露となりしも 下
音しない雨が全てを包み込んでしまうのか、沈黙すら厳かなものに思える。
田坂が己への戒めという色の無い紫陽花を、総司は記憶に辿っていた。
先程玄関先で足を止めて自分が愛でていた淡い色彩の花が、
田坂と言う人間を未だに苦しみから捉えて放さないものだとしたら、
あのたおやかで儚い姿は何と残酷なものなのだろう。
「田坂さん・・・」
「何だい?」
「あの花・・・・」
一瞬の躊躇ののち、
「・・・もう咲かせない方がいい」
思い切って言葉にして、すぐに目を伏せた。
自分がこんなことを田坂に言うのは間違っている。
人には決して他人が踏み込んではいけない心がある。
そんなことは十分に分かっている。
だが今総司は田坂に懇願せずにはいられなかった。
田坂はもうこれ以上苦しむ必要はないのだ。否、苦しんで欲しくはなかった。
大切な人が懊悩(おうのう)する様を、総司は黙ってみてはいられなかった。
「時というのは、案外にお節介なものだとは思わないか?」
何の連脈も無い、突然の問い掛けに、総司は伏せていた顔を上げた。
何を言い出すのかと訝しげな瞳にあって、田坂は突飛無い己の言動を流石に苦笑いした。
「確かに最初は辛かったさ。
この季節になると花が色づく度に、俺はそれを見ないようにしていた。
いや、見るのを恐れていた。
親父や兄が怒って哀しんでいる、俺の所業を恨んでいる、そう思えた。
己への戒めの為に持って来たのに情けない話さ。」
「そんなこと・・」
「だがな、幾度目かの季節を迎えてある日花を見たとき・・・
そうだ、確か今日のような雨の中だったな」
田坂の目がその時の情景を手繰り寄せるように、少しだけ遠くを見た。
「不思議なことに、ぼんやりとした白い花が、ずいぶんと優しげに思えた。
雨のせいだったのかもしれないな。
その時俺は親父も兄も、もしかしたら俺を許してくれているのかもしれないと、
初めてそう思った。
いや、親父や兄を思い出す度に苦しい思いをしている俺を、
哀れんでくれているのだと思った。
花に滴る雨の雫がなんだか泣いているように思えた」
総司は瞬きも忘れたように田坂を見つめている。
「その時にやっと俺は、親父の気持ちを思っていなかった事に気がついた。
親父も辛かったにちがいない。自分の命を俺に絶たせたが為に、
俺があとでどれ程苦しむか・・・親父はきっとその事で今もあの世で呻吟している。
絶つ方も絶たれる方も同じだ。
いや、或いはそれをさせた親父の方が苦しんでいるのかもしれない」
雨の音が少しだけ強くなったような気がした。
「墓参りの人、大切な人だったのだろう?」
総司に向けた田坂の双眸が優しかった。
その眸の色に引き込まれるように、総司が微かに頷いた。
「どんな理由がその人と君の間にあるのかは知らないが、
君がまだ苦しんでいるのをみれば、その人も又同じ思いをきっとしている」
「・・・そうでしょうか」
「そうさ」
重い足枷をひとつ外してくれるように、力強く言い切る田坂の言葉が嬉しかった。
大津の宿で逃げてくれと懇願する自分に山南は、
『君を苦しめる結果になることだけを、唯一心残りに腹を切る』と言った。
田坂の言うように、山南も又次に渡った世で、辛い思いをしているのかもしれない。
本当にそうなのかどうなのかは、今の自分にはまだ分からない。
だがいつか自分にも田坂のように思える時がくるのだろうか。
幾度か同じ季節をめぐらせ時を経たら、
穏やかに山南の前で掌を合わせることできるのだろうか。
そういう日が来るのが先か、
或いは山南の元へと逝く日が先か・・・
田坂に向かって微笑みながら、更にその先に遣った視線の中で、
薄紫の紫陽花が、露に泣き濡れるように鮮やかだった。
殺風景な副長室の床の間に、
釣りあいの取れない大きな花瓶に無造作に入れられた白い花を、
総司は先程から土方が呆れるほど、飽く事無く見ている。
「お前、いいかげんにしないか」
「・・・・え?」
声を掛けられて初めて土方を振り返った。
文机に広げられた巻き紙に文をしたためていると思った土方が、
いつの間にか筆を止めて自分を見ている。
「すみません・・・お邪魔でしたか」
恥じ入るように慌てて立ち上がろうとしたその腕を、土方は掴んだ。
「この花のどこがそんなに良いのか俺には分からないが・・」
咎めるような口ぶりだった。
それに総司は小さく笑った。
「田坂さんの診療所にあったものです」
診療所を辞す時に、キヨがこの白い紫陽花を一枝切って持たせてくれた。
流石に遠慮をしたのは、仮にも腰に二本差すこの身で、
花を手に往来を歩くことに、いささかの抵抗があったからだ。
そんな総司の憂慮をものともせずに、
キヨは花の付き方の良い一枝を選んで切って総司に手渡すと、
「ほんま、沖田はんによう似合いはる花やわ」
真から満足そうに頷いた。
その横で田坂が笑いを堪えていた。
「紫陽花にしてはずいぶんと色の薄い花だな」
「田坂さんのお父上の形見だそうです。
雨に濡れて鮮やかに色を染める花なのに、
その色が無いのが返って潔いと言われて愛でられたそうです」
総司の声が心なしか楽しげだった。
それには応えず、土方はそのまま総司を腕の中に引き入れた。
後ろから胸に抱きとめられる形になって、総司は少し抗った。
「駄目です」
「何がだ」
「・・・誰かに見られたら」
「嫌か」
後ろを向いたまま、総司は微かに頷いた。
土方との関係を決して知られる訳には行かなかった。
土方の進み行く将来(さき)の邪魔だけはしたくなかった。
そんな総司の心を土方は要らぬものだと言い切る。
だが総司はそれを己の罪とするように、いつも極端に怯えている。
うな垂れた項(うなじ)の頼りなさが土方の胸に切ない。
廊下の向こうに足音がした。
それを聞いた総司が、渾身の力で土方の腕から逃れようとした。
その細い体に回した腕の力を土方は更に強くした。
「人が来ます」
抗いながら、総司の声が悲鳴に近かった。
それでも土方はその腕をはずさない。
「土方さんっ」
足音が近づいてくる。
きつく目を瞑った瞬間、ふいに絡められていた体が開放された。
思わず安堵の息を付いた時、一瞬耳朶に熱いものが走った。
噛まれたのだ・・・・
呆然と土方を見た時には、その背はすでに文机に向かっていた。
「土方先生」
人の声で我に返った。
「何か用か」
応える土方の声音は、いつもどおりの低く冷たい、新撰組副長のものだった。
「・・・何を不機嫌にしている」
伏せられた背を這う指の動きに時折震えながらも、
どこか冷めている自分を、土方は敏感に察している。
「昼間のことか・・」
声に笑いが含まれている。
「何故あんなことを・・・」
その口調に拘っていた不満がつい口から漏れた。
「さて、どうしてだろうな・・」
言いながら、肩を抱かれてそのまま体勢を変えさせられた。
土方を下から見上げるような形になって、
総司の黒曜石に似た深い色の瞳が怒っていた。
「お前があんまり花ばかり見ているから・・」
「田坂さんに貰ったものです」
花を見ていたことが何故土方のあの昼間の挙動に繋がるのか・・・
訝しげに見つめてくる瞳に土方が苦笑した。
「だから・・・」
「・・だから?」
「妬いた」
囁かれた言葉の最後まで聞いたのかどうなのか・・・
総司の動こうとした唇を、土方のそれが素早く覆った。
長い抱擁だった。
花に見とれていた戒めのように、土方の唇は熱く総司を貪った。
開放された時には、荒い呼吸を繰り返していた。
瞳は息苦しさに潤んでいる。
「・・・私は、いつも土方さんを追いかけていた・・」
「ではいつの間にかそれが逆になったのだ」
「そんなことは信じない・・」
「疑い深い奴だな」
土方の唇がそのまま項(うなじ)におりた。
きつく肌を吸われてその熱さに、体の芯の方で疼くものがあった。
それを悟られないように瞼を閉じた。
「俺はお前が心を寄せるものに、いつも穏やかでいられない。
伊庭にも、田坂にも・・・・山南にもな」
思わぬその名が出て、総司は瞳を開いた。
そこに土方の射るような、しかし深い眼差しがあった。
「お前が今日、山南のところに行ったのは知っている」
「・・・・どうして」
山南の墓参りに行くことは敢えて土方には黙っていた。
山南の事は、土方とて思い出したくは無いことのはずだった。
自分を追手に遣わせ介錯をさせたことが、
土方の心の奥で常に暗い滲みのように残っていることを、総司は知っている。
だから土方の前で山南の話題は避けてきた。
きっと自分が山南に繋がる事に触れれば、土方は辛い思いをする。
「戻って来た時、花とは違う、微かに香の匂いがした」
「・・・すみません」
「謝ることはない。・・だが」
不安そうに揺らめく総司の瞳をまっすぐに見下ろしながら
「例えそれが辛苦であっても、未だお前を捉えて放さない山南に・・・」
もう一度土方の唇がゆっくりと降りてきた。
「・・・・俺はやはり嫉妬する」
啄ばむように総司のそれを吸った後、そのまま唇をずらしてゆき、
やがて朱い烙印を押した項(うなじ)をすべり、胸にある唯一の彩りに触れると、
下に組み伏された想い人は、喉を仰け反らせて吐息した。
青みがかかった白く薄い肌が、微かに上気してゆく。
これから翻弄される波に、淫らに呑まれまいと、
唇をきつく噛み締め儚い抵抗の形を作る。
「・・・土方さんを・・追うのは、私だ・・」
途切れる切ない息の下で、それでも総司はまだ土方の言葉に抗う。
「俺がお前を追っている。来る日も、来る日も、お前だけを追っている」
それに総司はもはや言葉には出来ずに、ただ首を振る。
激しくなる愛撫の仕業か、溢れる想いからか・・瞳から露がひとつ零れた。
総司のこの頑なな心が、自分の邪魔をしたく無いという思いから来ているのを
土方は十分過ぎる程知っている。
縋る腕を望んでいながら、
いざ想いの滾(たぎ)りをぶつければ、総司は怯える。
いつかそれが離れてゆくことに、怯える。
ささやかな幸せの裏に、常にその反対の運命(さだめ)を甘んじて享受し、
総司はいつも自分の傍らで笑っている。
長い間ひっそりとそうしてきて、幸せに慣れていない心は追えば逃げる。
それが哀れだと思う。
身を裂かれる程に、切ないと思う。
どう告げたら良いのか分からぬほど、いとおしい。
胸に抱える不安を拭い去ってやることができぬのならば、
せめて力の限り抱きしめてやる他に、自分はこの想いのぶつけ方を知らない。
総司の漏らす息がせわしくなった。
潤んだ瞳がおずおずと土方を見上げる。
こんなにも乱されて、まだ総司は自分から求める事を躊躇う。
全てを解き放って激しく自分を求めさせたいと思う昂ぶりを、土方は辛うじて堪えた。
苦痛を和らげるように、唇を塞ぎながら、ゆっくりと総司の中に己を沈めた。
瞬間、白い胸が跳ね上がった。
時折遠のく意識の中で、昼見た花を思った。
土方が離れて行く日が来ても、自分は追ってはならない。
こんなにもいとおしいから、決して追ってはならない。
白い紫陽花は色がなくとも、雨に濡れて尚鮮やかに咲き誇っていた。
いつか土方の背を見送る自分に、その強さ潔さを欲しいと思う。
だが、もしも叶うのならば、せめてその時が、
この生の終わる前に来てはくれるなと、
ただそれだけを、喘がされ、翻弄される熱の中で、願った。
土方は今自分の内にいる。
この身を苛む切ない痛みも苦しみも、全部土方のものだ。
だから今だけは、土方は自分だけのものだ・・・
やがて苦痛の中に微かな悦びの片鱗を掴み出し、
必死にそれに縋りついた時、
固く閉じた瞼の裏に白い花が見えた。
土方の想いが、己の内(なか)で逆巻くように熱くなる。
雨に打たれる白い花に宿った露が、花弁を滑る。
激しく突き上げられて思わずその背に、爪を立てた。
滑る露が一瞬の躊躇いも無く、滴たり落ち、朧な視界から花が消えた。
それがすべての合図のように、激しい愛欲の修羅に、自ら堕ちた。
了