玉 響   四十弐






「お前には残される者の心がわからんのか」

近藤の声は次第に落ち着きを取り戻してはいたが、まだ低く搾り出すように苦しげだった。
まるでここで緩めてしまったら、この者がどこかに行ってしまうのではないかと危惧するように、総司の両の腕をつかんだ手に力を強く込めて離さない。

「総司、応えろ」
強く応(いら)えを求めるのは、まだ総司の瞳が現にある色を取り戻さないからだ。
瞳を見開いたまま、総司はただ頬に冷たいものを流しつづけている。
そこに心は無かった。


「お前が愚かな結論を急いで得るものは一体何だ。誰がそれを喜ぶ。残された人間はどんなに苦しい日々を送らねばならぬか、何故お前にはそれが分からぬ」

どんな言葉でもよかった。総司の心を今この世に引き戻す為に、近藤は肩を揺さぶり語りつづける。

「お前が死んでしまったら俺も、歳も、お光さんも・・・いや、お前に少しでも係わりのあった人間は折に触れてお前を思い出す。その時に一体どれほど辛い思いをするか・・」


「・・・ひじかた・・さん」

それは呟きというにも遥かに遠く、あるいは唇だけが動いたのを、近藤の必死が見止めたのかもしれなかった。
だが近藤はその微かな変化を見逃しはしなかった。

「そうだ、歳だ。歳はお前が傍にいて支えてやらねば駄目なのだ。それが分からぬお前ではなかろう」

昔から土方は総司にだけは素の顔を見せてきたのを、近藤は知っている。
総司もまた幼少の頃から大人ばかりの環境で育ち、ともすれば内に秘めてしまう本当の心裡を土方には隠そうとしなかったことも、長い年月の中で自然に承知していた。

思えば血につながる兄弟というよりも、更にもうひとつ深い絆で結ばれていた二人だった。
それをどんな言葉で表せばよいのか分からぬが、敢えて言うならば二人で一人であるような、そんな思いをずっと近藤に抱かせていた。
現実に土方という言葉に、総司の心は辛うじて反応を示した。



「もう・・土方さんとは・・・」
まだ半ば余所に在る魂のまま、いま少しはっきりと総司の唇が形を作った。
「歳とは、もうどうした?」
総司の身体を拘束していた力を幾分緩めて、近藤は根気良く問う。

「土方さんとは・・・一緒にいられない。・・でも・・」
「でも?」

初めて総司の瞳が僅かに光を宿して、近藤を捉えた。

「・・・でも、離れられない」
ひとつ、また蒼白な頬を新たに零れ落ちるものがあった。
それはつい今しがたまで流れていたものとは違い、総司の哀しい心が噎(む)せばせた熱い雫の様に近藤には思えた。

「離れなければいい。ずっと歳の傍にいればいい」
近藤の諭すような口調に、総司は微かに首を振った。
離れていた魂はいつのまにか戻ってきたようだった。

「・・・傍にいたら邪魔をしてしまう」
「何故?」
強く問う声に、総司は沈黙した。

「どうして邪魔などと言えるのだ。誰が邪魔などと言うのだ、総司」
黒曜の瞳は濡れて近藤を映していたが、奥深くには微弱ながらも生きている者の意志の色が湛えられた。
その瞳を揺るがせず、再び小さく総司は首を振った。


「・・・自分が、一番情けないのです」

理由(わけ)を近藤に語ることは決してできなかった。
例え修羅に落とされようが、地獄の熾き火に焚かれようが、どんな呻吟の中にあってもこのことだけは誰にも知られることは許されなかった。



「・・・すみません。取り乱しました」
先ほどよりはずっと確かな声で言って、近藤を見た顔にぎこちない笑みを浮かべた。

それがひどく悄然と物哀しく、思わず近藤は総司の腕をつかんだままにしていた手に力を込めた。







明け方から降り始めた雨は午後になっても降りやまず、ここ暫く慌しかった屯所内も今日はひっそりと静まり、さながら秋霖(しゅうりん)の様相を呈して来た。

中庭に音も無くしめやかに落ちては消える雫を、見るとも無しに視界の端に入れながら、土方は先ほどから近藤の言葉を繰り返し己に反問している。



総司に江戸に戻るように告げたと聞かされた時、思わず近藤の胸倉につかみかかった自分だった。
長州に下る前に総司の身の在り方を決めて安堵しておきたいという逸る気持ちも分からぬではなかったが、あまりに早すぎた近藤の決断だった。

近藤と総司と、二人の間でどのような会話がなされたのかは定かでない。
近藤は多くを語らなかった。
ただ近藤自身も、今はその時期が早すぎたと悔やんでいた。

苦渋に満ちた面持のままひと言、近藤は総司は自分の邪魔をしてしまうと言ったと漏らした。
それこそが、今総司を追い詰めている原因だろう。


総司の何が自分の邪魔をするというのか、どうしてそのような結果に行き着くのか・・・
やっと見えた光の糸はかくも細く儚い。
だがもうそれを見失う訳にはゆかなかった。
一度はどれ程時が掛かっても待つと決めた身だが、すでに悠長に構えていられる余裕はなくなってきている。
近藤が全てを悟らぬ前に、事がこれ以上進まぬ内に、総司の胸にある枷(かせ)を取り外してやらねばならない。
それができるのは自分だけなのだ。


土方は険しい先を睨むように、煙る如く降る雨の向こうを見据えた。







隙間無くぴたりと閉じられた障子の向こうは雨の景色らしい。
それすらも心の外において、総司は仰臥して天井の木目をただ見ている。
昨夜近藤にさらしてしまった醜態は、はからずも己の真実を自分自身に突きつけた形になってしまった。


土方の重荷にだけはなりたくないと、離れる決意をした。
だがいざ近藤に江戸に帰れと言われれば、命を賭して否と首を振り続けた。
土方から離れなければならないと誓った自分と、決して離れたくは無いと望む自分と、せめぎあう思いで心も身体も粉々に砕け散りそうだった。


それでも離れたくは無いと願う自分が何よりも勝る。
土方の足を引っ張りたく無いと奇麗事を言う自分は嘘だ。
土方を失う事に怯えて、その恐怖から逃げ出したかっただけだ。

いっときでも長く土方の傍に居たい。誰よりも近くに居たい。
誰にも渡したくは無い。
土方の眸が映すのは他の誰であっても嫌だ。
この強欲で醜い心の持ち主こそが、本当の自分だ。

もう目を逸らすことはできない。
本当の心を偽り続けることも出来ない。

静かに瞳を閉じると、土むくれになったものが、その眦から溢れて零れ落ちた。




ふいに白い障子に人の影が動いて、総司は思わず身を強張らせた。
今土方には会いたくなかった。
その姿を見れば、今度こそ自分の心を止められない。
心の臓が早鐘のように高鳴った。



「沖田さん」

室の中にある者の眠りを妨げはしないかと、密やかな声の主は山崎だった。
それを聞いて全身が弛緩するのと一緒に、深い吐息が漏れた。

「山崎さんですか・・?」
「目が覚めてお出ででしょうか?」
「眠ってはいません。どうぞ、入って下さい」
促さなければきっと入ってはこないだろう山崎に、総司は自分から声を掛けた。

山崎は音も無く障子を開けると、そのままの流れのように静かに室に入って来た。
が、身体を起こそうとした総司を見ると両の手で止めた。

「まだ無理をなさってはいけません」
「もう大丈夫です。みんな大袈裟だから・・」
それが精一杯の強がりだと、むしろ相手に痛々しく思わせる笑みを浮かべて、総司は止める手を制して上半身を起こした。





総司が血を吐いて倒れたとき、山崎もまたその場に駆けつけた。
土方の腕の中で頬も唇も、白蝋のように血の色を無くし、もしかしたら息すらしてはいないのではと一瞬懐疑した山崎だった。
だがそれにもまして常に静かな水の如きに冷静なこの男を驚かせたのは、土方の尋常あらざる狼狽ぶりだった。

土方は総司の身を揺すって、その名を叫んだわけではない。
ひと言も発せず意識無い総司を腕の中に抱きこんで、身じろぎもしなかった。
ただその面(おもて)は壮絶なまでに蒼ざめ、土方その人に計り知れない衝撃を与えていた。

或いは・・・・
その時に山崎に芽生えた疑点は、時が経つにつれ確信に変わっていった。




「山崎さん、忙しいのに・・・何か御用ですか?」
総司の瞳には邪念が無い。
土方の右腕となって多忙な山崎が自分の所に来るのには何かあるのかと、むしろ不安げに揺れている。

「いえ、ただの見舞いです」
総司の懸念を安堵させてやるように、山崎は穏やかに笑った。
「山崎さんが?」
「私ではおかしいですか?」
問い掛けに、総司は慌てて首を振った。
その自然な仕草に、今度は少し声を漏らして山崎は笑った。
総司に応えた言葉の半分は本当、半分は嘘だった。




山崎は外部の探索の他に、新撰組内部の人の動きをもまた探っている。
それはとりもなおさず土方からの篤い信頼による。
幕閣に対等に抗しうる強靭な組織を造り上げる、土方は今全力を傾けてそれに没頭している。
その為には内からの亀裂による崩壊は、最も危惧するところであった。
そして今はその疑惑は専(もっぱ)ら伊東の周辺にあることが多い。

伊東の行動に気を巡らせている山崎にしてみれば、最近ではあからさまな攻撃を受けている総司にも目が行くのは自然なことだった。

その続きで昨夜も総司の室の辺りを回って行こうとして、聞くともなしに聞いてしまったのは、近藤とのあまりに心痛な会話だった。




「・・・すみません。ただ」
総司の顔に悪戯そうな笑みが浮かんだ。
「ただ?」
促しても、総司はそこで言葉を止めたまま黙っている。
それは先に繋げる言葉の中にその人の名を紡ぐのを、躊躇っているかのように山崎には思えた。

「今日は土方副長とは何の関係もないのです」
自ら土方の名を出してやると、総司は驚いたように一瞬瞳を瞠った。

「私が沖田さんを見舞いたかったから来ただけなのです」
「それは・・・申し訳の無いことを」
明らかにうろたえて、それを必死に隠そうとしている総司に山崎の目が和んだ。

「何を謝まっておられるのです」
「だって、山崎さんは近藤先生と一緒に長州に発たれる準備で今は私のところに見舞いになど来て貰う暇など無いのに・・」
詫びる声は心底すまないと思う心を映して、至極小さなものだった。

「だからこそ、こうして来ました」
「・・・え?」
総司の瞳が不審気に揺れた。

「沖田さんにはもうすでにお分かりかと思いますが、土方副長はこの度の近藤先生の長下を大変ご心配されております。敵方の中に身を置くという事自体が大変な危険の上に、その周りを囲む味方はまだ副長の信頼を得てはいない人間ばかりです」

流石に山崎は伊東について、土方の心裡にある不信感をそんな控えめな言葉で表現した。

「私と吉村、それと伝吉を近藤先生につけたのは、その身をお守りせよとの副長のご意志です」
総司は山崎の言葉を瞬きもせずに聞き入っている。

「私はどんなことをしても局長をお守りします。これだけは約束をします。今日は沖田さんにそれを伝えに来ました」

珍しくもこんな気遣いを他人にするのは、到底知られたくはなかったであろう総司の昨夜の姿を、偶然とはいえ垣間見てしまった事へのせめてもの償いなのかもしれないと、山崎はそんな風に己を納得させていた。



どんな事態に陥ろうが決して顔色ひとつ変えずに物事を殊能に処理してゆく山崎という人間の、総司にとって初めて聞く熱い感情の篭もった言葉だった。


暫し沈黙して山崎を見つめていたが、やがて総司は静かに頭(こうべ)を下げた。

「どうか、近藤先生を宜しくお願いします」
今己の全身全霊を投げ打っても、近藤の身柄の安全をこの山崎に縋ってみたかった。
身じろぎもせず、深く下げた頭を上げようとしない総司の肩に、山崎が遠慮がちに触れた。

「顔を上げて下さい。私は仕事をしに行くのです」
肩に置かれた手に促されるように、総司は山崎を見た。
「そんなに沖田さんに頭を下げて頂いたら罰があたります。私にはこういう形でしか局長や副長のお役に立つことができません」
山崎の声が微かな笑いを含んでいた。


「そんなことはない」
自分でも驚く程に激しい調子で咄嗟に反発したのは、その声音の中に山崎という男が己自身に持っている自嘲を感じたからだった。

「山崎さんがいなければ近藤先生は誰にも守れない。土方さんにもそれはできない。・・・私こそが何も出来ない人間なのです」
言葉の最後は総司の、自分への嘲りを込めるように小さく消えた。

「沖田さん」
それは伏せかけた瞳を思わず上げてしまうほど、強い響きだった。
山崎はそんな総司を咎めるように見据えていた。
先ほどまでの穏やかな眼差しはどこにもなかった。


「貴方は何か勘違いをしておられる」
「・・・勘違い?」
「私は何も知りません。また知ろうとも思いません。ただ一度だけ私の戯言を聞き流して頂けるのならば、貴方に言っておきたいことがあります」

常ならぬ山崎の態度に総司は何と応えてよいものか、ただ沈黙の中にいる。

「貴方は先程ご自分が何もできない人間だと言われた」
「・・・何もできません」
「そうでしょうか」
山崎の双眸は総司を射抜くように鋭い。

「少なくとも貴方が傍らに居なければ、この先生きて屍になる人間を私は一人知っています」

瞬間、総司が弾かれたように山崎を見た。

「そうです。土方副長です」
「・・・何を」
総司の声が無残に震えた。
それを痛ましいとは思いながらも、山崎は敢えて見ぬ振りを決めた。

「先に言った筈です。私は何も知らなければ、知る必要も無いと。だから一度だけ口にしてみました」

山崎を凝視する総司の瞳が、何かに怯えるように見開かれている。
きっとこの若者は土方との秘め事を誰かに知られるのを極端に恐れているのだろう。
それはとりもなおさず土方その人の為と信じている。
今山崎の目に映る総司はあまりに脆い。


「土方副長の邪魔をする、貴方は確か近藤先生に昨夜そう言っておられました」
「山崎さんっ」
短く発した声はすでに悲鳴だった。

「だが邪魔をしているのは、貴方のその心です」
凍てついたように動かぬ総司を無視して、山崎の語る言葉は反論を許さぬ厳しさがあった。

「私が言っていることは或いは間違っているのかもしれない。が、それでも貴方がいなければ土方副長は人の形(なり)をした傀儡になってしまうことは私にも分かります。
人がこの世に生まれるのは、何かひとつ仕事をなせと天が遣わす為です。人には為さねばならぬこの世での使命があるのです。土方副長には貴方が必要なのです。
だから貴方の中で何が副長の邪魔をすると言うのかと問われれば、副長から離れようとする貴方自身のその心だと答える他ないのです」
山崎の眼光の厳しさは消えずにいたが、声音は諭すように静かだった。

「どうか土方副長の傍らにいて差し上げて下さい。あの方が唯一欲し求めているのは貴方だけなのです」



蒼い顔のままただ自分を見る総司の心が、今何を思っているのか山崎には分からない。

ここまで深く立ち入ってしまうつもりは無かった。
が、気づけば自分でも呆れるほど強くこの若者に説いていた。
それはもしかしたら先ほど己への自嘲を本気で憤ってくれたこの若者の、真摯な瞳に捉われたせいなのかもしれない。

らしくもない・・・
そんな似合わぬ感傷を、山崎は胸の内で打ち捨てた。




「つまらぬ話をしてしまいました。どうかお休み下さい」
物言わずそれでも視線を逸らせず自分を見つめるだけの総司に、もう一度静かに頭を下げると、山崎は衣擦れの音のひとつもさせずに立ち上がった。

そのまま室を出ようと障子の桟に手を掛けた時、

「・・・山崎さん」
呼び止められて振り向いた先に、自分を見上げる総司の瞳があった。

何かを言たげにしながら、総司は躊躇っているようだった。
それを山崎は促しもせずに辛抱強く待った。


「近藤先生をお願いします」

やっと紡いだ言葉は、本当に告げたかったものではないのだろう。
黒曜に似た深い色の瞳は、その奥に揺れるものを隠せない。

「承知しました」
敢えてそれには触れず、山崎は深く頷いて室を後にした。







降り続いていたものは、いつのまにか季節の変わりを告げるかのような氷雨になっていた。

総司は本当は自分に何を告げたかったのだろう。
廊下を渡りながら、そんな思いに一時捉われた自分が不思議だった。
が、今はもうそれも思案の外にしなければならなかった。

近藤に従って敵方に下り、味方からすらその身を守らねばならぬ。
自分はあの若者に確かにそう約束した。



風が出てきたのか雨の吹き込む向きが変わった。


地を潤す雨水も吹く風に乱れる。
今は千々に揺れる総司の心も、どんな風雨でも必ずいつかは鎮まるように安らぎを得られれば良いと思った。
それが一日でも早く来て欲しいと願う自分は、どうやら本当に今日はおかしいらしい。
その不思議を何故か不快とも思えず、今度こそ山崎は苦笑した。







一人聞く雨の音が先ほどよりも強くなり、風が雨戸を叩く音が激しくなった。

それは今の自分と似ていると総司には思えた。
向き合と決めた心は或いはこの先、時に己の目を背けたくなる程に醜状なものだろう。
だがそれも自分の真実とあれば、見ぬふりをする訳にはゆかないのだ。



「・・・離れない」

雨の音に混じるように漏れた言葉は、小さいながらも決して危うい響きではなかった。



「離れない」

呟きは、もう戸に吹きつける風の音にも負けぬ強いものだった。










       裏文庫琥珀     玉響 四十参