茜  (参)





日が沈んだあとの冬の冷気は、松尾屋に着くまでに総司の指先までをも白く凍らせた。
迎えてくれた九鬼正之輔の顔が、総司を見るなり厳しいものになった。


「沖田さん、顔の色が酷く悪い」
「外が寒かったから・・」
総司はそんな言葉で正之輔の危惧を解くようにして笑った。
「早く私の部屋に・・・こんな寒い処にいては余計に悪くなる」
少しでも早くと先に立って案内してくれる正之輔の後に続きながら、自分の身を真剣に案じてくれるこの人間を、総司はもう他人の範疇に置いておくことはできなかった。



正之輔の狭い室は充分に火が熾っていた。
「さあ身体を温めて下さい」
気忙しく促されるように火鉢の近くまで来たが、かえってその暖気が咳を誘った。
手の平を口元に当て堪えようとしたのが悪かったのか、一度押え込まれた咳は今度はその何倍も強く総司の胸からこみ上げ、もう止めることは出来なかった。

「沖田さんっ」
正之輔が慌てて背を摩ってくれるが、それに大丈夫だと応える事もできず、間断なく続く激しい咳は総司の呼吸すら許さない。
息苦しさに瞳が涙で滲んだ。
どの位それが続いたのか、荒い息を繰り返す度に、まだ笛を吹くような細い音を喉の奥から鳴らせて、前かがみになっている総司の身体を支えてやりながら、正之輔は初めてその熱さに気がついた。

「沖田さん、酷い熱だ」
まだ言葉を返せない総司の額に手を遣ると、驚くほど熱い。
「・・・大丈夫」
どうにか身体を起こして正之輔の方に向き直ると、総司は蒼白な顔で微かに笑いかけた。
「大丈夫なわけがない。こんな身体で・・すぐに知らせなければ。どこに行けば良いのです?」
「九鬼さん」
今にもその使いを頼みに下の帳場に行こうとする正之輔の腕を、総司が咄嗟に掴んで引き止めた。

「本当に大丈夫だから・・こんなこと慣れている。少し休んだら駕籠を呼んで貰って一人で帰ることができます」
「馬鹿なことを言うものではない」
正之輔の顔が険しかった。
だが総司は頑なに首を振った。
正之輔を新撰組に走らせる訳には行かなかった。
それだけは絶対にできないことだった。

「・・・伊庭さん」
正之輔がふいに呟いて総司を見た。
「そうだ、伊庭さんの処に私が行って来ます。ここからなら近いし・・・待っていて下さい。すぐに戻ります」
総司が何かを言おうとするのを許さず、今度こそ九鬼正之輔は急(せ)くように室を飛び出して行った。


その背を追う気力もなく、総司は崩れるように畳に伏した。
握り締めていた右の掌を目の前で開くと、そこはやはり朱の色で染められていた。
せめてそれを正之輔に悟られずに済んだことに感謝した。
八郎がここに来る前に、否、誰一人にも分からぬようにこの始末をしなければならない。
肘を立てて大儀そうに漸く身体を起こした。
室の中が回る感覚に一瞬瞳を閉じたが、それをどうにかやりすごすし、着物の袷から懐紙を取り出して手の平を拭った。
紙にふき取られても、鮮やかな朱の色はまだ指にも掌にも残る。
早くに帰らなければまた土方が心配をするだろう。
その思いが、総司を残っていた力の全てで立ち上がらせた。
が、延ばされた脚はすぐに力を無くし、再び膝は畳についた。

「・・・土方さん」

呟いた自分の声が酷く遠くに聞こえた。




伊庭八郎が案内してきた九鬼正之輔よりも体ひとつ早く室に足を踏み入れた時、総司はその中央に伏せるようにして倒れていた。


「総司っ」
駆け寄って静かに上半身だけを抱えて起こすと、うっすらと開いた瞳はまだうつろだが、意識ははっきりしているらしい。
だが八郎の腕に伝わる身体の熱さは尋常ではない。
「・・大丈夫だから・・もう帰らなければ・・」
「馬鹿なことを言っているな」
「本当だから・・こんなこと、いつも慣れている」

「九鬼さん、悪いが別の部屋が空いていたらそこを借りる手配をしてくれないか。それから店の者に伝えて五条にある田坂という医者の処に駕籠を向けて貰いたいのだが」
「わかりました。すぐに帳場に行って来ます」

「九鬼さんっ・・」
身を翻して出てゆこうとした正之輔の背を、総司が呼び止めた。
「医者はいらない・・誰も呼ばないで下さい」
「総司っ、いい加減にしろ」
初めて聞く八郎の憤りに震えるような鋭い一喝だった。
「九鬼さん、すまないが急いでくれ」
八郎の言葉に頷くと、今度は正之輔も後ろを振り返らずに駆け出した。


その姿を諦めたように見送ると、総司は精も根も尽き果てたようにぐったりと瞳を閉じた。

「土方さんはここにお前が来ていることを知っているのか?」
八郎の声に、総司は閉じていた瞼を開けて微かに首を振った。
「・・・何も言わずに来てしまったから・・」
一度張り詰めていた神経が緩めば、あとは身体を苛む苦しさだけが残る。
息をするのすら辛そうな総司の瞳が揺らいだ。
「あとで店の者を使いに遣ろう。これは九鬼さんには言わぬ方が良いだろう」
「・・・土方さんを九鬼さんに会わせたくはない」
「九鬼さんは土方さんの顔を知らない。そのことは心配する必要は無い」
総司の憂慮を、全部の事情が分からぬまでも、大方察しているような八郎の応えだった。
不規則な呼吸を繰り返す唇から、密やかな安堵の息が漏れた。





「昨日来ないからどうしたのかと思っていた矢先がこれだ」
肌蹴させていた胸元を合わせてやりながら、田坂の口調はいつにも増して厳しい。


あれから半刻程で田坂は迎えにやった駕籠で駆けつけてきた。
上手い具合に正之輔の部屋の並びに空いていた部屋があって、総司はそこに延べられた床の中に居心地が悪そうに寝かされている。
八郎も正之輔も席を外しているから、今室の中には田坂と総司の二人しかいない。
何を言われても総司には返す言葉が無い。

「が、丁度良かったのかもしれないな」
「・・・良かった?」
「いい静養になるだろう?」
脈を取っていた手首を離して夜具の中に仕舞うと、田坂は初めて険しい表情を消して笑みを浮かべた。
「新撰組などにいては治るものも治らないからな。いい機会だと思って暫くここで大人しくしてもらう」
「それは困る」
「君が困ろうがどうしようが関係ない。主治医の俺の決めたことだ。守ってもらうさ」
どんな懇願も聞き入れては貰えそうに無い、田坂の断固とした口調だった。
総司は遣る瀬無い小さな溜息をついた。


田坂が薬を出し始めたのをぼんやりと見ていた総司の耳に、ふいに廊下に此方に向かって来るふたつの足音が聞こえた。
それがすぐに誰のものか分かって、思わずそちらを見て身構えた。

「ここです」
すらりと障子が開けられ案内されて来た人物こそ、誰よりも待ち望んでいて、だがやって来ることを恐れていた者だった。

「生憎とこのような部屋しか空いておりませんで・・・」
「いや、いろいろと造作をかけたようで申し訳無い」
「ほな何ぞご用事がありましたら言いつけて下さい」
慇懃に頭を下げて、少し丸まった小太りの背が暗い廊下に消えると、土方はそれを見送る間すらもどかしいように室に入り後ろ手で障子を閉めた。


「・・・すみません」
総司が消え入るような小さな声で、床の中から土方を見上げた。
「ばか野郎が・・」
それまで声を掛けるのも躊躇わせるように強張っていた土方の顔が、その声を聞いて幾らかほぐれた。
叱りながら手をやった額から伝わる熱さはとても普通とは言い難いものだったが、それすら土方にとっては総司の生きている証だった。

「風邪だとは思いますが、ここ四、五日は様子を見てここを動かさないでいて欲しい」
掛けられた言葉に、初めて田坂を認めたように土方が顔を向けた。
「田坂さんにも夜分に厄介をかけた」
「私は医者です。そんなことは構わない。が、今言った件、聞き届けては頂けますね」
有無を言わせぬ田坂の医師としての強い口調だった。
「仕方が無いでしょうな」
総司を自分の目の届かない処に置くのは本意ではないが、今はこの医師を信頼する他なかった。

「誰か世話をする者を置きたいが・・」
「そんな人は要らない」
すでにその人物の選定に思案しているような土方に、それまで黙って二人のやりとりを聞いていた総司が首を振った。
「お前は大人しくしていろ」
「でも全部一人でできる。それに・・・」
総司が躊躇うようにそこで言葉を切った。

「それに、九鬼さんにあまり知られない方がいい」
やがて少し間を置いて、珍しく早い調子で言い切った。


総司は新撰組の者が出入りすることで、九鬼正之輔に警戒心を与えることを懸念していた。
正之輔が隊士のひとりひとりの顔を知っているとは思えないが、これまでの経過から八郎の言うようにもしも長州藩との交渉に臨んでいるのならば、新撰組という組織の存在は承知している筈だ。
だがそれよりも正之輔には自分が新撰組の人間であることを、総司はまだ知られたくはなかった。

そんな総司の思いとはまた別のところで、土方は今の言葉に思う処があったらしい。
先ほどから腕を組んだまま、じっと動かずに考え込んでいる。


「もしよろければ昼はキヨを寄越しますが」
二人の会話からどうやら何かがあると察した田坂の申し出だった。
「それは助かる。が、田坂さんが不便をしないだろうか」
普段表情を変えない土方の顔に、正直に安堵の色が浮かんだ。

「そんなにして貰わなくてもいい。本当に大丈夫だから・・」
「大丈夫では無いからキヨに居てもらうと言っている」
事の成り行きが大袈裟になりそうな気配に、慌てて身体を起こして言った傍から激しい咳に襲われた。
前に折れて大きく波打つ総司の背を擦ってやる土方に、田坂が目配せをした。
漸く咳の治まりつつある身体を静かに横たえてやると、それを見届けるようにして田坂が先に室を出た。
そのあとに続いて土方が立ち上がった。
「すぐに戻る」
不安げに見上げる総司に言い置くと、田坂を追った。



酷寒の季節の板張りは、そこを踏みしめただけで体を芯から凍らせるようだった。

「何か気がかりな事があるのだろうか」
総司の身体の事を土方はすぐに問うた。
「ひとつ心配があります」
「胸の病のことだろうか」
「本人は決して言いはしないだろうが・・・多分血を吐いたのではと」
「では風邪ではなく本来の病のせいだと」
「いや、風邪そのものには変わりは無い。が、それと歩調を合わせるように労咳も進行するものと思って頂きたい。風邪ひとつが命取りになる病だということです。暫らくはここで安静にさせなければならないが・・あの気性で大人しくしているとも思えない」
「聞かない奴で困る」
どうにも困ったような吐息が土方から漏れた。
自分の想い人は己の身体におよそ頓着が無い。それが土方を苛つかせ、また悩ませる。

「やはりキヨを昼間寄越しましょう。キヨならきっと厳しい目付け役になる」
田坂が声を立てずに苦笑した。
「このとおりです」
土方が深く頭を下げた。



九鬼正之輔の部屋は、総司の寝かされている部屋からふたつ向こうにあった。
そこに伊庭八郎も控えている筈だった。
土方が田坂に呼んで来て欲しいと告げると、交代するように八郎はすぐにやってきた。

「どうだえ?」
総司の枕元に腰をおろすとその顔を覗き込んだ。
「もう何ともない」
「お前はそればっかりだね」
「本当のことだから」
「こいつの大丈夫と何ともないは、その逆だと思っていい」
土方が横から苦々しげに口を挟んだ。
「あんたも気骨の折れることだね」
いくらか元気そうになった総司を見て安堵したのか、八郎の口調にも土方をからかうような響きがあった。

「九鬼さんは?」
ずっとそれを気に掛けていたのだろう。総司が八郎に急(せ)くように応えを促した。
「お前の事を心配しているよ。今田坂さんが相手をしている。土方さんが消えたら呼んでやるよ」
「俺は邪魔者か」
呟いた土方の声音が、どこか面白くなさそうだった。
「自分で分かっているだろうに。あの人、新撰組には注意すべき人物だろう?」
「探っているのは別の人間だ」

だが一瞬土方の面に浮かんだ躊躇いを、総司は見逃さなかった。
やはり土方は九鬼正之輔にも疑惑の目を向けている。
総司は胸に暗澹たる思いが広がるのを禁じ得なかった。


「どちらにせよあんたは顔を見せない方がいい。早いとこ帰ってくれないと九鬼さんが不審に思う。まぁ今晩は俺が泊まってやるから安心してくれていいぜ」
「お前の世話になるなど御免だが・・」
「仕方がないだろう。新撰組は九鬼正之輔に警戒心を持たせなくはないんだろう?」
土方の仏頂面を面白がるような、八郎の笑い声だった。




再び八郎が正之輔を呼びに行ったあと、明日もう一度来るという土方に総司は首を振った。
「何故?」
不服そうな土方を見る瞳が曇った。
「・・明るいところでは余計に目立つ。もし九鬼さんの様子を見張っている長州の人達に見られたら危ない」
それはすでに京洛で顔を知られている、新撰組副長としての土方の身を案じる総司の憂慮だった。
「俺に会いたくはないのか?」
その心を分かっていながら、少しばかりつれないと責める土方の目が、不満そうに総司を睨んだ。
頬に手を遣るとまだひどく熱い。熱は一向に下がる様子もなさそうだった。
今夜はずいぶんと苦しい思いをするかもしれない。
事実気丈にしていた総司の顔にも流石に疲労の色が濃く現れている。
傍にいてやる事ができないことが土方の胸に辛い。

「会いたい・・・。でも」
見上げる黒曜の瞳が熱の為に潤んで揺れる。
「お前は薄情な奴だな」
応えを返す間もなく、唇が土方のそれに塞がれた。


抱擁は瞳を閉じることも許されない束の間だった。。

「・・・こんなところで」
解放された唇から漏れたのは抗議の言葉だった。
「来るなと言うお前が悪い」
「そんなこと・・」
「早く良くなれ。帰って来い」
夜具の端をつかんで外に出していて、すっかり冷たくなっている指先に土方の手が触れた。
徐々に力を篭めるその手に、戸惑いがちに総司の指が絡んだ。
まだ怒ったように黙ったまま見つめる、その裏に在る想い人の本当の寂しさが、そんな仕草から土方に伝わる。

「気付かれずに来るさ」
土方の言葉にやはり総司は無言のまま、だが今度は逆らうことはしなかった。

そろそろ正之輔が八郎に連れられてやってくるだろう。
総司の指を包む掌に今一度力を入れて握ると、土方は何かを断ち切るように立ち上がった。
音も立てずに静かに障子を閉めた土方の、その足音が遠く聞こえなくなるまで、総司は夜具から身を乗り出して耳を澄ませていた。


誰もいなくなった室にある静寂(しじま)の中で身体を仰臥させると、総司は唇を指で微かになぞった。
土方の温もりが蘇る。
本当はもっとそれを感じていたかった。
土方の傍らにいることができない自分はこんなにも弱い心の持ち主だったのか。

きっと熱が高いからだ・・・
胸にあるどうしようもない心細さを、総司はそんな風に誤魔化した。
「・・・土方さん」
呟くように小さく言葉に出した途端に滲むものがあった。
慌てて掛けていた夜具をひっぱって、顔を隠した。




「無理をしてはいけません」
九鬼正之輔は総司の顔を見るなり言った。
「ご迷惑をかけてしまって・・」
「そんなことはどうでもいい。だが貴方が無理をすれば色々な人が心配をして胸を痛める」
「・・すみません」
「九鬼さんにはやけに素直だな」
うな垂れたような総司の様子を、八郎がからかった。
八郎の言葉に、照れくさそうに正之輔が白い歯を見せて笑いかけた。
「私には弟がもうひとりいたのです。だからつい兄のような気持ちで、要らぬ事まで言ってしまうのかもしれません」
「・・もうひとり?」
初めてあった日に正之輔は将来(さき)が楽しみな弟がいるのだと、下手をすればただの身内自慢にもなりかねないことを、隠しもせずに嬉しそうに言っていた。
それを微笑ましいと思って聞いていた総司だった。

「生きていれば丁度沖田さん位の歳になるのだろうか・・」
正之輔の目が一瞬翳った。
「亡くなったのかい?」
少しばかり低い八郎の声だった。
「いなくなってもう三度目の正月を迎えました」
「幾つだったんだえ?」
「正月がくれば二十歳になるという年の冬の始めでした。もともとひどく身体の弱い弟で、滅多に外にも出ることもできず、思えばよくあの年まで生きてくれたのです」
まるで自分に言い聞かせるような、ゆっくりと紡がれた正之輔の言葉だった。

「弟は決して苦しいとか、辛いとかを言う奴ではありませんでした。むしろ強がってそれを隠そうとするのです。
その弟が何を思ったのかある日紅葉を見たいと言い出した。
その時はもうほとんど寝たきりの身になっていて、とんでもないことだと私も母も止めましたが本人は聞かない。
紅く染まる鮮やかな色こそがひとつ季節の移ろいなのだと、一度たりとも自分を通したことなど無い弟でしたが、どうしても見たいのだとその時ばかりは言い張りました。
ついに根負けして、暖かな日を選んで私は城下の外れの小高い山まで連れて行きました。そこは紅葉が丁度盛りで・・・」
「弟さん、さぞ喜んだだろうな」
八郎の声がどこか優しかった。
「はい。これでもう思い残すことは無いのだと、そんな馬鹿なことを言って喜んでいました。弟を背に負っていた私も嬉しくて、ずいぶんと長くそこに足を止めていました」
正之輔の眼差しが遠くを見ていた。

「帰ってきてその夜から具合が悪くなって、・・・結局一月も持ちませんでした」
「だが弟さんは最後に希が叶った。・・・儚いものだが」
「私もそう思っていました。弟は満足して逝ったのだと。が、しばらくして弟の部屋を片付けていた時に、夥(おびただ)しい書物の殆どが治水や灌漑に関するもである事を知ったのです」
「・・・治水・・。それでは・・」
夜具の中で二人の話を聞いていた総司が、呟いて正之輔を見上げた。

「そうです。あの本は弟の形見なのです」
総司を見る正之輔の眸が穏やかだった。
「弟は治水の勉強をしていたのです。思うに任せぬ身体を叱咤しながら、すこしづつ知識を増やし、いつか郷里の役に立ちたいと、そう願っていたのです。いや、それが自分の生きた証になると、そう信じていたのかもしれません。弟は満足などしてはいなかったのです。きっと悔しかったに違いありません。志半ばでこの世を去ることが、辛かったに違いないのです・・・。私は何も知りませんでした」


総司の瞳は瞬きもせずに正之輔を見上げている。
死んだという弟がこの世に残した心は、きっと自分のそれと違(たが)わないだろう。
土方と想いを通じ合えただけで満足だと死んでゆける自分は偽りだ。
土方の生の尽きるまで、否、その次の世も、また次の世も、常に一緒でありたい。
土方と生きたいと願う自分こそ、本当の自分だ。
悔いを残さず死んでゆけるなどと言うのは嘘だ。
思いもかけず己の真実を垣間見て、総司は瞳を伏せた。


「つまらぬ事を話してしまいました。沖田さんの具合を案じていた筈が、これでは帰って疲れさせてしまう」
気がついたように正之輔が慌てた。
「・・私のことなら大丈夫です」
「それがいけないのです。どうかもう休んで下さい。さっきのお医者さんにもくれぐれも疲れさせてはいけないと言われていたのに、申し訳ないことをしました」
田坂は正之輔と連れ立って一度顔を覗かせたが、そのまま八郎に後を任せると帰って行った。

「いいよ。今夜は俺がこいつの見張りと決まったらしい。九鬼さんも休んでくれ。とんだ世話を掛けて申し訳なかった」
頭を下げた八郎に、正之輔が頭(かぶり)をふった。
「とんでもない。私こそなにもできずに心苦しい。できることがあったら呼んでください」
一度総司を心配気に振り返ったが、正之輔は寝ている病人の邪魔にならぬように静かに室を出て行った。


流石に疲れたのか、総司が苦しそうに吐息した。
「ほらみろ。無理して強がるからだ」
もう八郎の言葉に応える気力も無いようだった。

額に手を当てると燃えるように熱い。
いつの間にか又熱が上がってきたらしい。

「盥(たらい)に水を入れてくるように頼んでくる」
「・・・八郎さんも、もう帰らなくては」
「今夜は俺が見張りの当番だと言っただろう」
「そんなに大袈裟にしてもらわなくても・・・」
「黙って大人しくしていろ。元はといえば無理を承知でこんなことをしたお前が悪い。その報いだと思って諦めるんだな」
帳場に行くために出てゆく八郎の姿を、顔だけを動かして見送ると、総司は酷い眩暈に襲われた。
今まで堪えていたものが、一気に身体を苛むようだった。



「土方さん・・・」

瞳を閉じて漸くそれらのものを遣り過ごしながら、我知らず唇が結ぼうとした形は、どうしようもなく寂しい心が言わせる想う人の名だった。











           事件簿の部屋     茜 (四)