玉 響 四十壱 近藤の長下がいよいよ近づいて来ると、屯所内も俄かに慌しい空気に包まれ始めた。 「いろいろと落ち着かないことだな」 脈を計っていた総司の手首を、そのまま掛けていた夜具の中に仕舞うと、田坂は賑やかな掛け声のする障子の向こうに目をやった。 「もうすぐ近藤先生達が発たれるから」 床の中から田坂の見ている方向に目をやって、総司は呟いた。 「行くのはほんの何人かだろう?」 「みんな張り切っているのです」 「ここに残る人間がか?」 呆れたような田坂の口ぶりに思わず総司が笑った。 「残る人たちもきっと気持ちは同じなのです。長州に行かれる近藤先生を守りたいと・・・」 「君もだろう?」 それには応えず、総司は浮かべていた笑みを消して田坂を見上げた。 「・・田坂さん」 暫らく何かを考えている風だった総司が、やっと思い切ったように言葉を掛けた。 それは田坂が一瞬真顔になるほどの、ひどく思いつめた声音だった。 「どうした。しおらしい声だな」 「・・・近藤先生から何かを聞いていますか?」 「何かとは?」 「隠さなくても良いのです。私のことを、近藤先生は田坂さんに言っているのでしょう?」 「別に隠してはいないが、もし近藤さんが君のことで何か俺に話して、君本人にはまだ告げていないのならば、それは俺から話すことではない」 田坂を見つめる総司は、その表情から知ることのできるひとつも見落とすまいとするように瞬きもしない。 総司は江戸に帰したいという近藤の意志を知っているのだろう。 それがどんな経緯で総司の耳に入ったのかは分からない。 だが少なくとも近藤の口から直接に聞かされたことではなさそうだ。 僅かな間に巡らした思考を纏めると、田坂は自分が知る全てを総司に語るべきではないと判断した。 それは近藤が成すべきことなのだ。 「近藤さんが君に告げることがあるのなら、あの人はちゃんと話すだろう。それよりも、近藤さんの旅立ちまでにもう少し身体をしっかりさせておくことだな。近藤さんもそれが一番の懸念になっているはずだ」 田坂の諭すような言葉に、総司は静かに瞳を逸らした。 「先に長州に派遣されている幕府の者達の会見の調整が上手くいっていないようです」 言い終えて、伊東甲子太郎は白皙に少しばかりの憂慮を浮かべた。 「ではこの度の長下も難儀をすると思われるか」 「尋常のようには行かぬでしょうな」 近藤と伊東の会話の様子を、土方は先ほどから冷ややかに見ている。 大事な事柄だからと局長室に呼ばれて来てみれば、そこに当然のように伊東がいた。 正直この二人の談義の聞き役に取られる暇は今の土方にはない。 その苛立ちが普段は余程の事でもない限り表情の変わらぬ土方の面(おもて)に露に出たらしい。 「土方副長はこのような話がお気に召されぬようですな」 伊東が皮肉な薄い笑みを作った。 「気に入る、気に入らないと問われれば気に入らないと応える他ありませんな」 「歳っ」 大人げの無いあからさまな返答を、近藤が低い声で諌めた。 「あくまで問われて応えたまで。もしもこのように尽きぬ談義を続けられるのならば、少しばかり他に急ぐ用事があるので失礼をする」 土方の応えには遠慮の欠片もない。 伊東の顔が瞬時に強張った。 「土方副長もあちらこちらに気苦労の多いことで、いろいろと大変ですな」 「どういうことか?」 膝を立てて立ち上がりかけていた土方が伊東に向き直った。 「いや、他意はありません。今回の近藤先生を始めとする我々の下長の手配やらで、貴方一人に忙しい思いをさせてしまい申し訳ないと思っているのですよ。それだけではなく、沖田君もあのような状態で・・・ご心痛をお察しした次第です」 「沖田のことは貴方には関係がないと思うが」 思わずきつい口調になったのは、先日八郎から伊東の総司への態度を聞いていたからだ。 「これは失礼。お身内の心配にお節介な首を突っ込んでしまいました。が、沖田君のことは私も憂慮しているのですよ。何も若い命を殊更縮める生活をしなくてもと・・近藤先生は如何お考えでしょうか?」 矛先を近藤に向けながら、土方に少なからぬ攻撃を与えたことで伊東は満足していた。 「伊東さんの気持ちはありがたく頂戴するが、沖田のことについては私も考えている」 江戸に帰すつもりだと、伊東の前ではっきりと告げなかったのは、土方への近藤なりの配慮だった。 今はこれ以上土方を刺激したくはなかった。 「沖田は江戸には帰さない。要らぬ節介は礼も要らぬとおもうが」 近藤の気遣いすら意に介す風も無く、土方は立ちあがると横の伊東に一瞥もくれずに背を向けて出て行った。 「伊東さん、土方君も最近の多忙で疲れている。気を悪くしないでやってほしい」 「お気遣い無く。よく分かっています」 うっすらと笑った眸が、酷く冷たく鋭かった。 障子を開けると丁度こちらに身体を向けて横臥していた総司と目があった。 「どうだ?」 土方の問い掛けに総司は小さく頷いた。 「どうなのだ」 「大丈夫です」 応えて、寝込んでから翳を落とした頬に笑みを浮かべた。 あれから土方とは差し障りの無い会話しか交わしてはいない。 あのとき身体を辛く苛む底なしの闇から自分をひっぱりあげてくれたのは土方だった。 苦しいだけの眠りから覚めればそこにいつも土方がいた。 そうして自分は包み込まれるような安堵の中で、また眠りに落ちていった。 弱った身体は心まで弱くしてしまったのかもしれない。 いつか失う日を恐れてそれ以上の温もりを得ることを拒んでいた頑なな心が、今は少しだけ土方を恋しがる自分を許している。 「熱はひいたか?」 自然に頬に触れられる手にも逆らわず、総司はじっと土方を見ている。 「俺の顔に何か書いてあるのか?」 そんな総司の様子を見止めて土方が苦笑した。 「土方さん、伊東さんと何かがありましたか・・」 土方が近藤、伊東と今まで一緒にいたのは知っている。 さっきまで世話をしていてくれた者に、何気なく土方の事を聞いた時にそう教えてくれた。 「何も無い。が、どうしてそんなことを聞く」 「伊東さんと喧嘩した後は、土方さん、必ずそういう顔をする」 総司の声が笑っていた。 「生憎とおれは端(はな)からこういう顔だ」 苦々しげに言いながらも、以前と変わらぬ総司の屈託の無い笑い顔が土方の神経を癒した。 「やっぱり伊東さんと何かあったんだ」 「伊東に要らぬ世話を焼くなと脅しただけだ」 その時を思い出したのだろう。憮然と呟くと、心底面白くなさそうに少しばかり顔を横に向けた。 その土方の様子をしばらく可笑しそうに見上げていたが、ふいに総司の顔から笑みが消えた。 「何だ?」 「何でもない・・」 慌てて無理に作った笑い顔は、土方には容易に嘘のものと知れただろう。 だが総司にはこうして心を隠すのが精一杯だった。 何の前触れも無く咄嗟に浮かんだ懸念に動揺し、それを面に出してしまったのは、もしや土方と伊東の諍いの原因が自分にあるのではと思ったからだ。 それは勘と言うには生ぬるい鋭さを持って、総司の胸の裡を過ぎった。 昨日見舞いと称して来た伊東は、遠巻きに自分に新撰組を離れるようにと告げた。 伊東は今近藤の傍らにあって、その信頼が篤い。 今回の長下を決断するにあたっては、伊東の発言をそのまま採用したものが大半を占める。 土方は伊東を最初から嫌っている。 土方のなかで伊東に対してできる我慢の範囲はとっくに超えている。 総司だけが、そのいつ暴走するのか分からぬ土方の心を案じていた。 近藤も自分を江戸に帰そうとしている。 近藤と伊東、立場も思いも違うだろうが、だが同じ考えを持つものの間にあって、土方はきっと自分を庇ってくれたのだろう。 自分を江戸には帰さないと、土方はそう言ってくれたのかもしれない。 そしてその足で土方は自分の処にやって来た。 お前を江戸には帰しはしない、それを言葉にはせずに伝える為に此処に来た。 それはすでに確信として総司の胸にある。 申し訳なさと土方へのいとおしさが頬に触れる手の温もりに重なって、思わず瞼をきつく閉じた。 そうでもしなければ零れ落ちるものを堪えられなかった。 「どうした」 訝しげに問いかける土方の声音が優しい。 その声に励まされるように瞳を開いた。 「何でもありません」 微かに呟くように応えたのは、せめて声が震えてしまうのを隠すためだった。 まだ土方の温もりが頬にある。 おずおずとその手を自分の指で触れてみた。 土方は指を重ねられても、手をおいたまま動かない。 ただ黙って総司のされるがままになっている。 安堵と不安と、優しさと哀しさと、そんなものが一緒になって訳の分からない切なさにもう一度瞳を閉じた。 このまま眠ったふりをしなければ、弱気に傾く自分の心をもう止められないと思った。 伊庭八郎が改めて近藤勇を訪ねてきたのはその日の夕刻だった。 表向きの名目は近藤の旅立ちへの挨拶というものだった。 型通りの挨拶を終えると、八郎は改めて近藤を見た。 「先日は途中になってしまいましたが、総司を江戸に帰すという話」 「あれきりになってしまっていたな」 近藤は僅か数日前、上七軒で八郎と共に盃をかわしていた時の会話を思い出した。 その時確かに八郎は己の意思として、総司を江戸に連れてかえりたいと、そう近藤に明確な表示をした。 それをどこか釈然としない思いで聞いていた自分だった。 「あの時は多少の時が必要だといいましたが、気持ちが変わりました」 「変わったとは一体誰の気持ちを言うのか・・」 「俺のです」 「君の気持ちが変わったとはいえ、総司が納得するかどうか」 近藤は八郎の強引とも言える言葉に、流石に気色ばんだ。 総司を江戸に帰すと言ったのは確かに自分だ。だがそれを他人に押し切られるのは己の中の何かが許せなかった。 「総司はあくまで帰らぬと言い張りました」 「そのことを総司に伝えたのか」 近藤の声が我知らず大きくなった。 元はといえば自分が決めたことだ。だからそれが勝手な言い分だということは、重々分かってはいる。 それでも今近藤は自分の知らないところで総司に江戸に帰れと伝えた八郎に、強い苛立ちを覚えずにはいられなかった。 「近藤さん」 そんな近藤の胸の裡を見据えるように、八郎が静かに口を開いた。 「あなたも分かっているはずだ。総司がどんな状態で新撰組にいるのか。確かに俺はあの時、説得に要する時が必要だといった。それは仕方が無いことだとも。だが床に伏せる総司を見て、俺は最早一刻の猶予もならないと知った」 近藤は腕を組んで目を閉じた。 「総司にはもう待つ余裕など無いのです」 初めて八郎の声から冷静さが消えた。 八郎の必死に促されるように、近藤は閉じていた目を開け、一点を睨むように宙を見た。 説く者と、説かれる者の沈黙は、互いに譲れぬ声なき力の折衝だった。 その均衡を破ったのは近藤だった。 「総司には俺から伝える」 まるでそこにある全てを圧するような、有無を言わせぬ強く短いひと言だった。 薄い行灯の灯りの中で床の上に端座し、遂に来たこの時を迎えるかのように、身じろぎもしないで総司は入って来た近藤を凝視した。 「何だ。休んでいろ」 近藤の労りに微かに首を振るだけで、総司は応えた。 「身体は辛くはないか?」 「もう何ともありません。それに・・・」 「それに?」 昔変わらず穏やかな近藤の眼差しに合えば、固く決めた決意が脆く崩れそうだった。 それを振り切るように、総司は近藤を真正面から見た。 「それに近藤先生のお話は横になって聞く事ではないのでしょう?」 近藤を捕らえた総司の瞳が、すべてを承知してその上で隠し事はするなと言っている。 精一杯の構えを作って平静を装いながら、その実裡(うち)で張り詰めた琴線のように、あらゆる神経を今自分が告げるひと言に集中させている総司に、近藤の胸に哀れさでいたたまれぬ思いが走った。 「先に伊庭君が話してしまったようだな」 「近藤先生も同じお考えなのでしょう?」 「違うと言ってはお前に偽りを言う事になる。・・・確かに俺はお前に江戸に帰れと、今言いに来た」 総司の面に俄かに緊張の色が走った。 「私は江戸には帰りません」 ずっとそのひと言を近藤に告げる為だけに、総司は待っていたのだろう。 近藤の耳にいつもより硬く低い総司の声音が、重く響いた。 「お前を待っている人達が江戸にいる。俺はその人達に悲しい思いをさせたくはない」 「姉のことなら必ず自分で説得します」 「いや、それだけではない。俺はお前に少しも長く傍に居て欲しい。たとえそれが京と江戸で離れた場所であっても、息災でいるのなら、俺はいつもお前が同じ天道の下にいるのだと安堵することができる」 静かにだが強く諭すような近藤の声が、段々と遠くに聞こえる。 覚悟はしていたはずだった。 どんな形で説得させられようと、堅く首を縦には振るまいとそれだけを言い聞かせてきた。 だが喉元に突きつけられた近藤の言葉に、自分はかくも動揺を隠せない。 江戸になど決して帰りはしない。 土方の傍らを離れるのならば、もうこの身など要らない。 「江戸に戻るのならば・・・」 後の言葉は続かなかった。 張り詰めていた糸が少しずつ外から綻びて行く。 自分は今どんな顔をしているのだろう。 近藤の眸が映し出す自分は置き忘れたように顔が無い。 「お前にまだ決心がつかぬことは良く分かる。しかしたとえそれが一時の差でもいい。俺はお前に少しでも長く生きて欲しい」 近藤の声は次第に懇願するように必死なものになってきた。 だが全ての思考が止まったように、ただ視線を合わせるだけの総司には、その口がからくり人形の様に動くだけで、すでに何も耳には届いていない。 「・・・総司聞いているのか?」 あまりに反応の無い様子を訝って近藤が言葉を止めた。 「具合の良くないお前に急にこんな事を話した俺も悪かった。だが俺の気持ちは言ったとおりだ」 それでも総司は応えない。 ただ近藤を映す黒曜の瞳にいつもある生彩は、今はどこにも見当たらなかった。 「今日はもう休むがいい。お前がもう少し良くなったらまた話そう」 諦めたように、近藤が深い息をひとつ吐いて立ち上がった。 室を出る前に一度足を止めて振り返り総司を見たが、動かぬその姿に遣る瀬無い思いで廊下に出ると、音を立てるのを憚るように静かに障子を閉めた。 行灯の灯だけが頼りの暗い室にひとり残されて、総司は先ほどから微かにも動かない。 自分は江戸に戻されるのだ。 土方の傍を離れてしまう・・・・ 「・・・いやだ」 頬を冷たいものがひとつ零れ落ちた。 「いやだ・・・離れない」 今この息を止めれば自分はずっと土方の傍らを離れずにいられる・・・ それは陶酔にも似て包み込むように突然に押し寄せた感情だった。 死は今、総司を甘美な誘惑で捉えた。 「・・・離れない」 それが最初からの決まりごとだったとでも言うように、夜具の横にあった脇差をゆっくりと引き寄せた。 鞘を抜いた刃は薄い闇の中で鈍い銀色の光を放った。 右手に握っていた柄を逆手に持ち替えて左の手をそれに添えた。 強く目を瞑った瞬間心に弛(たゆ)みなく張られていた糸が、鋭い音を立てて切れた。 それが切欠のように、掴んだままの勢いで脇差を腹に突き立てようと前かがみに腰を浮かせた。 「総司っ」 一瞬の間に身体が横に飛ばされると、どこかに叩きつけられた。 柄を固く握った手首を強く叩(はた)かれ、開いた指から脇差しが落ちた。 きっと痛みはあったのだろうが、それすらもすでに意識の外において、総司の瞳に生きている者の色は無かった。 「馬鹿者っ」 乱暴に身体を起こされた。 その衝撃でやっと自分はここで果てることが出来なかったのだと、おぼろげに知った。 「馬鹿者」 ぼんやりと怒声のする方に瞳を向けると、見たことの無い近藤の憤怒の形相がそこにあった。 その眦(まなじり)に滲むものがあり、やがて滾(たぎ)つように頬に流れ出した。 近藤が泣いている・・・ まだ現に戻れない心は、それを不思議に瞳に映す。 「馬鹿者が・・」 両の腕を掴まれて揺すられながら、近藤の憤りと哀しみが、籠める力の強さから総司の身に直截に伝わってくる。 いつの間にか自分の頬にも流れるものがあることに気付いた。 近藤の顔が滲んで見えない。 初めて嗚咽が漏れた。 裏文庫琥珀 玉響四十弐 |