282829御礼  蒼衣さまへ


                 総ちゃんのシアワセ

            ハタ迷惑なお願いでシアワセ、なの (上)






「北野はん、景気どう?」
 不意に掛った声に、浅沓(あさぐつ)を履きかけていた巨体が、くるりと振り向きました。
「あ、平野はん、こんばん」
「あんた最近又太った気がするなぁ。儲かってるのと違う?」
「着膨れでわ、失礼なこと云わんといて」
 むくれた髭面をまぁまぁと宥めると、平野神社の一の神さま、木皇大神(いまきのすめおおかみ)は、上がり框へ下り立ちました。

 今日は神仏組合の寄り合い。
 月に一度、都中の神さまが顔を合わせ、神さま同士だからこそ分かり合える愚痴を零し、美酒に酔いしれる大切な夜。
 ところが昨今は世知辛いご時世を反映してか、どの神社仏閣も、願い事の多い割には賽銭箱の中身はカツカツと云う有様。そんなこんなで、酒の切れ目が縁の切れ目。今宵の寄り合いも早々に仕舞となったのでした。


「なぁ、北野はん、帰りに美味そうな酒をお供えしてあった神社を見つけたんやけど、ちょっと寄っていかへん?」
「神さんが盗人(ぬすっと)してどないしますのや」
「あ、違う。盗人と違います。そこ、梛の宮(なぎのみや)はん云うて、うちの知り合いやねん。そんで用はないけど寄ってみよかて云うてますのや」
「用も無いのに寄る云うその強引さが、神さまとしてどうかと思いますわ」
「強引のどこが悪いんや?」
「だから…」
 流石に呆れた道真公が、先輩神に批難の口火を切ろうとしたその寸座。
「あっ、梛の宮(なぎのみや)はんっ」
 木皇大神さんは大きく手を振るや、邪魔だとばかりに道真公を押し退け、此方を向き立ち尽くしている神さまに、瞬きも憚る速さで走り寄ったのでした。

「丁度良かったわ、梛の宮はん。今あんたの噂しとったところや。あ、こっちは北野神社の菅原道真はん」
 慌てて追って来た道真公を、木皇大神さんは早口で紹介しました。
「ああ、北野はん。名前はようけ知ってます。初めまして」
 梛の宮さんと呼ばれた神さまは、道真公に人の良さそうな笑顔を向けました。
「北野はん、梛の宮はんはこう見えて、あの祇園社はんの元神なんや。そんで元祇園社はんて云われておるんやで」
「平野はん、平野はん、それは昔の事や。今は田舎のひなびた社や」
 自分の事のように自慢げに語る木皇大神さんの講釈を、梛の宮さんは控えめに遮りました。
「あんたのそう云うところ、ほんま、奥ゆかしいなぁ。うちはいつも感心してますのや」
 下心をくるんだ褒め言葉を、木皇大神さんの舌は滑らかに転がします。
「そうそ、今な、あんたのとこに寄らして貰おかて云うてましたのや」
「うちとこに?」
「北野はんもうちも、ここからやと、あんたの処が帰り道の丁度半分ですのや。なんや今夜は特別寒いし、一休みさせて貰おと思うて」
「ああ、そう云う事ですか。どうぞどうぞ」
「おおきに」
「気ぃつかんでおくれやす」
 相好を崩した梛の宮さんに、木皇大神さんも、してやったりと満面に笑みを浮かべました。
 ところが…。
「あ…、でもそれやったら」
 梛の宮さんは不意に呟くと、笑みを引き、何か考えるように目を伏せ沈黙してしまったのです。
 訳が分からず成り行きを見守る木皇大神さんと道真公をよそに、梛の宮さんの黙考は暫し続きましたが、やがて小さな声が聞こえて来ました。
「確か…、北野はんは学問の神さん、そやったら智慧も働くわなぁ。それに平野はんやろぉ…。昔から、三人集まれば文殊の智慧云うし…、神さんが三人やったら、もっと何とかなるかもしれん…。いや、もうこれしかあらへん」
 梛の宮さんは、確信したように顔を上げました。
「お二人さん、すんませんけど、ちょっと相談に乗ってくれへんやろか?」
 一瞬、どうしたもんかと顔を見合わせた二人でしたが、美味い酒を貰ったからそれでも呑みながらと云われた時には、揉み手をせんばかりの笑顔を張りつけ、大きく頷いていました。





「とんでもないバチ当たりやな、そいつ。せっかく神さんが願い事、何でも叶えたろ云うてんのに、それを要らんとは、人の身で生意気や。なぁ北野はん」
 木皇大神さんは、酔いの回った赤い顔を道真公に向けました。
「ほんま、人は人らしく、素直に強欲でおったらええのや」
 道真公も鼻息荒く頷きました。
「うちとこの宮司も、そりゃもう必死に聞き出そうとしたんやけど、願い事は無いの一点張りで…。見た目はえらい大人しげやなのに、中味は筋がね入りの強情者やったわ」
 梛の宮さんは大きな溜息を吐きました。
――そもそも、梛の宮さんの相談事とは。


 帝だ徳川だと、何かと物騒なご時世に乗じて、米の相場も乱高下。となれば、神社の台所事情も推して知るべし。どうにかせねばと、渋い顔で算盤弾いていた宮司が、頭を捻りに捻り、三日三晩呻吟した末、遂に天啓の如くある妙案を思いついた。
 それがこれ。
『期間限定一日だけ。一の籤を引いた者には、どんな無理難題な願い事でも叶える』
 人の噂は早い。おまけに尾ひれをつけて広がる。あそこの神社の御利益は大層なものだと、評判が評判を呼べばしめたもの。これで当座百年は安泰と、宮司は取らぬ狸の皮を数え始めたのでした。
 ところが。そうは問屋が卸さないのも、世間様。
 その日、一の籤を引いた者はどんな願い事も叶うと大々的な宣伝をしたお陰で、参詣客は倍増したは良いけれど、肝心の一の籤が中々当たらない。
 その内に天道も傾き、北風に枯葉も舞い始め、宮司の口数もぐっと減り、やはり地道が一番かと梛の宮さんも思い始めた、と、その時。
 茜色の陽を背負い、鳥居をくぐって来る二人連れが…。
 一人は、このすぐ近くの壬生村の郷士で、八木某(なにがし)。もう一人は見た事の無い若者。
 風にすら攫われてしまいそうな、薄っぺらな身体。白い頬は寒さで蒼みがかり、それが見る者の胸を痛くさせる風情。
 そんな梛の宮さん達の視線を知らずして、八木さんはお賽銭を入れると鈴を鳴らし、神妙に頭を下げました。
 ところが…。件(くだん)の若者の方は何もせず、八木さんをじっと待っているだけ。更にこの二人、お参りが終わると、今回の目玉である御神籤箱の前をあっさり通り過ぎてしまったのです。それに慌てたのは、宮司さん。焦って梛の宮さんの腕を掴むや二人を追っかけ、漸く鳥居の間際で止めたのでした。
 そうして固辞する二人を説き伏せ、やっとの事で引かせた籤の、若者の引いた分が何と、一等。
 ようやく出た一等。
 これで百年は安泰。
 手を取り合って喜ぶ梛の宮さんと宮司さんでしたが…。
 梛の宮さん苦労の始まりは、此処からだったのです。
 願い事、望み事、何でも云うてみなはれと、勢い込んで聞く梛の宮さんと宮司さんに、事もあろうかこの若者、願い事も望み事も何も無いと、首を振ったのです。思いがけない展開に、梛の宮さんと宮司さんは、呆然と若者を見詰めました。けれど若者は、少しづつ後じさりして二人から離れると、やがてくるりと背を向け、逃げるように鳥居の向うへ消えてしまったのでした。




「そんで、どこの誰か位は分かったんか?…あつっ」
 炙ったスルメの熱さに、思わず指を耳に入れた木皇大神さんが、顔を顰めました。
「八木はんに聞いたんやけど、西本願寺はんに間借りしてはる新撰組のもんで、名前は沖田総司って云うらしいわ」
「総ちゃんっ?」
 木皇大神さんと道真公、二重の大音声に、梛の宮さんのスルメを裂く手が止まりました。
「梛の宮はん、あんた今、総ちゃんの名前云うたなっ?」
「木皇大神はん、のいてっ。総ちゃんはうちのもんやっ、横入りせんといてっ」
「恋の道に一番も二番もあるかいなっ、心を掴んだ方が勝ちやっ」
「それが神さまの云う事かいなっ」
「神さまかて恋の道には目が眩みますぅっ」
 今にも取っ組み合いになりそうな険悪な空気が、驚きにいた梛の宮さんを我に戻しました。
「二人ともいい加減にせぇやっ。恋の道もええけどなぁ、うちら一応神さまやで。スルメ肴に一杯やっておっても、神さまの品格ちゅうもんを忘れたらあかん」
 その肴も尾頭付きの鯛位に格上げしたいものだと、ちくりと思いつつ、それでも梛の宮さんは、神さまのあるべき姿を説きました。そう云われてしまえば返す言葉も無く、睨みあっていた顔が、ぶすりと黙りこみました。
「けどあんたらが、その総ちゃんと知り合いで助かったわ」
 どうやら一発触発の危機は回避されたと分かると、梛の宮さんは、やっと嬉しそうな笑みを浮かべました。
「これで願い事聞き出す、強力な助っ人がでけたわ」
 安堵に浮き立つ心が、弾む声にも表れます」
 ところが…。
「あんなぁ…」
 手にしていた杯を置くと、木皇大神さんが云いにくそうに呟きました。
 そうして、暫しもじもじとしていましたが、やがて意を決したように顔を上げると、
「梛の宮はんっ、堪忍してっ」
 梛の宮さんに向かい、両手を合わせたのです。
「他の事はどんな事でも手伝う。けどこれだけは手伝えんのやっ。堪忍っ」
「あっ、うちも、うちもですっ。堪忍して下さいっ」
 同じように叫ぶや、道真公も手を合わせました。
 こうして、神さまに、神さまが手を合わせると云う図が出来上がったのでした。
「どないしてっ?」
「だって総ちゃんに、総ちゃんが嫌がる事をせい云うたら、うち総ちゃんに嫌われるもん」
「そうですねん」
 大真面目に説明する木皇大神さんも木皇大神さんならば、真顔で頷く道真公も道真公。
「あんたら…」
 呆れ過ぎると言葉を失くすのは、神さまも人さまも同じこと。梛の宮さんはあんぐり口を開けると、恋に目が眩んでしまった二人の神さまを等分に見比べました。





――ここは西本願寺に間借りしている、新撰組の屯所の客間。部屋の中には、梛の宮さんと総ちゃんの二人。

「あんな、この際何でもええねん。例えばな、旨い菓子の店があるとするやろ?そしたらその店ごと自分のものになったら、毎日菓子が食えてええなぁとか思わへん?そないな願い事でもええねん」
 秋も仕舞いと云うに、必死に問う梛の宮さん額から、玉のような汗が滴り落ちました。
「お菓子は、近藤先生が買ってくれるからいらないのです…」
 ですが総ちゃんは、その申し出にも瞳を伏せてしまいました。大きく肩を落とした梛の宮さんに、総ちゃんも辛そうに項垂れます。それもそのはず。根競べのようなこの遣り取りは、もう一刻も続いているのですから。
「あ、ほな、こないなのはどうや?あんたも一応は新撰組のお人やろ?せやったら一度くらい、誰より強おなりたいと思った事が無いか?それ、叶えたるわ。やっとうの勝ち抜き戦で一等になったら、そりゃええ気分やでぇ。周りのもんかて見る目が変わるわ」
 閃いた名案に、今度こそはと梛の宮さんの顔が上気しました。
 ところが…。
 総ちゃんは項垂れたまま、又も小さく首を振ったのでした。
「何でぇっ、一等になりたくないんかっ?あんたいっつもビリやろ?悔しくないんかっ?」
 甲高く響いた声が、是と頷かない意固地さを責め立てます。
「なりたいんやろっ?うちは神さまや、ほんまの事云うたかてちっとも恥ずかしいこと無いで?」
 ここが正念場。
 梛の宮さんも、今度は力の入れ具合が違います。
 もう一息、更に詰め寄ろうとした、と、その時。
「客人、それは無理な相談だぜ」
 突然の笑い声と共に姿を現した偉丈夫が、招きもしないのに敷居を跨ぎました。
「誰?」
「名乗る程のもんじゃぁねえが、俺は原田左之助だ」
 原田さんは総ちゃんの傍らに胡坐をかきました。
「無理やて…、なんで始めからそないなこと云えるんや?」
「総司の剣はな、天凛って奴だ。分かりやすく云うと、天から授けられた才能だな。だから皆、こいつとの手合わせは御免こうむるわけよ。誰だって痛い目に合いたくねぇからな」
「…天分の才」

 せっかく縋りかけた藁が、ゆらゆらと、遠くへ流されて行きます。
 それを追う梛の宮さんの目から、光が消えて行きます。
 代わりに、あの、妙に算盤勘定に長けている宮司の顔が、大きく近づいて来ました。
 その顔が視界一杯になった瞬間、梛の宮さんはハタと我に返りました。 
 そうです、ここで引きさがる訳には行かないのです。百年の安泰を手に入れるまでは。
 梛の宮さんは重い頭を上げました。
 押しても駄目なら、引くのみ。

「あんな、うちを助けると思うて、何か願い事云うてぇな」
 こんなに困っている神さまを見捨てる人がどこにいるでしょう。立場が逆なだけに、ちと不安はありましたが、梛の宮さんは情に訴えて見る事にしました。
 ですが…。
 哀切を帯びた声を聞くと、総ちゃんは、深く深く項垂れてしまったのです。いえそれは項垂れると云うよりは、項垂れがすぎて前傾し、額が畳に付く際で辛うじて身体が止まっていると云うのが正しい状態でした。
「おっと危ねぇ」
 その総ちゃんの肩を掴んで支えると、原田さんは梛の宮さんを振り向きました。
「客人、どう云う訳かは知らねぇが、これ以上こいつを責めてやってくれるな」
「責めてなんていませんわ。あべこべに、こっちが責められている気分ですわ…」
 精も根も尽き果てたような深い溜息に、原田さんの眉が訝しげに寄りました。男義が褌を締めていると、日頃から豪語して憚らない、漢(おとこ)原田佐之助です。
「訳を聞かせてみな」
 可愛い弟分に難癖つけられて黙っちゃいられぬとばかりに、梛の宮さんに向かい顎をしゃくりました。



「…ふむ」
 梛の宮さんの話を聞き終えると、原田さんは腕を組み直しました。その隣では、総ちゃんがつんのめったまま、息すら止めてしまったかのように身じろぎしません。時折、頭が畳に尽きそうになると、原田さんが直してやるのですが、言葉は一言もありません。これはもう、籠城と云うに相応しい、異様な光景でした。
 
「梛の宮さんとか云ったか、客人」
「へぇ、元祇園の梛の宮、云う神さんですねん」
「酷な事を云うようだが、こいつに願い事を云ってみろと云うのは、ちと無理な話かもしれねぇ」
「どないしてっ?人やろ?人やったら、ひとつふたつ願い事あって当たりまえですやんっ、神さんかて、こうして願い事云ってぇなって、お願いしてますのやで?」
 勢い込む梛の宮さんを、まぁまぁと片手で抑え、原田さんはちらりと総ちゃんを見遣りました。
「こいつはなぁ、昔っから欲ってもんとは無縁な奴で、近藤さん…、近藤さんてのはここの局長だが、その近藤さんなぞは、総司は欲を忘れて生まれてきたと云い切るくらいだ。俺もそう思う。いや、こいつを知っている奴は誰もがそう思っている。だから願い事と云われても、こいつには思い浮かばねぇのよ。欲が無けりゃ、願い事も生まれねぇからなぁ」
「それじゃ、困りますのやっ」
「あんたの立場も分かる。だがこいつも…」
 目の端で捉えた総ちゃんは、相変らず籠城中です。
「困っている」
 それを不憫に思ったか、原田さんの声が湿りました。
「梛の宮さんとやら、こいつは俺の可愛い弟分だ。こいつの代わりにこの原田が頭を下げる。どうかもう堪忍してやってはくれねぇか」
 頼む、と下げられた頭を、梛の宮さんは茫然と見つめました。

 その二人の会話を…。
 石のように身を固くし、畳みと睨めっこをしながら、総ちゃんは聞いています。額には冷たい汗が滲み、背には悪寒のような震えが走ります。
 
 まだ片恋でいた頃、総ちゃんにもひとつだけ願い事がありました。
 それは土方さんと相思相愛になりたいと云う、熱く切ない想いでした。
 総ちゃんは、得意分野を問わず古今東西の神さまに仏さまに、初恋成就を願い昼に夜に祈りました。
 その甲斐があってか、はたまたそれが定めだったのか、土方さんとは目出度く結ばれ、只今シアワセの真っ最中。だから総ちゃんは思うのです。
 あの時自分の願い事は、全て叶えられてしまったのだと。だからもう願い事が叶えられる許容範囲は一杯で、もしこれ以上何かをお願いするのなら、今のシアワセを削って隙間を作らなければならないのだと…。
 そんな事になったら目も当てられません。いえ、土方さんとのこのシアワセが少しでも欠けるなど、考えただけでも恐ろしく気が遠くなります。
 そう云う訳で、梛の宮さんの申し出は、総ちゃんには迷惑以外の何物でもないのです。

 生まれて、唯ひとつだけ祈った願い事は叶えられたのです。もう何も欲しくは無いのです。
 つんのめったまま総ちゃんは、梛の宮さんが少しも早く帰ってくれますようにと、強く強く目を瞑りました。








                     


                     きりりく