拝啓 姉上さま

 姉上さまには息災でお過ごしの旨拝読し、安堵致し候。
さてこのたび…



290069打御礼  吉井さまへ

 福徳円満にて、候
  (壱)




「おい、あんた」
 不意に掛った声に、馬屋彦一は立ち止った。そして目をきょろきょろさせたが、辺りに誰もいなく、声が自分を指したものだと分かると、小心そうに振り向いた。
 呼び止めたのは、佐伯孫兵衛。同じ勘定方の先輩だった。
「何でしょう…」
 馬屋の顔には、早怯えの色がある。大きな体に似ず、極端に気の小さい男だった。
 佐伯は肥えた腹を突き出すように、馬屋の前に立った。廊下を歩いて来ただけなのに、額に汗を滲ませている。
「あんた、ちょいと使いを頼まれてくれないか」
「…はぁ」
「何、大した事じゃない。行商の魚売りに、金を払ってきて欲しいのだ」
「魚売りに?」
 馬屋は戸惑いをあらわにして、聞き返した。
――馬屋彦一は、昨日、勘定方として新撰組に入隊を許された。
 その志願の本当の理由が、奉公先の糸問屋が潰れ、喰うに困っての苦渋の策ときているから、ここで一旗揚げようなどと云う気概はさらさら無い。
 刀を振り回す代わりに算盤を弾き、三度の飯と寝る処を貰い、恙なく日々を送る事ができれば上々だと思っている。
 だがそんな事情など、佐伯は知る由も無い。
 馬屋を見上げ、難しげに、豊頬に埋もれた造作を顰めた。
「三日前の朝、賄い方が魚売りに金を払うのを忘れたのだ。その時は翌日纏めて払えば良いと思って、賄いの奴らも気に掛けなかった。ところが、だ。それからふつりと、魚売りが来なくなってしまったのだ」
「けど相手も金に困るようやったら、その内に取りに来ると違いますか?」
 事が我が身の落ち度から発したもので無いと分かると、馬屋は俄然、覇気を取り戻した。
「まぁ、それはそうなのだが…」
 だが佐伯は歯切れが悪い。
「それに本来なら、払いは、盆暮れか、早おても月々のものですし…。幾ら行商とは云え、その位の融通はきかせてええんと違いますか?」
「そう云い切るのは簡単なのだがなぁ…」
 佐伯のいらえは、相変わらずはっきりしない。
「他に何か?」
「実はなぁ、即金払と云う事で、その魚売りにはかなり無理を云って、安く魚を仕入れている。店売りを、掛で買う半分以下だ。しかも奴の魚は、仕入れたその足で持ってくるからどこよりも活きがいい。品良し値良しと云う訳で、奴が来なくなると…」
 佐伯は上目で馬屋を見た。
「勘定方も、賄い方も、大いに困る」
 そして、ほとほと困ったと云う風に、手にしていた算盤を頭の後ろで振った。
「とまぁ、理由は以上だ。魚を仕入れられなくて、皆大いに難儀している。だいたいが、急に来なくなるような奴じゃないんだ、喜八は。じゃ、頼んだぞ」
 佐伯は奉書紙に包んだ金を馬屋に押し付けると、これで一仕事終わったとばかりに背を向けてしまった。が、数歩行って、くるりと振り向いた。
「喜八の家だが、七条松明殿(たいまつでん)稲荷神社近くの、裏店だそうだ。お前、入隊の時、京の地理には詳しいと云っていたな、ならすぐ分かるだろう」
 それだけ付け加えると、せっかちに踵を返した。

 袴も窮屈そうな丸い体が廊下を曲がり視界から消えても、馬屋は呆然と突っ立っている。
 それもそのはず。入隊の際に、お店(たな)の得意先回りで京都の地理には明るいなどと売り込んだのは嘘八百、何とか新撰組に潜り込む為の出まかせだったのだから――。
 奉公先が潰れたのは本当だが、それは都から遠い豊岡の地にあった。
 京に出て来て三日目、ささやかな路銀も底をつき、空腹で目が回り始めた時、虚ろな視線が隊士募集の貼り紙に止まった。それに釣られるようにふらふらと門を叩いたのは、その文字が飯に見えたからだ。そんな訳で、京の地理など知る由も無い。記憶に残っているのは、皆食い物屋の看板だけだ。
 だが嘘がばれれば、切腹なのだろうか…。
 入隊して二日目にして降りかかった災難に、馬屋の頭はぽっかりと空洞を作った。

「…魚屋なんぞ、どこでもええやないか」
 我が身の不幸を愚痴る声が、空しい。
「たいまつでんって、どこやねん…」
 顔は半ば、泣き笑いになっている。
「松明殿ですか?七条の?」
 だからすぐ後ろで掛った声に、馬屋は飛び上がらんばかりに驚いた。
 慌てて振り向くと、見知らぬ若者が馬屋を見上げていた。この暑さの中、汗もかかず、ひとり涼然と口辺に笑みを浮かべている。その笑みが、初対面の人間に声をかけるのを照れてはにかんでいるようなのが、馬屋の緊縛を緩めた。
「はぁ、七条松明殿云うてました…。御存知ですやろか?」
 問いながら、小姓組あたりだろうかと、馬屋は相手の素性に目星をつけた。
「松明殿なら知っています」
「ほな、場所を教えて下さいっ、ついでにその辺りに裏店がありますやろか?今からそこに行かなあきまへんのや」
 馬屋は口角から唾を飛ばさんばかりに、勢いづいて訊いた。何しろ切腹が掛っているのだ。目の前の若者が、菩薩にすら思える。実際優しげな姿形は、他人に警戒心を与えない。
「裏店…?あったかな?」
 若者は小首を傾げ、寸の間考え込んだ。暫くそうしていたが、やがてふと思い立ったように瞳を上げた。
「あの辺りに、源五郎さんの裏店があるけれど、その事でしょうか?」
「…源五郎はんて…、どなたはんで…?」
「あ、すみません。源五郎さんは小川屋さんの御友人で、五条に住んでいる方です」
「…小川屋はん…は…?」
「小川屋さんは、田坂さんと懇意にしている薬種問屋さんです」
「…田坂はん…とは…?」
「田坂さんは、キヨさんと五条坂鐘鋳町で診療所をやっていて…」
 若者の話は次から次へ飛び、そのたび馬屋を混乱させる。
 馬のように長い顔にある小さな目が、剥かれたかと思えば引っ込み、引っ込んだたかと思えば剥かれ、そのうち白眼まで剥き始めた。
「松明殿って、一体どこやねん…」
 掴みかけた僥倖が、狐にまかれたように遠のいていく――。
 馬屋はふっと眩暈に襲われた。
「…大丈夫ですか?」
「大丈夫な訳、無いやろ…」
 呆然と呟いた目の前には、腹を切る短刀が踊っている。鋼は銀の波を打ち、良く切れそうだった。
「あの…」
 ぺたりと座り込んで、虚ろに目を彷徨わせている馬屋に、若者が遠慮がちに声を掛けた。
「もし具合が悪いようでしたら、私が代わりに行って来ましょうか?」
「……」
 馬屋は緩慢な仕草で、自分を覗きこんでいる黒い瞳を見上げた。
「あの辺りの道なら、大体分かるし…」
「…ほんまに…?」
 ようやく絞り出した声に、若者は笑って頷いた。途端、馬屋の顔が、光が差したように輝き、次にくしゃりと歪み、頬に大粒の涙が滴った。
「おおきにっ、おおきにっ…。これで命が救われましたわ。あんたは菩薩様や」
「私は男です」
「細かい事はええやないですか、ほんま、おおきに」
 馬屋は拝まんばかりに若者の手を取り、声を出して泣いた。



「あんた」
 背後から掛った声に、大きな体がびくりと震えた。
 先程も同じように声を掛けられ、そこからあのような恐ろしい展開になった事を思えば仕方がない。馬屋は用心深く、そろりと振り向いた。その途端、ひっ、と短い叫びが喉に絡んだ。
 後ろに立っていたのは、二番隊の組長を勤める永倉新八と、もうひとり、これも三番隊の組長の斉藤一。二人とも入隊試験の時に手合わせをしてくれた相手で、こてんぱんにのされたから、忘れたくても忘れられない顔だ。しかし入隊を許された今は、平の隊士と大幹部、話を交わせるような間柄ではない。何事かと、馬屋の心の臓が又跳ね上がる。だが永倉は気さくに笑った。
「あんた、総司を知らねぇかい?」
「……」
 馬屋は凝然と永倉を見詰めた。
 今日二度目の悪夢がやって来た。
 どうして此処の人間は、訳の分からない事を平気で訊いて来るのか…。
 泣き叫び逃げ出したい思いをようよう堪え、
「…総司はん…て、どなたはんですやろか?」
 馬屋は恐る恐る訊いた。
「ああ、あんたはまだ顔を知らなかったか。一番隊の組長、沖田総司だよ」
 永倉はあっさり答えたが、馬屋はごくりと喉を鳴らした。

 二番隊の組長と、三番隊の組長に前を塞がれ、そして一番隊の組長を知らないかと、訊かれる理由が見つからない。
 馬屋の心の臓は、再び音高く、はくはくと動悸を打ち始めた。
 茹だるような蒸し暑さだと云うのに、背には悪寒が走り、冷たい汗が膚を濡らす。
 
――なんでや、なんでうちばかり…。
 心の中で己の不幸を嘆いた時、
「あんたが総司と話しているのを見た者がいる」
 永倉の後ろに控えていた斉藤が、無愛想に教えた。
「…うちと?」
 馬屋はぼんやりと繰り返した。そんな大幹部と話した記憶など、何処にも無い。
「何でも松明殿の近くの裏店に行くと云っていたらしいが…。覚えはねぇかい?」
 永倉の言葉が終る寸でのところで、馬屋が悲鳴のような声を上げた。
「菩薩はんっ」
「…菩薩?」
 訝しげに、永倉が呟いた。
「あの菩薩はんですわっ、うちの代わりに松明殿はんの近くの裏店に住む魚屋に、金を届けてくれに…」
 必死の体で説明し始めたのは最初だけ、馬屋の声は尻つぼみに小さくなり、やがて途切れた。
 語りながら馬屋は気付いたのだ。大幹部を、使い走りに出してしまったのだと。
――腹切りや。今度こそ、腹切りや。
 水に揺れる藻のようにゆらゆらと、馬屋の意識は淵に沈みかけた。だが視界が真っ暗になりかけた寸座、
「しっかりしろ」
 鋭い喝が飛んだ。のろのろ顔を上げると、斉藤の厳しい顔があった。そのまま茫洋と視線を巡らせると、
「…使いか」
 顎に手をやった永倉が、思案気な顔をしている。
「あいつ、無事に帰って来られるのかね」
「子供では無いのだから、金を払いに行く位はできるだろう」
 斉藤は馬屋の両脇に腕を入れ立ち上がらせながら、その重さに顔を顰め応えた。
「いや…、それがそうでもねぇんだ、あいつに限っては」
 ところが永倉は難しい顔のまま、声をひそめた。
「総司って奴はな、昔から使いに出されて、無事それだけを果たして帰って来た試しがねぇんだよ」
「どう云う事だ」
「例えば、どこかで騒動に巻き込まれる、はたまた変わった拾いものをして来る、挙句、そのどさくさで肝心の使いが果たせねぇ。それであいつ自身がひどく気落ちする。そうすると周りも何となく落ち着かなくなる…、とまぁ、大方こんな具合だ。近藤さんなんざ、腫れ物に触るようにしてたな」
「けどっ…」
 必死の声が、迸った。
「使いを代わってくれはる、云うてくれた時はえらい嬉しそうで…」
 保身の為なら多少の嘘は許される筈だ。馬屋は縋るような目で、永倉と斉藤を見た。
「そりゃ、そうだろう。当人は大張りきりだろうよ。面倒を避けて、最近じゃあいつにはあまり使いを頼まなくなっていたからな。あの土方さんですら、総司は使いに出さなかった位だ」
「…そんな」
 馬屋は、斉藤の腕からずるずるとずり落ち、とうとう座り込んでしまった。
「しかし困ったな」
 永倉は、又顎を撫で、斉藤に目を遣った。
「堀内さん、午過ぎには京に入るんだろう?」
「と、聞いたがな」
「驚かせてやろうと総司には黙っていたのが、仇になるかもしれねぇな。堀内さんにしちゃ、早く会いたいだろうに」
「あの…」
 恐る恐る口を挟んだ馬屋の顔は、もう蒼白だった。
「堀内さま…って…、大事なお客様ですやろか…。会津さまのお偉い方とか…」
「いや、会津様とは関係はねぇよ。江戸からの馴染みで、総司をえらく可愛がっていた人だ。それが大坂に用事が出来たんで、ついでに近藤さんや総司に会いに京へも足を延ばすと、便りを寄越したのさ。江戸からの連中も、皆楽しみにしている」

――近藤局長。
 意識が、ふっと遠のいた。
 知らないとは云え大幹部を使いに走らせ、更に新撰組の大事な客に粗相をし、果ては局長の顔にまで泥を塗ったとあらば、渡る川はもう三途の川しかない。

 馬屋の体が、くにゃりと前にのめった。
「…切腹や…」
「何を云っているんだ?」
 斉藤が、眉を寄せた。
「沖田先生を使い走りにつこうて、ほんで大事なお客様をがっかりさせて、局長の顔に泥を塗ってしもうた…、切腹や…、もう切腹しかあらへん。けど、作法しらへん…」
 ぶつぶつと、まるで念仏のような呟きは続く。
「切腹は大げさだろう。それに総司の奴だって、今度は無事に帰って来るかもしれねぇ」
 馬屋を慰めながら、永倉は、自分の言葉が、既に使いが失敗に終わるのを前提にしている事に気付いていない。
「だが万が一と云う事もある。それにあいつが帰って来るまで、この人の…」
 斉藤は、半ば常軌を逸しつつある馬屋を見下ろした。
「神経が持たないだろう」
「…まぁな」
「探しに行った方が、良さそうだな」
 斉藤が、永倉を見た。
 俺もか、と云う視線を永倉は向けたが、斉藤は無言で永倉を見返した。切れ長の、少し冷たく見える目が、当然だと云っていた。
「仕様がねぇな。親切をしたつもりが腹を切られちゃ、総司も夢見が悪いだろうからな」
 使いの首尾は失敗に終わるとすっかり決めつけ、永倉は、容赦なく照りつける天道を、翳した手の下から目を細めて見た。







 松明殿は、鴨川にかかる七条橋西際にある、小さな神社だった。
 近くに高瀬川が流れており、七条通と並行し、高瀬舟を止め置く内浜と呼ばれる船溜まりがある。それらを北に見て過ぎ、表通に軒を連ねる商家の路地を入ったところに、古い裏店があった。その八助店(はちすけだな)の木戸の前に、総司は立っている。
 屯所を出てから一刻余り…。
 膚を焼くような強い日差しの中を歩き続け、疲れは来ていたが、喜八の住む店(たな)を見つけた事で気持ちには充足感があった。

――喜八の住居を探すのに、総司はまず源五郎の家に行った。
 源五郎は、表通りにも裏通りにも、幾つかの店(たな)を持つ地主で、縁あって総司も親しくしている。その源五郎の持ち物が五条から七条界隈である事から、真っ先に源五郎を尋ねたのだった。
 裏店の住人の動向は、普通大家に任せているから、地主自身はそう詳しくない。だが総司が事情を話すと、源五郎は快く人別帳を手繰り、喜八と云う魚売りの名を探してくれた。
 喜八の名はあった。ところが二年前に、喜八は源五郎の店(たな)から越していた。その際記されていた引越し先へ、総司は早速足を運んだ。しかし教えられたそこにも、喜八は居なかった。半年前に、他所へ越していたのだ。流石にこの時は気が萎えたが、すぐにそれを立てなおすと、総司は教えられた店へ向かった。
 そんな経緯を経て漸く探し出した、喜八の住処だった。
 

「名前が出ていれば良いけれど…」
 出ていなければ、誰かに聞かなくてはならない。そう思った時だった。丁度良い具合に、一番手前の家の戸が、乾いた音を立てて開いた。
 出て来たのは女だった。唇に差した紅の色が、あざとく浮き出ている。総司の足が、一瞬怯んだ。が、女は総司に気づくと、軽く頭を下げる仕草をし、
「なんぞ御用どすやろか?」
 自分の方から声を掛けて来た。思いのほか、柔らかな声だった。
 総司が戸惑っている間にも、女は笑みを浮かべて近づいて来る。
「どなたはんか、お探しどすか?」
 女は明らかに、迷い込んで来た若者の反応を楽しんでいた。紅い唇の端ががにっと上がり、化粧をほどこした顔がいっぺんに華やいだ。その迫力に、総司は負けていた。
「…あの、喜八さんの家を…」
 声がしどろもどろに縺れた、その時。
「おなみちゃんっ」
 後ろで大きな叫びが上がった。振り向くと、
「また浮気かいっ?ひどいじゃないかっ」
 派手な縞の着物を着た男が、血相を変えて走ってくる。
「いややわぁ市っちゃん、浮気と違います。このお方とは、たった今ここで会ったばかり」
 おなみと呼ばれた女は微笑んだが、男は疑わしげに総司を見ている。
「喜八はんの家、どすやろ?」
 刺すような男の視線から逃れるように、総司は慌てて頷いた。要らぬ誤解は避けるに越した事は無い。その位の分別は、総司にもつく。
「それなら、あの…」
 女の指が、奥を指した。
「井戸の向うの家どすわ。喜八はん、足を捻りはって、今家にいてはります」
「おなみちゃんっ、何でそんな男の事まで詳しいのさっ」
 又も金きり声が上がった。
「そないな事、この店(たな)のもんなら、みんな知ってはります。けど…」
 おなみと呼ばれた女は、目を細くして微笑んだ。自分の艶を十分に知っている仕草だった。
「市っちゃんがそないに妬いてくれると、嬉しいわぁ」
 甘い囁きに、男は骨砕きにあったように目尻を下げた。
「当たり前じゃないか、私はおなみちゃんを誰にも渡さないよ。それより、今日は例の簪を受け取りに行こうじゃないか。もうあれは、おなみちゃんのものだよ」
「ほんまっ?」
「本当だとも」
 男は女の腰に手を回し、女は男にべったりと体を寄せて、もう総司など眼中に無いように歩き出した。

 木戸をくぐる二人の背を、総司が呆然と見ていると、
「四越(よつこし)も、先が見えてはるな」
 後ろで呆れた声がした。いつの間にか、着物の裾を帯にはしょった女が仁王立でいた。襷で括った袖から、男にも負けない固太りの腕を厚い腰に当てている。
「…四越、ですか?」
「そや、四越。最近、四条に店を構えた呉服屋や。江戸に本店があるらしいわ。その京の店を任されたのが、あの次男坊や。けどあれが主じゃ、商いもあかんわ」
 女は呆れたように頭(かぶり)を振ると、洗濯の途中だったらしく井戸へ戻りかけた。
「あのっ…」
 その背を、総司は急いで呼び止めた。女は立ち止まり、胡乱に総司を見た。
「喜八さんの家は、あそこで良いのでしょうか?」
 おなみと云う女に教えられた家の戸口に一度視線を向け、それを今度は女に戻して総司は尋ねた。
「そや」
 女は短く応えると、くるりと踵を返してしまった。愛想の欠片も無い。それでも総司は全く気にならなかった。任された使いを、じき首尾良く終えられるのだと云う安堵の方が大きい。
 土に籠った熱を踏み続け重くなった足に弾みをつけて、井戸へ向かう女の後を追った。






きりりく