玉 響 四十参 伊庭八郎が総司の病室に案内されて行くと、先日来た時は真中に延べられていた夜具が片付けられ、主の居ない室はひっそりと静まりかえっていた。 「本人はどこに行っちまったんだえ?」 「・・・先ほどまでは確かに」 八郎を案内して来た若い隊士は、まるでそれが自分の失態のように顔を青くしている。 大方土方から総司の看護をも言い渡されていたのだろう。 「あんたが総司の姿を見たのはいつだ?」 そんな様子を些か気の毒にも思いもしたが、八郎もつい問い詰めるような口調になる。 「朝の食事をお持ちした時には確かに・・・」 「それはどの位前の話だ?」 「四半刻も経ってはいないと・・・」 「それじゃあまだ屯所の中にいるかもしれないな」 八郎の思案に付き合っている間にも、総司を探しに行きたいのか横の男は落ち着かない。 「いいよ、俺は勝手に待つ。あんたは総司を探しに行ってくれ。見つけたらここへ連れてきてくれればいい」 「申し訳ありません」 謝りながらも、大柄な体はすでに半分は背を向けようとしていた。 慌てて駆けて行く後姿が廊下の曲がり角に消えるのを見届けると、八郎はようやく室に足を踏み入れた。 この室はもともとが総司の自室ではない。 病を癒すのに日々の騒音は身体に障るだろうと、客間に使用していた奥まった一室を急遽病室にあてがわれたものだった。 そのことを総司は酷く気にしていた。 夜具の中で居心地が悪そうに、そんなことを言っていたのを八郎は思い出した。 「さて、どこに行っちまったものか」 ふと見た違い棚の立派な床の間にある刀掛けに、大刀がそのままあるのに気付いた。 「屯所の中にいそうだな・・」 独り呟きながら、どこか安堵したものがあった。 この分なら案外にすぐに戻るかもしれぬとも思われたが、それでも八郎は一人待っている気にもならずそのまま踵を返して又室を出た。 どこを探すというあても無かった。 実際この西本願寺に間借りしている新撰組の屯所の中がどうなっているのか、八郎には見当がつかない。 それでも総司の姿を見なければ、どうにも不安になる己の弱気を八郎は自嘲して笑った。 「・・・情けないものだな」 どこからどこまでが屯所内なのか分からず、気付いた時には西本願寺の境内に出ていたらしい。遠くから読経の声が綿々と聞こえてくる。 秋の陽が朱に色づいた楓の葉の隙間から零れて、地に光と影の文様を作っている。 その綾なす妙に思わず足を止めて見入った時に、更にその先にやはり同じように楓の木の下に立ちすくんで天を仰いでいる人影を認めた。 その姿は確かに違えるはずの無いものだった。 「総司」 歩み寄りながら声を掛けると、まるで呼びかけられるのを知っていたかのように、少しの躊躇いも無く総司が振り返った。 「お前が居なくなって肝を冷やしていたぜ。俺を案内してくれた奴」 「・・・すみません。すぐに戻るつもりだったから」 自分に笑いかけた総司の面に葉の影が映り、明るい色に覆われた中でそこだけが蒼く澄んでいるように八郎には思えた。 「勝手に起き出したら又煩い人がいるだろう」 「もう治った」 八郎の問い掛けが土方を指しているのは百も承知だったが、総司は敢えてそれには触れずに言葉を返した。 「治ったかどうかは医者が決めることだろう。大体お前の大丈夫と治った程あてにならないものはない」 「本人が言うことが一番当たっているのに」 八郎のうんざりとした口調に総司が笑い出した。 「お前は本当を言った試しが無い」 「そうかな」 「そうだ」 八郎の断言するような強い物言いは、故意か偶然かそれまで穏やかに交わされていた会話の流れを変えるものだった。 暫し沈黙の中で、総司の黒曜の瞳が静かに八郎を捉えていた。 「江戸には戻らないと言ったのは本当だ」 やがてそこに触れなければならないのだろうと覚悟していたことを、一瞬面輪(おもわ)を曇らせ総司は八郎に告げた。 「分かっている。それだけは間違いはなさそうだな」 返す八郎にも構えは無い。 「が、俺がお前を連れて帰ると言った言葉も又本当だ」 微かに起こった風が、二人の遥か頭上の枝の先だけを騒がせた。 黙ったまま八郎を見つめていた総司が、ふいにその葉擦れの音のする方を見上げた。 「八郎さんと初めて会ったとき・・・」 見上げた顔をそのままに、八郎を見ないで総司が呟いた。 「丁度こんな大きな木の下で・・」 「暑い日だったな」 突然総司が何を言い出したのかと訝しむ思惑の中にあって、それでも八郎の応えは自然だった。 それはすでに戻ることは出来ない過去への追慕がさせた、郷愁にも似た心の有り様が為せる技だったのかもしれない。 「お前は木の下でぐったりしていたよ」 「あの時も八郎さんに助けてもらった」 遠くにやっていた視線を八郎に戻して、総司が微かに笑った。 「八郎さんにはいつも助けてもらってばかりいる」 八郎と出会ったのはまだほんの数年前だ。 蕩蕩(とうとう)と流れ続ける刻(とき)を思えば、それは大したものではない。 だが後ろを振り向き手をのばせば容易くつかめてしまいそうな距離にありながら、過ぎてしまえば二度とそこには戻れない。 「あの時、奉納試合に出ると言った私を八郎さんが怒った」 「おまえは小さいくせに気が強かったな」 「ひとつしか違わないのに」 不服を言う声には、どこか昔を懐古する響きが含まれていた。 「おかしな奴だと思った。だがきっと俺はあの出会いから、ずっとお前に惚れているのだろうな」 総司の瞳は、ただ八郎を見ている。 それはどう応えを返して良いのか分からぬ風でもあり、それ以上の八郎の言葉を拒む風でもあった。 「だから俺はお前を江戸に連れて帰りたい。いや、帰ると決めた」 滾る想いの言葉を語る八郎の声には、弛(たゆ)む事ない強靭な意志が篭められていた。 「・・・奉納試合に出ると強情を張った時、それは近藤先生や土方さんの為だった」 そんな八郎から視線を逸らさず、総司は再び別の言葉で応えた。 折から射しこんだ陽が総司の面に光の線を走らせた。 一瞬眩しそうにしてそれをやり過ごしたが、それでも瞳は八郎を見つめて動かない。 「少しでも、近藤先生や土方さんの役に立ちたいと、そればかりを願ってきた。けれど今は・・・」 「・・今は?」 その応えが今己が望む事とは違うものと承知で、八郎は自分を捉える黒曜の瞳に問いかけた。 「今は自分の為に土方さんの傍らにいたい」 言葉は一度の淀みもなく、ひとつひとつをまるで己自身に刻み込むかのように、総司の唇から紡がれた。 その姿を八郎は暫し黙ってみていたが、やがて見上げた蒼天に楓の朱が鮮やかに浮き出ていた。 総司はこのひと言を他人に告げる為に、一体どれ程の月日を過ごしてきたのだろう。 目の前の想い人は日裏に咲く花のように、いつも自分の思いを押し殺して生きてきた。 それは見るものにひどく頼りなげに映つりはするが、決して弱々しく儚い花ではなかった。 逆巻くような苛烈な思いを内に抱きながら、常にそれをひっそりと封じ込めていた。 「お前がお前自身の為に土方さんの傍らにいたいのは分かった」 過ぎ行く刻(とき)を惜しむかのようにゆっくりと天にやっていた視線を戻して、総司を見た八郎の双眸にあるのは静かに沁み入るような深い色だった。 「だが俺も俺自身の為にお前が欲しい」 「もしも・・・」 今自分に向かって紡がれようとしている総司の応えが、己の言葉を拒むものだとは知りすぎる程に知りながら、それでも八郎はその先を待った。 「もしも八郎さんの命を救う為に、この身を投げ出せと言われたら喜んでそうする。そうすることがで八郎さんの役に立てるのならば何も惜しくはない」 「俺は迷惑だぜ」 いつもと変わらぬ八郎の口調に、総司が少しだけ笑みを浮かべた。 が、ほんの一瞬のことで、次に語らねばならない言葉の為にすぐにそれは消された。 「けれど心だけは土方さんのものだ」 心の臓の音が少しだけ大きく鳴っている。 告げるのに、ためらってはいけないと思った。 自分を想ってくれる八郎に、今の言葉は紛れも無い真実だ。 もしも八郎の身に災いが起こりその為に我が身が必要ならば、自分は何の躊躇もなくそうするだろう。 それ程大切な人だからこそ、土方一人を想う自分を甘やかせる訳にはゆかなかった。 「お前と会ったあの初めての時にな・・・」 風に揺れた葉が幾らか重なって、八郎の足元に落ちていた光の明と暗との具合が僅かにその様を変えた。 「俺はお前においてゆかれた」 「・・・おいてゆく?」 八郎の言葉に総司が不思議そうに聞き返した。 「お前はさんざん介抱してやった俺を木の下に残して、どんどん土方さんの後にくっついて行っちまった」 恨み言を言っているはずの八郎の声が笑いを含んでいた。 「薄情な奴だと思ったさ」 総司は黒曜石の深い色に似た瞳を、微かにも逸らせず八郎を見つめている。 「・・また」 八郎の双眸が少しだけ細められた。 「お前は俺をおいて歩き始めたらしいな」 その行く先が何処だとは、そしてそれを導く背が誰のものだとも八郎は言わなかった。 言わずと知れる。総司が行く先も、ついてゆく背が誰のものかも知っている。 それを敢えて口にしないのは、土方に対するせめてもの己の狭い矜持かと胸の裡で自嘲した。 「が、今度は俺もおいてきぼりを食らうつもりはない」 微かに総司の瞳が揺らいだ。 「俺はとことんまで自分の本当に付き合うと決めたと言ったはずだ」 「私は八郎さんに応えることはできない」 「お前が応えられないのならば、俺が応えさせる」 沈黙の中で、時折葉末から斜光が射す。 それは曲がることを知らず、地に着いて四方に広がる。 零れては散り、再び天に昇ることはできない。 それでも絶え間なく降りそそぎ、人の世の輪廻のように止むことを知らない。 「江戸には帰らない」 「分かっている」 「土方さんの傍を離れない」 「知っている」 総司の応えを薄情なものだとは思わない。言わせているのは自分だ。 むしろ告げる総司の苦しみが、瞳の奥に絶望に似た哀しい色を湛えさせている。 このまま自分を拒む言葉を紡ぎ続けさせれば、総司の心はぎやまんが割れるように鋭い欠片となって砕け散りそうだった。 それ程に今八郎を見る総司の面は、極限にまで張りつめられた糸のように、脆く硬質なものだった。 「土方さんと離れるのなら、この身などいらない」 それが最後の意志の表れのように、総司の声音が少しだけ強張った。 「決めているのか」 「最初からそう決まっていた」 ようやく浮かべた笑みには、先ほどまで総司の瞳にあった危うい色はなく、いつの間にか清冽なまでの潔ぎよい強さがあった。 そんな想い人の姿を、八郎は吐息ひとつ漏らさず息を詰めるようにして見つめている。 初めて会った時に己の胸に焼き付けられた総司は、常に相反する二つのものをその内に秘めていた。 脆弱な肉体とそれを凌ぐ強い精神と、危うげに揺れる心とそれに勝る激しい心と、そして自分は常にその両方に惹かれていた。 日陰の花は今自分の視界にある天をも紅に染る葉のように、その存在を主張するものではない。 人の目に触れることすら憚るように、そこに咲く。 だが意のままに摘み取ろうとすれば、例えそれがか細い根でも地から離れるのを拒んで力の限り抗らう。 頭上の葉裏の色を映して、いつもは透けるかと思うほどに蒼白い総司の面が、少しだけ朱に彩られた。 花は己の意思で咲き、そして散る。 手折ることは容易い。だがその理(ことわり)までをも変えることはできない。 総司の黒曜の瞳は今瞬きもせずに自分を捉えて放さない。 初めての邂逅の時から自分はこの瞳に囚われ続けている。 「それでも俺はお前を追ってゆくだろう」 八郎の言葉に、総司の瞳がまたひとつ深い翳を落とした。 それはその心に自分が応えることの出来ない、総司の深い哀しさと苦しさのように八郎には思えた。 そんな人間を己の想いの果てるまで追い詰めるようとしている自分は、きっと残酷な人間なのだろう。 それでも総司が土方の傍らを離れないと、その生を削ってまで望むのと同じに、自分もこの想い人を求める心を最早止めることはできない。 「俺はきっとあの時のように、土方さんの背を追うお前を追うだろう」 熱のある身体を無理矢理起こして、総司は覚束かぬ足取りで土方の背を追って行った。 土方は必ず着いてくると信じて一度も後ろの少年を振り返らなかった。 総司の頼りない背が己の目に小さくなってゆくのに耐えられず、その姿を追うように駆け出したのは自分だ。 あの少年の日の夏の烈日が焼き付けた情景は、少しも色褪せる事無く、むしろ時と共に鮮やかに八郎の胸にある。 「追い続けるだろうよ」 呟きは自分自身に言い聞かせるものだったのか・・・ すでに己の魂は、幸いも辛いも喜びも哀しみも、常に総司への想いとともにある。 因果だと諦めるにはまだ早い。 叶わぬ恋情だと打ち捨てるには、この想いは激しすぎる。 又自分は追い始めただけなのだ。 ただそれだけのことなのだ。 幾筋か木漏れる光の中に立ち尽くして八郎は身じろぎしない。 その八郎の言葉を聞きながら一瞬瞳を細めたのは、強すぎる陽射しのせいなのか、八郎の静かな言葉の裡に秘められた烈火の如く逆巻く恋情に触れたせいなのか、総司はそのどちらとも分からない心を持て余していた。 「沖田先生っ」 果てなく続くと思えた沈黙を無遠慮に破る、慌しい声がした。 咄嗟にそちらに目をやると、隊服を着用した見知らぬ隊士が走ってくる。 「こちらにお出ででしたか」 息を切らせて総司と八郎のすぐ傍まで来ると、そう若くもない実直そうな男は額から流れる汗を拭おうともせずに、若い幹部の姿を探しあてた事を心底安堵している様子だった。 「すみません。探させてしまいましたか・・」 名も知らぬ隊士だが、自分の勝手な行動の為に難儀をさせたと思えば申し訳なさが先に立つ。 「土方先生が探しておられるのです」 「すぐに戻ります」 気がつけばずいぶんとここで長い刻(とき)を、八郎と過ごしてしまった。 床を上げてもらっている間少しだけ外に出てみようと、本当にそんな軽い気持ちが風の心地よさにつられて、気がつけばこんな処にまで来てしまっていた。 昨夜まで床に伏していた身が突然居なくなれば土方は心配するだろう。 「土方さんの苛ついた顔を見るのは、俺には何よりの憂さ晴らしになるがな」 とんだ憎まれ口をたたきながらも、総司の気持ちを察したのか、八郎が先に背を向けて屯所にしている建物に向かって歩き始めた。 その背を躊躇うことなく、今は総司が追った。 屯所に戻ると今度は近藤の居る局長室に行くようにとのことだった。 「今日のところは俺は帰るよ。何か大事な話がありそうだ」 「すみません。すぐに終わると思うのだけれど・・」 八郎に詫びながら、総司は暗い予感に胸の裡(うち)が覆われてゆくのを禁じ得なかった。 江戸に帰れと言われて醜態を曝したあの時以来、近藤は幾度か室に足を運んでくれたが、いつも短い会話を交わしてその場を凌ぐようにしてきた。 まともに顔を合わせられる筈などなかった。 重い足取りで向かった局長室に外から声を掛けると、返事を待たずして内から襖が開けられた。 そこに土方の姿があった。 「黙って抜け出して何処に行っていた」 土方の声が苛立ちを含んでいた。 例えそれが僅かな間でも、居なくなった自分を心配をしてくれていたのだろう。 「すみません。少しだけ外を歩いてきました」 自分を射抜く眼差しに耐え切れず、思わず瞳を逸らすようにして顔を伏せた。 「そんな処に立っていないでこちらに入られたら如何です」 中から声を掛けたのは伊東だった。 咄嗟に顔に浮かんだ狼狽の色を土方が俊敏に察して目顔で頷いた。 それに促されるように、何があっても崩せぬ決心を胸に、総司は室に一歩を踏み入れた。 裏文庫琥珀 玉響 四十四 |