とおり雨
ふと、おぬいは顔を上げた。地に籠っていた熱が湧き上がるような、土臭さが鼻をついた。猫の額程の庭に、瞬く間に、黒い斑点が広がって行く。雫は大粒で、しかも雨足は早い。だがおぬいは針を持つ手を止めたまま、立ち上がろうとしない。まだ頭の中に、耕助の顔が消えないのだ。耕助は、瞋恚(しんい)の色を眸に浮かべ、おぬいを見詰めている。
耕助の元を去ると決めてから、なるべく顔を合わせないよう避けていたが、その様子を訝しんだ耕助が、夕方、裏木戸で待ち伏せをしていた。 どうしたのだと責められ、伸ばされた手を咄嗟に振り払った、その時の驚愕に満ちた顔だ。
炎陽が、ものの影を地に焦(こ)ぐような烈しさで、網膜はその顔を焼きつけている。
おぬいはぼんやりと、地を叩く雨を見詰めた。
耕助とおぬいは、日本橋の呉服問屋三好屋で働いていた。おぬいの方がひとつ上だったが、奉公に上がったのが一緒の歳で、二人は下働きの辛さを、姉弟のように庇い合い成長した。
やがて年頃になると、どちらからともなく想いを寄せるようになり、耕助の年季があけたら夫婦になる約束を交わした。その日が来た時、おぬいは二十二、耕助は二十一なる。だがおぬいが二十三になった今年の春、傍らに耕助はいなかった。
――三好屋は、大小の大名屋敷にも得意先を持つ大店で、やり手の主は、千代田の城の奥の御用達となる機会を、虎視眈眈と狙っていた。そんな折、既に大奥御用達になっていた小間物問屋の娘が、耕助に岡惚れした。大店の娘の、身寄りも無い呉服屋の手代への恋。暫し周りの者たちは、皆熱に浮かれたように、顔を合わせればこの希有な話しに没頭した。しかし人々の大方の予想は見事に裏切られた。娘の父親が、娘の恋に反対をしなかったのだ。一代で財を築いた小間物問屋の主は、耕助の仕事ぶりに、商いの才を見出していた。それを知った三好屋の主は、この縁談を強引に進めようとした。主は、耕助を自分の養子にして小間物問屋の婿に納め、その伝手を経て千代田の城へ入り込もうと目論んだのだ。
おぬいの右肩が、少しだけ落ちた。そうすると、なだらかな肩の線が右に傾きを深くし、小さな背中が寂寞感に包まれる。雨を見詰めるおぬいの目から不意に耕助の面影が遠のき、入れ替わるように三好屋の主の顔が近付いて来た。
それは秋の仕舞いを教えるような、冷たい雨の日だった。
おぬいは三好屋の主を前に、俯いたまま身を堅くしていた。
主は、おぬいに、耕助と別れるよう説いていた。それが耕助の幸せに通じるのだと諭すように、或いは、真実耕助を好いているのなら自分から身を引くのが筋だと脅すように、おぬいが頷くまで懇々と説き続けた。その声を耳に素通りさせながら、おぬいは、膝の上に乗せた手の指先が、まるで井戸の清水に浸したように冷たくなって行くのを感じていた。
そしてその日の夕方、耕助にあのような顔をさせ、店が寝静まった深夜、おぬいは闇に紛れて三好屋を出た。
どこに行く当ても無かったが、三好屋の長い塀に沿い息すら忍ばせるように歩いている内、段々に足は速くなり、そして遂には走り出していた。やがて心の臓が飛び出る程に動悸が打ち、足が縺れて立ち止まらざるを得なくなった時、おぬいは、自分の頬が濡れているのに気付いた。
天水桶に手をかけ、ゆっくり膝を折ると、おぬいは月あかりから顔を隠すように背を丸めた。そしてあとは溢れ出る泪を拭いもせず、声を押し殺し泣いた。 泣いている事も知らず、逃げるように、ただひたすら走って来た自分が哀れだった。
「……何も、悪い事していないのに」
激しくなった雨を見、おぬいは呟いた。その時、指先にちくりと鋭い痛みが走った。針を持った右手が無意識に動き、左の親指を傷つけたらしい。
おぬいは慌てて指の先を口に含むと、
「ほらほら、ぼんやりしているから」
夢から覚めたように自分を叱り、縫っていた着物を横に置き立ち上がった。
湿気を含んで重くなった引き戸を開けると、軒に吊るしてあった「仕立てもの」の紙が半ば濡れている。これでは又、ひとつ置いた通りに住む三味線の師匠に書きなおして貰わねばならない。空を見上げ、おぬいは長い嘆息を漏らした。が、その視線が、ふと脇に流れた。
「あら…」
おぬいは目を瞠った。
軒下に立っている少年には、見覚えがあった。
「あんた、えっと…。松吉さんところの…。そうだ、宗次郎ちゃんだったかしら?」
少年は、申し訳なさそうに小さく頷いた。雨宿りに軒先を借りたのを、気にとめているらしい。
「松吉さん、いないの?」
柔らかく問うと、黒目がちの瞳が戸惑いがちに瞬いた。雨の礫(つぶて)は大きく、軒に跳ね返った飛沫(しぶき)が、薄い肩を濡らしている。
「まぁっ、こんなに濡れているじゃないの。中に入って」
歩み寄られ、少年は一歩後じさった。するとおぬいは不思議と強気になって、
「早く、早くっ」
首を振る少年の手を強引に取り、引いた。
「遠慮しないの」
それでも踏ん張ろうとする背を押し、急き立てるように家の中に入れると、おぬいの裡に満足感が広がった。誰かの世話をやき、面倒を見る…、それはもうずっと忘れていた、奮い立つように楽しく弾んだ感情だった。
「松吉さんも、こんなに降って来ちゃ仕事にならないわね」
先程から一言も口を利かない少年に、おぬいは語りかけた。
少年の名は宗次郎と聞いている。
最初に見かけたのは、今年の正月、宗次郎が松吉夫婦の家から出て来るところだった。丁度、井戸の近くで裏店の女房達と立ち話をしている時で、木戸の際に住む老婆が、不思議そうな目を遣ったおぬいに、あの少年は宗次郎と云う名で、年に幾度か松吉夫婦の処へ来るのだと教えてくれた。
着物の中で浮く少年の細い身体は、あの時も頼りない印象を残したが、こうして間近で見ると、それは益々強くなる。
「お茶をどうぞ。濡れたから、少し熱い位のがいいわ」
買い置いていた煎餅を出すと、少年は困惑したようにおぬいを見た。
「あたしの名前は、おぬい。あたしも一人でお八つじゃ寂しいと思っていたところ。だから丁度良かったの。一緒に食べて」
悪戯げに眸を細めて促しながら、こんな笑い顔を久しく忘れていたと、おぬいは思う。否、いけない事のように、心の奥底に閉じ込めて来た。
「ねぇ、宗次郎ちゃんは幾つなの?」
「十五です」
ようやく、宗次郎は短いいらえを返した。
「そう、十五なの…」
おぬいは驚きを隠すように、少し目を細めた。
自分の知っている十五と云えば、もう大人だ。働き盛りの若い衆と一緒の飯を食い、力仕事をする。そう云う男達を見て来たおぬいの目には、やはり宗次郎のひ弱さは際立つ。だがその事を告げては気の毒だ。宗次郎には宗次郎の矜持もあろう。もう少しで、それを傷つけてしまう処だった。おぬいは久しぶに客を招いて逸っている自分を、鎮めた。
「あの…」
遠慮がちな声が掛った。
「なぁに?」
「…私は松吉おじさんの家に行きます」
「だって松吉さん、いないんでしょ?お雪さんも」
「でも雨がひどくなったら、仕事は仕舞いにするって云っていました。…それに」
「それに?」
おぬい自身驚くほど、声が強くなった。
「土方さんが…」
「土方さん?」
寸の間、おぬいは記憶を手繰るように遠い目をしたが、すぐに、
「ああ、あの姿の良い人の事ね」
一度見た事のある男を思い出した。
人目を引く、見栄えの良い男だった。だが親しみ易いとは云い難い。むしろ宗次郎を見下ろしていた顔は、鋭い程に整いすぎ、怖い感すら覚えた。それは言葉を交わしたとて変わるものではないだろう。おぬいは、冷然とした横顔を見せていた男を、もう一度瞼に浮かべた。
「今日は土方さんの仕事が終わるまでと云う約束で、連れて来て貰ったのです」
まだ少年を脱しきれない澄んだ声が、おぬいの思考を引きもどした。
「…え?」
「だから土方さんが来た時、松吉おじさんの家にいなければ探します。ご馳走さまでした」
申し訳い心を身体ごと表わすように、宗次郎が深く頭を下げた。その隙から白い項が覗き、そこから伸びる首は、おぬいの手でも、簡単に折れてしまいそうに細く儚げだった。しかしそのか弱い者は、今、自分が差しだした手を跳ねのけようとしているのだ。こんなに小さなものまで、自分に独りを強いるのだ。そう思った寸座、おぬいの裡に、計りしれない勢いで噴き出すものがあった。それを抑えようとおぬいは胸に手を当てたが、遅かった。
「…宗次郎ちゃんはいいわね」
自分のものだとは思えない声が、冷え冷えと響いた。顔を上げた宗次郎の瞳に、驚きと戸惑いが満ちている。
「松吉さんも、お雪さんも、それにあのお兄さん…、土方さんだっけ?その人だって、宗次郎ちゃんの事を待っていてくれているんでしょ?」
この子を見ている自分の目は、真冬の空に牙を刺しぶるさがっている三日月のように凍てているのだろうと、おぬいは思った。目に映る宗次郎の小さな面輪が、強張っている。これ以上口を開いてはいけない、この口から言葉取り上げなくてはと、心の何処かで半鐘が鳴る。だが一度堰を切ってしまった感情の濤は、渦を巻きながら、裾野を広く広くし、迸る事しか知らない。
「宗次郎ちゃんには、待っていてくれる人が沢山いるじゃない、欲張りよ。あたしには誰もいやしない」
捨て鉢な言葉が、自然に口をついた。
三好屋を逃げるように去ったあの夜から心に押し込めていた、理不尽な世の中への憤りが、自分より弱い者に抗われた瞬間、ついに心を破いてしまったのだ。勝手すぎる云い分だと、そんな事は知っている。だが一瞬、胸に点るような華やぎを覚えさせたこの少年にも罪はあるのだと、おぬいは、最後の良心を砕いた。
「あたしね、好きあった人と、どうしても別れなきゃならなかったの」
宗次郎が目を瞬いた。すると、細い線の面輪が余計に幼く見えた。
「あたしが身を引く事が、好いた相手の幸せに繋がるのだと人から諌められて…。確かにそうだったの。だからその人から、逃げるようにしてこの町に来たの」
哀しげに、宗次郎がおぬいを見詰めた。上辺を飾る言葉を知らない心が、深い色の瞳を曇らせる。しかしそう云うひとつひとつの表情が、おぬいの感情を逆なでする。良心を見失った加虐心が、猛然と頭をもたげ、おぬいを闇に走らせる。
「この町はいいわ。町の外の人間は、猿若町の事を芸人の棲処(すみか)だと蔑むけど、暖かい町よ。そう思うでしょう?だからあたしも時々ふっと、あの人が探しに来てくれるような気持になるの」
柔らかな吐息のような呟きに、宗次郎の頬にも、安堵の小さな笑みが広がった。だが、
「嘘はいいのよ」
間髪を置かず響いた声の鋭さに、宗次郎は息を呑み、おぬいを凝視した。
「そんな事、幾ら思ったってありはしないの。あの人が探し出してくれるなんてのは、所詮夢。夢ってのは、追っても追っても叶うもんじゃない。宗次郎ちゃんは幸せのなかにしかいないから分からないのよ」
酷い事を云っている、罰が当たると、おぬいは心の中で目を瞑った。しかし訪れる筈の気まずい沈黙は無く、その代わりに、
「そんな事はありません」
意外にも強い声が返った。顔を上げると、宗次郎のまっすぐな視線とかち合った。今までおとなしいばかりだった少年の変容に、おぬいはたじろいだ。
「その男の人は、もしかしたらおぬいさんの事を、本当に探しているのかもしれません」
「どうしてそんな事が分かるのっ?」
問い質す声が、知らず、上ずった。
「どうしてだか、教えて。あの人があたしを探していると、どうして分かるのか」
唇辺に浮かべた笑みが、酷く歪んでいる。そう思っても、貼りついてしまったそれを、己の手で拭う事が出来ない。そんな自分から目を背けるように、
「同情なら、真っ平よ」
おぬいは言葉を叩きつけた。が、宗次郎はおぬいから視線を逸らさなかった。そして、
「…私なら」
一瞬云い淀んだが、すぐに、おぬいの目を見た。そして云った。
「好いた人が傍らからいなくなったら、探します。見つかるまで、ずっと。例え探す事で、その人に嫌われても、逢いたい、何故去ったのか聞きたい。…だからその男の人も、おぬいさんの事を探しています」
宗次郎の面輪は緊張のせいか、少し青ざめたていた。
その面輪を睨みつけるようにしながら、おぬいは猛烈な勢いで宗次郎を打ちのめす言葉を探した。しかしそれより早く、心の片隅に、微かな温もりが点った。それは、鳥が羽を広げるように、体の内からおぬいを包み込み、寸の間、おぬいを優しい恍惚に浸らせた。おぬいは慌てて目を閉じた。目頭が、熱かった。
――誰かにそう云って貰えるのを、自分は待っていたのだ。ずっとずっと心に抱いる重い塊を知って欲しかった。そして、先に希(のぞみ)はあるのだと云って欲しかった。そうすればその光に縋って生きて行ける。耕助を諦められる訳が無いのだ。
しかしおぬいは、弱気に傾いた心を叱った。待っても叶う夢ではない。傷つくだけなら、夢など見ない方が良い。だから耕助の事は胸の奥に仕舞いこんで、また石になるのだ。
おぬいは瞑った目を、静かに開けた。
「…ごめんね」
驚くほど素直に、優しい声が出た。
「慰めてくれて、ありがとう。…あたし、宗次郎ちゃんに酷い事を云ってしまった。堪忍してね…。ごめんね」
「嘘ではありません」
「もういいのよ、ありがとう」
「でもっ…」
「いつか…、そう云う事があればいいわね」
必死に追いすがる声に、おぬいは微笑み、それ以上を拒んだ。宗次郎は何た云いたげにおぬいを見詰めたが、やがて悔しそうに唇を噛んだ。瞳は黒々と濡れ、白い膚が青み、不器用な必死さが伝わる。その姿を目に刻むおぬいの心に、温もりを知った後の、荒涼とした風が吹き抜ける。
「松吉さんのところまで…」
送って行くと云いかけて、おぬいは言葉を止め、後ろに耳を澄ませた。戸がかたりと鳴ったのだ。すぐに、
「おぬいさん、いる?宗次郎ちゃんがお邪魔していないかしら」
柔らかな声がかかった。お雪だった。
おぬいは立ち上がりざま、宗次郎に目を向けたが、戸口を見詰めている面輪は硬かった。
あんなに酷い言葉をぶつけたのだ、後悔するには虫が良すぎる。おぬいは自嘲の笑みを浮かべるると、
「はい、います、預かってますよ」
努めて明るく外へ応えた。
「おぬいさん、ありがとう。本当に助かったわ。今日は宗次郎ちゃんが来るって分かっていたから、半日暇を貰って帰って来るつもりが、急にこの雨でしょう?雨宿りのお客さんで混み始めちゃってね。それでも慌てて帰って来たのよ。そうしたら木戸の処で、宗次郎ちゃんは、おぬいさんの家にいるよって、およねお婆さんが教えてくれたの」
お雪は宗次郎を傘の中に入れると、嬉しそうに経緯を語った。宗次郎は黙ったままでいる。
「いいのよ。あたしもちょうど一休みしようと思っていたの。そうしたら、軒先に宗次郎ちゃんが居て…。ちょっとだけだったけれど、楽しかったわ」
「そう云ってくれるとありがたいわ」
我が子を庇うように、お雪は丁寧に腰を折った。そして、行く?と宗次郎に目で相図した。
雨は先程よりも更に激しくなり、飛沫が着物の裾を濡らす。それにも気付かないように、おぬいの眸は遠くなる二つの影を追う。
抑えが効かなくなった心は、濁流が渦を巻いて流れ行くように、醜い己を曝け出したが、今その感情の隆起は、何事もなかったかのように鎮まってしまった。しかしこれは一時の静寂に過ぎない。闇は、終わりでは無いのだ。心には相変らず、黒く重い霧が沈んでいる。それは深すぎて、ものの影すら映し出さない。
のろのろと、おぬいは路に背を向けた。その時ふと、ぼやけた町の風景とは違う色が、視界の端をよぎった。先日買ってきた紫陽花の鉢植えだった。雨に打たれた花は、葉の緑を冴え冴えとし、花弁は、艶やかに青紫の色を浮き立たせている。この花を見ていたのかと、その時おぬいは、宗次郎がここで雨宿りしていた訳を知った。暫くそのままで紫陽花を見詰めていたが、やがて花を見下ろす顔に微かな笑みを浮かべると、静かに戸を引いた。
土間の湿った土を踏んだ時、夏も間近だと云うのに、込み上げてくるような冷たさに体が顫えた。それは独りに戻った事を知った、寂しさだった。
「おぬいさんってね、そりゃ縫物が達者なの。近頃じゃ着るものに煩い役者さん達も、おぬいさんの腕を見込んで仕立てを頼んで来るそうなのよ」
お雪は、同じ裏店の住人を誇らしげに語った。だが宗次郎は、言葉をもぎり取られたように押し黙っている。
「どうしたの?」
異変に気付いたお雪が首を傾げた。促され、宗次郎は面を上げたが、表情が硬い。
「宗次郎ちゃん、何かあったの?」
お雪の声に、不安が混じった。
「おばさん…」
「なぁに?」
「私は嘘をつきました」
「えっ?」
お雪は目を瞬いた。
「あの人に、嘘をついてしまいました」
「あの人って…、おぬいさん?」
細い頤が、微かに引かれた。
「…おぬいさんに変わった様子は無かったけれど…。宗次郎ちゃんの思いすごしじゃないの?」
訝しげに問い重ねると、今度は頑なに首が振られた。唇をきつく結び、お雪を見上げている面輪は、割れれば鋭く砕け散るぎやまんのように硬い。お雪は目の線を宗次郎のそれに合わせた。
「おばさんは、宗次郎ちゃんが嘘つきなんかじゃないって、良く知っているわ。だから宗次郎ちゃんがそう云うからには、きっとそれなりの理由があったに違いないわ。…ねぇ、おばさんに話してちょうだいな」
宗次郎は瞳を伏せた。
「…夢が…、叶うって…」
「…ゆめ?」
頷いた拍子に、束ねられた黒い髪が、微かに揺れた。
「夢は叶うって、…嘘を云いました。夢は叶うものではないのに。追っても追っても、叶うものではないのに…。私は、待っていればきっと叶うって、…嘘を云いました」
宗次郎は、自分の声の顫えが段々にひどくなるのが分かった。しかし堪えようとすると、今度は瞳の中のお雪の顔が歪み、それを正そうと瞬いた瞬間、冷たいものが頬を伝わった。
「…夢は叶わないっ…のにっ」
そんな見っともない自分を晒すのが嫌で、慌てて面輪を伏せた。だがその刹那、待っていたように、脳裏に土方の姿が浮かんだ。すると、泪は又も頬を伝わった。
「宗次郎ちゃんっ、宗次郎ちゃん…」
お雪の声がうろたえる。だが宗次郎にはその声が、初めて知った戀が禁忌であるのだと咎める、天の裁きのように聞こえる。
土方への想いが戀だと知ったのは、去年の初秋の頃だった。
以来戀心は、想ってはいけないと戒める心を裏切り、赤い焔で舐めるように、宗次郎の身の内を烈しく焼き焦がした。そしてその痛みを堪える時、宗次郎は一筋の光に縋るようになっていた。いつかこの戀が叶う日が来ると――。おぬいに訴えたのは、夢に縋りたい、自分自身だった。
地に叩きつける雨をぼんやりと見る宗次郎の瞳の端に、黒い土とは異質な色が映った。木戸の際に咲く紫陽花だった。おぬいの家の軒を借りようと思ったのは、あの花の鉢が目に入ったからだ。花は突然の雨を浴び、くすんだ町の風景の中から浮き出たように、鮮やかに咲き誇っていた。それは土方を待つ間の、暫しの別れの切なさを癒してくれるような美しい花の色だった。
「…あら」
ふいにお雪が視線を移したのが分かった。
「土方さん」
その声に、宗次郎の薄い肩がびくりと顫えた。そろそろと瞳を上げると、木戸の向うから走って来る影がある。土方だった。
土方は折った右肘を上げて雨を除け、もう片方の手で着物の裾をはしょり、勢いよく水溜まりを蹴って来る。その力強い姿は、有り得ない筈の夢をも現にするような錯覚を覚えさせる。想いは成就するのかもしれないと、宗次郎の胸の裡から消えた灯を今一度点(とも)す。
土方が、雨の裂け目から抜け出て来るように大きくなる。
瞬きをとめていた、乾いた瞳が濡れた。だがもう宗次郎は顔を俯けなかった。今、土方の姿を瞳から逃したら、今度こそ夢は恐ろしい素早さで遠のき、そして光の一筋も見いだせぬ黒い闇だけが残るような思いに囚われ、土方を凝視した。そして目の前に、激しく上下する胸板が立ち止った時、
「待ったのか?」
荒い息と共に、低い声が聞こえた。
土方の濡れた胸元からは、雨と汗の匂いがした。その匂いに包まれた時、宗次郎は目を瞑り、歯を食いしばった。そうでもしなければ、止めも無く泪が溢れだしそうだった。
針を運ぶ指が、時々止まる。そのたびに、おぬいは縁の向うに降る雨をぼんやりと見詰める。
何故あんな酷い事をしてしまったのだろうと思う。取り返しのつかない言葉で、何の罪も無い宗次郎に鬱憤を当たり散らした。耕助を失くしてから、自分は人でなくなってしまったのかもしれない。
「…そうだわ、きっと」
おぬいは唇辺を上げて、己を嘲る笑みを浮かべた。その時だった。人の声が聞こえたような気がして、耳を澄ませた。始めは雨音かと思ったが、今度は確かに戸を叩く音がした。おぬいは大儀そうに立ち上がった。だが畳を踏み出しかけた時、固まったように体も足も止まった。同時に、頭の天辺から、すっと血の気が引いて行くのが分かった。しかし雨音に混じる声も、戸を叩く音も、段々に強くなる。
「おぬい、私だ、耕助だ」
声はほとんど叫ぶように響いた。
「おぬい、いるんだろう?」
辛抱出来ず、耕助が戸を引こうとした。その寸座、おぬいは呪縛から解かれたように走り出し、框から飛び降りると、引かれかけた戸を、力いっぱい戻した。そして素早く突っかえ棒を掛けるや、戸に背を預け、ずるずると腰を落した。その間にも、おぬいの存在を確かめた耕助は、一層激しく戸を引こうとする。
「おぬいっ、おぬいっ、探していたんだ、お前がいなくなってから、ずっと探していたんだ」
男の声を背中で聞きながら、おぬいは両の手で口元を覆った。眸はもう何も映しだせない程泪で潤み、その泪が幾筋も幾筋も頬を伝わり、嗚咽を堪える喉が大きく上下する。
「おぬいっ」
耕助は力づくで戸を外そうとした。
「駄目よっ」
悲鳴のような叫びに、外が静まった。
「何故だ?もう私の事など、忘れちまったのか?」
哀しい響きが、切ない問いかけに混じった。
「…忘れる…なんて…あるわけないじゃないっ」
おぬいの声は掠れ、しゃくりあげる息だけで言葉は繋がれた。
「三好屋は辞めたよ」
おぬいは眸を瞠り、首を回して戸の障子に映る影を見上げた。
「おまえがいなくなってからすぐに。それから行商をしながら、おまえを探していたんだ」
「…うそ、よ」
顫える唇が、呆然と呟いた。
「嘘じゃない、本当だ。行商なら自分の足で、おまえを探せると思ったんだ」
「…店を辞めたなんて…。莫迦よ。あたしは耕助さんの重荷になぞなりたくない」
「俺はおぬいを手放したら、幸せにはなれないと思った」
耕助の声が、和らいだ。男は、やっと探し当てた幸福に浸る余裕を見つけていた。
「あたし…」
おぬいは両手で顔を覆った。
「…罰が当たるわ」
「罰なんぞ当たるものか」
耕助が笑った。だがおぬいは顔を膝に伏せたたまま、肩を顫わせた。胸に鋭い痛みが走ったのだ。
「…あの子に、ひどい事をしてしまった…」
夢は叶うかもしれないと、苦しくなるような必死な色を浮かべ自分を見詰めた少年の瞳が、おぬいの目に焼き付いている。
「……ひどい事を、してしまったわ…」
そうして止めも無く溢れ出る泪を拭うと、止まらない嗚咽を堪えた。
「おぬい、おぬい」
愛しい者を呼ぶ耕助の視界の端に、つと鮮やかな色が走った。視線を向けると、そこに青紫の紫陽花が雨に洗われていた。花は、雨に沈んだ風景の中で、ひと際艶やかに咲き誇っていた。その美しさに幸いの予感を兆しながら耕助は、
「おぬい、開けるよ」
戸の向うで顫えるおぬいの背を包み込むように、囁いた。
|
|