玉 響 参十八 「それにして珍しいことですね。近藤さんが上七軒とは」 盃になみなみと注がれた酒を、形良い口元に持ってゆきながら、八郎はその意図するところが今ひとつ分かりかねるというように、改めて近藤を見た。 「結局付き合わせた形になってしまって悪かったな」 「それは構わないのですが・・・。ここに何か用件が?」 「歳の馴染みが居ると聞いてな」 「・・・子楽・・。確かそんな名だったが・・」 それでもまだ八郎には近藤の心裡が分からない。 今日昼過ぎに二条城北の所司代屋敷を宿舎としている八郎の元に近藤から使者が来た。 もしその暇があるのならば上七軒で一献差し上げたい、そう書状には記されていた。 近藤が単独で八郎を名指しするなど珍しいことで、或いは総司に係わることかと、その誘いを承諾した。 「いや、それほど大した事ではない。実は俺が来月早々長州に発つにあたり、その子楽という女を一度見ておきたいと思った。聞けばその女、歳にずいぶんと心寄せているようだが、果たしてどういうものかと思ってな」 「どういうものかとは?」 近藤は顎の張った強面を緩めて、幾分照れくさそうに笑った。 「歳には色々と神経を苛立たせることばかりを押し付けている。少し気を休めるところを作ってはやれまいかと、そう思っているのだが」 「土方さんにその女を身請けさせると?」 問うた八郎の声が訝しげに沈んだ。 「歳が望めば、の話だが。だが休息所を持つということは悪いことでは無いと俺は思う」 近藤自身は島原の太夫だった女をすでに身請けし、屯所近くに休息所を設けている。 「それは土方さんも承知のことで?」 「いや、歳にはまだ何も話してはいない」 「総司には?」 一瞬躊躇ったが、八郎は直截に近藤に尋ねた。 「まだ誰にも言ってはいない。だから女と会って、何のかかわりも無い君の意見を聞きたいと思ってな」 近藤の言葉には邪念が無い。 真実土方によかれと思ってやっている。 だがもし近藤の意中を総司が知ったら、どう思うだろう。 果たして衝撃を受けるだけでは終わるまいと、八郎は危惧した。 総司にとって土方その人は絶対だ。 が、近藤と言う人間もまた総司には別の意味で言葉には表せない程大きな存在だ。 その近藤への思慕と、土方への恋情の狭間でどれほど苦しむか、想像するにはあまりに容易だった。 「おおきに」 襖の向こうからたおやかな声が掛かった。 どうやら子楽という女が来たらしい。 八郎は静かに手にしていた盃を置いた。 一通りのもてなしを受け、己の目で土方の馴染みという女を確かめると、近藤は子楽を座敷から遠ざけ、また最初のとおり八郎と二人だけで盃をかたむけている。 子楽は遊び馴れた八郎の目からみても、花街で生きているというにしては擦れた感じを与える女ではなかった。 むしろこういう色街では、どちらかと言えば地味な目立たない女であった。 ただ客を見る眼差しに些かの媚も無いのが印象に残った。 「どう思う?あの女」 「さて、どんなものか・・・」 「君には気に入らなかったか?」 「近藤さんはどうなのです」 「・・・以前、歳が愛想の無い女だと言ってはいたが、それ程のものでも無い」 確かに子楽は近藤や八郎に、客という以上に気を遣っていたようであった。 それは土方に繋がる縁の者だと思えばこそのいじらしさでもあったのだろう。 「それよりも先ほどの子楽の話・・・」 八郎は意識して話題を変えた。 「総司のことか?」 近藤もそれを気にしていたのであろう。この剛毅な男にしては珍しく声に当惑の色を交えた。 子楽が世間話のついでのように何気なく告げたひと言は、近藤と八郎を少なからず驚かせた。 子楽はつい先日総司がここに来たと話した。 それは総司が上七軒界隈で訪ねるところを探している途中の偶然だったと子楽は言った。 子楽がそれを信じているのかどうかは分からない。 だが近藤と八郎にはそれが総司の意思によって意図的に計られたことだと、瞬時に察せられた。思わず顔を見合わせた二人だった。 「総司は・・・・」 言いかけて、近藤が何かを思案するように一瞬口元に盃を運んでいた手を止めた。 「やはり子楽を尋ねてきたのだろうな・・」 やがて低く漏らしたが、それが総司のどういう思いから来ていた行動なのかが分からず不審気に首を捻った。 その始終を八郎は一方(ひとかた)では片付かぬ思いで見ている。 先日総司と土方との間に何かがあったとその様子から思いはしたが、それが子楽の事と関係があったのだとは今この場で承知できた。 だが何故総司が子楽を尋ねるという行動を起こしたのか、そこが八郎には思案の行き詰まりだった。 「総司の具合はどんなものです」 それぞれの思惑の元で男二人は暫らく黙って盃を重ねていたが、とりあえず今ここでこれ以上詮索して埒があくものでも無いと、八郎は何の思惑も無く近藤に問うた。 すぐに戻ると思った応(いら)えはなかなかに返らず、流石に八郎は近藤を見た。 それでも近藤はそのまま暫く何事かを考え込むように黙ったままだったが、やがて覚悟を決めたように思い口を開いた。 「総司は・・・、江戸に帰そうと思っている」 長いこと己の中で鬱積していた思いを吐き出すように、独り言とも思える口調だった。 「江戸に?それは総司の意思ですか?土方さんは・・」 思いもよらぬ近藤の決意に、八郎が急(せ)き込むようにその真意を確かめた。 「まだ総司には何も言ってはおらん。だが歳には一度話した」 「土方さんは何と?」 「総司を江戸に帰すにあたっては、歳にその気は無い」 苦虫を潰すような低い声で呟いて、近藤が止めていた盃を一気に飲み干した。 「だが総司のことを考えれば、そうせざるを得まいに・・・分からん奴だ」 近藤もまだ実際のところは総司を手放す覚悟はできていないのであろう。 その声音には己の心裡の葛藤を引きずっている苦しい響きがあった。 「近藤さん」 話しを聞きながら沈黙を守っていた八郎が、近藤に視線を向けた。 「俺も総司は江戸に連れて帰りたいと思っている」 八郎の言葉に今度は近藤が黙った。 それは当惑と言って良いのかもしれなかった。 八郎は総司を江戸に帰した方が良いと言っているのではない。 総司を連れ帰りたいという克明な意志の表示を今したのだ。 同感ではなく、同意でもなく、八郎の積極的な総司への所懐に触れて、近藤はそれがどういう意味を成すものなのか分からず、ただ伊庭八郎という若者を見た。 「が、仮初にも人ひとり。まさか嫌と抗う首に縄をつけて引っ張って行くわけにも行きますまい。少し時間がかかるでしょうが、仕方がないでしょうな」 八郎の言葉に躊躇(ためらい)は無い。 どこか腑に落ちないものを感じつつも、近藤もそれに頷かない訳にはゆかなかった。 あるいはその感情は、他人が総司を自分の目の届かぬところへ連れ去るという不満にも似たものだったのかもしれない。 近藤はそんな複雑な胸の裡をどう表現して良いのか分からず、ただ盃を煽った。 「それにしても、総司の奴・・・一体何の為に子楽に会いに来たのか」 その思いから今は目を逸らすように、もうひとつ懸念に思うことを近藤は口にした。 八郎は盃を口元に運びながら、それを又別の思いで聞いていた。 互いに忙しい身を慮って、田坂が名指ししてきたのは、五条と七条の通りの丁度中間位に位置する加茂川に沿った小さな料亭の二階だった。 田坂がやってきた時には土方はすでに座敷に上がっていた。 「お待たせをしてしまいました」 決めた時刻にはまだ間があったが、先に来た土方に詫びると田坂はその迎え側に座って頭を下げた。 「いや、こちらが少し早すぎたようです」 土方の物言いにはどこか浮かぬ響きがある。 昨日の夕刻、総司のことで話がしたいという意向を伝えた時に、その返事はそのまますぐに遣った使いの者が持って帰って来た。 何かを自分に伝えたいのかもしれない、田坂は土方の尋常でない早い返答をそんな風に読み取った。 始めは近藤に相談すべきかと考えていたこの件に関して、ふと土方にと矛先を変えてみた自分の勘はあながち外れてはいなかったらしい。 「総司のことで何か?」 土方は単刀直入に切り出した。 田坂はその性急ぶりに苦笑しながらも頷いた。が、すぐに浮かべた笑いは引っ込めた。 それが軽易でない内容と、土方の胸に重く圧し掛かる予感をもたらす。 「沖田君、酷く憔悴しているようですが、何かがあったのでしょうか」 「何かとは」 「土方さん、貴方なら分かるはずだ。いや、貴方にしか分からぬはずだ」 田坂の声が土方に隠すことを諌めるように俄かに厳しくなった。 田坂の面(おもて)には患者の状態を憂慮し、原因を探り解決を試みようとする、医師としての強い信念があった。 その様を目の前にして、ふとつつみ隠さず語ってみようと思ったのは、田坂の勢いに負けたか、あるいは土方自身がまた霧塞(むそく)の中にいて何も掴めない焦りを誰かにぶつけてみたいという思いがあったからなのかも知れない。 真実、総司の心は未だ土方から遠く闇の中にある。 「田坂さん」 土方は目の前の若い医師に真っ直ぐに視線を向けた。 「総司と俺のことを、貴方はご存知のはずだ」 「知らぬと言えれば楽なものを」 田坂の顔に正直な感情が浮かんだ。 田坂は総司に想いを寄せている。今それを自分の前で少しも隠さなかった。 だがその田坂の心の機微を、土方は敢えて見ぬ振りをした。 今はそのことに拘ってはいられなかった。 「貴方には幸か不幸か分からぬが、全て承知と踏んで話をする」 土方にいつもの余裕が無いことが、田坂の気になった。 「先日・・・貴方が丁度膳所に行っている頃だろうか。総司にもう一緒について行くことはできないと、そう言われた」 「どういうことです」 俄かには信じられないことだった。 「それがあいつの虚言だということは百も承知だ。だが総司は頑なにその理由を語らない。むしろ探られるのを怯えるように、ここ数日は俺と顔をあわせることをも拒む」 土方が遣る瀬無い吐息をひとつついた。 「その理由、少しも思い当たることはないのですか?」 「分からん・・が・・」 何かを言いかけて、土方が一度言葉を止めた。 「貴方にしか分からないはずです」 田坂はその土方の躊躇いを咎めるように促した。 「たぶん・・・いや、きっとそれは俺の為にと由来することだろう」 土方の端正に造作された面に焦燥の険しい色が走った。 それは田坂にも容易に察せられることだった。 否、土方の事以外に総司があれほど憔悴する訳がない。 何かが総司を追い詰めている。 その原因は土方のためにと信じ込んでいる総司自身にある。 「実は近藤さんに話をした方が良いのかと思いましたが、貴方に先に相談して良かった」 「近藤には今暫らく黙っていて欲しい」 近藤に総司を江戸に帰す意向があることを、土方は口にはしなかった。 仮に告げても、それに是と応えるか否と応えるかは田坂の心裡にある。 だが医師としての意見を求められれば、田坂は近藤に同意する他無いだろう。 今はこれ以上の混乱を避けたかった。 「何か解決の糸口があると?」 田坂の問い掛けは容赦が無い。 それはとりもなおさずこの事柄が、田坂とっても真剣に憂慮することだからなのであろう。 近藤に患者の身体の変化を告げねばならぬ自分と、ひと時も長く想い人の願いを叶えてやりたいと思う己と、医師として、個人として、田坂自身もまた苦しい狭間に身を置いている。 「今の処は無い。が、必ずあいつの心を解きほぐしてみせる」 「それは貴方の信念か?」 土方を見る田坂の眸に挑戦的な色が走った。 「いや、掛け値なしの確信だ」 初めて土方の面(おもて)に笑みが湛えられた。 それは自信と言うにはあまりに頼りないものだったが、それでも土方は、今は己を信ずる他はなかった。 「あまり長くは待てないと、それだけは肝に銘じて置いて下さい」 「承知している」 短い応(いら)えに、すでに先の無い断崖に立たされた土方の強い決意があった。 幕府の長州訊問団に参加して近藤が長州に出立する日が近づいていた。 共に西下する正規の随行員は参謀の伊東甲子太郎を始めとする三名だったが、土方はこれに監察方の山崎烝、吉村貫一郎、それと新撰組の外の者だったが、監察方が手先としてその情報収集に使っている伝吉という者を派遣した。 この三名に関しては最初から長州に残らせ、その動きを探らせるのが目的だった。 表向きの打ち合わせやら、その裏での極秘裡の工作やらで土方の多忙は頂点にあった。 総司の事に心奪われながらも、自分自身が身動きの出来ない状態に土方は焦れた。 「歳、少しいいか」 近藤が副長室に姿を現した時、丁度山崎との打ち合わせの最中だった。 山崎は近藤を見るとすぐに退席しようとしたが、土方はそれを手で制した。 「近藤さん、今は忙しい。後でいい話ならそうして欲しい」 この多忙が自分の反対を押し切っての近藤の我儘と思えば、その最中にあっては自然と不機嫌になる。 土方の物言いは素っ気無いものだった。 「後で良い。何、話はお前の馴染みの女の事だ。山崎くん、邪魔をしたな」 私用とあっては、流石に近藤も遠慮があるらしい。 すぐに背を向けようとしたところへ、土方の声が掛かった。 「どういうことだ」 近藤の言っているのは子楽の事に相違ない。土方の声に苛立ちがあった。 「お前の馴染みに一昨日の夜伊庭君と会ってきた。それだけだ」 むしろ土方の尋常でない反応を訝しむように、近藤は応えた。 「何故そんな事を・・・」 「お前がその気ならば身請けして休息所を持たせてもいいと思ったからだ」 「要らぬ世話だっ」 土方の声が荒いだ。 めったに見せぬ土方の剣幕に近藤も、その場に居合わせた山崎もまた一瞬沈黙した。 目の前の近藤に土方は憤りを隠せなかった。 ただですら未だ霧中にあって先無き模索に呻吟していることを思えば、近藤の行動はさらに総司を追い詰めるだけのものになる。 「総司にその話をしたのか」 「いや、してはいない」 応えながら、近藤には土方の苛立ちが分からなかった。 だが近藤もそこまで勘の鈍い人間ではない。 朧げながら総司が子楽を尋ねて行ったことと、今の土方が自分へぶつける怒りが結びついた。 「お前と総司は一体何があったのだ。あの子楽という女の事で何かあったのか」 逆に問い詰められて、今度は土方が言葉を断った。 不審を露にしている近藤に、自分と総司の事を打ち明けるのは容易いことだ。 いやむしろそうした方がどんなにか安堵できることか。 だが総司は頑なにそれを拒む。否、怯える。 その心を思えば迂闊な返答は出来なかった。 どちらも引かず室の中の三人がそれぞれに沈黙し気まずい空気が流れた時、それを破るような慌しい足音が近づいてきた。 「土方先生・・近藤先生も」 島田魁はそこに近藤も居たことを僥倖(ぎょうこう)としているようだったが、その顔は緊張に強張っていた。 「どうした、島田君」 いつもと違う島田の様子にいち早く反応したのは土方だった。 「沖田さんの具合が悪いのです。すぐにいらして下さい」 「どこに居る」 「沖田さんの自室です」 島田の言葉の最後を背で聞くように、瞬時に走り出した土方を、近藤がひとつ遅れて追った。 裏文庫琥珀 玉響 参十九 |