秋芳の月
「お客はん」
駕籠かきの声が、遠くから聞こえた。一寸、まどろんでいたらしい。
「清涼寺はんですわ」
今度ははっきり、近くで声がした。
「ここでいい」
揃えられた草履を履き外にでると、窮屈に辛抱していた体の隅々にまで血が行き渡るようだった。
「ほな、明日の夜明け頃、又ここで待っていたらよろしおすか?」
土方は軽く頷くと、歩き出した。
行く手に、清涼寺の土塀が続いている。
源氏物語の主人公は、この人を模して書かれたのではないのかと伝えられる、嵯峨天皇の皇子左大臣源融の別荘であった清涼寺の歴史は古い。だが格式のある寺にありがちな仰々しい堅苦しさは、不思議と無い。建物そのものには重厚な威厳を覚えるが、辺りの鄙びた風景の醸し出す長閑けさが、寺の重ねてきた長い年月を開放させているのかもしれない。
そんな事を思いながら山門を過ぎ、土方は寺の外れの四辻の手前で立ち止まった。そして暫く周りに神経を配っていたが、他に人の気配が無いと分かるや、北へ曲がり歩みを速くした。
塀づたいにしばらく行き、寺の裏に出ると、一面、田が広がる。遠くには北山が重畳と連なり、渡る風は稲穂を揺らし、実った穂先に弾けた陽が、野面(のづら)を金色にうねらせている。
茹だるような暑さに閉口していた夏も、盆を境に急に日が短くなった。朝晩の風に涼しさが兆したのもこの頃だ。そうこうしている内に、秋は足早にやって来た。だが時の気紛れな移ろいに振り回されている暇は、土方にない。隊士募集の為の東下が、二日後に迫っていた。
畠の向こうに、楠の大樹が見えてきた。惜しみなく四方に枝を伸ばしているその樹の下に、茅葺の大きな屋根がある。
茅は、柔らかな午後の日差しを吸い、白く輝いていた。
光悦垣を巡らせた屋敷は、この地一帯を司る総百姓、吾太夫(ごだゆう)のもので、今ここの離れを借り、総司が養生していた。
――今年は梅雨が開けてからの暑さが尋常で無く、雨雲は遠く雷鳴を轟かせるだけで、白雨すら降らせなかった。炎天の日々が続き、土は乾き、草木は枯れ、人々は生気を奪い取られた。
そう云う天候が続く中に、つわもの揃いの隊士の中にも食あたりなどで不調を訴える者が続出し、三分の一は隊務につけないと云う異常事態が発生した。
そして炎暑は、同様に、総司の身体も容赦なく苛んだ。
元々が病を抱える身、息苦しさに眠れぬ夜も続いたろうに、総司はそんな素振りを一切見せなかった。それでも次第に頬の肉が落ち、膚から血の色が失せて行くのは隠せず、主治医である田坂に云われるまでもなく、土方は隊務から外す事を告げた。だが総司は激しく抗った。今の隊士の数で事が起きた時、新撰組は京の町を守る事は出来ないと、それが総司の云い分だった。しかし正論を盾に譲らない総司の真意を、土方だけは知っていた。
総司の心を頑なにしているものは、一度休んでしまえば、もう動けなくなるのではと云う怯えだった。その恐怖からの逃げ道を、身体に鞭打ち続ける他見つける事が出来ないのだ。それを思えば、哀れと切なさだけが募る。しかし情に流されれば総司の命にも関わる。
思案の末、苦渋の選択として、土方は二つの条件をつけて隊務に付くことを許した。
その条件と云うのが、第一に田坂の判断には何があっても従う事、そして次に、新撰組の機能がある程度回復した時、屯所を離れて暫く静養すると云うものだった。その静養の地に土方が選んだのが、北嵯峨だった。
結局、総司が静養に入ったのは、もう秋も深まりかけた頃だった。
枝折戸を押した途端、庭のそこかしこに咲いている野菊の、甘く清冽な香が土方を巻いた。
その香の中を抜け、母屋の脇を回り中庭に出ると、小さな池がある。その池の向こうに離れはあった。
総司は濡れ縁に腰掛けていた。こちらに背を向け、庭に立っている人影と何やら熱心に話し込んでいる。背格好からして吾太夫らしい。そう判じた時、総司が顔を上げた。土方の姿に、一瞬眼を瞠ったが、みるみる喜色のいろを浮かべた。
「土方さんっ」
総司の声に、吾太夫も振り向いた。
「これはこれは、土方様」
今日の来訪は告げていなかったから、吾太夫も驚いたらしいが、すぐに相好を崩した。
吾太夫の髪は眉に至るまで、白く染まっている。今年還暦を迎えたと云っていた。しっかりした目鼻立ちだが、剛毅と云うよりも穏やかな印象を先に与える。それは幾代もの御世、この地と民を守り続けた家の当主としての威厳と品格がさせるものだろうと、初めて会った時、土方は吾太夫の人柄をそう捉え、信頼のおける人物と踏んだ。そしてその事を、総司を預ける一番の要因とした。
「世話をかけている」
「滅相もあらしまへん。沖田さまが来てくれはってから、この年寄りの楽しみが増えましたわ。今も菊の話を聞いて貰ろうてましたのや」
「菊の?」
総司を見下ろすと、口元が楽しげに笑っている。そして、つと瞳を庭の一角に向け、土方の視線を促した。
「嵯峨菊です。帝をお慰めするために、ずっと昔から作られて来たのだそうです」
鉢に植えられた菊は、親しみのある野に咲くものとは違い、花弁の先が大きく婉曲を描き、雅な大輪の花と云った趣がある。
「嵯峨菊は嵯峨天皇が嵯峨御所…、今の大覚寺はんですわ。その大沢の池の島に植えはったのが、始まりと云われてます」
吾太夫は、花に視線を落としている土方にその由来を教えた。
「菊、と云う野趣は感じませんな」
「はい、おっしゃる通りでございます」
率直な感想に、吾太夫は頷いた。
「実は私もこの大輪の花よりも、野に咲く菊の方が好きですのや。小さな菊は自分の力で咲き、私らの目を楽しませてくれます。人の手で雅に咲くお姫様とは違いますわ」
少し声を落とし、吾太夫は、小さな秘密を打ち明けるように笑った。これには土方も苦笑した。
「今宵はお泊りにならはりますか?」
吾太夫が訊いた。
北山の稜線に刷いたような朱を残し、天道が沈もうとしている。傾けば、秋の夕暮れは呆気ない程に短い。
「造作をかけるが、そうしたい」
「とんでもあらしまへん」
吾太夫は手を振ると、
「沖田はんが、喜ばれはります」
身内の喜びを語るように総司を見た。柔らかな目を向けられ、総司は瞳を伏せた。それは隠し切れない喜びを知られるのを恥じるような仕草だった。
夕餉の時には中天にあった月が、いつの間にか傾きを低くしていた。猫が目を細めたように尖ったそれには暈(かさ)がかかり、橙色と薄紫の朧な光が、白い暈を透けさせている。
その光が少しずつ西へ流れ、やがて夜に消える。風が出てきたのだ。
「いつまでそうしている」
月を観るのだと云って縁に出たきり、一向部屋に戻る様子の無い背に、土方は声を掛けた。総司は顔だけ振り向いた。
「ここで観る月はとても綺麗なのです。土方さんも観たらいいのに」
「月なぞ、どこで観ても一緒だ」
にべもないいらえに、仄白い面輪が可笑しげに笑った。が、それきりだった。総司は又視線を月に向けてしまった。
「総司」
二度目の声が尖った。
滅多な事では見せないが、土方にはひどく癇症な所がある。殊、相手が総司だと手加減が無くなる。総司もそれが分かっているから、ここらが潮時と諦めたか漸く縁を離れた。だが面輪には、心残りをとどめている。それが土方には面白くない。
「俺より、月がいいか?」
総司は困ったように笑った。
「来いっ」
焦れた手が、骨の浮き出た手首を荒々しく掴むと、体勢を崩した身体が土方の胸に倒れ込んだ。そのまま、頤を上向かせ口を吸おうとすると、総司は顔を反らせて拒んだ。
「嫌か?」
「そうじゃない」
瞳を伏せたまま、小さく首が振られた。
「では何だ?」
男の勝手が、己を拒む訳を乱暴に問い、責める。総司は寸の間、唇を噛み締めるように沈黙したが、ややあって静かに土方を見上げた。頬の肉が落ちた分、大きくなった瞳が黒々と濡れていた。その目でじっと土方を見詰め、云った。
「土方さんが、哀しむ」
総司は笑おうとしたが、それは硬く強張り、言葉の終わりが微かに顫えた。土方の胸を、火の塊で貫かれたような、灼(あつ)く重い痛みが走った。
哀しむ…。
それは、激しい抱擁に、もう応える事の出来ない身を指したのか、それとも肉の削げた裸身を晒す事を指したのか、或いはその両方なのかもしれない。
観月にことよせ振り向こうとしなかったのは、この言葉を伝えるのを僅かの間でも伸ばしたかった、総司の切ない願いだったのだ。
――土方さんが、哀しむ。
そんな言葉でしか身体の衰えを伝えられない総司の心が、土方には辛かった。辛く、哀しかった。哀しく、愛しかった。その全てが堰を切り、押し寄せる。
どのような言葉を、かけてやればいいのか。
どのような言葉も、真実の前では嘘になる。
天を恨む事しか出来ない己が、情けなかった。
「ならば、今夜は枕を並べて寝ていいか?」
搾り出すように耳元で囁くと、胸に埋もれていた面輪が小さく頷いた。
闇に溶けた月明かりが、夜を青く染めている。
床に入っても、総司はここでの一日を飽かず語り続けている。その殆どが吾太夫からの受け売りで、時折は唐土の昔話にまで及ぶ。
「吾太夫は、物知りだな」
半ば皮肉交じりの相槌に、総司は笑みを浮かべた。が、ふとその笑みを引いた。
「土方さんは、菊花の約(ちぎり)と云う話を知っていますか?」
「知らんな」
「今から百年ほど前に出された、読み本の中にある話だそうです」
「百年?苔が生えて来そうな話だな」
忍びやかな笑い声が、薄闇を揺らした。
「笑っていないで先を教えろ」
話の行方を知りたいと焦れる心ではなく、自分を構わぬ苛立ちが先を促す。
「昔…。まだ江戸の町すら無い頃、儒学を学んでいた若者が、病で倒れた旅人を手厚く看病している内に、その旅人の豊富な知識と高潔な人柄に感銘を受け、病が癒えてから義兄弟の契りを交わしたのです。旅人の方が年上だったので兄、若者が弟と」
土方は黙って聞いている。時折、温もりを求めるように、総司の背に回した手の平を滑らせる。
「でも旅人は、仕えていた主が討たれ、その仇打ちの為に遊学先から故郷出雲の国松江に戻る途中だったのです。だからどうしても一旦国へ帰らなければならなかった」
「それで?」
「約束をしたのです」
「約束?」
「重陽の節句にまでには、必ず帰って来ると」
「重陽の節句?菊の節句か…」
重陽の節句とは、九月九日、五節句のひとつで別名菊の節句とも云われている。
「それでは俺は、その狭間に来たのか…」
土方は指を折った。今宵は十七日。その前に来たのが十日前だから、彼の節句を跨いでしまったと云う訳だった。
「いいのです。重陽の節句でなくても、土方さんはこうして来てくれたから…」
瞳を伏せた仕草を見詰める土方には、ひとり辺鄙な地で自分の来訪を待っていた総司の孤独が辛い。
「さてはその男、約束の日に帰らなかったのだな?」
夜のしじまに寄り添えば、どこまでも己を失くしてしまいそうな感傷に引き摺られまいと、土方は声を励ました。だが総司は小さく首を振り、予想を違えた事をからかうように目を細めた。
「ほう、来たのか?」
「帰ってきたのです、芒の影も夕闇に溶けてしまう夕暮れ時になって」
「律儀な奴だな」
「けれどそれは、幸せな再会ではなかったのです」
「ふん、世の中そう上手く行くものか」
ひねくれた物言いが面白かったのか、軽やかな笑いが洩れた。
「土方さんは、いつもそうだ」
「生憎だったな」
不機嫌に睨まれても、総司の笑いはなかなか止まなかったが、焦れた指先が顎に掛ると、覗うように瞳を上げた。
「で、どんな結末だって?」
「やって来た義兄は、人ではなかったのです」
「人では、無い?」
土方の胸に隠れるように、総司は頤を引いた。
「故郷に戻った兄は、主君の仇と、その仇に与してしいた縁者達に囚われてしまったのです。閉じ込められた牢の中で月日は悪戯に流れ、とうとう重陽の節句になってしまった。…このままでは約束を守る事は出来ない、でも義弟に軽蔑される事は死ぬよりも辛い。思い詰めた末、兄は命を絶ったのです。人の身では一夜で千里を駆ける事は出来ない。けれど人の身を捨てた魂魄ならそれが出来ると云う、唐土の云い伝えを信じて…」
「それで自害か?ぞっとしない話だな」
「そうかな」
返した声が笑った。
「でも…」
総司は再び瞳を伏せた。
「…私は、兄を待ち続けていた弟が羨ましい」
ぽつりと声を丸めたその核に、寂しい響きがあった。
「羨ましい?命を賭してまで、約束を守って貰えた事がか?」
総司は黙ったまま、口辺に笑みを浮かべた。
「俺とて、約束は守るぞ。それともお前は、俺が約束を守ら無い様ないい加減な男だと云いたいのか?」
腕枕をしながら、からかうように土方は云った。
「違う」
黒目がちの瞳が、慌てて土方を見上げた。
「そんなんじゃない…」
瞬いた睫毛が、抜けたように白くなった頬に濃い影を落とした。
「では何だ?」
問われて、総司は言葉を選ぶように思案していたが、やがて小さく呟いた。
「鬼に、ならなかったから…」
「鬼?」
細い頤が、躊躇いがちに引かれた。しかしややあって、もう一度、今度は土方の目を見て深く頷いた。
「どう云う事だ?」
「…その話を聞いた時から、私は…」
総司は言葉を止めた。語るに、まだ躊躇いが勝るらしい。
「聞いた時から?」
だが土方の掌が、赤子をあやす様に背を包むと、その温もりに促され唇を開いた。
「毎日、私は菊の花を一輪活けて貰うようにしたのです」
土方は、床の間に目をやった。
一輪挿しに、菊の花が活けてある。屋敷の地を踏んだ瞬間巻かれた清冽な香が、この部屋にも満ちていた。
「それと鬼がどう関係する?随分と、優しい鬼だな」
苦笑混じりのいらえにつられたか、総司の面輪も和らいだ。だがそれは、すぐに寂しげな笑みに変わった。
「鬼は鬼だ…。優しくなんてなれない」
「お前の云っている事は、分からんな」
「…分からなくてもいい」
「俺は知りたい」
強い眼差しが、残酷に先を促す。総司は小さく吐息した。潜めた息に、隠すことを諦めた観念があった。
「私は、菊の花を活けて待っていれば、きっと土方さんが来てくれるような気がした…」
「花になぞ頼らなくとも、俺は来る」
「そうじゃないっ」
激しい声が迸った。
「…そうじゃないのです」
見詰めていた瞳が、一瞬青く煌めいた。
「分かるように教えろ」
「…もし土方さんが、囚われの身になっても、逢いたいと、私はただそれだけを願ってしまう。人でなくてなくなってもいい、魔物でもいい、どんなに姿でもいいから逢いに来て欲しいと願ってしまう。私には、土方さんが命を失う事よりも、土方さんと離れてしまう事の方が恐ろしい。毎日が恐ろしくて、気が狂いそうだった。だから私は菊の花を活けた。そうすればきっと土方さんを呼び寄せる事ができる…、そう思った。愚かな事だと分かっている。でもそうする他できなかった。…私の心には、鬼が居る」
瞳から溢れ出たものを、総司は隠そうとはしなかった。
「私は、鬼だ…」
そして頬に伝わるそれを拭いもせず、笑おうとした。しかしすぐに面輪は伏せられた。薄い背は、裁きを待つ咎人のようにじっと動かない。
土方は、目を閉じた。
この穏やかな里で、総司の心に棲みついたのは虚無以外の何ものでもなかったのか…。緩やかに流れ行く時は、慌しい日々に紛れ忘れていた病への恐怖を思い起こさせるだけのものだったのか…。そしてそれらはとことんまで、総司を追い詰めた。孤独に砕け散りそうな心を、菊花によせた昔話に託さなければ狂いそうな程に。己を鬼と云った総司を、誰が責められると云うのだろう。
土方の目の奥を、火のような熱さが走った。
北山から下りた野分が、一時激しく梢を騒がせていたが、それが鎮まると、風は粛々と林を渡り始めた。
暫らく、二つの影は息をも止めたように身じろぎしなかったが、やがて土方はいだくように、総司の頭を己の顎の下に埋めた。
「鬼を喰ったら、俺も鬼になれるのだろな」
腕の中の身が、びくりと強張った。
「…抱きたいな、総司」
溢れ出る想いを静かな言葉にした時、先程の熱いものが眦から滑り落ちた。
哀しませるとは、総司はもう云わなかった。そしていらえの代わりに、土方の首筋に腕を絡ませた。
「辛ければ云え」
夏を越え、一回り細くなった身体を膝の上を跨がせ、重ねていた唇を離しながら、土方は囁いた。それに総司は小さく首を振った。
丹念な愛撫に若い身体は従順に応え、透けたような膚には血の色が上り、落ちる睫の翳すら艶めいている。
指を滑らせれば、甘い吐息が絶え間なく洩れ、舌を這わせれば、喘ぐ声が湿った。そしてそう云う自分を、総司は隠そうとしなかった。
「あっ…」
二つ身をひとつに重ねようとした瞬間、腕の中の背がしなやかに仰け反った。
「苦しいか?」
総司はうっすら瞳を開けた。そして躊躇う土方を促すように、肩に顔を埋めた。
「…もっと」
消え入るような声で呟くと、頬をつけたまま瞳だけで見上げ、微かに笑った。
「もっと貪らなければ、鬼にはなれない…」
「それは困るな」
土方は苦く笑った。そして骨の浮き出た腰に手を当て、今度こそ、熱く滾った己の切っ先を喰い込ませた。掴まれた肩に、爪が深く食い込む。それとて、総司が堪えている痛みを共に感じているのだと思えば、土方にとって悦びのほか無い。
動きを止めると、総司は強張りを解く。その一瞬を逃さず、土方は己を突き上げる。そのたびに身体は跳ね上がり、腰は逃げを打つが、強く引き戻されると、総司は更に熱い深遠へと土方を誘う。
「ああっ…」
白い喉首が、折れる程にしなった。土方の腹に、辛さを凌駕して得た総司の悦びが触れる。紙の砦を透けて溢れ込む仄青い月華を浴び、白い裸身がうねる。
「綺麗だ…総司」
声など、もう届いてはいないのかもしない。総司は喉を反らせたまま瞳を閉じ、押し寄せる快楽の濤に呑まれ、そしてその濤を追っている。終を迎えるのを恐れるように腰の動きを止め、しかし辛抱が効かぬように、すぐにうごめく。せわしく、荒々しいふたつの息が、交互に、あるいは絡んで部屋に満ちる。
「…いや…だ」
土方の肩口に、総司が顔を埋めた。
「…離れたくない」
狂う事でしか拭い去れない慄きに、細い裸身が乱れる。
「土方さんっ…」
やがて喉で押し殺したような叫びが、総司の唇から放たれた。その刹那、背は一層仰け反り、四肢の先までが鋼のように強張った。そして一瞬の後、快楽に溶けた身体がぐらりと腰を落とした。それを受け止めた土方の眉が、切なげに寄る。同時に洩れた短い呻きが、愛しい者の内で、熱い辛抱の糸を断った。
互いを貪り合い尽くした後に訪れた、黄泉のような静謐が、ひっそりと闇に沈む。
身体を繋げたまま、総司は土方の胸に顔を埋めている。息をするたび、蝶が羽を動かすように、開き狭まる貝殻骨を手の内に包みながら、土方も又、総司の首筋に顎を埋めた。
離れたく無いと訴えた悲痛な声が、津浪のように耳に蘇る。
だが総司は知るまい。例え肉が削げ、朽ち、皮を纏うだけの骨になり、やがてその骨が風に散ろうとも、自分はこの身を離しはしない事を。
この自分こそが、疾うに鬼なのだと――。
埋めた首筋から伝わる血の流れを、土方は唇でなぞった。聞き取れぬほどに微かな声が、合わせた膚から伝わる。気だるく流した視線の先で、唇を食いしばるようにして、総司が嗚咽を堪えていた。
「…泣くな」
叱りながら、土方は目を閉じた。そして、この世ではどうしようもない理への憤怒と、天の定めに立ち向かうように、唯一の者をいだく腕に力を込めた。
野面に、低く霧が立ち込めている。
それは薄くなったり厚くなったりしながら、東へ流れて行く。その霧の合間から、時折、黒い人影が見える。頭に大きな籠を乗せた女だった。籠から覗いている花々が、淡色の夜明けを彩る。都に花を売りに行くのだろう。
朝露を含んだ草を踏みしめながら畦道を行く土方の目は、背中に置いてきた者の面影を追っている。
別れ際、総司は笑みを浮かべた。だが言葉にした途端、離れたくないと泣いた言霊の囚われ人になるのを恐れるかのように、一言も語ろうとしなかった。それが哀れだった。しかし土方の心は、その約(ちぎり)で、雁字搦めにこの身を縛れと猛り狂う。総司が自分を想い苦しむ、自分だけに恋焦がれ苦しむ、それは至上の悦びだった。
唯一無二の者と巡り逢ったその刹那、己は自ら人を捨て修羅に落ちたのだ。
清冽な菊の香を纏い見送ってくれた想い人は、まだ庭に佇んでいるのだろうか。否、きっと、そうなのだろう。そして江戸から帰った自分を、衒いの無い笑みを浮かべて迎えるのだ。愁いなど、ひとつも無いような澄んだ目をして。
「鬼さ…」
低い呟きを、流れ行く霧が浚った。
土方は足を止めた。
振り向くと、屋敷は黒い影となり、霧の向こうに半分だけ浮き上がっている。
暫しその影を身じろぎもせず見詰めていたが、霧が薄くなり、広大な屋敷が全貌を現すと、静かに踵を返した。
東から射し始めた微かな陽が、野の草花に滑る露に弾ける。陽は包み込むように柔らかく、秋の深まりを教える。
行く手に、清涼寺の土塀が見えて来た。
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