玉 響    参十六






深閑とした闇の中では、自分の繰り返す微かな息の音すら異質なものに思える。

眠れるはずなどありはしなかった。
土方の憤怒と苦渋に満ちた双眸が、まだ自分を戒めて息をすることすら苦しい。
八郎の自分を諦めないと言い切った、何の躊躇いも無い声音が耳に木霊する。
そしてまた昔と同じように逃げることだけに走ろうとしている卑怯な自分を思えば、この身などいっそ己の手で消滅させてしまいたい衝動に駆られる。


「・・・土方さん」

言葉にして呟いた途端に冷たいものが一筋こめかみを伝わって枕に零れ落ちた。
咄嗟に両の腕を重ねるようにして、目の上を覆った。







秋も半ばを過ぎれば土の底から湧き出る水はずいぶんと冷たい。
だが巡察を終えて戻った身には、その一口は緊張を解く甘露だった。

飲み終えてまだそこを立ち去らず、ふと汲んだ桶に張られた水に映る己の顔に、総司は目を遣った。
ひどい顔をしていると思う。
望んで出した結果に眠れぬ朝を迎えた自分を、水鏡にある己が笑っているようだった。
ぼんやりとそれをただ瞳に映していたが、背後に人の気配を感じて振り向いた。

そこに自分に向かって歩み寄ってくる山崎がいた。


「沖田さん、手が空きましたら局長室にこられるようにとのことですが」
「近藤先生が?」
「何かお話があるからと、朝から探しておられたのですが、沖田さんはもう巡察にでかけられてしまった後だったので」
「そんなに急ぐ用件だったのでしょうか?」
何か新撰組内の大事な仕事のことかと、総司の顔が曇った。

「いえ、仕事のことではないようです。ご心配をせずとも大丈夫です」
目の前の若者の真摯な瞳にあって、山崎はその憂慮を慰撫するように穏やかに応えた。






局長室の障子は閉ざされていた。
室に重苦しさが漂うのを嫌って、余程極寒の季節でない限り開け放っている近藤にしては珍しいことだった。
それだけで総司の胸の裡が騒いだ。

「近藤先生」
「総司か?」
遠慮がちに掛けた声に、いつもどおりの近藤の覇気のある太い声が帰ってきて安堵した。

「ご苦労だったな」
障子の桟に手をかけて開けると、近藤は文机に向かっていたが、入って来た総司に笑みを作って労りの言葉を掛けた。

「別段変わったことはありませんでした」
「そうか。歳には言ってきたのか?」
「・・・いえ。まだ」
途端に声に勢いの無くなった総司を、近藤は訝しげに見やった。

「何だ。まだ喧嘩をしているのか」
「喧嘩などしてはいません」
「それにしてはお前昨日からおかしいぞ」
「本当に何でもありません」


総司を幼少の頃から手元に引き取って育ててきた我が身は、すでに肉親以上にその性格を熟知している。上手な嘘のひとつも付けない若者だ。
そのくせ一度心に決めたことは頑として譲らない激しさがある。
今あからさまに狼狽しているのを責めたところで、総司は本当の事は決して語りはしないだろう。
ただ追い詰めるだけの結果になることを、近藤は避けた。

「まあいい。早くに仲直りをしておけ」
江戸の試衛館道場の主だった頃のそのままに、近藤は諭すように目を和ませた。
それにどう応えて良いのか、総司は俯いた。

「それよりもお前に話があると言ったのは、江戸に送る文のことだ」
「江戸への・・?」
思わぬ近藤の言葉に伏せていた顔を上げた。
「先日俺の次兄が京に来ただろう」
総司は黙ったまま頷いた。


近藤は先日宮川信吉が言っていた、次兄の宮川総兵衛の事を言っている。
自分が寝込んでいた為に結局一度も挨拶を交わす事無く、京を発って行ってしまった江戸の懐かしい先達の知己には申し訳ない事をしたと、未だに心に残っていた。

「その兄が江戸に帰る前にお前の事をえらく心配していた」
「総兵衛さまが?」
腕を組んで頷く近藤の顔に、俄かに苦慮の色が浮かんだ。



江戸の人達には姉にすら自分の病の事は伝えてはいない。
総兵衛の心配を受けて、間に入ってそれを隠さねばならなかった近藤はどんなに難儀な思いをしたことだろう。
もともと偽り事のできる人間ではない。

「すみませんでした・・」

心底申し訳無さそうに小さく詫びて再び瞳を伏せた総司を、近藤はある種痛ましい思いで見ていた。
目の前でうな垂れた総司は近藤の目にひどく頼りない。


最近近藤は、総司を本当にこのまま新撰組に留まらせておいて良いものかと、一度は決めた己の決断を懐疑することがある。
たとえ先を閉ざされた生涯とはいえ、それを一日でも長く延ばしてやりたいと、自分は願わずにはいられない。
そしてその果てにあるいつか来る日まで、少しの憂慮も取り払って安穏(あんのん)な日々を遅らせてやりたい。
近藤はそう傾いて来る己の思いを、すでに止められずにいた。



「総兵衛さまは風邪だと思っておられるのでしょう?」
ふいに掛けられた声に現(うつつ)に戻されて見た先に、黒曜石の深い色に似た瞳が不安に揺れていた。

「そう言った。それを信じているだろう」

是と頷いてやると、総司の顔に正直に安堵の色が浮かんだ。
その表情を見れば更に胸が痛む。
それが本人の望んだ事とは言え、身内にまで己の内に巣食う宿痾を隠して、白刃の下を潜るこの生活を送る総司が哀れだった。


「それはそうと総司、お前が文を書かないと、お光さんが大層心配しているそうだ」
このままでは尽きそうも無い感傷を敢えて断ち切るように、近藤は話を本題に戻した。

「姉が・・?」
「もうどの位、認(したた)めていない」
怒気は含んではいないが、近藤の声音は諌めるように厳しい。
言われて総司は応えに窮した。



姉の光にはもうかれこれ一年の余も文を出してはいない。
その間に光からは幾度も文が届いた。
が、自分から返したことはなかった。
差しさわりの無い時候の挨拶だけで終わることの出来ものならば良い。
だが親とも代わらぬ光に出す文にはそれだけではすまされない。
光の肉親の勘が、もしも文字の狭間から自分の変化を見破りはしないかと、それが総司に筆を持つことを躊躇わせていた。



「兄はこの度京に上る際に、お光さんにお前の様子を見てきて欲しいと、くれぐれも頼まれたそうだ」
近藤の咎めるような口調に、総司はただ沈黙する他なかった。

「総司、どうしてお光さんに要らぬ心配を掛ける」
物言わず俯いたままの総司に、近藤がひとつ溜息をついた。
「・・・近いうちに必ず書きます」
視線を合せず、それだけを小さく応えた。
「約束だぞ。違(たが)えることは許さんぞ」
「約束します」
今度は顔を上げて頷いた。








近藤とそうは約束をしたものの、どうやってこの長い不義理を理由づけようか、総司は摺った墨の香りの中で思案を持て余していた。
どうせ今夜も眠ることはできぬだろうと、文を認(したた)める用意をしたは良いが、先ほどから横に置いた筆も手にしてはいない。


深い息をつくと諦めて、夜具を延べる為に立ち上がった。
が、その時聞こえてきた足音に、瞬時にして身体中のどこもかしこも一分たりとも動かなくなったようにその場に立ち竦んだ。

いつも焦がれて待ち望んでいたその音の主に、今はただ怯えた。


すらりと障子が開くのを、まるでひとつ膜を通して見ているように総司は現(うつつ)のものとは思えず凝視していた。



行灯の朧げな灯りだけが、総司の微かにも動かぬ蒼白な面を闇の中に映し出している。
土方は自分を拒むその様(さま)に挑むかのように、室の中に足を踏み入れると、咄嗟にあとずさりして身を翻そうとした総司の腕を掴んだ。


「何故逃げる」
土方に腕をつかまれたまま、総司は顔をあげない。
「総司っ」
問い詰める土方の声に耳を塞いでしまいたかった。

応えも返さず顔も見ようとしない総司に土方は苛立った。
空いている手で、総司のもう片方の腕も掴んで体ごと自分に向かせた。

「こっちを見ろ、総司」
ぎりぎりのところで堪えている憤りを含んだ土方の低い声に、漸く諦めたように総司が瞳を上げた。
だがそこに土方を映す事を恐れるように、瞳に精彩は無かった。
あるのはただ、うつろに漂う視線だけだった。
それでも身体は拘束している腕から逃れようと抗う。
それを更に戒めるように腕に力を入れると、総司の身体が強張った。


「何故あんな馬鹿な事を言った」
「馬鹿なことではありません」
「では一体何だ。お前の本心だと、そんなことをお前は俺に信じろというのか」
「土方さんが信じなくてもいい。けれど私はもう・・・」
「もう何だっ」
「もう土方さんとは一緒にはいられない」

自分を奮い立たせるように言い切って、初めて真正面から土方を見た。




沈黙はそう長い間ではなかった筈だ。
互いの息を数えられる程身体は近くにあるのに、相手の心が闇より深く見えない。

総司の言っていることは出鱈目だ。
だが容易く見破られる嘘を、何故これほどまでに必死になって総司は貫こうとするのか、土方には分からなかった。
それが土方を焦らせる。

苛立ちはすでに言葉に代えて伝えられるものではなかった。
こんなにも近くにいて温もりを感じられるのに、一番大切なものが掴めない。
身体を抱きしめていなければ、総司の何もかもが自分の腕を離れ、二度と戻ってはこないと思う畏怖が土方を襲った。

拘束していた身体をやおら胸の中に引き寄せると、驚いて瞳を大きく瞠っている総司の頤(おとがい)を掴んで上に向かせ、強引にその唇を奪おうとした。


「嫌ですっ」
唇と唇が触れる寸前に、短い叫びと共に総司が顔を背けた。
さらに身体を動かして土方の腕から逃れようと、必死の抵抗を試みる。

だがその抗いが、土方を凶暴なまでの怒りに駆り立てた。
それは或いはこのまま総司を失ってしまうかもしれぬという、胸に広がる言いようの無い不安に裏打ちされたものかも知れなかった。
今力で己のものにしなければ、腕の中の想い人は苦もなくどこかに消えてしまいそうに思えた。
それは恐怖というものだった。



渾身の力を振り絞るようにして身体を離そうとする総司を、そのまま無理矢理の姿勢で押し倒して畳に伏せさせた。
その上から己の身を重ねて暴れる力を封じ込めた。


「嫌です、土方さんっ」
総司の声は悲鳴に近かった。
その唇を、後ろから土方の手が覆った。

総司の中で、初めて土方に対して戦慄に似たものが走った。
このまま身体を重ねるのは嫌だった。
流されて、その肌に通う血の温もりを知ってしまえば、土方からまた自分は離れられなくなってしまう。

微かに自由になる首を必死に振って拒んだ。
元結が緩み、後ろへとずれ、束ねられていた内の幾筋かの髪が、強引に肌蹴られて露になった肩から背へと流れた。



言葉で懇願することはできない。
ただ哀しかった。
瞳から零れ落ちるものがあった。
唇を塞いだ僅かの隙から漏れるのは、すすり泣くような嗚咽だった。



濡れた感触が土方の指に伝わり、手の甲まで流れ落ちた。
その冷たさが漸く土方に正気の欠片を呼び戻させた。

我に返って見る己の身体の下に、押さえつけて組み伏した想い人の儚い背があった。
それが何かを堪えるかのように震える。


「・・・総司」

暫し愕然として己の成した所業の果てを、息を詰める思いで見ていたが、口をついて出たのはやはりその名しかなかった。


呼びかけても総司は振り向かない。
解放された身体を起こそうともせずに、伏せたままそうしている。
ただ時折露になった肩が小刻みに震える。

それに手をかけると、一瞬身体の全ての神経が張り詰めたように硬直した。

「もう、何もしない・・」




耳に届く土方の声が苦しそうだった。
それでも土方の顔を見ることはできない。

悪いのは土方ではない。土方の心を知っていながら逃げようとしている自分だ。
今堪えても、堪えても、意志に逆らって頬を伝わるものは、情けない自分自身への侮蔑の涙だ。



無防備に晒した背を突然ふわりと何かが覆った。
その感触を確かめる間もなく、人の温もりと重みがその上からかさねられた。
土方が、かけてくれた羽織ごと後ろから抱いたのだと気付いて、思わず身じろぎしたその身体を、今度は先ほどとはちがう柔らかい力で拘束された。


「・・・動くな」
耳朶に触れるほど近くで土方の声がした。

「少しだけ聞け」
嗚咽は止まっていた。それでも土方を振り返ることはできない。

「そのままでいい。そのままで聞け」
土方の声が包み込むように優しかった。
その思いに触れればまた堪えていたものが溢れ出しそうだった。

「お前が今何を思い、何故あんなことを言ったのか、俺には分からん。だが俺は信じない。お前が偽りの言葉を吐いたまま俺の元から去ることなど、俺は許さない。いや、おまえが離れてゆくのなら、俺はとことん追いかけて必ずこの腕を掴んで引き戻す」


土方の唇が首筋に触れる。

「追いついてお前が物言わぬ骸(むくろ)になっていても、それでも俺はお前を掴まえる」


土方の声が、朧の出来事のように遠くに聞える。



どんなにきつく瞼を閉じても、一度滲むように染み出でた冷たいものは、堰を切ったようにあとからあとから零れ落ちる。
全てをかなぐり捨てて、今土方を振り仰いでその胸に縋り付いてしまいたい衝動を堪える事がもうできない。




「・・・嫌なのです」

その弱気を叱咤して、血を吐く思いでようやく告げた。

泣き疲れて嗄(か)れた声は、すでに掠れて言葉として聞き取るには辛かった。
だがそれが今の総司の揺れる心の均衡を保つ為の精一杯の虚構と思えば、切なさだけが土方の胸に迫る。

乱れた髪にいとおしげに指を触れて梳くと、総司のか細い項(うなじ)に顔を埋めた。
伏せたまま動かぬ想い人の慟哭が聞えてくるようだった。


「必ず、掴まえる」

低く呟やいたそれは、或いは土方の自分自身への誓だったのかもしれない。




後ろから抱きしめる者と、抱きしめられる者と、ふたり息をも詰めるようにして、暫らくそうしていたが、やがて土方がゆっくりと身体を離して起き上がった。


「総司、決して忘れるな」

寸分の隙もなく重なり合っていた温もりが遠のく感覚に、総司が微かにたじろいだ。





土方が室を出て行く気配がした。
それでも自分は動けない。動いて姿を視界に映したらその背に取り縋ってしまう。


静かに障子の桟と桟が合わさる音がした。




土方の足音が、澄ませる耳に遠くなってゆく。



唇をきつく噛み締めた。
それに血が滲んでいることすら、もう知らなかった。










       

       裏文庫琥珀     玉響 参十七