雪明り 二十七
「少し、幼い頃の話をしてもいいか?」
池の端に佇み、翔一郎は聞いた。総司は黙って頷いた。
「養家が没落すると、私は暫くこの京で、直江に育てられていた。丁度母の病が重くなった頃で、少しでも長く母子を近くに置いてやりたいとの、直江の心遣いだったのだろう。そしていつものように見舞いに行ったある冬の日、母は私の手を取り、私には双子の弟がいると教えた。その時の事は、今も鮮明に覚えている」
まだ幼いばかりの子供にとっても、それは衝撃だったと、翔一郎は総司に向かって笑みを浮かべた。
「同じ日、同じ刻、同じ瞬間に天から生を授かり、同じ母の胎内で時を刻んで来た弟。それはもうひとりの私だ。私の目に映るもの、耳に聞こえるもの、膚に感じるものを、弟は、私と同じように見、聞き、感じているのだろうか。それとも違うのだろうか…。弟を思う時、私は初めて自分を愛おしいと思い、そして自分を思う時、弟への愛しさが募った。それは父母を慕う心とも違い、直江への信頼とも違った。弟…、克利を思う時、私はただただ安らかな幸福感に満ちていた」
静かに語りかける翔一郎の目を、総司は見詰め返した。
「母を見舞う時、今日こそは克利に会えるかもしれないと、私の胸は高鳴った。だが願いはいつも叶わず、帰り道は深い落胆に包まれた。そんなある夜、遂に母の危篤の知らせが来た。私は直江と雪明りの道を急いだ。しかし寺に近づくにつれ、私の足は鉛のように重くなった。心が止めるのだ。これが最後だ、母の見舞いはこれが最後になる。だがもしそこに克利がいなければ、私達はもう二度と会えないかもしれない。そう思った瞬間、私は戦慄し震えた。何故そんな事を思ったのか、それは今以て分からない…」
可笑しいだろう?と、笑う翔一郎に、総司は首を振った。
膨れ上がるばかりの不安と焦燥に、幼い心がどれほど苛まれただろうか…。それを思えば胸が痛む。
「幼い、愚かな呪縛だ。だがその呪縛に囚われて、私の足は動かなくなった」
遠い昔を見るように、翔一郎は視線を高くし目を細めた。
「それからの歳月を、私は克利を想って生きて来た。そして長い年月を経てようやく克利に巡りあった瞬間、募らせてきた想いは、隠しようの無い恋に変わった。だが私は、その恋心を一度も克利に伝える事は無かった。…それを、後悔している」
烈しい視線に圧倒され、総司は息を詰めた。
「総司は、土方さんを失いたくないか?」
「はい」
深くうなずくと、翔一郎の目が和らいだ。
「では惑うな」
「はい」
真っ直ぐに翔一郎を見、そして答えた。
その総司の瞳の中で、翔一郎がゆっくりと近づいて来る。そしてすぐ目の前まで来て、ようやく足を止めた。
触れそうな程間近に立ちはだかれ、総司はたじろいだ。思わず後ずさりしかけた片腕を、手妻のような素早さで捉えられ、振れて揺らいだ身体が前に出た。その刹那――。唇を、何かが風のように掠めた。
――口を吸われたのだ。
そう判じた時にはもう目の前は明るく開け、一歩退いた翔一郎の笑い顔があった。
「寺脇さんっ」
抗議の声に、背を向け歩き始めていた翔一郎が、悠長に振り向いた。
「いつぞや為し得なかった続きだ」
悪びれる風も無く云い放つと、悪戯な笑みが浮かんだ。
「寺脇に口を吸われたと、帰ったら土方さんに云いつけてやれ」
屈託のない声が、眩い光の中に響く。
「人の一生は、思いの他短いぞ。躊躇うな、想いのまま生きろ」
唇の端に笑みを残しながら、涼やかな双眸で、翔一郎は総司を見詰めた。そしてその眼差しに、愛おしさと厳しさを交互に湛えると、
「さらばだ、総司」
凛と声を張り、翔一郎は身を翻した。
風を抱くように袂をなびかせた背は、今度こそ振り返らなかった。
池の端まで行き、総司は佇んだ。
水面に弾ける陽は明るく、金色の光が、睡蓮の花にも葉にも、惜しみなく溢れかえっている。
顎を上げると、吹き渡って来る風が膚に心地よかった。
指を唇に当ててみた。ここを掠め取って行た余韻が、まだ鮮烈に残っている。だが不思議と嫌悪感は無い。
総司は小さな笑みを浮かべた。もし翔一郎の云うとおりに告げたら、土方は怒るだろうか…。そんな想像が、今は楽しい。
遠くから、青銅や鳴り物の音が聞こえて来る。その響きが、見上げる空に清々しく重なり合っていく。
目を閉じ、深く息を吸い、そして吐いた。
瞼の裏に、閉じる間際まで見上げていた空の色を映した時、想いのままに生きろと云った翔一郎の声が蘇った。
「沖田はん」
声をかけられ、総司ははっと顔を上げた。
「じき、七条の船着きどすわ」
松吉に云われて、慌てて周囲を見回すと、景色はすっかり変わっている。舟の揺れに誘われ、束の間まどろんでしまったらしい。
「お疲れどしたやろ?」
櫓を操りながら、松吉が笑った。帰りの舟には、松吉が伏見で調達して来た荷が乗っている。
「仕事の舟に便乗させて貰って助かりました。でも松吉さんには迷惑だったのではありませんか?」
「そないなことあらしまへん。うちこそ、ええ商いをさせてもろうて」
「……?」
「あ、いえいえ、こちらのことです」
不思議そうに見る総司に、松吉は急いで手を振った。
「それにしても、今日は暑い一日どしたなぁ」
松吉は明らかに話題を変えようとしている。それ以上は、聞かれてはまずい事があるのだろう。だが松吉の隠し事はどこか憎めない。それも彼の人柄だ。笑いながら、総司は川に視線を向けた。
川面には西の陽が弾け、うねるような光の波が、遠くに行き交う帆影を黒く浮き立たせている。川は金色に染まり、まるで光の海を漂っている錯覚すら覚える。
「沖田はん」
不意に呼ばれて振り向くと、松吉が意味ありげに笑っている。その顔が岸を見ろと促した。云われる通り視線を向けた途端、総司は瞳を瞠った。船着き場に、泰然と立つ影。松吉の舟を捉えじっと見ているその姿に、どくりと胸が鳴った。
「土方さん…」
呟くや、鼓動が激しく打ち始める。頬がみるみる上気する。こんな自分を松吉は可笑しいと思うだろう。戸惑いが、余計に拍車をかける。松吉の視線を避けながら、総司は土方を呪う。
こんな風に不意打ちに現れるのは、ずるい――。
その心を知ってか知らずか、ゆらゆらと、土方の待つ船着き場に舟は入って行く。
積んだ荷の間から見え隠れする、白い項が垂れたままなのに、松吉は微笑んだ。
土方も、今夜はずいぶんと手こずるだろう…。
それを見てみたいと、好奇の虫がむくりと頭を起こすのを叱り、七条内浜へ、松吉はゆっくり櫓を回した。
時は丑三つに近い。
上がった時は、客の声が賑やかだった船宿も、今は森閑と物音ひとつしない。
土方は体を起こし、隅に置かれていた行燈まで行き灯を入れた。すると、そこから波のように、橙色の明るみが部屋を包んだ。
突然の灯りに驚いた総司が、慌てて四肢を縮ませ、背中を向けようとした。その動きを、土方は掴んだ手首ひとつで止めた。
「土方さんっ」
抗っても、土方は手を離さない。どこか要所を掴んでいるらしく、身動ぎすらできない。
一糸まとわぬ姿の、身体の隅々まで灯に浮かび上がり、青白い膚が瞬く間に朱の色に染まって行く。一度昂りの果てを知った身体が、又新たな熱を持ち始める。それを見られるのが耐え難く、総司は顔を背けた。
「船着き場では、随分機嫌が悪そうだったが…」
仰向けにし、左胸に指を滑らせながら、土方が意地悪く訊く。総司は強く目を瞑り、喉首を仰け反らせた。それを上目づかいで見ながら、土方は執拗に平坦な胸をまさぐる。切なげな喘ぎが漏れ、潤んだ目が土方を睨んだ。だがそんな姿を見せられれば、責めている自分の堪えが続かない。開かせた下肢の間に、土方は強引に体を割り入れた。
顔の位置が同じになると、総司が首筋に腕を絡めて来た。その唇に、小さな笑み浮かんでいる。
「どうした」
「…だって」
「……?」
「土方さんが船着き場で待っているなど、思ってもみなかった。だから嬉しくて…。どんな顔をしていいのか分からなかった」
子供のようだと、照れくさそうな笑みが広がった。しかしその面輪を見下ろしながら、土方は途方にくれる。
総司が寺脇翔一郎に会いたいと云った時から、面白くなかった。それが的外れの妬心だとは、百も承知している。だが面白くないのだから、仕方が無い。そうして焦れて待つ一日は長かった。だから今夜は泣いて許しを乞うても離さないつもりだった。だがこうして真っ直ぐに想いをぶつけられれば、怒りは宙ぶらりんに行き場を失い、愛しさだけが胸を満たす。
まだ笑みを浮かべたままの唇に、土方は己のそれを合わせた。更に下腹を重ねると、そこから、膚を溶かすような熱が、互いの体の中をうねり駆け巡って行く。
総司が耐えきれないように腰を揺らしかけては、恥じらい身を窄める。
「…もう」
消えゆくように懇願する唇を、土方は貪るように吸う。
息も出来ないような激しい接吻に、総司は土方の首に、背に、腕をからませ、やがては下肢をも絡ませ必死に応える。そうして息苦しさに意識が飛びかけた寸座、火のような熱い塊が身体の芯を抉った。それは猛々しく、そして獰猛に身体を押し開いて行く。
――土方と、一つ身になって行くのだ。
苦しさを凌駕して、例えようのない幸福と安堵とが総司を満たす。
しがみ付いている広い背が汗で滑る。
土方が余裕を失くしている…。
うっすらと、総司は微笑んだ。その笑みに気づいた土方が、一際激しく身を進めた。
「ああっ…」
火が、身体を溶かす――。
それが覚えている最後だった。
たゆたうように意識が混濁して行く時、総司…、と耳朶に触れるように声がした。
微笑んだのを、土方は分かってくれただろうか…、そんな心配をしながら沈む闇は、切ないほどに優しかった。
雨の上がった後の日差しはすっかり夏のもので、風は熱く、じっとりと膚を湿らせる。蒸し暑さに閉口しながら、近藤は、軒に吊るした簾が影を作る部屋へ足を踏み入れた。
中にいた土方は、ちらりと近藤を見上げたが、すぐに手にしている短筒に視線を戻した。
「短筒か」
意外そうに、近藤は訊いた。
「メリケン製だ。井伊大老の時に使われたのと同じものだ」
「良く手に入ったな」
「松吉に手配させた」
「ふむ」
近藤はそれ以上訊かなかった。だが土方がこの短筒を早急に手に入れた理由を推し量ることはできた。
今回の一件では、飛び道具の威力を認めざるを得なかった。そしてそれは、これからの新撰組にとって何が必要かを土方に痛感させたのだろう。そう云う先見の明と切り替えの素早さが、この男の軍師たる才だと近藤は思っている。
「護身用にあんたもどうだ?」
勧められ、
「いや、俺はまだいい」
近藤は手を振った。頭では分かっているが、まだ剣への拘りは飛び道具に及ぶものではない。
「そう云えば総司の姿が見えないが…」
意図して話題を変えると、
「四越に呼び出されたようだ」
初めて土方が顔を上げた。
「ほう。総司は知り合いが多いな」
いかつい顔に、人の良い笑みが浮かぶ。
「その知り合いのお蔭で、毎回とんだ事件に巻き込まれるのでは、こちらの身が持たない」
「まぁそう云うな。総司はお前のように器用ではないが、いつも一生懸命なのだ」
顔を顰めた土方を、近藤はやんわり宥めた。
「そうそう。寺脇君の、清への留学が許されたそうだ」
「そうか」
さして気のある風でもなく、土方は答えた。
学僧として渡航を望んだ翔一郎だったが、その希望が例外的に早く許されたのは、近藤の尽力に他ならない。そう云う惜しみない苦労を、近藤は微塵にも顔に出さない。それは近藤の人柄であり美徳でもあるのだが、生憎それらは自分とは対極のかけ離れたところにある。そう思い苦笑した時、
「さっき、伝五郎殿が山崎君を訪ねて来たようだが…」
ふと思い出したように、近藤が云った。珍しい顔合わせが、意外だったらしく興味深げな顔をしている。
「くだんの裂の事だ」
ああ、と云う顔を近藤はした。
「しかし何故、伝五郎殿があの裂を?」
「三枚の裂を大原の奥寺に納めるよう紫月尼殿に頼まれ、興正寺と新撰組に受け取りに来た」
「ほう…。長い事京に住んでいると、そのような縁もあるのだな」
それで近藤は納得したようだった。
雪子に仕えていた紫月尼から、三枚の裂を大原の天林寺に奉納し供養をしたい、ついてはその受け取りの使者に伝五郎を立てるのでよしなにと使いが来たのは三日前の事だった。又その際、紫月尼が、彼の寺に移り住み、この事件の犠牲になった者達の供養に勤めるとも文にはあった。だが紫月尼と伝五郎にどのような繋がりがあるのかまでは、記していなかった。
結局のところ、護足衆と云う存在は、朧にその存在が浮上しただけで、何一つ具体的な正体を掴めなかった。しかし土方に護足衆を追い詰めるつもりはない。自分達は京の町の治安を預かり、その京の町が出来る以前から、王城の地を綿々と護り続けている集団が居る。共存出来得るのならば、それが得策だと思っている。
そんな事を考えていると、
「今この暑さでは、先が思いやられる」
近藤の辟易した声が聞こえた。
「仕方が無いだろう」
軽くいなして団扇を渡した時、簾を通して乾いた風が部屋を吹き渡った。
「おお、いい風が来た。俺の声が天に届いたか」
心地よさそうに目を細めた近藤に、
「らしいな」
土方が笑った。
「そんなに丁寧でなくていいの、適当に済ませなきゃ日が暮れちゃうわよ」
文句を残して、市太郎はさっさと身を翻す。
「いったいどの位お参りをしたのですか?」
その背に追いつきながら、総司は訊いた。
「さぁ、あと十や二十は残っていると思うけど、何しろあの時は手あたり次第に拝んでいったから、覚えちゃいないわ」
朝から既に十以上の寺社仏閣に、お礼参りに詣でている。それでもまだそんなに残っているのかと、聊かうんざりが顔に出かかったのを、総司は慌てて笑顔に変えて誤魔化した。市太郎がこちらを見ていたのだ。
「何?」
「何でもありません」
急いで市太郎に追いついた。
拉致され監禁された時、無事を願い、市太郎は神頼みに走ってくれた。普段信仰などとは無縁の市太郎が、自分の為に意に沿わぬ行動をしてくれたのだと思えば感謝しかない。自分勝手な弱音を、総司は叱った。
「そう云えばさ…」
歩きながら、市太郎が云った。
「寺脇さん、お坊さんになったんですって?」
「先日会って来たけれど、とても元気そうでした」
「そう」
市太郎は前を向いたまま答えた。そうして暫く黙って歩いていたが、やがて独り言のように呟いた。
「…あの人は、狂いだしそうな哀しみや苦しみと、生涯向かい合って行くと決めたのね」
「…え?」
「あるがままの自分を見、受け容れる。それが禅の修行でしょう?」
「……」
「寺脇さんにとって、それは浮島さんがもういないと云う事実から、目を逸らさない事。…どれ程の歳月が要るのか分からない、いえ、もしかしたら苦しむ自分と生涯向きあって終わるのかもしれない。でもあの人は、敢えてそう云う道を選んだのよ」
「…苦しむだけの一生」
「寺脇さんは逃げたくないのよ。目を背けたくないのよ。浮島さんを想っている自分を失くしたく無いのよ」
「想いのままに生きろと、寺脇さんは私に云った…」
呆然と立ち尽くす総司に、市太郎も足を止めた。
「後悔をするなと、云いたかったんじゃないかしら。そして自分も後悔をしない道を選んだと、伝えたかったんじゃないのかしら?」
総司は瞬きもせず市太郎を見ていたが、やがて静かに云った。
「そうかもしれない。…寺脇さんは、ようやく後悔をしない道を選んだのかもしれません」
「強い人なのよ」
目を細め、市太郎は総司を見た。その眼差しを受け、総司は頷いた。
「あら…」
不意に、市太郎が高い声を上げた。総司がその視線を追うと、八郎と田坂が石段を上って来るのが見えた。
「暇そうな人たちだこと」
市太郎が顎を上げ、皮肉を云った。
「どうしたのです?」
二人の近くまで行って、総司は訊いた。
「どうもこうも…。この人のところへ行ったらキヨさんが…」
八郎は扇子を使いながら、うんざりとした顔で隣の田坂を見た。その後を田坂が引き継いだ。
「買い物に出たところで、ここの番頭さんに会ったそうだ。で、ひどく忙し気だったので聞いたら、君の無事を願掛けした所に、主人と手分けして朝からお礼参りに回っていると。それを聞いたキヨがえらく感動して、俺たちにも手伝えとお鉢が回って来た」
「すみません」
その経緯が手に取るように分かるだけに、申し訳ないと思いつつ、総司は笑った。
「そりゃ、助かるじゃないの」
市太郎が、にやりと唇の端を上げた。
「じゃ、手分けをして、さっさと済ませますよ」
「一か所で五つ分済むような、気の利いた神社は無いのかえ?」
「何とか本山とか大社と云うだろう?そう云うところは、小さい所が五つ分位になるんだろう?」
「ひとつでも五つ分でも構わないけれど、賽銭は自腹でお願いしますよ」
それぞれが好き勝手を云うのに笑いを堪え一番後ろに続きながら、総司はふと足を止めた。
狛犬が見守る石段に陽は降り注ぎ、両際の楓に吹き抜ける風は、梢を揺らし葉に光が煌めく。その煌めきの向こうに広がる空の天色は、もう夏だ。
その空を見上げる目に、耳に、
――想いのまま生きろ。
力強く捉えた双眸が、声が、蘇る。
季節は、時は、刻々と移り変わり、今を過去に変えて行く。
その永遠の理が、少しでも翔一郎に優しくあれと総司は願う。
下で呼ぶ声がした。
市太郎が、何かを叫びながら手招きをしている。
遅いと、怒っているようだ。
八郎も田坂も、もうとっくに石段を終わり待っている。
「今行きます」
空に飛び込むように、総司は力強く石段を蹴った。
雪明り -了-
|
|