茜 (壱) 昨夜激しい愛撫に咽んだ胸の一箇所が、まだ疼いて微かな余韻を伝える。 着物の前をきっちりと合わせたその下に、鮮やかに染まる幾つかの情事の名残がある。 隠しておきたいのはそれだけではない。 本当に知られたく無いのは瞳を閉じただけで蘇る、己の肌に滑る土方の手指の感触だ。 ひどく淫らな自分がここにいる。 こんな自分を田坂はきっと何もかも見通してしまうだろう。 橋の欄干に手をかけて下を流れる川面を見ながら、総司は小さな溜息をついた。 明日は田坂の診療所に行かねばならないからという懇願も聞き入れず、土方は執拗に総司の身体を求めた。 抗いは一度悦楽を覚えた身体には、砂でできた砦のように脆いものだった。 触れられれば熱を持つ自分の肌のありかを、土方は憎らしい程に知っている。 それでも最後まで鬩ぎあった己の心は、止まらぬ身体の欲情に負けて土方を受け入れた。 こんなことは嫌だと言葉で責めながら、流した雫は土方に与えられた悦びによるものだったと、何よりも自分の心が知っている。 それが総司を苛む。 もう今日は田坂のところへは行けない。行ける筈がなかった。 最初から決めて屯所を出てきたことを今一度呟いて、総司は風に嬲(なぶ)られ冷たくなった蒼白い頬に憂いの翳を落とした。 土方の強引な行為はその日あった新撰組と見回組との確執による。 不逞浪士の捕縛の際に、持ち場に新撰組が足を踏み入れたと見回組が抗議してきた。 幕閣の中にはまだ新撰組は浪士集団との見方が根強い。 ちらちらと言外にその辺りの皮肉を込めて繰り出される言葉を、先月再び長州に下った近藤の留守を預かる土方は、ただ無言で聞き入れる他なかった。 その苛立ちをぶつけるように土方は自分を抱いた。 咎めるつもりはない。むしろ土方の悔しさを受け入れることができる我が身が嬉しかった。 それでも心よりも身体の方が先に走り出す自分は嫌だった。 そんな遣る瀬無い思いに捉われて、前をしっかりと見てはいなかったらしい。 正面から来る人間にぶつかると思った瞬間、咄嗟に身を捩って避けようとしたが少々遅かった。 あっと思った時には、軽い衝撃が左の肩に走った。 「失礼を致しました」 咄嗟の出来事に、先に声を掛けたのはぶつかった相手だった。 「とんでもありません。ぼんやりとしていたのは私の方です」 慌てて詫びる言葉を言いながら相手に目を遣ると、自分と幾らも年の変わらないだろう若者が申し訳なさそうに立っていた。 見れば手にしていた風呂敷の包みの結び目が緩み、今の事で崩れかかっている。 「荷物が・・・」 総司に言われて初めて気がついたように、若者は今にも布から滑り落ちそうな中身をもう片方の手で持ち替えたが、時すでに遅くそのひとつが地に落ちた。 若者よりも早く、総司が屈んでそれを拾った。 落ちた荷物は書物だった。 薄いものだったが大層古いものらしく、表紙の紙はすでに黄色く変色し、中には端が破れているところもある。 「かたじけない」 若者は総司の手から書物を大事そうに受け取ると、初めて笑いかけた。 その屈託の無い笑い顔が、総司の警戒心をも解いた。 自分より背の高い若者は、冬というのに未だ日焼けの名残を留め、包みを大事そうに抱える腕はさほど太いとは言えないが、それでも引き締まった筋肉が逞しい。 そんな若者の健康そうな姿を、総司は眩しげに見た。 「大事なものなのです」 総司の拾った書物のことを、若者は言っているらしい。 「ずいぶんと古いものですね」 「お恥ずかしい。が、これは私にとって忘れられない人間が書き写したものを、譲り受けたのです」 「それは・・・」 改めて書物を見れば墨で書かれた表紙は薄くなって分かりにくいが、灌漑(かんがい)という文字が読めた。 「あの・・」 書物に目をとられていた総司に、若者がためらいがちに声を掛けた。 「何か?」 「今朝京に入り、初めての都で地理に不案内で・・・それでもし知っておいでならば教えて頂きたいのですが」 「私も京の人間ではありませんが、もしお役に立てることなら」 「二条城というのはまだ先なのでしょうか?」 「二条城に行かれるのですか?」 「いえ、行きたいのはその近くなのです。以前二条城の東側に大垣藩の藩邸があったのですが、すぐ近所に松尾屋という旅籠があると」 「大垣藩の藩邸なら・・・」 大垣藩邸は確かに二条城東側にあった。 が、新撰組が池田屋を襲撃した二月後、急進派の長州勢による襲撃により火を放たれた御所の類焼により消失していた。 新撰組はその辺りの見回りの担当ではないが、京の主だった地理に関しては仕事がら総司の頭の中にも刻み込まれている。 「ご存知ですか」 若者の顔に安堵の色が広がった。 「松尾屋という旅籠は知りませんが、その近くまでなら案内できます」 「そのようなご迷惑はおかけできません」 「構わないのです。丁度暇をつぶすのに困っていました」 総司の浮かべた笑みに、若者が戸惑うように目を瞬(しばた)いた。 が、すぐにそれは控えめながら喜びの表情に変わった。 慣れない旅先で受けた親切を、疑いもせずに感謝している様子だった。 「申し遅れました。私は大垣藩士九鬼正之輔といいます」 「私は沖田総司といいます」 九鬼と名乗るこの人間が、果たして新撰組の事を知っているのかどうかは分からなかったが、総司は敢えて自分がそこの者だとは名乗らなかった。 歳が近そうなこの若者とは、何故かそういうものを抜きにして語り合いたいと思った。 歩く道すがら、九鬼正之輔は総司に歳は二十五になり、同じ大垣藩の友人が松尾屋に逗留していて自分はそこへ行くのだと教えてくれた。 それでは少しだけ歳下だが、やはり同じ位の歳だったと笑う総司に、正之輔は穏やかな目をむけた。 「もっと私よりもお若いと思っていました。私には八つ歳の離れた弟が一人いますがその者よりも少し上くらいかと・・」 「・・苦労が無いのです」 正之輔の視線に、総司が少しだけ顔を俯けた。 どうみても人から頼りないと映るらしい自分の容姿の事を言われるのは昔から苦手だった。 「弟さんはご一緒ではないのですか?」 殊更話の流れを変えるように、総司が正之輔に尋ねた。 「弟はまだ藩校に通う身です。京に連れて来たかったのですが、そのような贅沢は早いと母が反対をしました。本当は若い内に色々な事をその目で見せてやりたかったのですが・・・」 「九鬼さんは弟さんを余程可愛がられているのですね」 隠しもしない弟への正之輔の愛情に、総司は素直に好感を持たずにいられなかった。 「いや、そのようなことは・・・」 正之輔が顔を赤くして慌てた。 「・・・身内の贔屓と言われても仕方が無いのですが、弟は私と違って出来が良いのです。藩校でも開校以来五つの指に入る俊英だと教授方に言われました。弟には自分の好きな道に進ませ、更に天から授けられた才を伸ばしてやりたいと、そう思っているのですが・・・なかなか力ない兄にはそれができません。せめて自分がこうして他国に行く機会に恵まれた折には共に連れ出して世間を見せてやりたいと思うのです」 語る正之輔の横顔は、それが己の使命だと刻むように生気を湛えたものだった。 つれづれに正之輔の話を聞きながら、半刻も歩かないうちに大垣藩邸のあった辺りについた。が、松尾屋という旅籠がなかなか見つからない。 「確かにこのすぐ近くだと聞いて来たのですが」 正之輔の顔に不安な色が浮かんだ。 人に尋ねても知らないという返事ばかりで流石に思案も尽きた時に、ふいに総司の脳裏に一人の人物の顔が浮かんだ。 「もしかしたら・・知っているかも」 我知らず漏れた独り言を、正之輔が聞き逃さなかった。 「どなたか松尾屋をご存知の方が?」 「いえ、その人が知っているかどうかは分からないのですが、或いはその周りにおられる方で分かる人がいればと・・」 心にあるのは伊庭八郎だった。 大坂と京を行ったり来たりしている八郎だが、今は京にいる。 八郎達奥詰が宿舎としている所司代屋敷はこのすぐ近くだった。 もしかしたらそこに八郎は居ないかも知れないが、今は唯一の頼りだった。 正之輔を促して、総司の足は躊躇うことなく二条城北の所司代屋敷に向かった。 幸いなことに伊庭八郎はいた。 「珍しいな。お前の方から来るなどと」 相変わらず洒脱な身のこなしに隙はないが、迎える顔にはからかうような笑みがあった。 「こちらさんは?」 総司の後ろに立っている正之輔に気さくな態度を見せながら、それとなく殺気を探るのは、八郎の身についた剣士としての本能なのだろう。 「大垣藩士九鬼正之輔といいます」 正之輔は几帳面に頭を下げた。 「堅い挨拶はいらないよ」 その言葉で漸く解いた八郎の警戒を、正之輔は気付かなかっただろう。 「松尾屋という旅籠を探しているのだけれど、八郎さん知らないかな」 「何だ、俺に旅籠を聞きにきたのかえ」 「申し訳のないことです。私の為に沖田さんにも迷惑を掛けてしまいました」 呆れたような物言いに、総司ではなく正之輔が恐縮した。 「いや、気にしてもらっちゃこっちが困る」 正之輔の実直さにあって八郎が慌てた。それを総司は横で楽しげに見ている。 「お前も大概意地の悪い奴だね」 そんな総司を八郎がちらりと見やって溜息をついた。 「八郎さんなら困っている人を見捨ててはおけないと思って」 声に微かに笑いを含んでいた。 「何とでも言っているがいいさ。・・・それより松尾屋ねぇ」 少しばかり思うところがあったのか、八郎はここで待っているように言い置いて建物の中に消えて行った。 「ご迷惑ではなかったのでしょうか?仮にも上様奥詰のお役に付いている方に」 正之輔が憂えるように問うた。 「大丈夫です。あれであの人面倒見が良いのです。それに奥詰というのは案外に暇のようです」 最後は声を落として、秘め事を暴くように囁いた。 そんな総司の冗談めいた軽い口調に、正之輔がつられて笑みを浮かべた。 どこで聞いてきたものか、八郎の案内は的確なものだった。 あれから八郎はすぐに戻って来ると、二人を従えて先に歩き出した。 五町も歩かぬ内に着いた旅籠には、確かに松尾屋と木の看板が架かっている。 それは入り組んだ小路と小路をいくつも曲がって、やっと見つけることができた。 「このあいだの火事で藩邸と一緒に焼けたらしいぜ。それで引っ越した先がこんなに分かりにくい所だった訳さ」 確かに堅固な建物からは、まだ木の香が漂ってきそうだった。 「何と礼を言って良いのか・・」 九鬼正之輔は、された方が恐縮してしまいそうに丁寧に頭を下げた。 知らぬ土地で見知らぬ人間から受けた親切を越した節介が、余程にこの若者には嬉しかったのだろう。 「そんなことはいいが、あんたの知り合いって言うのはここにいるのかい?」 松尾屋の建物を横目で見ながら、八郎がもう一つの懸念を口にした。 その八郎の不安はどうやら当たっていたらしい。 正之輔が逗留している筈だと言っていた友人は、松尾屋にはすでに居なかった。 「どこぞに行ったものやら。が、ここに居ればおのずと戻って来るでしょう」 それでももう先ほどこの旅籠を見つけられずにいた時よりは困惑もせず、正之輔は総司と八郎に笑いながら告げた。 自分達のことは良いから中に入って欲しいという総司の言うことも聞かず、正之輔は二人の姿が小路の角を曲がって隠れるまで、旅籠の前に立ってその背を見送ってくれていた。 「律儀な人だな」 「良い人なのです」 総司の声が嬉しそうだった。 「お前どこで知り合った?」 「さっき五条の橋の上で」 「橋の上?」 流石に呆れたように八郎が横の総司を振り向いた。 「それは嘘だけれど橋を渡って歩いているときに、ぼんやりしていて九鬼さんとぶつかってしまって・・・それが縁で」 「大差ないな、橋の上でも往来でも。が、お前が人にぶつかるなど珍しいな」 総司の俊敏さには自分も敵わないものがあると八郎は思っている。九鬼正之輔はその総司が避け切れなかった相手では無かったはずだ。 「おおよそ又つまらぬことでも考えていたのだろう」 それが土方に由来していることは容易に想像がついたが、敢えて八郎はそこに触れなかった。 「つまらないことかな。・・・多分そうだ」 笑いながら応えた声に、自嘲の響きが籠められていた。 「まぁお前のぼんやりなどはどうでも良いことだが・・。それよりもあの九鬼という人、無事に友人という人間には会えぬと思うが・・」 「どうして?」 「ここに来いと連絡を寄越した人間が、そこに居ないなどとは普通は在り得ないだろう」 「何か急に用事ができて、旅籠を出なければならなかったとか・・」 「それならば旅籠にひと言、九鬼さんへの書置きなり伝言を託して行くだろう」 「それではどういうことだと八郎さんは言うのですか?」 「探して欲しく無い事情か・・若しくは九鬼さんの事はすでに頭に無い状態であるということさ」 「・・まさか」 総司が足を止め、真顔で八郎を見た。 「死んでいるって言っている訳じゃないぜ。仏さんになっているのならば荷物はそのまま旅籠にあっても良い筈だ」 「それでは・・」 「大垣藩というのは勤皇色の比較的強い藩だが、まだ幕府よりの態度を崩してはいない」 「それと何か関係が?」 「分からん・・埒も無い俺の勘だ。だが尋ね当てた先にその人間がいなかったというのに、九鬼さんもずいぶんと落ち着いていたな」 八郎の疑惑はその辺りにもあったようだった。 「おいおい、俺たちには関係の無いことだぜ」 真剣な面持で黙り込んだ総司を、八郎が笑った。 正月を迎えてからあっという間に過ぎ行こうとしている冬を追うように、延びた夕暮れの陽が二人の影を足元から細長く伸ばした。 八郎と別れ屯所に帰る道のりは、九鬼正之輔の人柄に触れて軽くなった心を又重くするものだった。 着いた時にはもうすっかり日は沈んでいた。 廊下を渡りながらそこに近づいた時、一瞬ためらうように歩を緩めたが、揺れる心よりも先に身体は動き出していた。 半日顔を見ないでいればこんなにも胸に寂しいものがある。 もう一時も土方無しではいられない弱い自分を、総司は叱り付けたい思いだった。 「遅かったな」 障子を後ろ手で静かに閉めた音に、振り返らず行灯の灯りだけで何やら書き物をしていた土方が先に声を掛けた。 「田坂さんの処には行かなかったから」 「・・・行かなかった?」 ようやく不審気に土方が振り返った。 「行ける筈が無い」 昨夜の行為を咎めるような、珍しく強い総司の口調だった。 身体に残る情事の跡を田坂には見せられる筈は無い、そう言っているのだと言う事は土方にもすぐに察せられた。 「怒っているのか?」 「怒ってはいない。・・・けれどああいうのは嫌だ」 これは土方への八つ当たりだ。 本当に嫌だったのは心よりも土方を求めて先走る自分の身体だと、総司は知っている。 土方が筆を置いて、端座している総司に向き直った。 「こい」 咄嗟に腕を取られて強引に引き寄せられた時にも、抗いは僅かなものだった。 胸の中に抱きこまれても、総司は俯いたまま瞳を合わせようとしない。 それがこれは己の本意では無いと土方に見せる、せめてもの抵抗の証だった。 「・・・ああいうのは嫌だ」 「お前を欲しい気持ちを止められなかった」 「それでも嫌だ・・」 「すまなかった」 土方の手が己の肩口に顔を伏せている総司の項(うなじ)を包み込んだ。 掌だけで容易く包み込めてしまう頼りない感触は、微かに震えてそれを拒んでいるように思える。 「・・すまなかった」 土方の声が、己への侮蔑に似た思いを籠めて沈んでいる。 それが総司には辛い。 詫びてほしいのではない。 教えてほしいのだ。何故にこれ程土方が恋しいのかと。 こんなにも土方を求める自分を、いつか重荷なって嫌いにはならないのかと。 己の意思を省みず、狂奔にも似て激しく迸る土方への想いと身体は、今総司をある種の戸惑いの中に追い詰めている。 だから教えて欲しいのだ。 こんな自分を嫌いにはならないのかと。 だがそれを言葉にして問う勇気は無い。 「・・・我儘を、言いました」 漸く伏せていた顔を離して、黒曜の瞳が土方を見上げた。 ぎこちない笑い顔は、先ほどまで相手を責めていた強いものではない。 むしろ何かに怯えるのを隠すような不安定なものに、土方には思えた。 「何かあったのか?」 「別に何も・・」 「約束をしたな」 「・・約束?」 「俺に隠し事はしないという約束だ」 土方を映す瞳の奥が一瞬揺らいだが、すぐにそれは消えた。 「・・・今日、田坂さんの処に行けなかったから」 総司の声音に含むような笑いがあった。 「まだ絡むのか」 土方が低く苦笑した。 「人に道を聞かれて、その人が探していた旅籠がなかなか見つからなくて・・」 「こんな時刻まで付きあっていたのか」 呆れたような口調だった。 「結局八郎さんにも迷惑をかけてしまったけれど、どうにか旅籠は見つかったのです」 「伊庭が?」 「探していた旅籠が丁度所司代屋敷の近くだったから・・」 「伊庭も暇なことだな」 うんざりとした物言いに総司が笑い出した。 「けれどお陰で行き着くことができたし、その人・・・大垣藩士で九鬼さんと言うのですが、とても喜んでいた。良い人だったのです」 九鬼正之輔という人間を思い起こして、先ほどまでどこか硬かった総司の表情が和んだ。 「大垣?」 「・・何か?」 「いや、何と言うことはない」 淀みなく応えた土方だが、その面に走った一瞬の躊躇を総司は見逃さなかった。 「島田君が大垣藩の出身だったと・・ただそれを思っただけだ」 訝しげな総司の視線を受けて、土方がその憂慮を慰撫するように方頬だけに笑みを浮かべた。 胸に抱きこまれていた腕(かいな)の力はとっくに緩められている。 そこから姿勢を起こして、総司は土方に向き合った。 「隠し事はしないと言う約束です」 総司の瞳がまっすぐに土方を捉えた。 「隠すつもりは無いが・・・」 暫し思案するように、土方が沈黙した。 それを総司は身じろぎもせずにじっと待っている。 土方は確かに大垣藩という言葉に反応をした。 それがあまり良い結果に辿りつくとは思えない疑惑が、総司の胸の裡を落ち着かせない。 「元大垣藩士の一人を、少し調べている」 真実を話すには些か迷いもしたが、納得させる為には止む終えないと判断した、短い、だが総司の懸念を確かに肯定する土方の応えだった。 「九鬼という人間では無いから安心しろ」 「・・・九鬼さんとその旅籠で待ち合わせていた友人という人が、そこに居なかった」 それは胸騒ぎというのには、重すぎる予感だった。 「考えすぎだろう。それにその人物はすでに脱藩し、所在もはっきりしている」 「それでは九鬼さんとは関係がありません」 総司の顔にようやく安堵の色が浮かんだ。 そんな想い人の屈託の無い笑みの上に、淡い灯りが翳を作ったのを土方は複雑な思いで見ていた。 総司が去った室の中央で、四半刻程も土方は腕を組んだまま、宙を睨むようにして動かずにいた。 何処からか忍び込んだ隙間風に行灯の灯が微かに揺れ、畳の上にあった己の影が揺らいだ。 それが合図のように立ち上がると、土方はそのまま観察方部屋へと足を向けた。 そこに居る筈の山崎に命じなくてはならぬことは少々気が重い。 九鬼正之輔という人物を探れ、それは総司への裏切りのようにも思えた。 手燭を持って行く監察部屋までの廊下は、どんなに歩を鈍らせてもたかがしれた距離だ。 土方は我知らず溜息が漏れるのを禁じ得なかった。 灯を消してもまだその余韻のように、室を覆う闇がどこかぼんやりとしているように思えた。 それも次第に薄れて、やがては全てのものの気配すら呑み込んでしまう真の暗さになるのだろうが、総司はその中に延べられた夜具の中で幾度も寝返りを打っている。 今日会った九鬼正之輔はあれからどうしただろうか。 無事に友人と言う人に会うことができたのだろうか。 思えば取るに足らない偶然の縁(えにし)だったが、繋がれた細い糸は何故か結び目が解けないような気がする。 そんな自分の心にある不思議を、総司は先ほどから持て余している。 だが本当に総司の眠りの邪魔をしているのは、幾ら消そうと思っても離れぬ、大垣藩士と聞いた時の土方が一瞬浮かべた困惑の表情だ。 きっと大した事は無い。土方も関係が無いと言っていた。 が、そう自分に言い聞かせようとすればする程、胸にあるしこりは大きくなってゆく。 眠れぬ辛さに今一度姿勢を変えたとき、右の腕に先ほど土方につかまれ引き寄せられた感触が蘇った。 両の腕を、己の身体を抱くようにそっと回してみた。 けれどこうして抱いて欲しい腕(かいな)は別にある。 それが誰のものか、知り過ぎている程知っている自分だ。 「・・・土方さん」 息苦しさにひとつ声が零れた。 事件簿の部屋 茜 (弐) |