茜  (弐)





翌日早めに朝餉を済ませると、総司は屯所を出た。
土方には何も告げてはいない。
今日一日自分が非番だというのを土方は知っている筈たが、昼前には戻るつもりだったから、敢えて顔を見ずに副長室の前を素通りしてきた。
が、多分そうしなかったのは、自分の胸のどこかにその方が良いと判断させる何かがあったからだ。
土方は大垣藩士の一人を探っていると言っていた。
それが総司の胸に重く影を落としていた。
まさか九鬼正之輔とは関係が無いとは思うが、じっとしていることができずに足は自然に松尾屋へと向かっていた。


松尾屋で案内を乞うて土間で待たせられる間も無く、九鬼正之輔はすぐに二階から降りてきた。
総司の姿を認めると、嬉しそうに駆け寄ってきた。
こういう正之輔の飾り気の無い率直な人間味が、総司を惹きつけるのかもしれなかった。

「どうしたのです、沖田さん」
「用事があって近くまで来たのです。それで九鬼さんが昨日友達という人に会えたのかと、少し気がかりだったので寄ってみました」
世慣れした人間ならば容易に見抜けそうな、総司の上手いとは言いがたい嘘を、正之輔はそのまま受け取ったらしい。
「用事とは、伊庭さんとおっしゃる昨日の方のところへですか?」
屈託の無い問い掛けに、総司が曖昧に頷いた。
「こんな処では何です。もし宜しければ狭いですが私の部屋に来ませんか?」
「いえ、そんなつもりは無いのです。九鬼さんが不便をしていなければそれで良いのです」
「すまない事です・・。貴方にまでそのような心配を掛けさせてしまって」
正之輔の顔が心底申し訳のなさそうに曇った。
「友達という方にはまだ連絡が取れないのですね」
「その事で・・」
正之輔が何かを言いかけたとき、奥から三、四人の集団が出てきた。
これからこの旅籠を出る人間達だろう。
少し遅い旅立ちは、ゆっくりと都見物が目当てなのかもしれない。

「沖田さん、やはり私の部屋に来ませんか?」
正之輔の言葉に総司は一瞬躊躇ったが、狭い旅籠の入り口は今の集団と店の者でごった返す様相を呈してきた。
正之輔も邪魔になるのを遠慮しているようだった。
「それでは少しだけお邪魔しても構いませんか?」
「どうぞ」
総司の決断に、正之輔がほっとしたような笑みを浮かべた。


正之輔は狭い部屋と言ったが、それは決して嘘ではなかった。
布団をふた組敷けば一杯になりそうなその室は、二階ではあったが窓を開ければ格子の向こうは直ぐに隣家で、朝だというのに薄暗く、踏む畳の冷たさが背筋まで這い上がって来る様だった。

「眠るだけなのです。それ故これで十分」
総司の困惑を見てとったのか、正之輔が笑った。
「本当ならば贅沢もできぬ身、それを思えばこうして暫く京に身を置けることすら神仏に感謝しなければなりません」
「すみません。そんな事を思った訳では無いのです」
きっとそうだったに違いない己の無遠慮な視線を、総司は恥じた。
「分かっています。最初は私も驚きました。やはり都の物価は高い。旅籠の宿賃一つとってもここの払いと同じ金で、私の郷里ではもう少しまともな部屋に泊まることができます・・・私は勘定方の仕事をしている人間なのです。いちいち考えることが小さい」
総司の瞳に合って、正之輔が少々照れくさそうに笑った。
「そんなことはありません。私こそ九鬼さんのように世間が広くなくて・・自分が恥ずかしい」
総司が慌てて首を振った。


口から出た言葉は真実だった。
まだ江戸にいた頃は明日の米や味噌に事欠く試衛館の切り盛りを、井上源三郎の手伝いをしながら共に頭を悩ませていた。
が、それとて幼かった自分には大して苦労とも感じず、むしろ近藤や土方の庇護の元で安寧とした日々を送っていたように思える。
目の前の九鬼正之輔はきっと昨日語ってくれた弟の将来(さき)の為に、己の贅沢を慎んだ生活をしているのだろう。
だが正之輔には一切の暗さが無い。或いはそれが希望のようになっているのかもしれない。


そんな正之輔を眩しいものでも見るようにしていたが、ふと視線を少し逸らせたとき、見たことのある書物が視界の端に入った。
それは昨日総司とぶつかった時に正之輔が落としたものだった。

「あの本、中は何ともありませんでしたか?」
「大丈夫です。どうぞ御心配はして下さるな」
総司の憂慮を機敏に察して正之輔が頷いた。
「ならば良かったけれど・・・かんがい・・?」
角の捲れた古い書物の表書きがどういう意味を持つものなのか分からず、総司は何とは無しに呟いた。

「そう、灌漑・・・川などの水を田畑に引いて土地を潤すことです。私の国元は大きな川と山に囲まれた処です。川は静かに流れている時は土を肥えさせてくれる。が、ひとたび暴れ出せば築いた堰を破り畑や田に実るものを根こそぎ浚って行ってしまう。農民は疲労困憊し、藩の財政は逼迫します。大垣藩というところはその歴史を水との戦い無しでは語れぬ程に、水の恩恵も弊害も受けているのです。せめて私のような人間でも何かの役には立てまいかと、こうして勉強をしているのですが・・・なかなかに私の頭では難しい」
「・・・私には、知らないことばかりです」
総司は今まで知り得なかった未知の世界に触れて、少なからず自分が興奮しているのを覚えずにはいられなかった。
「私もまだまだ知らない。が、これから少しでも役に立つことができればと思っています。いや、自分が今生有る内に何もできなくとも、次の世で誰かが引き継いでくれる。そしていつかそれがずっと先でも必ず実ると、そう信じているのです」
正之輔の穏やかな眼差しのその一番深いところにある強い光に、総司は圧倒されるものすら感じて沈黙した。

「偉そうなことを言いました」
憑かれたように語っていた正之輔が、はたと我に返って恐縮したように総司に頭を下げた。
「とんでもない。九鬼さんの話は私には、聞くもの全てが知らないことばかりで楽しいのです」
「そう言って頂ければ嬉しい。灌漑や治水工事には莫大な金が掛かります。が、それをやらねば藩も農民もいつかは共倒れになってしまう。・・・実はここで落ち合う予定になっていた友人というのは私と同じ勘定方だった人間で、その金の工面の為に一足先に京に来ていたのです」
正之輔の顔に憂いの色が浮かんだ。
よく見れば目の下にうっすらと隈ができている。きっと昨夜は友の身を案じて眠れぬ夜を過ごしたに違いない。

「金の工面?」
「藩の財政では予定している工事の半分もできません。が、一刻の猶予も出来ない。どこかに金を借りねばならず、その借入先を探すに難儀をしていた処に、良い条件で援助をすると、京に在住の方が名乗り出てくれたのです」
「良い条件・・?」
正之輔は頷いたが、口は閉ざしたままだった。
これ以上は大垣藩という藩の問題になるのだろう。
もう総司には立ち入ることはできなかった。



今日は一日どこへも出ずに友人を待つという正之輔に見送られて、総司が松尾屋を出た時にはすでに天道は一番高い処に近かった。

土方には何も言わずに出てきた。
昼前までに戻らなくてはまた心配をするだろう。
だが正之輔と分かれた後も、何故か総司の心に引っかかるものがある。それが何なのか分からない。

堀川にそって南北に貫く往来に出たときに、ふと足が止まった。
ここを左に折れずにもう少し行けば、伊庭八郎の居る所司代屋敷はすぐだ。
一瞬迷いはしたが、総司は躊躇いを捨てたように、道を真っ直ぐに進んだ。




運良く伊庭八郎はそこに居た。

「昨日といい今日といい、お前って奴は人の都合などにはとんと頓着の無い奴だね」
顔を見るなり呆れた風に、総司に向かって歯切れの良い江戸言葉で文句を言った。

「すみません。八郎さんに聞きたいことがあって・・少しだけいいですか?」
総司の吐く息が白い。
いつもは透けるように蒼白い頬が僅かに紅潮している。
さぞ足を急がせてここまで来たのだろう。

「今日は非番だから構わないが・・・俺はこんな処で立ち話なんざ御免だぜ」
「すぐに終わることだから・・」
「それでも嫌だね」
言い切った時には総司の横を通り抜けて背中を見せていた。
「どこへ行くのです」
「温(ぬく)い処さ。昼も近い」

どんどん先を行く八郎の広い背を見ながら、総司はひとつ小さな溜息をつくと、振り返らないその後を追った。



昼までには屯所に戻らなくてはならないという総司の言うことも聞かず、八郎はどうやら馴染みになっているらしい料理屋の二階の座敷に上がりこんだ。

「で、話は昨日の九鬼さんに関係することか?」
腰をおろすなり八郎は直裁に切り出した。
居心地悪そうに端座する総司は軽く頷いた。
「そんなことになりそうだとは思ってはいたが・・・お前もお節介は大概にしろよ」
「お節介をするつもりはない。ただ九鬼さんの友人と言う人、結局まだ見つからずにいて、それで何か役に立てればいいと・・」
「それを世間じゃお節介っていうのさ」
にべも無い八郎の物言いに、総司が黙り込んだ。

「まぁ、お前が首を突っ込んだところで何も解決するとは思わないが・・聞きたいことと言うのは何だ」
黒曜の瞳が少しばかり怒って自分を睨んでいるのに、八郎が諦めたように吐息した。
「・・・一藩にお金を貸してくれるくらいな大店を知らないかと思って」
人に物を尋ねるのには些か無愛想な口調だとは自分でも思ったが、もう修正はきかない。
「そう怒るな」
「怒ってなどいない」
「怒っているので無ければむくれるな」
又も何か言いたげな総司を無視して、八郎は丁度運ばれてきた膳にある酒を手酌で注いだ。

「一藩に金を貸す・・・それは大垣藩に金を貸すという事を言っているのか?」
問われて初めて、例え八郎であっても隠しておくべきだったかも知れぬ事情を、つい口にしてしまった自分の軽率さを総司は後悔した。
が、八郎は総司の沈黙を己の問い掛けに対する是という応えだと了解したようで、何かを思案するように口に持ってゆこうとしていた盃を持つ手を止めた。

「・・・金貸しは何も商人と限った事でもないが」
「それでは誰が他にいるのです」
九鬼正之輔が言っていたことが本当ならば、そんな大金を融通できる人間が商人の他にいるとは思えなかった。
「例えば・・」
「例えば?」
「金を融通したがっている他藩」
「藩が藩に貸すなんて・・」
「表立ってはあまりしないだろうな。面目というものがある。が、この世の中だ。多少の無理をしても自藩の味方を増やしたい藩はいるだろうよ」
それが暗に倒幕の急進派、長州藩を指していることは流石に総司にも分かった。

「それでは大垣藩は・・・」
「危ない橋を選んだのだろうよ」
「危ない橋?」
「川に架かる目の前の橋を渡れば目的の地はすぐ其処だ。が、その橋は紙で出来ているように脆い。上手く渡りきれれば僥倖だが、渡りきらぬ内に水に溶けて川に流される確率もその半分・・・いや、九割方がそうなのかもしれん」
珍しくも歯切れの悪い八郎の例えだった。
「それでは八郎さんは、九鬼さんも大垣藩も敢えて危険な賭けをしようとしていると・・」
「そこまでは俺にも分からん。ただ大垣藩の家老はかなり出来る人間で、逼迫していた藩の財政を見事に立て直した英傑らしい。先を読む力もあるのだろう」
「大垣藩が長州と手を結ぶと?」
「そうとは言っていない。が、その小原という家老、強い勤皇思想の持ち主だ」
「それでは・・・」
総司の脳裏に先ほど別れたばかりの九鬼正之輔の顔が浮かんだ。
そして昨夜土方が自分に告げた言葉も、それに重なるように耳に蘇る。
土方が探ると言っていた相手が九鬼の待つ友人と、まだ決まった訳ではない。
総司は己を励ますように八郎を見た。

「だがもしそうであれ、大垣藩自体は表には出ないだろうよ」
「どういう意味です?」
「いくら藩内に強い勤皇色があったとしても、長州のようにそれを前面に出すにはまだ早すぎる」
「・・早すぎるって」
「日和見しているのさ。昨今どこも似たり寄ったりが多いだろう。今は幕府の力が強い。だからまだ早いのさ」
「それでは九鬼さんは・・」
「後ろ盾は藩そのものだ。それに間違いは無い。が、もしもこの画策が失敗に終わり、長州と大垣藩との密談が表に出そうになった時には、九鬼さんとその友人という人が責を一身に負うのだろうな」
「そんなっ・・」
総司の顔が強張って蒼ざめた。
そうであっては欲しくは無い。今の八郎の言葉を必死に否定しようとしたとき、総司の胸に思い出された事があった。

九鬼正之輔は友人を『同じ勘定方の人間だった』と言った。
それは既に過去を指す言い方だった。
その時は何とはなしに聞き流していたが、正之輔と別れたあとも胸に残っていたしこりはこの言い回しだったのかもしれない。


「九鬼さんが・・・」
呟いた総司を、八郎はその先を促すような沈黙を守って待っている。
「九鬼さんが待っているという友人の事を、おかしな言い方をした」
「どんなだ」
「同じ勘定方の人間だったと・・」
その言葉に八郎が難しそうに眉根を寄せた。

「どうやら決まりらしいな」
「決まり・・?」
「九鬼さんもその友人という輩も、もう大垣藩の人間では無いとういことさ」
「脱藩していると?」
「表向きはな。事が上手く運べば又藩に戻る約束にはなっている筈だろうが・・」
「・・・もしも・・もしも、成就できなかったときには」
「藩はとうに脱藩した人間と打ち捨てるだろうな。その前に九鬼さんは己の身の処し方を知っているはずだが・・」
殊更感情を抑えたような、抑揚の無い八郎の声音だった。


総司は呆然と八郎を見た。
八郎の言っていることは即ち九鬼正之輔の死を意味する。
土方は探っている人物は大垣藩を脱藩していると言っていた。
何の関係も無いと思っていた別々の事柄が、いつの間にか手繰り寄せられて今一つの糸に結ばれた。
新撰組が追っているのは、九鬼正之輔の友人という人間にほぼ間違いはない。
総司の黒曜の瞳が凍りついたように見開かれた。

「・・・九鬼さんが、まだそうなると言っている訳ではない」
八郎が掛けてくれる言葉も、今の総司にとっては偽りの安らぎにすらならなかった。
そんな己の想い人の姿を、八郎は暗澹たる思いで見ていた。






いつまで続くのかと思う西本願寺の長い黒塀にそって歩きながら、総司は屯所へと戻ることに戸惑う心を叱咤していた。
新撰組にある自分は仕事と私情の区別をつけなければならない。
だがそう思えば思う程、胸の裡は重く暗いものに覆われてゆく。
いつか九鬼正之輔を我が身が追うことになる日があるのかもしれない。
その時には少しのためらいも無く、自分は下された任務に忠実であらねばならない。
頭では分かっているのに、それでもそれを凌駕して心は抗う。


「今、お帰りですか」
ぼんやりしていたのだろう。
ふいに掛けられた声に驚いてその方向を見ると、監察方の山崎烝が此方を見ていた。
「昼にも戻られないので土方副長が心配をしておられました」
山崎の顔に穏やかな笑みが浮かんだ。

そういえばもうそろそろ夕刻が近かった。
肌に触れる冬の風が刺すように冷たくなっている。
昼前に戻る筈が八郎と話し込んですっかり遅くなってしまった。
誰にも何も言わずに屯所を出た自分を、土方は怒っているのかもしれない。

「一応戻られたことを、先にご報告をされた方がよろしいかもしれませんな」
山崎は土方と自分の事を察している。
含むような眼差しを向けられたとき、それを暗に示されたようで頬に血が昇るのが分かった。

「では、私はこれで」
「・・山崎さん」
そんな総司の狼狽ぶりを見ぬように、軽く一礼して踵を返そうとしたその背に総司は声をかけた。
振り向いた山崎に、呼び止めはしたものの総司はそのまま言葉を途切らせた。
「何か?」
山崎は短い言葉を発しただけで、その先を促しもせず動かない。

本当は山崎に新撰組は九鬼正之輔を探っているのではないかと聞きたい。
けれどそれを告げることはまだ出来ない。


「すみません。何でも無いのです。足を止めさせてしまって・・・」
作った笑みも声もぎこちなくなってしまったかもしれない。
だが今はそれしかできない。
笑い掛けた顔が本当のものでは無いとは分かったが、山崎も敢えて目の前の若者に真実を問うつもりはなかった。

「早く行って差し上げないと、また副長の機嫌が悪くなります」
冗談めかして言ってやると、総司の顔に漸く憂いの無い笑みが広がった。




「こんな時分までどこに行っていた」
「すみません」
不機嫌を隠しもしない土方に、総司が小さく頭をさげた。
「俺はどこに行っていたと聞いている」

普段よりも執拗な土方の怒り方が腑に落ちずにいたが、それが九鬼正之輔に自分が係わっていたという疑念から来るものではないのかとの思いが総司の胸を過ぎった。

「九鬼さんのところに行ってきました」
伏せていた瞳をあげて土方を正面から見て、思い切って告げたのは、それを確認するためだった。
「どうしてそんなところに行った。もう九鬼という人物に用は無い筈だろう」
「九鬼さんが待っているというご友人に会えたかどうか、どうしても気になったのです」
「そんなことはお前には関係の無いことだろう」
「・・・どうして、土方さんは九鬼さんと私が会うことにそんなにも拘るのです」

最初から聞きたかったことはこのことだ。
自分の予感は当たっていた。
土方は九鬼正之輔と会っていた事で苛立っている。
総司は己の心の臓の音が大きくなるのを感じた。
眉根を寄せた土方の端正な面が、一瞬何とも言いがたい険しい表情に歪められた。

「お前が余計なお節介をやいて、後で文句を聞かされるのはうんざりと思っただけだ」
「でも・・」
「もういい。どうせ身体も冷えさせてしまったのだろう。早く温めろ」
これ以上の詮索は許さぬとでも言うような、会話を断ち切る土方の強い言葉だった。



副長室を後にして黄昏色に染まりかけた廊下を渡りながら、総司は今自分が持つ思考の全てを駆使している。
八郎は大垣藩が長州藩から金を借りる工作に、九鬼正之輔とその友人が裏で折衝の役目を負わされているのかもしれないと言っていた。
それは多分九分九厘当たっている。
そしてその成就を新撰組は未然に防がなければならない。
だがそれは又工作に失敗をした正之輔の死をも意味する。

板敷きの冷たさが踏みしめる足の裏から、全身を貫くようだった。
思わず瞳を閉じた瞼の裏に浮かんだのは、正之輔の穏やかな笑い顔だった。



朝から留守にしていた室はひっそりと静まり返り、吐く息だけが白く濁った。
ずいぶんと日は長くなったが、寒さが緩む気配はない。
火鉢にある炭に火を熾そうとした時、突然背筋に悪寒が走った。
額に手の甲を当ててみると、少しばかり熱い。
土方の言っていたように、ずっと寒気に触れて身体をすっかり芯まで冷やしてしまったのが悪かったのだろう。

最近は調子が良かったから油断をしていたのかもしれない。
だが胸に抱える業病は僅かな隙を狙って、こうして内から攻撃する。
そして少しずつ自分の身体を滅ぼしてゆく。
病は確かに我が身にある。

身体の震えは熱に侵され始めたものなのか、いつか来る日に怯えるものなのか分からない。
それを凌ぐように両の腕を身に回したときに、ふと九鬼正之輔が言っていた言葉が耳に蘇った。

今人の為に自分ができぬ事を誰かが次の世で引き継いでくれる、そしてそれがいつかずっと先に実ることを信じているのだと・・


「・・・ずっと先にいつか実る・・」

言葉にして呟いた時、突然内から突き上げるものがあった。
それが総司を立ち上がらせた。
一瞬身体がふらついたが、そんなことに構ってはいられなかった。
九鬼正之輔を助けなければならない、今はその思いしか胸になかった。

そのまま急いで室を出ようとしたが、ふと思いついたように足を止め、隅にある行李から、滅多に着た事の無い藍の羽織を取り出した。
手にした物がどれほどの役に立つのかは分からないが、せめて防寒に着用しようと思ったのは、いつも心配をさせるだけの土方への申し訳なさからだったのかもしれない。


纏う刻(とき)すら惜しむように、総司は暮れかけた薄闇の中に駆け出した。










              事件簿の部屋         茜 (参)