勾配のきつい坂のほとんどを、その女(ひと)は駆けて来たらしく、宗次郎の腕を掴まえても、暫くは息を整えるのに精一杯で、中々言葉が出てこなかった。
それでも自分を見上げている少年の瞳に畏怖があるのを感じ取ると、荒い息を繰り返しながらも、ぎこちない笑みを浮かべた。
そうして、問うた。

歳三さんは、居るかと――。








                  やつあたり (上)





「それで、宗次郎は何と云ったのだって?」
縁に腰掛け、重く垂れ込めていた鉛色の雲から、とうとう落ちてきた雫を、ぼんやりと見上げている背に、富弥は、三味線の弦の締め具合を確かめながら声を掛けた。
「・・いないって、・・そう応えたのです」
躊躇いがちに振り向いた面輪には、曇天が室の中をひときわ暗くしているのを差し引いても、凡そこの少年らしく無い翳りがあった。


――江戸。浅草、猿若町。
時の老中水野越前守忠邦は、庶民の奢侈取締りと火災予防、更には風俗の厳正を兼ね、市中に散らばっていた芝居小屋を一箇所に集めて、吉原のように周囲を掘割で囲った町を作った。
 町は、一丁目に中村座、二丁目に市村座、三丁目に守田座を配し、その裏通りには、華やかな表とは対を為すように、役者を始め、芝居に携わって生計を立てている者達の居偶が、ひっそりと軒を連ねていた。
そしてそのような町と宗次郎が関わりを持ったのは、試衛館に預けられた年の秋に起こった、思いもかけない出来事に端を発していた。

 その日、師の周斉から初めての使いを命じられ、弾む足で道場の前の坂を下ったまでは良かったが、預かった文を何処かで落としてしまったのに気付いたのは、目当てとする屋敷も、もうすぐ間近と云う段になってからだった。
慌てて辺りを探し回ったが、折から吹いた秋風が意地悪く飛ばしたものか、其れらしきものは何処にも見当たらず、自分の足元に伸びた影法師だけが心細げに揺れていた。
行く先も、帰る先も無くしてしまったと思い込んだ幼い心は、疲れた足を当ても無く引き摺らせ、やがて人波に流され辿り着いた先が、試衛館からは遠く離れたこの猿若町だった。
そして其処で迷子として一晩厄介になった、大工の松吉とおゆきと云う夫婦に、あれから六年の歳月を経た今も、宗次郎は年に幾度か会いに来る。

今日も上野まで使いに出ると云う弟弟子に、どうせならば猿若町まで足を延ばしてはどうだと、先に云いだしたのは、若い師の勝太だった。
そしてその心遣いに、宗次郎は嬉しげに頭を下げた。
だが家に居ずとも、町の何処かで金槌の音が聞けると思った松吉は、意外にも、品川にある大名屋敷の普請の手伝いに出ており、おゆきも、働いている茶屋から戻るには、まだ小半刻程あるのだと、今ではすっかり顔なじみになった隣の老婆が教えてくれた。
そのおゆきの帰るまでの間、ふと富弥の顔を見に行こうと思い立ったのは、宗次郎自身、理由づけに詰まる衝動からだった。




「で、確かに居なかったのだろう?あの兄(あに)さんは」
「居なかったけれど・・」
「けれど?」
細棹に張られた三本の弦を指で押さえ、時折、撥で鳴らす小さな音に耳を澄ませながら聞く富弥の神経は、大方其方に持ってかれている。
「でもじきに、戻る筈だったのです」
他の事によそ見しながらの問いは、真正面からで無いだけに、躊躇いがちだった宗次郎の口を滑らかにさせる。
「其れを、宗次郎は、そのお結(ゆう)さんとやらに云わなかった」
が、富弥の言葉に頷いたとたん、深い色の瞳が、その事で咎を受ける罪びとのように揺らいだ。

 
 六年の歳月の中で、松吉夫婦を通し、宗次郎も、町に暮らすさまざまな人間と縁を結んできた。
その一人が、富弥だった。
今はどの座にも属していない富弥は、掛かる声の絶え無い三味線弾きである。
若い頃は女形として鳴らした時代もあったと云うが、その人気をあっさり捨て、三味線弾きとしての道を選んだと云う経緯は、今も町の語り草だった。
もう五十を過ぎた細面の造りは、下手をすれば十も若い松吉と同じ位に見える。
その富弥は、宗次郎の顔を見れば、似合わぬやっとうなぞさっさとやめ、早く自分の弟子になれと笑う。
其れが満更冗談でも無さそうで、そう云う時の富弥の宗次郎を見る目にあるのは、冷徹に物事を見据える、玄人の厳しさだった。
だがそれ以外の富弥は、松吉夫婦が我が子と変わらずしている宗次郎の成長を、同じように慈しんで見守って来てくれた。
その、剛と柔を併せ持つ富弥だからこそ、じくじくと、いつまでも胸の裡のわだかまりに拘り、そこから抜け出す事の出来ない自分を叱ってくれるのでは無いのかと・・・
そんな都合の良い解釈で物憂い心をくるむと、宗次郎は、三味線に視線を落としている、品の良い横顔を見詰めた。


「けれどお前は嘘を云った訳じゃ無いのだから、気にかける事は無かろう。しかもその娘さんは、今じゃ所帯を持って子も生まれ、幸せに暮らしているんだろう?」
じっと動かぬ視線に根負けしたか、ようよう上げた眼差しが、何やら其れだけでは済まないらしい少年の葛藤を見透かせ笑っていた。
「でも・・」
「でもどうした?」
同じ問答を繰り返し、先を促すのには骨が折れる。
それでも富弥は根気良く、宗次郎と付き合うつもりらしかった。
「本当に、その人は幸せなのかな?」
「幸せなのか・・って云うのは、お結さんが、自分の亭主よりも、今も歳三さんに未練を残していると云うことかい?」
躊躇うように一瞬間を置き、そして微かに頷いた面輪が、過ぎた真剣で強張った。
が、その寸座、富弥の口から、堪え切れない笑いが漏れた。
「おじさん・・」
張り詰めていた神経を、まるで枝葉を切るように、いとも容易く断たれてしまった困惑に、凝視していた瞳が驚き瞬いた。
「時々、お前は本当に面白い事を云う」
ひと笑いした後、その名残を口元に浮かべながら、向けた眸が柔らかかった。
その富弥を、宗次郎は言葉も無く見詰めている。
「お前の話を聞く限り、お結さんとか云う娘さんは、確かに二年前のその時は、歳三さんに首っ丈だったんだろうよ。だが今はどうだろうねぇ・・」
「どうだろうっ・・て?」
欲していたいらえの尾尻を、やっと掴んだ安堵は、今度は焦燥となり宗次郎の声を逸らせる。
「人の心は、ひとつじゃないと云う事さ」
「それでは、分かりません」
縁に置いていた身を、遂に座敷に回して富弥と向き合い問う調子には、待ち望んでいた答えを謎掛けにすり替えられた、真摯な怒りがあった。







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 お結と云う女性(にょしょう)は、試衛館から西へ半里程行った町にある、蒲池屋と云う油問屋の一人娘だった。
他の店よりも安価で油を売ると云うので店は流行り、宗次郎も、幾度か行灯に使う魚の油を買いに走った事があった。
だがそれだけが用だった店を、殊更意識せざるを得なくなったのは、ある日お結の父親が、娘が歳三と所帯を持ちたいと云い出したと、えらい剣幕で試衛館に怒鳴り込んで来た事にあった。

 頬骨の突き出ている顔を額まで赤くした蒲池屋は、応対に出た勝太に言葉を挟む隙も与えず、一気にがなりたてるや、今後一切娘とは会わせないからそう伝えろと捨て台詞を吐き、肩を怒らせ坂を下りて云った。
しかしその夜やって来た土方は、昼間の一件を伝える勝太に、自分の与(あずか)り知らぬ事だと、すげないいらえを返しただけだった。
その、あまりの云い様に、昼間の騒動で己が蒙った災難も忘れ、お結への同情に動いた勝太は激しく土方を責めた。
が、当の本人は友の憤怒などさっさと放り、宗次郎が使っている、三畳が一間の狭い部屋に敷かれた蒲団に潜り込むと、何事も無かったかのように寝入ってしまった。

けれど宗次郎は、聞きたかった。
蒲池屋が云ったのは、本当だったのかと。
そして土方には、少しでもその気持ちがあったのかと・・・
身じろぎすれば触れてしまうそうに近くで寝息を立てている人の温もりを、泣きたい程に求めながら、宗次郎は、一晩、眠れぬ夜を過ごした。

 そんな事があってから、十日も経たぬ内だった。
試衛館に続く坂を駆け上って来たお結が、たまたま門の前に居た宗次郎の腕を掴まえるや、乱れた息のまま、歳三さんはいるかと問うたのは。
いないと、そう応えた宗次郎に、お結は落胆の色を隠さなかった。
が、直ぐに勝気そうに口元を引き締めると、それ以上は何も聞かず、来た時よりも幾分足を早めて坂を下りて行った。
そしてその背が振り向くことは、一度も無かった。
やがて宗次郎は、知る事になる。
試衛館にやって来た日の夜、お結が店の手代と駆け落ちをした事を――。


 お結の縁談を急ぎ進めていた蒲池屋は、始め消えた娘の行方をひた隠しにして探していたが、人の口に戸は立てられず、噂が広がるのはあっと云う間だった。
そして試衛館に、最初にその話を持ってきたのは、周斉だった。
鳶に油揚げを浚われるなんざ、歳三もだらしがねぇと笑う周斉の声を遠くに聞きながら、宗次郎は、自分の心の臓が、今にも飛び出さんばかりに激しく波打つのを、胸に手を当て必死に鎮めていた。

あの時、お結の顔にあったのは、追い詰められた者の相だった。
お結は土方を本当に好いていた。
だが土方のつれない態度は、美貌の娘の矜持を逆なでし続け、積もりに積もった苛立ちが堰を切った時、お結の足は形振りかまわず試衛館に走っていた。
そして其処で土方の不在を知るや、万が一に賭けていた希(のぞみ)は、ふつりと音を立てて切れた。
否、切れたのでは無く、お結は自ら、振り向かない男への未練を、意地の刃で切ったのだ。
そして土方への当て付けのように、店の手代と姿を消した。
それがお結にとって唯一、自分を気丈に立たせておける術だったのだ。
けれどもしも。
もしもあの時、あと半刻もすれば土方は戻るのだと、そう教えたのならば、お結はどうしたのだろうかと、今も宗次郎は思う。
土方は居なかった。
だがその先を噤んでしまったのは、お結を土方に会わせたく無いと願う、宗次郎の嫉妬がさせたものだった。
半刻。
それを待ったとて、お結の望むような結果は得られなかっただろう。
だがそれは推量であって、確かではない。
そのもしもを、無理矢理摘み取ってしまった事が、常に宗次郎の心に、しこりとなって残っていた。




――お結が居なくなって、ふたとせ。
瞬く間に過ぎ行く日々にあって、その思いだけが、宗次郎の心に重く圧し掛かったまま時を止めていた。
しかしわだかまりを持ちながらも、強烈な夏の陽が、季節の移ろいの中で少しずつ鮮明さを欠いて行くように、この一件も、宗次郎の裡で輪郭を朧にしかけて来た二日前、突然、其れは現(うつつ)の息を吹き返した。

 娘の事で父親が乗り込んできたと云う経緯もあり、試衛館では蒲池屋で油を買うことは無くなったが、それでも店は表通りに面しているから、その前を通る事も間々ある。
だが宗次郎は、余程の事が無い限り、この道を避けてきた。
それが、今はこの家に居ないお結に対する引け目だと云う事は、宗次郎自身が十分に知っていた。 
が、その日は不意に暗くなった空が、帰りの足を急(せ)かせていた。
夏の仕舞いの、こう云う時期の天候には良くある不意の崩れだったが、俄かに立った雨雲はどんよりと重く、町を闇色に包み込みながら、宗次郎の背を追うように迫って来る。
既に内藤新宿の方角は昼とは思えぬ暗さで、天に走った青い閃光が、地を割るような轟となって、一瞬、家路を急ぐ人々の動きを止めた。
そしてその寸座、落ちてきた大粒の滴が、足元に黒い染みを作り始めた。
乾いた地を、斑(まだら)にそめながら立ち上がる土埃の匂いに包まれ、濡れるのは覚悟しなければならないと、そう思った時だった。

「・・ちょっと・・」
後ろで、誰かの声がした。
が、始め其れが自分の事を呼んでいるのだと、宗次郎は思わなかった。
「あんた、歳三さんの処にいた子じゃないの?」
だが二度目の声が届いた時、先を急ぐ事だけしか知らなかった足が、ぴたりと止まった。
途端に耳を煩くし始めた、心の臓の音を鎮めるまで、どれ程の時を要した事か――。
其れは恐ろしい程に長くも思え、残酷な程に短くも思えた。
だが宗次郎は、振り向いた。
そして二年の時を一気に遡り、軒の下に立つお結の姿を、両の瞳でしかと捉えた。
しかし次の瞬間、宗次郎を当惑させたのは、お結の腕にいる赤子の存在だった。
まだ乳離れも出来ていないのだろう幼子は、雷(いかずち)の音に寝ているところを起こされた事が不満らしく、顔を赤く怒らせ、今にも泣き出しそうにしている。
その機嫌を取るようにゆすり上げながら、お結は、硬い面持ちで見詰めている宗次郎へ視線を戻した。

「あの坂の上の道場へ、帰るんでしょ?」
二年前はきつい印象を与えていた目が、幾分ふっくらとした頬と相俟って、宗次郎に柔らかく笑いかけた。
そのお結に、何と応えて良いのか分からず、宗次郎は、ただ立ち尽くす。
「だったら持って行きなさいよ、濡れちまうわよ」
が、お結はそんな宗次郎の様子など気に留めるでも無く、幼子を片手にすると、空いた左の手で、店の壁に立てかけてあった傘を取り差し出した。
それに必死に首を振る少年の姿は、宗次郎の複雑な胸の裡を知る筈も無いお結には、ただの遠慮にしか映らない。
「気にしなくていいのよ、傘一本無くしたって傾くような身代じゃないんだから」
少しだけ高くなった笑い声が、少年の含羞を包むように優しかった。

「お結」
店先の様子が垣間見えたのか、不審げに呼ぶ声に、お結が振り向いた。
やがて奥から出てきた男は、宗次郎を見止めると小さく会釈をしたが、正体を問うようにお結に目を向けた。
「坂の上の道場の子なのよ、傘を持って行きなさいと云っているの」
紺地の単を涼しげに着付けた男は、ああと、すぐに合点の行った顔をし、宗次郎へ向き直った。
「返してくれるのはいつでもいいんですよ、それよりも早く帰った方がいい。下手をすれば傘だって役に立たない降りになりそうだ」
お結から受け取った傘を、男は半ば強引に宗次郎に持たせると、深いねず色の天蓋を見上げ呟いた。
だが直後に呼ばれた声に、張りの良い返事を返すと、急いた足取りで中へ消えてしまった。

「あの人の云うとおりよ、早くに行った方がいいわ」
その後姿を、目線だけで送ったお結だったが、とうとう堪忍が切れた子供が泣き出してしまうと、其れが切欠のように話を切り上げ、自らも後ろを向けた。
が、その足が不意に止まり、今一度宗次郎を振り返った。
そして何かを云い掛けて唇が動いたが、しかしそれが声になる事は無く、仕舞われた言葉は、笑みの形に結ばれた。
そのまま、白い手が、藍の暖簾をゆらりと分けた。

だが宗次郎は知っていた。
お結が云いかけてやめた言葉を。
土方はと、そう問おうとして、お結は其れを笑みの中に閉じ込めた。

 雨は激しい音を立てて傘に当たり、今にも紙を突き破りそうな勢いで降り始めた。
慌てて出てきた丁稚が、手早く暖簾を仕舞う様をぼんやりと瞳に映しながら、宗次郎は、暫し身じろぎもせず、蒲池屋の店の前に佇んでいた。



結局のところ。
蒲池屋が、一緒に逃げた手代と、生まれたばかりの子と暮らしていたひとり娘の居所を探し当て、家に連れ戻したのは、半年前の事だった。
元々手代は実直な気質の人物で、駆け落ちと云っても、自分に岡惚れだったのを承知していたお結が、其れを逆手にとっての企みだったから、蒲池屋としても元は信頼を置いていた相手に強い事は云えず、親子三人が丸く家に収まったと云う形になった。
そしてその経緯を、宗次郎は、あろう事か土方自身の口から聞いたのだった。






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「土方さんは、知っていたのです」
「そりゃ、噂のひとつやふたつ、耳に入って来ても不思議は無いだろうよ。しかも他人事とは云い切れなかった仲の相手だ」
三本の弦の張り具合を、押さえた指で確かめながら問う調子は、昂ぶった宗次郎の神経に肩透かしを当てるかのように気が無い。
「それとも、何かい?」
が、不意に思い立ったかのように、富弥は弦に落としていた目を宗次郎に向けた。
「お結さんが戻って、あの兄さんの悪い虫が又動き出しはしないかと、宗次郎はそれを案じているかい?」
「そんな事、思ってなどいません」
からかわれたと、気付く余裕すら無い細い面輪にある瞳が、真摯な怒りを湛えた。
「まぁ、そう怒りなさんな」
其れを受け止めた双眸が、交わす事を知らない少年の不器用を慈しむかのように細められた。












猿若町界隈    やつあたり(下)