玉 響    四十







「しかし近藤先生も貴方がこのような具合では屯所を留守にするにも、さぞご心配のことでしょうな」
伊東甲子太郎は冷たいとも見える白皙に、薄い笑みを浮かべた。
労わるような言葉を語りながら、その実声音にはその欠片も無い。

「・・・皆さんにもご迷惑をお掛けして」
今伊東に何を言われようと、返す言葉を総司は持っていなかった。
一昨日大量の血を失ったこの身体は、起こしていることすらまだ長くは辛い。
見舞いと称してやってきた伊東の相手にも、そろそろ限界を感じていた。


「何の。迷惑などとは誰も思ってはいません。貴方はそんな病の身で今まで新撰組を支えていらしたのです。これからは私のような者でも、少しは近藤局長のお側でお役に立てましょう。貴方はそろそろ戦列を離れてどこか静かな場所で静養されては如何か。何分この病は安静が第一。その気持ちがおありなら、この私がどこぞ療養に良い場所を探させますよ」
「お気持ちは有難いのですが、もう少しここで役に立ちたいと思います」

伊東の言葉は遠まわしに自分に新撰組を離れろと言っている。
胸にわだかまるものはあったが、それを敢えて押さえて静かに総司は応えた。

伊東は近藤と共に長州に下る。近藤の身の回りには土方も自分も居ない。その伊東に今自分が逆らえば近藤が迷惑するだろう。総司の精一杯の判断だった。


「命をすり減らすような事を続けると言われるのか」
伊東の言葉が辛辣だった。
「すでにここが終焉の地と決めています」
初めて総司の瞳が強い色を湛えて伊東を見た。

「これはつまらぬ事を言いました。確かに貴方にとってはそうでしょうな。が、近藤局長は如何なものか・・」
伊東の顔に侮蔑ともつかぬ皮肉な色が浮かんだ。

「近藤先生が・・?」
「以前私に貴方を江戸に帰したい・・・そう仰ったことがあるのですよ。手塩にかけてきた愛弟子をむざむざ病を篤くするような環境に置くにしのびないと、そう思われたのでしょう」

総司は応えない。だがその面は隠しようの無い動揺に見舞われて強張っている。
それを伊東は満足げに見た。
もうひとつ押せば近藤と深い絆で結ばれている目の前の若者の神経は容易に崩すことができるだろう。
やがて自らこの組織の頂点に立つために、伊東にとって総司は邪魔な存在だった。

「近藤先生にはたびたび江戸に戻るようにと言われます」
「それだけ真剣なのですよ。局長は」
漸く微かに笑みを浮かべて応えた総司に、伊東は冷ややかだった。




「御免」

更に総司を追い詰めるだけの言葉を繋げようと伊東が口を開きかけた時、障子に人影が映ってよく通る声が掛かった。

声の主は伊庭八郎だった。
八郎は室の中からの返事も待たずに障子を開けた。


「これは、失礼。先客がいらしたか」
伊東を見て笑う八郎には屈託が無い。
勘の良い八郎のことである。伊東が居る事は先刻承知のはずだった。

「いえ、もう私は失礼をするところです。伊庭殿は今日は沖田君の見舞いに?」
「そのつもりで来ましたが」
「それでは折角のご来訪を邪魔する訳にはゆきませぬな」

伊東はゆっくりと立ち上がり、そのまま八郎の前で軽く一礼をすると、室を出てゆくために二歩三歩進んだ。
が、廊下に出る手前で思い立ったように足を止めた。


「そうそう。沖田君、近藤局長のことはご心配なく。この伊東が無事をお約束しますよ。あなたはどうか心置きなく療養に専念して下さい」
それはお前はもう要らないのだと、暗に告げる言い回しだった。

「どうか、近藤先生をお願いします」
それでも今はそう応える他、総司にはなかった。
伊東はそれに大仰に頷くと、八郎にはもう一瞥もせずに出て行った。




「嫌な男だな」
八郎が苦々しげに呟いた。
「・・・でも、仕方が無い」
総司は深く息を吐いた。それに残っていた全ての力も一緒に流れ出てしまったような脱力感に襲われた。

「八郎さん、申し訳ないのだけれど、横になってもいいかな」
見れば総司の顔は蒼白に近い。
「遠慮はいらない」
安堵したように、総司は大儀そうに身を横たえた。

「あまり無理をするな。伊東・・・と言ったか。深川の伊東道場の婿だな」



八郎は江戸に居た頃、まだ鈴木と名乗っていた伊東を道場で見かけたことがある。
その後伊東は師に請われて婿になり、道場主となった。北辰一刀流の道場だったが、伊東自身は神道無念流だったと聞いている。
伊東の才覚か、なかなかに流行っていたと記憶している。
八郎にはその程度の認識しかないない。
が、総司はどうやらその伊東との会話で酷く消耗させられたらしい。


「具合はどうだ」
今更改めて聞く己の間抜けさに、八郎は些か苦笑した。
「大丈夫」
枕に頭を乗せ、八郎に身体を向けて総司は笑いかけた。

「・・そうか」
気丈な応えに頷いてやりながら、八郎は総司の血の色というものが僅かにも見当たらぬ頬から目を逸らせたい思いだった。


「八郎さん今日は?」
「だから見舞いと言っただろう」
「奥詰というのは本当に暇なのだ」
横臥しながら八郎の顔を見上げて、総司が面白そうに声を立てて笑い始めた。
「ぬかせ」
それに八郎は渋面を作った。



昨日近藤に先日上七軒で馳走になった礼と、長州に下るにあたって餞別の意味を込めて宴を設けたい、その節には昔馴染みとしての自分でありたいので、土方と総司も同席して欲しいと使いを遣った。
が、そのまま使いの者が持って来た近藤の返事には、総司の身体の急変が認(したた)められていた。
本来ならば即刻駆けつけたかったところを、流石にそこまで自由の効く身でもあらず、書状によれば容態は落ち着いているということで、その場は逸る心を押さえたが、朝になって矢も盾もたまらなくなって起き抜けと言っていい状態のまま、馬を飛ばして来た。



「思ったより元気そうだな」
まだ何か面白げに自分を見ている総司に、感じた事とは別の言葉を掛けた。
「もう何ともない」

笑って言うこの偽りを、総司は一体何人の人間に掛けて来たのか。
今総司を見るものならば誰もが容易く見分ける嘘を、繰り返し告げているのだろう事を思えばその身が哀れだった。



「それはそうと、先日近藤さんの供をして上七軒に行った」
何気ない会話を装ったつもりが、八郎の予期した事と寸分も違わず、総司の表情がふいをつかれたかのように瞬時に強張った。

「子楽という女に会ってきた」

その動揺を敢えて見ぬ振りをして、八郎は続けた。
まだ身体も辛いだろうに、これ以上追い詰めるのも酷かと思いはしたが、これから総司に告げねばならないことを考えれば、どうしても話しておかねばならぬことだった。

「子楽はお前が尋ねて来たとそう言っていた」
八郎の視線に捉われて、総司は瞳を逸らすことができない。
ただ八郎の次なる言葉を萎縮して待っているという風だった。
その証のように黒曜の深い色をした瞳だけが、八郎を凝視している。


「お前が子楽を尋ねた理由(わけ)は土方さんのことか」
「違う」
間髪をおかずに帰ってきた応(いら)えは、決して弱々しいものではなかった。
むしろ全てを撥ねかえすような強さを秘めていた。

「では何なのだ」
八郎の容赦ない追求に、総司は何かを秘めるように固く口を閉ざした。

「話したくなければそれでもいい。おまえと土方さんの間に何があって、どうしてお前が子楽に会いに行ったのか・・そんなことも俺にはどうでもいい。
が、その席で俺は近藤さんにお前を江戸に連れて帰りたいと、そう言った」

瞬間、横にしていた身体を総司が弾ける様にして起こした。


「どうしてそんなことをっ」
言いようの無い憤りを含んで、八郎に詰め寄る総司の声が震えていた。

「言ったはずだ。俺はお前を諦めはしないと」
「あの時に言った。私には土方さんしかいないと」
「確かに聞いた。だが俺も遠慮をしてはいられない」

八郎の眼差しが射ぬくように鋭かった。

「私は江戸には帰らない」
それを受け止めて、総司の瞳が微塵の揺るぎも無く八郎を見据えた。


「譲れないな」
八郎の声は断乎として、更に低い。
「どうして八郎さんに私のことが決められるのです」
「惚れているからさ」
寸部の間も空けず、八郎の応(いら)えは明確だった。

「・・・そんな勝手」
「確かに俺の言っている事は勝手だ。お前の意志など露程も汲んではいない。だが俺はお前に惚れている。欲しい相手をどんなことをしても手に入れたいと思う気持ちを俺は止められない。いや、止める気も無い」
「どんなことがあっても私は江戸には戻らない」
「近藤さんはお前を江戸に帰すつもりでいる」

「そんなことは聞いてはいない」

それはまるで悲鳴のように鋭い叫びだった。



総司の中で深く封印していた何かが呼び起こされた。

あの時、半分覚醒した意識の中で、確かに近藤は自分を江戸に帰すと土方に告げていた。
それを朧に聞きながら、目覚めてからも悪い夢を見たのだと己に言い聞かせてきた。
近藤も土方も、あれから何も言わない。
あるいは自分の身体の具合を危惧して、今はその話題を避けているのかもしれない。

夢だと打ち捨てようとする自分と、現(うつつ)の出来事だったと怯える自分と、ずっとその繰り返しだった。
八郎はそれは紛れも無い現実だったのだと、今自分に突きつけたのだ。



「・・・聞いてはいない」

総司の瞳は八郎を映しながら、だが捉えてはいなかった。
どこか遠くに心を飛ばして、そこに抜け殻だけが残ったかのように、幾度も同じ言葉を繰り返す。
その姿を痛ましい思いで見守りながら、そうさせたのは自分であることに八郎の胸は苛まれる。
だがここで怯(ひる)むわけにはゆかなかった。


「俺は今年中に一度江戸に戻る。その時にお前を連れて行けるよう近藤さんに話す」

言い置いて八郎は立ち上がった。
総司はまだ上半身だけを床に起こして俯いたまま、自分を見ようとはしない。
一瞬躊躇ったが、八郎はそんな総司を残したままで障子の桟に手を掛けた。



「・・・八郎さん」

ふいに後ろから掛けられたそれは、耳を疑うほど静かな声だった。
思わず振り返った先に、瞬きもせずに自分を見ている総司がいた。



「私はここを離れない」

まるで烈として燃える焔の色と、静謐に澄む湖(うみ)の色を双つ合わせたかのように、見るものを圧する総司の激しい瞳だった。

暫くその色に吸い込まれるように八郎は立ち尽くしていたが、やがて一言も応(こた)えず踵を返し、そのまま後ろ手で障子を閉めた。







やはり土方は多忙と見えた。
八郎が入ってゆくと、ちらりと視線を動かしただけで、また手元にある書状に目を落とした。


「どうだった」
顔を上げずに八郎に問うた。
「どうだった・・とは?」
「総司だ」
「俺の前の客にうんざりさせられていたようだ」
「お前の前の客?」
漸く土方が目を八郎に向けた。

「伊東道場の婿さ」
途端に土方が眉根を寄せた。

「伊東が総司の所にいたのか」
「とんだ見舞い客だったみたいだな」



伊東と土方はことあるごとに反目する。
土方にとって伊東は新撰組にあって要らぬ存在で、伊東にとって土方は邪魔な存在だった。
当然の成り行きで、土方の傍らにいる総司にも、伊東の目に見えぬ攻撃は最近目にあまるものがあった。
その伊東が総司を見舞うと称しても、どうせ病に伏せる身へ皮肉の一言でも言いに行ったに相違ない。
土方の端正な面(おもて)が俄かに歪んだ。

「余計なことを」
思わず吐き捨てた。


「土方さん、今日はあんたに話があってきた」
そんな土方の様子を八郎は黙って見ていたが、途切れた話の続きを促すように声を掛けた。
「話?」
まだ伊東の事から思考が離れなかった土方が、怪訝に八郎を見た。

「先日上七軒のあんたの馴染みというのに近藤さんと会ってきた」
その話は先に近藤から聞いてはいた。
それでも驚愕とまではゆかずとも、咄嗟のことに土方はその意図が分からず八郎を見た。


「子楽・・と言ったか。近藤さんはあんたがその気があるのなら、身請けさせると言っていた」
「要らぬ世話だと言った」
土方の声が堪え切れない怒気を含んでいた。
「それはあんたが決めればいいことだ。俺の知ったことではない」
それを踏まえて語る八郎の眸に挑発の色はない。

「では総司のことなら関係があると言うのか」
敢えて土方がその名を出して水を向けたのは、語る八郎の心裡(こころうち)が今ひとつ見えてこなかったからだ。


八郎は自分と総司の仲を知っている。
そして総司に今も一方ならぬ想いを寄せている。
そのことを八郎は臆面も無く自分に言い放った。


「今更隠す必要もあるまい」
「隠す気など微塵もない。俺は総司に今も惚れている」
言い切った八郎に気負いは無い。

「生憎渡すつもりも無い」
「あんたがそのつもりでも構わない。だが俺は総司を江戸に連れて帰るよ」
「総司は帰さん」
「あいつも帰らないと言った」
先ほど総司が激しく拒んだ様を思いだして、八郎が目を細めた。


「あとひと月程したら俺は一度江戸に帰る。その時に連れて行く」
「お前が一人で決めているだけのことだ」
「今はそうかもしれん。が、どうなるかは後で分かることさ。今日はあんたにそれだけを言いに来た」

言葉の終わらぬうちに、隙というものがどこにも見当たらぬ所作で八郎は立ちあがると、脇で固く口を閉ざしている土方を見下ろした。


「それから、近藤さんにはもうその旨を伝えてある」

土方の顔が憤怒とも言える険しい色に染まった。

「伊庭っ」
叫んだのは堪えきれない相手への憤りだった。

「野暮は承知の横恋慕だ。
だがな、土方さん。俺は心形刀流という教えを物心つく前から叩き込まれてきた。それが幸か不幸かは分からん。
形が歪めば心も歪む。心が歪めば形も歪む。歪んだ心を見て見ぬ振りをすれば更に歪む。
ならばいっそ歪んだ己ととことん付き合おうと思ったまで。半端で終わらせちまったら俺は本当の馬鹿だ。最後まで足掻いて見てやる。そして貫き通して本物にしてやる。それがみっともないかどうかは俺が決めることだ。
俺の矜持と言うのものは、どうやらそういうものらしい」


自分を睨みつけるように見据えて黙している土方に背を向けて、八郎はもう振り向かなかった。








廊下を渡りながら、秋も終わりに近づいた陽が縁にあたって零れ落ち、地に溜まりを作っていた。
それはすべてを包み込むような暖かさに溢れ、また今の自分とは遥かに遠いもののように八郎には思えた。


先の限られた僅かな刻しか持たぬ者の望みを断とうとしている我が身は、もしかしたら人では無いのかもしれない。
病身に衝撃を受けて、それでも激しく自分を拒んだ総司の瞳が胸に切ない。

酷いことを自分はしたのだろう。
それでも愛しい者がその生を縮めて行く様をただ見ているのには我慢がならない。
そして何より総司を欲する心を、もう止めることはできない。




「すべて承知さ」


知らず零れた独り言葉は、己への覚悟なのか言い訳なのか、八郎は胸の裡でどうにも遣る瀬無い自嘲の笑みを漏らした。




    






    

             裏文庫琥珀    玉響四十壱