玉 響 四十四 そこにいるのが当たり前のように、伊東は近藤の横に座していた。 「沖田君がいなくなったと近藤先生も土方副長も大変心配をしていたのですよ。まだ身体も本当では無いのに一体どこに行ったのかと」 「すみません」 今は何を言われても、総司にはそう応える他になかった。 「まあいい。総司もそれ程元気になったということだ。こっちに来て座れ」 一瞬伊東に身構えた土方の態度を見て、近藤がその場を取りなすように声を掛けた。 土方の後に続いて敷居をまたぐと、言われるままに総司は端座した。 「お前を探していたのは他でもない。俺が長州にいよいよ下るにあたって後を歳とお前に頼んでおきたくてな」 近藤は伊東の前で昔変わらぬ呼び方をした。 ちらりと見た伊東の横顔はいつもと変わらず、それだけでは胸にある本当の感情は分からない。だが決して愉快な筈はない。 が、もしも近藤がその言葉どおりに自分を呼んだのだとすれば、この場に伊東は居なくても良いはずだ。 「伊東さんは偶然ここに立ち寄られただけだ」 そんな総司の様子を察したのか、土方の応えはおよそ素っ気のないものだった。 不審そうな色が顔に出てしまったのだろうか、総司は思わず赤面して瞳を伏せた。 「これは・・・相変わらず土方副長は直截に物事を言われる。とんだ邪魔者だとは思ったのですが、近藤先生があなた方に留守を頼まれるとお聞きしては、この私とて一応は参謀の肩書きを持った身、共にお願いするのが筋かと思ったのですよ」 伊東の言葉が偽りだとは容易に知れた。 近藤は深い絆で結ばれる土方と自分に、下長に際し何かを伝えたかった筈だ。 それは血に繋がる人間へ託すものと似て、他人の入る隙などありはしない。 だが伊東はこの関係を異常に警戒している。 否、それを何とか崩そうとしているということは総司にも分かる。 「時に沖田君、ずいぶんと顔の色も良くなりましたね」 「ご心配をお掛けして、申し訳ありませんでした」 それは正直な総司の思いだった。 先日風邪で休んでやっと床上げをしたと思った矢先に、また寝込んでしまった。 己の意思とは関係なく急激に負の方向に傾斜して行く自分の身体には、やり切れなさに憤りすら覚える。 そのことを思う時だけは、こんな役に立たない自分が此処に居て良いものかと、いたたまれない思いに駆られる。 「こんな風に元気になられた貴方を見ていると、私はどうしてもあらた若い命を削るような生活をして欲しくは無いとそう思いますよ」 「伊東さん、それは貴方には関係の無い事だ」 まだ何かを言いかけた伊東を、土方の鋭いひと言が遮った。 「関係が無い?・・・これは異な事を言われる」 伊東の面に俄かに挑戦的な笑みが浮かべられた。 「憚(はばか)りながら私はこの新撰組において参謀という役目を近藤局長から頂いている。部下の身体の具合に関して気に留めるのは当たり前のこと。いや、その様子によっては近藤局長に人事の配置換えも進言するのが仕事。 特に沖田君が預かる一番隊は最強精鋭を誇る一隊。その指揮官が不在が多くては新撰組全体の士気にも係わります。 幕閣に対抗しうる最強の組織を造り上げる、これは常に土方副長、貴方の意図するところではありませんか? その為には今は身内の同情心など斬り捨てても致し方の無いことと思いますが」 我が意を得たりと一気に伊東が語り継ぐ途中から、土方の顔色が変わった。 伊東の術計に陥ったのだと気付いた時には遅かった。 自分の横に座る総司に視線を遣ると、その横顔は触れれば音を立てて割れてしまいそうに硬いものだった。 「違いますか?土方副長」 伊東は念を押すように土方を見た。 「確かに言われるとおりだが、組織内部の事に関しては十分に把握し、その上で編成を繰り返している。貴方にあれこれ指図される覚えは無い」 土方の声が怒気を含んでくぐもった。 「今まではそうだったでしょう。だが私はこれからの事を言っている。少なくとも沖田君にはもう今後の活躍は期待できない」 土方の感情の昂ぶりに触発されるように、伊東の言葉も我を忘れて辛辣だった。 「それはどういうことか」 勢いのまま伊東に対して体が前に出ようとした土方の袴が、何かの力で引かれて止められた。 思わずその方向を見ると、総司の蒼ざめた顔があった。 手は硬く土方の袴を握り、その指先は内になって見えなかったがきっと震えているのだろう。 土方を見る総司の瞳が、怒りよりも哀しみに揺れていた。 「二人ともやめられよっ」 腹の底に響くような近藤の一喝だった。 「伊東さん、貴方の言われんとしていることは良くわかる。だが総司は己が新撰組において足を引っ張るものだと分かった時には自ら身を引く。これはそういう人間だ。不器用だが自分の引き際はわきまえている。 総司にその気持ちが無いというのなら、きっとまだその時期では無い。 それが身内の欲目と愚弄するのならば仕方の無いこと。が、嘲(あざけ)るのならば、どうかこの近藤だけを笑ってやってほしい」 これ以上伊東に攻撃は許さぬという近藤の強い言葉だった。 総司は黙って俯いた。 有難いと思う。だが嬉しいという思いよりも先に、近藤にここまで言わせる我が身が情けなかった。 それでも土方の傍らを離れることはもうできない。 それだけは近藤の思いに叛いてもできることではなかった。 土方の袴を握り締めたそのままで、総司は顔を上げた。 「伊東さんの仰る事は本当です。一隊を預かっている私がこんなことでは近藤先生や土方さんだけでなく、共に白刃の下を潜って命を賭けて隊務についてくれている一番隊の皆にも申し訳の無い事だと思っています」 「総司っ」 叱るような土方の声も聞かずに、総司は身じろぎしない。 今室に居るのは自分と伊東しかいないとでも言うように、目の前の人物から視線を外さない。 「それでも、私はここに居ます」 一言一言を刻むように告げる総司のただひとつの支えになっているのは、掌にある土方の袴の布だけだった。 「ここを離れません」 総司の黒曜の瞳が、己の意志を妨げるものはすべて跳ね返す強さを持って、揺ぎ無く伊東を見据えた。 それに気圧されたのか、伊東が強張った顔のまま沈黙した。 だがその双眸にある、不愉快そうな色だけはあからさまに湛えたままだ。 それは憤怒に近い感情にも似て、伊東の白皙を更に冷たいものにしている。 「しかしあなたも剣士ならば自分の限界は知っているはずだ。いや、剣士だからこそ動けなくなるまえに身を引くという覚悟が必要なのではないか」 「伊東さん、それは先ほどすでに言ったこと」 手を緩めぬ伊東の容赦無い逆襲に、近藤が気色ばんだ。 「近藤局長のご意見は確かに伺いました。が、これは沖田君に私が聞いていること。私は沖田君の気持ちを知りたいのです。動けぬと知った時にどうするのかを、聞いておきたいのです」 目だけを動かして近藤を一瞥すると、伊東は再び総司を直視した。 「その時は・・」 「その時は?」 伊東の目が鋭く細められた。 「その時は腹を切ります」 「ほう、腹を切ると、そう言われるか。・・・その言葉お忘れなく。だが貴方にそこまで覚悟させるものは一体何なのか。この私には皆目見当がつきません」 伊東の頬に皮肉な薄い笑いが浮かべられた。 「私がそうしたいからです」 淀みない明瞭な応えが、少しの間もあけずに返った。 総司は伊東に視線を止めたまま、動かない。 それは他の何者をも圧倒する、初めて表に見せた総司の強さだった。 近藤も土方も伊東さえもその姿に、しばし黙した。 中庭に向けて開け放した室から見える晩秋の空が抜けるように蒼い。 こんな時にあって、何故か総司は先ほど八郎といた時に見た鮮やかな楓の葉の色を思い出した。 あの天をも染めようとする紅を、もう眩しいものだとは思わなかった。 その勢いに負けぬ、何事にも弛まぬ心が今自分の中にある。 「死んでもいいと、そう言われるのか」 総司の気に臆したように口を閉ざしていた伊東が、辛うじて反撃の言葉を投げかけた。 「ここにいられぬ命ならば欲しいとも思いません」 ためらいもない、総司の応えだった。 「・・・愚かな事を」 「きっとそうなのでしょう。けれど私はそうする他道を知らないのです」 「これ以上いくら心を尽くして話をしても、どうやら貴方には通じないようだ。要らぬ節介とまた誤解を受けぬ内に余所者は退いた方が良いようですな」 それがせめてもの強がりと分かる伊東の語尾が微かに震えた。 総司を見る眼差しにあるのは、言葉とは裏腹の隠しもせぬ憎悪の色だった。 やおら立ち上がると、そのまま近藤にすら目を向けずに、一度も振り向くことなく伊東は室を出て行った。 「・・・すみませんでした」 その背が見えなくなると、総司は近藤に向かって頭を下げた。 これから近藤は伊東と共に長州に下る。近藤の周りには土方も自分も居ない。 その為には決して怒らせてはならぬ相手だった。 ただでさえ敵方に下るのに神経を遣う道中、今の事で更に近藤は伊東に心無い言葉を掛けられるかもしれない。 それに負ける近藤ではないが、それでも自分の為にまた迷惑を掛けてしまった。 それが総司の胸を痛い程に苛む。 「どうと言うことはない。気にするな。お前はお前の気持ちを正直に言ったまでだ」 先走った自分を責めるではなく、その逆に近藤の声音は労わるように穏やかだった。 閉じた瞳の奥が熱かった。 顔を上げる事もできず、もう一度先ほどよりも深く頭を下げると、近藤を見ずに立ち上がり足早に室を出た。 廊下を渡りながら追ってくる足音から逃れるように、足を急がせた。 きっと捉えられると知りながら、それでもそう願う心とそうであってはならぬという心が僅かの間に胸の裡を鬩(せめ)ぎ行き交う。 「総司」 やがて追いついた声の主に腕を取られ、引き止められるようにして足が止まった。 名を呼んだ声も、自分の腕を強くつかんで放さない手の温もりも、知りすぎる程に知っているものだった。 この主の為に、自分は有る。 それでも振り仰いで、顔を見ることはできない。 もの言わぬ総司に焦れ、土方は身体ごと浚うようにして開いていた襖の室に引き入れた。 拒む総司を抱きこんでその動きを封じ込めると、後手で襖を閉じた。 「放して下さい」 「駄目だ」 「土方さんっ」 困惑の声は次第に力ない懇願に変わっていた。 「声を出したければ出すがいい。人を呼びたければそうするがいい。だが俺はお前を抱く手を緩める事はしない」 「誰かが来たら・・・」 「見せてやる。お前は俺のものだと言う事を、見せてやればいい」 「そんなこと」 強引すぎる言葉を咎めるように、漸く振り向いて見た先に、焦がれてやまなかった土方の眼差しがあった。 それに射抜かれればもう自分は自分でいられなくなる。 慌てて視線を逸らせて後ろを向いたその背を、土方が渾身の力で抱きしめた。 一瞬息もできぬ苦しさに瞳を閉じた。 「どうしてあんなことを言った」 「・・あんなこと・・」 「何故腹を切るなどと言った。何故そんなことを言う」 「動けなくなった身体なんか要らない」 胸の裡にある苦しみを搾り出すような切ない声だった。 土方の傍らに居られなくなった自分など要らない、本当はそう告げたかった。 「俺はそんな事を許しはしない」 土方の籠める力が強くなった。 それは抗う身体だけへの戒めではなく、総司の心そのものを責め立てるものだった。 「勝手に離れることなど絶対にさせはしない」 土方が総司の俯いて露になっていた項に顔を伏せた。 泣いているのは土方なのかもしれない。 声なき慟哭は、土方の怒りも哀しみも触れる肌から総司の心に深く刻み込む。 遂に堪えられなかった雫がひとつ総司の頬を伝わって、身体を拘束している土方の腕に落ちた。 「お前が俺から離れたいならばしてみるがいい。だがそうすると言うのならば、ここでこの俺の手で今お前の息の根を絶ってやる」 後から後から零れ落ちるものを止めようにも、自由を奪われた両の手はそれを拭うことすら叶わない。 「・・・離れたくない」 やっと形にした心の真実だった。 だが上ずった声が掠れて、最後までは言葉にはならなかった。 「離れるな」 後ろから羽交い絞めにした頼りない背を、更にその先の応えを促すように揺すった。 それに総司が微かに首を振った。 「・・・いつか置いてゆかれるとき、きっと縋りついてしまう」 「誰が置いてゆくと言った」 「・・・邪魔になりたくない」 「邪魔をしろ」 「足手まといにはなりたくない・・・」 「縋りついて俺の腕を離すな」 ひとつひとつに確かな応えを返してやりながら、総司の心が土方の胸に痛いほど伝わる。 突然に総司が自分の元を離れると言い出したのは、病に冒された己の将来(さき)の姿を垣間見たからだ。 総司はいつか自分が去って行くことに怯え、置いてゆくなと縋るに違いない心を恐れ、足手まといになる己を嫌悪して遠ざかろうとした。 だがそれは総司が持つ激しい自分への想いの丈以外の何ものでもない。 今霧中が晴れて、総司の心の軌跡を辿ればすべてが見えてくる。 総司のとった行動を、愚かだとは罵らない。 そうするより他になかった切ない心を知れば、哀れさと何ものにも代えがたいいとおしさだけが胸に滾り迸る。 「邪魔をしてしまう・・・きっとしてしまう」 「俺のものだ」 「・・・けれど・・離れられない」 「俺だけのものだ」 「・・・誰にも渡したく無い」 廻されていた腕の力がふいに緩められると、気がついた時には土方に正面を向かされていていた。 抱きしめられたまま自分を見下ろす土方の双眸が、心の奥底まで少しの隙もなく捉え包むように深い。 「・・・子楽さんにも、・・他の誰にも渡したくない」 土方の眼差しが全ての心の重石を解き放つように、溢れる想いは頬を伝わるものと共に止まらない。 「・・・土方さんの傍にいたい・・」 最後は嗚咽になった。 「いないと言うのならその息を止める」 それは決して偽りではなかった。 この腕にある愛しい生の営みを失う日が来るのを何よりも恐れるあまりに、いっそ自分で手折ってしまいたいと願う自分はすでに狂い始めているのだろう。 総司が病によって別つ時に怯え、そこから目を背ける為に自分から離れようとした心は、形を変えただけで何と己のそれと似ていることか。 自分の身に縋らせる為だけに、抱(いだ)く力を緩めた。 それを待っていたかのように総司の腕が、少しの躊躇いも無く首筋に絡んだ。 上に伸びた手から袖が落ちて剥き出しになった肘までも、身体中のどこの力も全て土方を捉える為にあるように、強く強く縋りついた。 「・・・誰にも・・渡さない」 時折しゃくりあげる息が邪魔をしたが、決して途切れることはなく総司は短い一言を最後まで言い終えた。 もしかしたら声は外に聞こえたかもしれない。 だが今はそれすら案ずる余裕もなかった。 総司の想いに、土方は更に抱く腕に力を籠めることで応えた。 もう返す言葉はこの世には無い。また探す必要もなかった。 痛い程に縋りつく腕の主に、ありのままの己をぶつければそれでよかった。 嗚咽を堪える総司の頭を後ろから掌で抱き込むようにして自分の頬を寄せると、静かに瞼を閉じた。 もしもこの腕の中の者を天が別つときを与えるのならば、それを恨みはしまい。嘆きもしまい。 生きるも死ぬも共にあると知れば、最早神仏の加護すら要らない。 己の生きる時が総司の生きるときで、総司の死せる時が己の死せる時と刻んだ心が何故か無性に熱い。 そして驚くほど静かに満たされている。 「・・・もう泣くな」 それだけを、唯一無二の想い人に伝えた。 裏文庫琥珀 玉響 四十五 |