玉 響 参十九 きっちりと閉じられた障子を勢い込んで開け放った途端、微かに鉄の錆びたような血の匂いが土方の鼻腔を突いた。 室の床柱にもたれて、総司は弛緩したように前かがみに顔を伏せて座っていた。 否、すでに座るという意志は身体のどこにも無く、正確には隣で伝吉に支えられて漸く上半身を起こしている状態だった。 「総司っ」 駆け寄って肩を掴んで顔を仰向かせると、力ない人形のようにがくりと首が後ろに倒れた。 露になった蒼白な面(おもて)の唇から喉元を伝わり、胸あたりに広く濃い朱の染みができている。 ひと目で血を吐いたのだと分かった。 恐れていたことが現実となって土方の目の前にあった。 「すぐに田坂先生の所に使いを走らせました」 伝吉から総司の身体を受けて抱きこむようにしながら、物言わずただ腕の中の意識無い者を凝視する土方に、やはり立ちすくんで動かぬ近藤の後から山崎に続いて最後に入って来た島田が、後ろ手に障子を閉めながら告げた。 なるべく人目に触れない方が良いだろという、島田なりの判断だった。 「いつこんなことになっていたのだ」 総司がひとりで血を吐き、誰にも気付かれずに放って置かれたのならば、その僅かな時すら惜しまれる。 近藤の声に誰に当たるともない、苛立ちがあった。 「廊下を渡る時に苦しげな咳をしていらっしゃるのを聞いて声を掛けましたが、返事をされることも敵わぬようで・・・思い切って開けましたらすでに・・」 その時を思い出したのだろう。あまり表情を表に出さない伝吉の顔が曇った。 「すぐに島田の旦那にお知らせしてもう一度とって返しましたが、その時はまだ沖田さんの気は確かでした。ですが咳も血も止まらず、伏せたままでは血が喉に詰まることがあります。急いで身体を起こしてこうして支えていたのですが・・・」 伝吉は痛ましそうに今は土方の腕の中にある総司を見た。 その身体は微かにも動かず、顔は白蝋のように血の通う色を失っている。 だが抱いている土方も又壮絶なまでに蒼ざめ、瞬きもせずに総司を見て微動だにしない。 これほど酷い総司の喀血に会ったのは、昨年の池田屋の時以来二度目だ。 労咳に冒され、ひび割れた肺腑を持つ身体はその後、時に無理を不満とするように総司の身体を苛んだが、それは熱を発するとか、酷い咳の発作に見舞われるというもので、喀血というあからさまなこの病の特徴を何とか今まで呈する事は無かった。 だが表面には出ずとも、宿痾は日々怠る事無く総司の身体を内から冒していたのだ。 油断だった。 土方は血の滲む思いで唇を噛んだ。 結局田坂が駆けつけて喀血後の処置が施され、総司の様態が一応の落ち着きを得るのを見届けて、近藤と土方が別室に呼ばれたのは夜も更けてからだった。 総司はあれから一度も目覚める事無く、昏々と深い眠りの中に今もいる。 相変わらずその頬には一筋の血の色も通わない。 時折高い熱に苦しげに吐息するのが、唯一生きている証のように土方には思えた。 枕元を離れるのを土方は躊躇ったが、田坂に促されると仕方なしに立ち上がった。 「いかがなものか」 田坂に問う近藤の声は低く重い。 それは聞いても望む応(いら)えを得ることができぬと分かっているからだ。 「ここ暫らく無理を重ねていた様子で気を付けてはいたのですが、遅かったようです」 田坂もまた己の医師としての判断が甘かった事に苦渋していた。 憂えてはいたはずなのに結局は最悪な事態を招いてしまった。 それが田坂を苛む。 二人の間の中央で、土方は無言でいる。 「とりあえずは大量の喀血で失われた、生きる為の体の力の回復を待つしかありません。が、その間に他の病気に・・・これは風邪とかそういう類(たぐい)のものですが、罹患しないように十分に気を付けねばなりません。今の体力ではそれを撥ねかえす力はありません。そうなれば取り返しのつかない結果になります」 田坂の口調はすでに、冷静に患者の今の状態を説明する医師としてのそれに戻っていた。 告げる立場の者と、聞く立場の者との間を暫し重い沈黙が制した。 「田坂さん、ひとつお尋ねしたい」 均衡を破ったのは近藤だった。 「何でしょうか」 「総司がまた元気になって、もとのとおりに動けるようになっても、やはりあれの病は今よりも進んで行くのだろうか」 馬鹿なことを聞いていると、近藤は自分でも胸の裡で思った。 どんなに元気になろうが、今までと変わらぬように立ち居振舞いができようと、総司の胸に抱える病はそのままにあるのだ。 それでも近藤は聞かずにはいられなかった。 弱り行く総司を目の当たりにするにはあまりに忍びない。 「残念ながら」 若い医師の応(いら)えは残酷な程に容赦が無かった。 「胸の病を完治する術は今の医術ではありません。或いはその進行を少しでも遅らせることは可能かもしれませんが、それもごく限られた手段。正直申しあげて、沖田君の病はすでにその僅かなの希(のぞみ)すらも期待できるものではありません」 たったひとつ見出そうとした細い光を真っ向から断たれて、近藤は瞑目した。 土方は二人のどちらにも視線を合わせず、宙を睨むようにしてひと言も発せず黙している。 あるいは近藤と自分とのこのやりとりは、土方には届いていないのではと田坂は危惧した。 「田坂さん」 そんな田坂の思考を断つように、近藤の声が響いた。 「総司は・・・」 近藤にしては珍しく躊躇うようにして言葉を止めた。 「総司は江戸に帰そうと思っている」 やがて短い言葉の中に、己の裡(うち)にある何かを断ち切るように重く告げた。 田坂は思わず目の前の近藤の顔を凝視した。 視線を土方に移すと、先ほどまでどこか一点を睨みつけるていた双眸は固く閉じられていた。 これは近藤と土方が決めたことなのだろうか・・・ だが、先日会った時に、土方はその件については一言も自分に告げなかった。 田坂は今できる想像のすべてを模索した。 「・・・江戸に帰すとは、近藤さん、土方さんの意思なのでしょうか?」 疑問はそのまま言葉に形を変えた。 「いや、違う」 今までひたすら沈黙の中にいた土方が声を発した。 振り返ってみれば、行灯の薄い灯りの中で、土方の端正な面が蒼く浮かび上がっていた。 それは冷たいという印象ではなく、田坂には激しくも静かに燃える焔(ほむら)のように思えた。 「歳っ、まだ分からんのか」 近藤が低く唸るように土方を諌(いさ)めた。 「総司をこのままここに置いてゆけば短い命を更に削るだけだ。お前も見たはずだ。あの総司の血の色の無い顔を」 近藤の声は悲痛だった。 「総司は江戸には帰さん」 それすら意に介さず、短く、だが強く応(いら)えを返して土方は立ち上がった。 そのままそこにいる近藤も田坂もまるで見えてはいないように、一瞥もくれず室を出て行った。 総司の枕頭に座していたのは名も知らぬ隊士だった。 入って来た土方を見ると、一瞬身を堅くして深く頭(こうべ)を下げたが、それすら目に入らぬように病人の脇に座した。 「まだお気づきにはなりません」 言葉を掛けられて、初めてそこに人が居たと知った風に土方は脇をちらりと見た。 「俺が代わるからもういい」 ひと言だけ告げると、すぐに視線を総司に戻した。 看護を銘じられていた若い隊士はどうしていいものか暫らく躊躇していたようだったが、やがて物言わぬ土方に怯えるように、一度礼をすると静かに室を出て行った。 替えたばかりなのだろう。額にあった濡れ手拭はまだ冷たい。 それを取り去って手を遣ると、ひどく熱かった。 田坂は肺腑の壊れた場所が炎症を起こすのだと、高い熱の原因を説明した。 いずれそれは鎮まるにしても、一度壊れた組織はもう生き返ることはない。 そうして総司の身体は内から崩壊してゆくのだと、土方は戦慄に似た思いで田坂の言葉を聞いていた。 「・・・総司」 ここに自分がいることにも気付かず眠り続ける総司のあまりの反応の無さが、土方を底の無い不安に陥れる。 「総司・・」 額においた手を頬に滑らせ、指で乾いた唇をなぞってみた。 形良いそれは時折土方の指の腹に微かな息を触れさせる。 今一度、その確かな証を確かめようとなぞったとき、僅かに息をするのとは違った動きがあった。 総司が何かを言っている。 土方は思わずその口元近くに耳を付けた。 唇は言葉の形を結ぼうとするがそれを果たせず、声は外気に響かず時折その微々たる動きすら止まりかねる。 それでも土方は辛抱強く聞き取ろうとした。 今は自分の漏らす息すら邪魔だった。 たったひと言を、総司は長い時をかけて土方に告げた。 それは言葉というには形無く、声というには音無く、あまりに儚いものだった。 それでも土方は夜具に納められていた総司のか細い手を取り出して握り締めた。 総司は自分の名を呼んでいた。 深い闇にあって意識無く、肉体を苛む苦痛の中で、精神の限りで自分を呼んでいた。 自分だけを呼んでいた。 それだけで十分だった。 守ってやるのは自分で、信じてやるのも自分であれば良かった。 総司を傍らから離さなければそれで良かった。 「・・・傍にいろ」 語り掛ける言葉に応えは無い。 「一緒にいろ」 覆いかぶさるように耳元で囁いて、そのまま自分を呼んだ唇に己のそれを重ねた。 長い長い夢だった。 苦しくて辛い夢だった。自分を置いて土方の背がどんどん離れてゆく。 力の限りにその名を呼んでいるのに、声にはならず土方は振り向かない。 必死に手を伸ばしても届かない。追いかけて走り出そうとする足は枷(かせ)をされたように動かない。 土方の姿が闇の先に白い点となるほどに小さくなり、叫ぶ声で息もできぬ苦しさに悶えたとき、それを慰撫するような温もりが唇に触れた。 次には叫び疲れて乾いた喉に、癒すように潤いを与えてくれた。 それが何なのかは分からなかった。 たが自分がずっと望んでいたもので、ひどく安堵できるものであることは夢の狭間をさ迷う朧な意識の中でも分かった。 己の内に在るあらゆる神経を手繰り寄せるようにして、辛うじて微かに瞼を開いた。 視線だけを動かして探したその先に、土方がいた。 少しの間違いも無く、望んだその人は傍らにいた。 縋る手を差し伸べれば必ず掴んでくれる。 だから自分はもう少しだけ夢の中に居ても構わないのだ。 再び薄れ行く意識の中で、総司はそんなことを思って今度こそ安寧の淵に呑み込まれて行った。 覆っていた霧が少しずつ晴れてゆく。 昏い闇の色一色だった中に僅かに光差すものがあった。 それを漆黒の世界から唯一導いてくれるものと、総司はうっすらと重い瞼を開けた ぼんやりと視界に入るものをそのまま映し、暫し視線を彷徨わせていたが、やがて傍らの土方に気付いた。 土方は座しながら眠っていた。 その姿をもっと身近にしようと、頭を動かした時に、額に載せられていた濡れ手拭が滑り落ち、仰臥していた体勢を変えられた身体は胸に貫くような痛みを与えて不満を訴えた。 思わず漏らしたその小さな呻きで土方が眠りから醒めた。 「どこか苦しいのか?」 土方の掌が包み込むように頬にふれた。 苦痛を和らげるように静かに息を吐きながら、総司は声には出さず小さく首を振った。 「苦しかったらそう言え」 命じる言葉は限りなく優しい。 「・・・み、ず・・」 やっとささやかな望みを言葉にしてみた。 それは聞き取るには辛いほど儚げな響きだったが、土方は唇の動きだけで総司の欲求を露ほども違(たが)わず読み取った。 枕盆に置いてあった湯呑みから水を口に含むと、躊躇う事無く愛しい者の唇を塞いでそれを与えた。 総司は拒みはしなかった。 静かに瞳を閉じ、乾いた唇も喉も、あるがままに受け入れ潤された。 「まだ欲しいか?」 問い掛けに応えるための僅かな力も今も残ってはいなかった。 再び微かに首を振ることで否と訴えた。 まだ頬にある土方の手の温もりだけを感じていたかった。 瞳を開けていればそれは夢だと消え行きそうで、もう一度静かに瞼を閉じた。 この次目覚めた時にはまた生身を裂くような苦しい現(うつつ)が待っている。 だから今だけはこうしていたかった。 「どうだ」 周囲を明けの色にそめた朝の光と共に、病人を気遣って足音を殺して入ってきたのは近藤だった。 「一度目が覚めたがまた眠った」 「そうか」 土方の横に腰を下ろして総司を覗き込む近藤の顔が険しい。 おおよそこの男も眠れぬ夜を過ごしたのだろう。顔に疲労の色は隠せない。 愛弟子の容態を案ずる、江戸のまだ貧しい道場主だった頃の近藤がそこに居た。 それが土方の気持ちを幾分柔らげた。 「お前も少し休むといい。俺が代わろう」 「いや、このままもうしばらく居る」 近藤の申し出に土方は頷かなかった。 目が覚めれば総司は必ず自分の姿を探す。 今度自分の姿をその黒曜の瞳が映したとき、或いは総司はまたそれを拒むのかもしれない。 だがもうそれでも良かった。 無意識の世界を彷徨いながら、総司が求めていたのは唯一自分だけだった。 何かを探すように宙に浮かせる手を握ってやれば、総司は微弱にそれに応えるように指を動かした。 渇きを訴える唇に己のそれを重ねて水を移せば、苦しげに繰り返される息は静かに鎮まり安堵の息をついた。 それを一夜に幾度も繰り返しながら、自分は待っていれば良いのだと知った。 いつか必ず総司は自分の元に返ってくる。 それは土方の、すでに揺らぎ無い確信だった。 濡れ手ぬぐいを替えてやりながらそっと額に手を置くと、薄い瞼が分からぬ程に動いた。 それだけが動きの全てで、総司は未だ闇の中にいる。 「総司が少し落ち着いたら、俺はやはり江戸に帰す」 黙って総司の血の気の無い寝顔を見ていた近藤が、固く何かを決めたように呟いた。 途端に鋭い視線を投げかけた土方に、近藤はそれを跳ねつけるような強い眼差しを返した。 「お前の気持ちも分からぬではない。が、これは俺も譲れん」 「ここで話すことではない」 「分かっている。だが今総司を見ていて、迷いが消えた。俺はこれに少しでも安閑と過ごせる日々を与えてやりたい」 「あんたの気持ちは分かった。が、俺もそれに頷くことはできない」 「歳・・」 「近藤先生・・・」 会話を遮る声が外から掛けられた。 立ち上がって行って障子を開けたのは近藤だった。 戸口の廊下に肩膝をついていたのは近藤付きの見習い隊士だった。 「何か用か」 「幕府大目付の永井様の御使者の方がお出でです。火急の件という事で。できましたら土方先生もご同席頂きたいと、伊東先生がおっしゃっていますが」 大目付永井尚志は今回の征長にあたり、幕府が正式に指名した訊問使である。 それに同道する形で近藤、伊東等は今回長州に下る。その使いとあらば粗相のあってはならない客だった。 が、土方は総司の枕元に座したまま動こうとしない。 「歳、公務だ」 諭すような近藤の声にも暫くそのままでいたが、漸く物憂そうに立ち上がった。 幾つかの人の足音が重なって、自分から離れてゆく。 その中に土方のそれも確かにある。 ただ視界に入る天井の木目を、総司は見るともなしに瞳に映していた。 先ほど近藤が言っていたことは何なのだろう。 自分は江戸に帰されるのだろうか・・・ 確かに近藤はそう言っていた。 否、それはきっと夢の中のできごとだったに違いない。 夢と現の狭間で聞いた言葉を、ひとつ別の世界に閉じ込めると、まるで封印するかのように総司は堅く瞳を閉じた。 きっとあれは悪い夢にちがいない・・・ 言い聞かせながら、だが逆に覚醒して行く思考は近藤の言葉を恐ろしいほど鮮明に蘇らせる。 ・・・江戸に帰される。 心の臓が破れんばかりに激しく波打った。 裏文庫琥珀 玉響 四十 |