玉 響 参十七 新撰組局長の近藤勇が幕府の長州訊問団に加わって長下することが正式に決まってから、同行する隊士の人選、行程の確認、留守中の引継ぎで土方の毎日は忙殺されていた。 が、胸にあるしこりは日を追って大きくなってゆく。 総司はあれから何かを怯えるように、視線すらまともに合わせようとしない。 傍目には常日頃と変わらぬように振舞ってはいるが、土方の目にその憔悴ぶりは隠せない。 総司を追い詰めているものが何なのか、それが分からず土方自身もまた先の見えない懊悩の日々を送っている。 「歳、暇ができたら少し話があるのだが」 結局面倒な実務を土方ひとりに押し付けた形になってしまったことに、流石に気に咎めるものがあるのか、近藤が副長室を訪れて遠慮がちに声を掛けた。 「急ぐことか」 顔を上げるのも面倒そうに、土方は応えた。 もともと今回の幕府訊問団の長下に近藤が同行することを、土方は良しとしてはいない。 参謀の伊東甲子太郎の口車に上手く乗せられたと、むしろ苦々しい思いで見ている。 そういう経緯(いきさつ)を近藤も叉良く分かっているから、土方にはつい気を遣う。 「いや、急ぐと言う程のものではない。江戸へ送る書状のことで少しお前に相談したかった」 「江戸に送る書状?」 近藤は顎を引くだけで頷いた。 「そんなことはあんたの采配で書けばいいことだろう。いちいち人に相談することでもあるまい」 この忙しさが全て近藤の長下から来ていると思えば、土方の口調も自然とつれないものになる。 「俺の独断で決めれば良い事なのかもしれぬが、総司のことでもあるから一応お前にも意見を聞いておこうと思ってな」 「総司の?」 初めて土方の眸に真剣な色が混じった。 それを受けて近藤が、ただでさえ厳(いかめ)しい強面を些か険しくした。 「総司がどうした」 「この間俺の兄がここに来ただろう」 それは近藤の次兄、宮川総兵衛の事を言っている。 「あの時総司が具合を悪くして丁度寝込んでいた。江戸に帰ってそのことを兄がお光さんに知らせたらしい。それを聞いてお光さんが大層心配して俺宛に書状が来た」 「あんた宛に?」 「総司の奴、ずっとお光さんに連絡をしていなかったのだ」 近藤の顔が憂慮に顰められた。 「中身は?」 「あとで話す。その事と、もうひとつお前に相談しておきたい事があってな」 急(せ)きこむようにして問う土方を制して、近藤は立ち上がった。 「暇ができたら来てくれるか?」 「半刻程で終わる」 それを聞いて満足そうに近藤が頷いた。 「お光さんは何といってきたのだ」 局長室の敷居を跨ぐなり、土方は単刀直入に切り出した。 「まあ座れ」 そんな土方を諌(いさ)めるように、近藤は自分の前を指差した。 不肖不肖そこに腰を下ろした土方が落ち着くのを見届けると、近藤が後ろの文机にあった一通の書状を差し出した。 「これがお光さんからの書状だ」 黙って受け取って長く白い巻紙の先を畳に落とすと、土方は女性らしい流れるような繊細な文字を目で追って行った。 読み終えて、暫らく手にした書状から目を上げようとしなかったが、漸くひとつ区切るように近藤の顔を見た。 「どうするのだ」 近藤を捉えた土方の双眸が鋭かった。 光からの書状は、弟の総司の身体を気遣う内容で終始していた。 総司にではなく、近藤に直接問い合わせてきたことが、光の憂慮の深さを表していた。 先日江戸に戻った総兵衛に総司が臥せっていたことを聞いて矢も盾も堪らなくなって文を認(したた)めたらしい。 光と総司の両親は、労咳で若くしてこの世を去っている。 その体質を一番受け継いでいるのが弟の総司ではないかと、それが心配なのだと、かつて光は土方に語ったことがある。 今回の総兵衛の話はその光の不安を掻き立てたらしい。 それは血の繋がる身内の勘というものだったのかもしれない。 最後に、一度総司を江戸に戻して貰うことはできはしないかと、光は流麗な文字で近藤に訴えていた。 「お光さんは総司を江戸に帰して欲しいのだろう」 腕を組んだ近藤がひとつ深い息を吐いた。 土方は無言だ。ただその端正な面差しは固まったように動かない。 「・・・実はな」 そんな土方を横目で見遣って、近藤が躊躇いがちに口を開いた。 「俺は総司を江戸に帰すべきだと思うようになってきた」 土方が弾かれたように近藤を見た。 「何を言っている。総司をここに置くことはあんたも承知したことではないか」 近藤に向かい、思わず我を忘れて声を荒げた。 「一度は俺も総司の言葉を聞き届けた。それがあれの願いならば、聞いてやりたかった。何故あいつだけを天は見限ったのか。あいつだから欲しがったのか。俺は総司の病が分かった時に、暫らくそんなことを考えていた。俺は神仏を恨んだ」 初めて聞く近藤の苦しい胸の裡だった。 「だがな、歳。俺は近頃あいつを見る度に、せめて総司には穏やかな日々を送らせてやりたいと思う。いや、そう願う。江戸の光さんの元に帰せば総司は少しでも長い生涯をまっとうできるかもやしれん。俺はそれを一日でも先に延ばしてやりたい」 「・・・・総司はそんなことを望んではいない」 何かを堪えて、振り絞るような土方の声だった。 近藤の言うことは正しい。 だが自分はもうそれに是と頷くことはできない。 総司を江戸に帰すことなど、できはしない。 「それは俺も分かる・・・いや、それこそが一番の問題だ。だが総司の説得を試みるのは俺の役目だと思っている」 言い終えて、近藤が後ろにあった書箱からもう一通の書状を土方に差し出した。 「これを見てくれ」 「・・・何だ?」 漸く伏せていた目を上げて、近藤から油紙で包まれたそれを受け取った。 「俺の遺書だ」 その言葉に凝視した土方に、近藤が笑った。 「大した内容ではない。だがこの度長州に下るとなれば一応の覚悟はしておかねばなるまい。俺の万が一の時に備えて、江戸に送るものだ」 「・・・馬鹿なことを」 「まあ、読んでおいてくれ」 低く唸るように呟いた土方に、近藤が先を促した。 現(うつつ)ない心で読み進む文字は何の抑揚も無く、ただ土方の視界を流れて行ったが、その一箇所で視線が止まった。 『剣流名沖田江相譲り申度、此段宜御心添被下度』 「これは・・・」 「天然理心流は総司に譲る。そう決めた」 「だが総司は」 「総司は江戸に帰す」 厳然と、近藤は言い切った。 「それがあいつにとっては一番良いことなのだ。お前も分かっているのだろう」 近藤の言葉に、土方は応えない。 「歳」 沈黙を諌めるように、近藤の声が強かった。 「俺には分からん」 やがて鋭く言い切って憤然と立ちあがると、そのまま室を出て行った。 近藤が何かを叫んでいたが、振り向きもしなかった。 膳所へは十日程の日程と聞いてはいたが、田坂が戻っているか否かを確かめることもせず、総司はまだ『一』のつく日ではなかったが、五条にある診療所を訪れた。 本当は田坂の在宅を確認して来るべきだったのだろうが、今は屯所から少しでも離れていたかった。 そこさえ出れば土方と顔を合わせることは無い。 門の手前まで来て、白い晒しで腕を覆った若い男を見送るキヨの姿を見つけた。 どうやら田坂は戻ってきているらしい。 総司は胸の裡で、ひとつ安堵の息をついた。 「沖田はん」 キヨの嬉しそうな声が、総司を呼んだ。 「田坂さん、戻られていますか?」 「へぇ。昨日の夜戻らはりましたんえ。丁度よかった。患者さんも漸く途切れたとこやし」 「忙しかったのでしょうか?」 「暫らく留守にしてしもうたから、今日は特別。若せんせい、朝からてんてこ舞いどしたんえ」 キヨがその様子を可笑しげに語りながら、総司を中へと誘った。 「何だ。明日あたりこちらから行こうと思っていたのに」 田坂は旅の疲れも見せず、直前の患者に施していた治療の後片づけをしていた。 「もう、自分で来ることくらいできます」 あちらこちらに散乱している黄色い油紙やら、すり鉢の中の塗り薬を面白そうに見ながら総司は応えた。 「本道の医者が打ち身切傷の世話までしているんだからな」 総司の好奇心に、田坂が自嘲するように苦笑いした。 「そんなこと・・・。田坂さんは本道の方も一流だけれど、外科の治療もそこら辺りのお医者さんよりずっと腕が確かだって、近藤先生も言っていました」 「近藤さんが、だろう?君は違うんだろう」 「もう少し言いつけ事が少なければ、天下一なのだけれどな」 満更冗談でもなさそうに、総司が可笑しそうに笑った。 「好きに言っとけよ。それより元気そうになった・・・でもないか」 「風邪はすっかり治りました」 「そうかな」 「どこも悪いところはない」 「まあ、診れば分かるだろう。藪は藪なりに診立てるものさ」 総司の不満げな表情など意に返さないように、田坂が笑った。 「あまり良いとは言えないようだな」 診察を終えて、田坂の顔が幾分曇った。 「そんなことはない」 「病み上がりと言う事もあるだろうが、問題はそこからではなさそうだな」 「身体もどこも問題など無いのに」 「嘘を言っても分かるものさ。心の裡が身体に影響するということは、今に始まったことではない。人間の心と身体というものは常に表裏一体、ひとつのものだからな」 「田坂さんは私の心が病んでいると言うのですか?」 「それ以外の何がある」 見つめる田坂の鋭い洞察が、よもや自分に対する恋情から来ていることを、総司は知らない。 「残念だけれど違う。別に悩むことなどないし・・・」 「君がそう言っても、身体は正直だな。有体(ありてい)に悲鳴を上げているぞ」 総司は脱いだ着物の肩袖を通す振りをして、視線を逸らせた。 田坂の目は誤魔化せないかもしれない。 土方との事があってから、確かにまともに眠ったことがない。 それでも誰にも真実を告げることはできない。 「田坂さん・・」 最後に着物の襟を合わせながら、総司は声を掛けた。 「何だい?」 「本当は田坂さんの言うとおりだけれど、それはきっと解決するから」 相手の危惧を慰撫するように穏やかに笑みを浮かべたが、伝えた言葉は偽りだと容易に見破ることができた。 今それを問い詰めたところで、目の前のこの想い人は真実を話すことはないだろう。 が、その突き当たりにあるのは、確かに土方のことであろう。 そうでなければ総司は是ほどまでに憔悴するはずが無い。 押しつぶされてしまわない前に、心の重石を取り除いてやりたいと思いながらも、その原因が恋敵にあると思えば、報われぬ因果に複雑な胸の裡をも田坂はまた隠せなかった。 「それよりも田坂さん、膳所に行かれたのは何か大切な用だったのでしょう?」 話題をそれとなく変えて問うた総司の声は、もう屈託の無いいつものそれに戻っていた。 「別段大切という程のものでもなかったが・・」 「膳所はお父上の御国元だと前に聞いたけれど」 「そう、父の国元だ。が、俺には馴染みの無いところだな」 「以前キヨさんが、田坂さんのご養父も膳所藩の御典医だったと言っていた」 「らしいな。俺が養子に来た時にはもう京で町医者になっていたからそういう時代は知らんが」 「では何故、田坂さんが膳所に?」 「藩に出仕しろという話さ」 「出仕・・・。それでは田坂さん膳所藩の御典医に?」 瞳を大きく瞠る総司に、田坂が苦笑した。 「そんなに大したことでは無いだろう。それに断ってきた」 「何故っ」 思わずにじり寄って問い詰めた。 「町医者が気に入っているからさ」 「でもこんな機会滅多やたらにあることじゃない」 「俺にその気がないのだから仕方がないだろう」 「それでも・・」 「もう俺は武士の世界には居られぬ人間さ」 いっそさばさばとした物言いに、総司は田坂の過去を思い出して沈黙した。 田坂の血の繋がらぬ兄は、田坂への禁忌の想いに堪えられなく、膳所藩への謀反に走った。 その息子の責を取って、田坂の実父も自刃した。 その後田坂は京で医者をしていたこの遠縁の養子となった。 田坂にとって武士という一度捨てた世界に、再び足を踏み入れるということは、たとえそれが医者と言う道であっても、受け入れることのできないものなのかもしれない。 「君には残念だったな。煩(うるさ)い奴が消えないで」 「そんなことはない」 からかうような田坂の口調に、ついむきになった。 「残念がられるのかと思ったら、意外だな」 「田坂さんが御典医になってここを離れてしまったら、困る人が沢山いる」 総司の瞳が田坂の軽口を怒っていた。 「君はどうなんだよ」 意地の悪い質問だと思う。だが敢えて聞いてみたい気が、ふと田坂に起こった。 「困るにきまっている」 間髪を置かずに応えは返って来た。 それは突き詰めれば、医師としての自分を必要としているということなのだろう。 だがそれ以上の存在として、自分がこの場を離れることを引き止める言葉だと、田坂は自惚れてみたかった。 「困るのならば、もう少し言うことを聞いてほしいものだな」 ふいに湧き上がってきた恋慕の情を誤魔化すようにして、田坂は憎まれ口を叩いた。 「いつも聞いています」 「嘘を言え」 「本当です」 「では今心の裡にあるものをすべて吐き出せと言ったらそうできるか?」 「・・・・何も隠していることなどない」 この医師にどれほど己の心裡(こころうち)にある真実を隠しとおせるものか。 弱気に傾く心を打ち切るように、総司は瞳を上げた。 「本当に、何も無いのです」 あきらかに偽りと分かる事柄でも、本人が是だと言い通す内はその心を開くことは難しい。 今ここで深く詮索すれば、総司はますます頑なになるだけだろう。 「まあいいさ。だがこのままでは、その内話してもらわなければならないぞ」 本人は微塵も素振りを見せないが、総司は確かに酷く疲れている。 予期できる悪い事態が来るその前に、理由を知らなければならなかった。 それは田坂の医師としての選択だった。 「そういえば近藤さん、いつ出かけるのだったかな」 「長州にですか?」 「そう。幕府の訊問団に加わって行くのだろう?」 「もうすぐです」 「そうか・・・」 その前に一度近藤を尋ねた方が良いのかもしれない。 そこで何か分かることがあるかは今は斟酌の外だったが、何もせずに手をこまねいているよりは良いだろう。 そんな事を考えながら黙った田坂を、総司は不安な面持で見ていた。 ふいにひとつ、落ちかけた秋の日が翳った。 裏文庫琥珀 玉響 参十八 |