天使の数珠で、シアワセ、なの
天使の数珠―
耶蘇の信徒さんたちの間では、神さまが降誕されんと云う前夜、すなわち師走二十四日に、家族や愛する人と愛を確かめ合うと云う慣わしがあります。前夜祭どすな。
そこで、お耳拝借。
このあいだは、えらい遠くから黒船もお出で下さった事やし、うちらもそのお祭りに友情参加しまへんか?来たる国際化に向けて、お・も・て・な・し、おもてなしの準備どす。
そこで当店でも、「天使の数珠」と云う菓子を作りました。
カスティラの間に薄く薄く、うすぅーくのばした求肥を入れ、その回りを黒砂糖のたれでくるりと包みました。食べた瞬間ふわりっと何ともええシアワセ感に満たされ、そのシアワセを後押しするように、程よい甘さが口一杯に広がります。
愛する人と、甘い菓子を口の中に蕩けさせる一夜。 ああ、これぞシアワセの瞬間!
これを食べのうて、何で愛を語れますやろか!
互いの愛が深まること必須、神さまのご褒美どす。
二十四日までの限定販売、お早めに。
店主敬白
「……」
風に舞って足元に纏わりついたそのチラシに、一寸、土方さんは目を落としましたが、直ぐに捨てておけと、後ろの山崎さんに渡しました。
「予約しますか?」
山崎さんは、さりげなく訊きました。
今日は二十四日、しかも昼に届こうとしているのです。この爆発的人気を誇っている菓子は、売り切れ間近に相違ありません。裏で手回しでもしなければ、到底手に入れることはできないでしょう。そこで控えめに「予約」と言葉を選んだわけですが…。
「いい」
土方さんは、短く云いました。
「ですが副長」
しかし山崎さんは引き下がりません。と云うのも、このチラシの持ち主を、山崎さんは知っているのです。持ち主は…。
そう、あの総ちゃんだったのです。
あれは三日前のこと――。
山崎さんが総ちゃんの部屋の前を通りかかると、勘だけは鋭い総ちゃんが、人の気配にも気付かず背中を見せたまま、身じろぎもしないではありませんか。不審に思いよくよく目を凝らすと、何やら手元の紙にじっと見入っている様子。そこは、根が律儀な山崎さん。このまま通り過ぎるのも礼を欠くようで、一応声を掛けてみました。すると薄い背がびくりと強張り、慌てて硬い顔が振り向きました。そして廊下に立つ山崎さんの姿を見とめると、総ちゃんは急いで紙を後ろに隠し、萎れた花のように項垂れてしまったのでした。
その余りの狼狽ようは、山崎さんの方が慌ててしまった程です。取り敢えずその場はぎこちなく笑って納めたものの、総ちゃんが見ていたものが何だったのか、山崎さんはとても気になりました。しかしその答えは、案外容易く入手できたのです。教えてくれたのは、一番隊の伍長、熊野直次郎さんでした。
体格も良く剣もよく使い、また冷静沈着、統率力にも優れ頼りになる熊野さんは、土方さんが総ちゃんの為に、見廻り組みから引き抜いた男です。
総ちゃんの、ちょっと虚を突かれる不思議な行動にも動じず、淡々と役目をこなして行く熊野さんには、日ごろから山崎さんも一目置いていました。
その熊野さんの云うには――。
道場の裏手で、手にした紙をじっと見詰める総ちゃんを見つけたのは、かれこれ五日前のこと。
声を掛けるのすら憚られる真剣な横顔に、熊野さんも木の陰に隠れて様子を見ていました。すると、突然猫の鳴声がし、驚いた総ちゃんは、慌てて其処を立ち去りました。ところがあまりに慌てすぎたか、見ていた紙を落として行ったのです。熊野さんが拾い上げた紙を見ると、それはくだんの菓子のチラシだった、とまぁ、これが顛末なのですが…。
その報告の最後に熊野さんは、猫に驚くようでは沖田せんせいもまだまだあまちゃんですな、と真顔で云ったのでした。
山崎さんは、熊野さんの手にしていた『連続瓦版小説』の題名をチラリと見、これでオチをつけたかったんやなと、へのへのもへ字を描いたような大きな顔から、さり気なく視線を逸らしました。
そして、人間と云うものは優秀であればあるほど、その釣りあいを取るために、とんでもなく何かが欠けているのだと、俳句が決定的な致命傷になっている稀有な策謀家の顔を思い浮かべたのでした。
そんなこんなで。
総ちゃんが、くだんの菓子を熱望しているのは分りました。しかし菓子ひとつ。何故其処まで固執するのか…。
これやな…、と、山崎さんはチラシを見ながら呟きました。
『 愛する人と、甘い菓子を口の中に蕩けさせる一夜。
ああ、これぞシアワセの瞬間!
これを食べのうて、何で愛を語れますやろか!
互いの愛が深まること必須、神さまのご褒美どす』
そうなのです。
総ちゃんは、土方さんと甘い菓子を口の中に蕩けさせながら、より愛を深めたいのです。
ところが菓子を買うための行列に並ぶ度胸が無い。人に頼む度胸はもっと無い。でも欲しい。しかも期日限定。
ひたむきに愛を追求している総ちゃんのこと、食べ損ねたとなれば、一般人には想像もつかない衝撃を受けて落ち込むことは間違い無く、それを見た近藤局長はおろおろし、そんな近藤さんに土方さんは苛立ち、やがて苛々のとばっちりは隊内にまんべんなく行き渡り、皆が訳のわからない緊張感に包まれるのです。正しく、究極の負の連鎖。
そうと分っているのなら、打てる手は出来る限り打っておくのが賢明と云うもの。
そこで話を元に戻し…。
「この菓子を、沖田さんが食べたがっています」
山崎さんは、ずんずん先を行く背に声を掛けました。それでも土方さんは足を止めません。
「副長」
山崎さんは食い下がります。後で大変な思いをするのは自分なのです。自分の身は自分で守るのは当然のこと。
「沖田さんは、ただ菓子を食べたいのではありません。愛を食べたいのです」
刹那、ぴくりと肩を怒らせ、土方さんが立ち止まりました。しもうたっ、と思ったのは後の祭り。
「ほぉ…。俺の愛が足りないと、君は云うのかね?」
ゆっくり振り返った口元は笑っていましたが、鋭く細められた目は氷室のように冷めたい色を宿しています。
「愛は貪欲です」
が、この程度では、山崎さんも動じません。
「総司は満足していない、と云うのだな?」
「愛し続ける限り、愛に満たされる事はないのです」
「いつから愛を語るようになったのだね?君は」
「お褒めに預かり光栄です。で、どうします?菓子」
褒めてないぞ、と苦々しげに呟き、土方さんは一瞬黙考しました。が、すぐに山崎さんに目を戻し、
「菓子屋を囲め。そこから誰も入れるな。一人として菓子を買わせるな」
と、早口で命じました。
「しかし菓子屋のある四条は見廻り組の…」
云った瞬間、二度目の、あっしもうたっ、に山崎さんは言葉を呑み込みました。瞬間、土方さんの唇の端がにっと上がりました。
「俺に褒められるほどの君だ、見廻り組の持ち場に新撰組が踏み込む理由など、幾らでも見つけられる筈だ」
山崎さんの肩をぽんと叩きざま、愉快げな笑い声を残し、土方さんは踵を返しました。が、二三歩行くと後ろを見、
「その菓子、二つだけ持ち帰れ」
と、厳しい口調で云い置きました。
悠然と去って行く背を、暫し呆然と見詰めていた山崎さんでしたが、その背が廊下を曲がって消えると、ふむっと、腕を組みました。
自己防衛の隙を突かれたと悔しがったところで、今更事態が好転する訳ではありません。切り替えが早くなくては、喰えない上司を持つ部下などやっていられません。
「見廻り組か…」
ひゅうっと吹いた北風に、くるりと落ち葉が舞ったその時。
「見廻り組が何か…?」
不意に掛かった声に、流石の山崎さんもぎくりと振り返ると、いつの間にか後ろに熊野さんが立っていました。
「聞いていたんか?」
驚いた苛立たしさに一寸責める風な口調になりそうだったのを軌道修正しながら、山崎さんは殊更静かに訊きました。
「途中からです。見廻り組の持ち場が何とか云うてた辺りからですわ」
「ほな話が早いわ。見廻り組の持ち場で、角が立たんよう、新撰組が仕事するええ案、何かないやろうか?」
お手柄は独り占めしない、それが仕事を迅速に終らせるコツです。早速山崎さんは、熊野さんに難題を振りました。熊野さんはじっと考え込みましたが、暫くして、
「そこで仕事をしとうないと、見廻り組が思ったらええんと違いますか?」
と、嬉しいのか怒っているのか、喜んでいるのか悲しんでいるのかちっとも分らない平たんな顔で云ったのです。
「例えば?」
「見廻り組は旗本御家人の集まりで、気位は高いんですけど面倒な仕事はしとうない、云うもんが多いんですわ。そやから、明日菓子屋に糞を撒き散らす強盗が押し込む情報が入ったけど、新撰組が代わりまひょうか?と持ちかけるんですわ。誰かて糞まみれはイヤですやろ?」
突拍子も無い事を、真面目な顔で語る熊野さんの口元を、山崎さんは不思議なものでも見るように凝視してしまいました。が、どうですやろ?と畳み掛けられて、
「糞…云うんは、後で菓子屋から営業妨害やて文句が来そうやな」
と、控えめに顔を顰めました。が、その直後、はっと閃いたように、、
「いや、これなら行けるかもしれん…」
と、天を仰ぎ手を打ちました。
「耶蘇の神さんの祭りを後押しすると聞きつけて、その神さんの敵方、つまり魔物が押しかけると云うたらどうや?」
「……?」
「もの凄い真実味に欠ける話やろ?けどワケが分らんものを、人は避けて通ろうとするものや。沖田はんがええ例や」
「沖田せんせい?」
「そや」
山崎さんは、ゆっくり顎を引きました。
「沖田はんの、不思議な行動。あれはただただ、副長への一途な愛の延長線上にある。けどあそこまで行くと常軌から逸してしもうて、普通の人間にはワケが分らん。分らんから、そうなった沖田はんには、皆近づかないようにしてる。何が返ってくるか分らんからな。ワカランものは、不気味なんや」
「確かに、沖田せんせいは不思議です」
熊野さんも、合点が行ったように頷きました。
「では、魔物と云う事で作戦を立てると云うのはええとして…。そのデマ、いつ持ち掛けるか…」
「今でしょう」
間髪を置かず、熊野さんが応えました。
今のは、ウケを狙ったのか狙わなかったのか…。やはりこの人も不思議や、と山崎さんは平たんな顔を見詰めました。
「ところで山崎はん」
今度は熊野さんが訊きました。
「一体、何の為に菓子屋を包囲するんですか?」
「至福の菓子にする為や」
「……?」
少しだけ、熊野さんはぽかんとした顔をしました。でも多少こんがらかってもそう変わらないな、と山崎さんは思いました。
「菓子屋を包囲して誰も入れさせなければ、菓子を買える人間はいない」
あっ、と熊野さんは声を上げました。
「では先ほど副長が二つだけ菓子を持ち帰れと云ったのも…」
「この世に、菓子は副長と沖田はんの分だけがあればええのや」
熊野さんの顔が、微かに、苦悶するように動きました。
「なんて冷酷で、自分勝手で残酷な…」
「けれど凄まじい、愛や」
呆然と立ち尽くす熊野さんに向かい、そう云う愛もあるのだと諭すように、山崎さんは目を細めました。
その夜―。
緋色の絹座布団の上に置かれた菓子を、総ちゃんは瞬きも忘れてしまったかのように長いこと見詰めていましたが、焦れた土方さんに呼ばれ、漸く潤んだ瞳を向けました。
頬を紅潮させた総ちゃんに土方さんは、
「さっさと食え」
と、それはそれは浪漫の欠片も見当たらないような口調で命じました。が、総ちゃんはゆるく首を振ると、唇を開きました。
「あのね…」
始まった…、と土方さんの端正な顔が警戒に歪みます。
「このお菓子を、みんなで食べたいのです」
「どう云う事だ」
あからさまに、土方さんは眉根を寄せました。声すら不機嫌になっています。しかしそれが見えているのかいないのか頓着無く、総ちゃんは微笑みました。
「あのね、耶蘇の神さまは、神さまを信じる人にもそうでない人にも惜しげなく愛を注いだのです。だからこのお菓子を独り占めにしないでみんなに配れば、神様は良くやったと喜んで、もっともっと土方さんへの愛を深めてくれると思うのです」
「神さんに見返りを求めるのか、凄いな、お前」
土方さんは皮肉っぽく方頬を歪めました。ところが。
「愛のためなのです」
その土方さんに、総ちゃんは毅然と云ったのでした。
土方さんへの愛のためならば、その土方さんですら、己が定めた愛の道筋から外れることは許さない、もう誰への、何の為の愛だか分らない総ちゃんに、流石の土方さんも言葉を失くしました。
そうして土方さんが閉口している間にも、総ちゃんは懐紙の上に置いた菓子を切ろうと脇差を抜きました。しかし元々あまり器用とは云えない手先。傍観者を決め込んでいた土方さんのこめかみに、段々と筋が立ちます。やがてその筋が限りなく浮き出て…。
「貸せっ」
怒鳴り声と共に、土方さんは脇差を奪い取り、みるみる内に菓子を微塵切りにしてしまいました。
「口に入るのは、粉だな」
切り終えて、憮然と呟いた土方さんに、
「でも神さまは、きっと愛を倍にして返してくれるのです」
総ちゃんはうっすらと、瞳に嬉し泪を浮かべました。
「褒美の、倍返しか」
呆れて云う土方さんを他所に、総ちゃんは粉になった菓子にうっとりと瞳を向けました。
愛の倍返し。
ああ、なんて素敵なのでしょう。
今でさえ土方さんへの愛は無尽蔵に溢れ出ると云うのに、その倍も溢れるなんて夢のようです。
総ちゃんは火照る頬を両手で押さえると、はくはくと高鳴る鼓動を落ち着かせるように目を閉じました。
夢路を辿り始めてしまった総ちゃんの横で、土方さんは考えます。
現在新撰組の隊士は局長以下百五十名余り。粉にしたとは云え、菓子二つ分。果たして全員に行き渡るのか…。
ですが、そこまでで、土方さんは考えるのを止めました。
そう、あとの事は山崎さんに任せれば良いのです。君子面倒に近づかす、です。
粉になった菓子を置いた懐紙を除けると、土方さんは、夢路にいる総ちゃんの腕を引き胸に抱きいれました。
「愛の倍返し、見せて貰うじゃないか」
ゆっくり倒されながら、白い耳たぶがみるみる朱色に染まるのを見る目が、意地悪げに、そしていとおしげに細められました、とさ。ごちそうさま。
襖の隙から漏れるシアワセな灯を断つように、その奥の部屋の襖が、すぅっと、音も無く閉じられました。
すると、闇は息をするのも憚れるような静寂に包まれ、やがて密やかな吐息がひとつ。
「…迷惑の、倍返しや」
ぼそっと呟くと、山崎さんはじっと天井を見詰めました。
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