるつもりはなかった。

「そういう事だ」


「・・・どんなに」

呟きともとれる、総司の小さな声だった。
やがて途中から顔を伏せて視線を外していたその瞳を上げて、八郎を見た。


「どんなになっても、私には土方さんしかいない」
先ほどまで不安定に揺れていたものは、もうその瞳の中には無かった。
「分かっている。が、俺も本当の俺に付き合って行く」


言い切って、やおら立ち上がった。
流れるような所作だった。


「又来る」

その端正な面差しに潔いとも思える笑みを浮かべた。








八郎の閉じた障子を総司はただ見ている。
思考は何も動かず、ただひとつの事だけが胸を激しく苛む。

八郎に、自分には土方しかいないと告げた。
それこそが真実だ。
逃げても逃げても追ってくる、真(まこと)の心だ。



どこがつらいのか、どこが切ないのか分からない・・・

胸元の袷(あわせ)に手を遣って、せめて苦しみを慰撫するかのように、指の先が白くなるほどにきつく握りしめた。










      



           裏文庫琥珀    玉響 参十六