玉 響 たまゆら 九
この診療所の玄関の方から微かに声が聞えて、
総司はそれが誰のものかすぐに分かって急いで身を起した。
他の患者の邪魔にならぬように、
混む昼前を避けて、いつも夕刻に近い頃に通ってきていたから、
田坂俊輔医師の診療所が、午前中はこれ程に病人やら専門外の怪我人やらで
混み合っていたとは、総司はここに世話になるようになって初めて知った。
それでも昼を少しばかり過ぎた今頃の時間は人足が絶えるようで
家の中はシンと静まり返っている。
その田坂の手が空く頃を見計らって、土方はやって来たらしい。
「具合はどうだ」
相変わらず忙しいのだろうが、それすらこの男には活力となるらしく、
顔に精悍さが滲む。
そんな土方を総司は眩しそうに目を細めて見た。
「もう、何ともありません」
だがそう言って笑った顔は、少しばかり窶(やつ)れている。
ここに来てから七日が経っていたが、来たその日に総司は熱を出した。
初めは近頃では頻繁だった、夕方からおこる微熱かと思ったが、
意外に熱は上がり続け、夜には高熱になった。
溜まりすぎていた疲れの箍(たが)が外れて、
一気に外にふき出したというようだった。
そのまま二、三日は夢と現(うつつ)を行ったり来たりしてすごした。
昼に夜に関係なく時折目覚めるのだが、すぐに叉深い眠りに落ちる。
その繰り返しだった。
何日目かに漸くはっきりと頭が働くようになった時、田坂医師に、
眠っている間に近藤と土方が見舞いにやって来たことを知らされた。
枕元で自分を心配気に覗いたであろう二人の気配の欠片すら記憶に無く、
ただ眠りに落ちていた自分の体がどれほど疲れ弱っていたかを、
総司は嫌と言うほど知らされる思いだった。
「熱はすっかり下がったか」
答える間もなく、土方の掌が総司の額に触れた。
「まだ熱い・・」
それが不満の様に、土方は眉根を寄せた。
「大丈夫、明日にはすっかり下がります」
「どうしてわかる?」
「さぁ・・」
自分で言っておいて、どうしてだろう、と首を傾げて笑う総司を
土方は呆れた様に見ていたが、その目には安堵の色が濃くあった。
改めて田坂の好意に礼を言いたいという近藤を伴って、
先日この診療所に来た時、総司は深い眠りの中にいた。
肌は汗にも濡れず渇(かわ)き、顔の色は青いのに、
熱に上気した頬だけが不自然に朱に染まっていた。
病室に通される前に、外来の患者を診察中だった田坂が手を止めて、
「一時的なものだから」と、簡単に状況を説明してくれてはいたが、
目の前で昏々と眠る総司を見ながら、
さすがに近藤も厳しい顔をして押し黙ったままだった。
田坂の手が空いたようで、
この家の手伝いのキヨという初老の女性がそれを告げに来ると、
近藤は待っていたかの様にすぐに立ちあがり、その後に続いて出て行った。
今見た総司の容態を、田坂の口からもう一度詳しく聞いて
安心したかったのであろう。
近藤が出て行っても一人総司の傍らに残り、土方は無言だった。
こんなに近くにいるのに総司は土方の存在を気付きもしない。
それが土方を無性に不安に駆らせた。
額に置かれた手ぬぐいはマメに替えられているようで、
まだ冷たさを残していたが、土方はそれを水に浸けて絞り直すと、
もう一度総司の額にのせた。
新たな冷たい感触に、血管の青さを透かせる総司の薄い瞼が微かに動いたが、
ただそれだけで、土方の望む黒曜の瞳が開くことはなかった。
「総司・・」
微かな呼びかけにも応えず、総司は眠りつづける。
このまま黒曜の瞳は二度と自分を映さないのではないか・・・
一種恐怖とも思える言いようの無い暗い予感に、
土方は思わず自分の指の腹を、総司の唇間近にあてた。
その指に、微かに呼吸する総司の息を感じた時、
土方は初めて体中が弛緩するような安堵感に包まれた。
土方がそんな思いをしていたとは露ほども知らず、
総司は相変わらず邪気の無い笑いを浮かべている。
土方がやって来たのが余程に嬉しいのであろう。
そう言えばこうして自分達の元から離して、
一人で静養させるのは初めてのことだ。
喧騒を離れてここで静養することは、
確かに総司の体にとっては一番良いことなのかもしれない。
あの時はそうする他ないと思ったが、
同時に、他人の中に一人置かれることへの総司の不安も
叉思ってやれる余裕がなかった。
今何の屈託も無く、嬉しそうに自分に向けるその笑みが、
総司に対して切ないまでの慈しみに似た感情を土方に覚えさせた。
「土方さん、どちらかへ行かれるのですか?」
ふと笑みを引っ込めて、総司が思案気に土方を見た。
「何故?」
「髪がすっきりと結ってあるから」
土方が公務で遠くに出かける際にはどんなに忙しくとも
その前日に必ず髪結いを呼んで、
きっちりと結いなおすことを総司は知っている。
「相変わらず目聡いヤツだな。明日朝早くに大坂に行く」
苦笑しながら答える土方に、
「大坂・・・」
呟くように繰り返すと、総司はそのまま沈黙した。
『大坂』という言葉で、今そこにいる伊庭八郎の事を思い出した。
自分を諦める気はないと言った、八郎の射るような視線が蘇る。
その視線に縫いとめられ、一歩も動けなかった。
・・・逃げているのは自分だ
土方からも、八郎からも、そして己の胸の内にある真実からも。
その不甲斐なさ情けなさに、
今総司は自分自身から目を背けたい思いだった。
「どうした、総司。具合が悪いか」
土方の心配気な声に、ふいに現実に戻された。
急に黙ってしまった自分を、どうかしたのかと訝しむように見る
土方の視線を受けて、総司は思いきり良く笑った。
「お泊りは又京屋ですか?
あそこは船宿で天井が低いから嫌だと前に土方さんが言っていたから、
今度はどこかちがうところを探したのかと思って考えていたのです」
誤魔化すには少し難儀かとも思える言い訳だったが、
土方はそれで納得してくれたようだった。
「大阪に遣ってある連中がやけに張り切っているらしい。
張り切りすぎて他の藩の奴等といざこざを起こしてくれた。その後始末さ。
つまらぬ血気で馬鹿なことをしてくれた」
心底そう思っているのだろう、
土方の物言いにはうんざりとした響きがあった。
池田屋以来勢いを急速に増した新撰組は、最近少しばかり暴走する傾向にあり、
それが面白くない他藩の藩士との小競り合いも、今では珍しいことではない。
今回の土方の大坂行きも、そんなやっかみが暴発して
大坂駐屯の、入ったばかりの隊士の何名かが
何者かによって殺害された事件の後始末だった。
「大坂での滞在は少し長くなるかもしれん。
茶番に付き合っている暇は生憎持ち合わせてはおらぬから
さっさと片付けて戻ってくるつもりだが、
それまで田坂さんの言付を守って大人しく養生しているんだぞ」
そう言いながらも心はすでに大坂での不祥事を
どのように片付けるかの算段に飛んでいる土方を、
何処か遠いものの様に見ながら、
総司は自分の足元で渦を巻き始めた、嵐の気配を感じていた。