茜 (四)





田坂の言っていたように、夜更けて熱は一時よりも遥かに高くなった。
総司の荒い息は眠っているというよりも、高熱の為に意識を無くしているというに相応しかった。
田坂は万が一の事を八郎に言いおいていった。
もしもこの状態から喀血した場合には、弱った体は全部の血を吐き出す力を持ってはいないと。その時には喉に詰まった血が息までをも止めてしまう。
それが為に一晩見守る人間が必要だった。
土方には九鬼正之輔と新撰組としての事情がある。
田坂はいつ急患が運び込まれてくるかもやしれぬ町医者だ。
結局八郎がそれを引き受けた。


「・・総司」
あまりにも苦しそうに繰り返される呼吸は、八郎を不安にする。
呼びかけても総司には届かない。ただ蒼い顔が時折切なげに歪められる。
濡れ手拭は何の役にもたってはいない様に、のせた傍からすぐに熱くなる。

「総司・・」
額に浮かぶ汗を拭ってやりながら、応えは無いと分かっても言葉にせずにはいられなかった。
が、総司の瞳が開かれた。
それはほんの僅かなもので、多分意識の覚醒にまでは至ってはいないのだろう。
ぼんやりとしたうつろな視線は、とても視界にあるものの像を結んでいるとは思えない。
その唇が微かに動いたと思ったが、それも瞬時のことですぐに瞳も閉じられた。
あとに残ったのは更に忙(せわ)しなくなった息遣いだけだった。

目をやった枕盆には田坂の置いていった薬がある。
あまりに熱が高くなるようだったら使うようにと言われていた。

八郎は白い包みにあった薬を湯飲みに残る白湯に溶かすと口に含み、総司の首の下に腕を回して少し起こさせると躊躇う事無くその唇を塞いだ。
苦い液体が喉に伝わる様は、意識が外にあっても人の身体の本能のようなもので分かるのか、総司が嫌がるように眉根を寄せて抗った。
それを許さず幾度か同じ行為を繰り返し、湯飲みの薬をすべて飲み終えさせると、八郎は漸く浮かせていた頭を枕に下ろした。

端から零れて顎まで伝わる液体を拭いてやりながら、総司の眠る顔が幾らか楽になったように見えるのは思い過ごしかもしれなかったが、それでも八郎は安堵の息を漏らした。

ひとつ心に余裕ができれば、必死で薬を与える為だけに触れた唇の感触が蘇る。
総司は深い眠りに今もある。
八郎は暫くその顔を見つめていたが、やがて覆いかぶさるように身体を倒すと、今度は奪う為に、形良く閉じられた唇に己のそれを静かに重ねた。

凛冽たる冷気の中でただ八郎の恋情の焔(ほむら)だけが、闇の中に刻(とき)を止めて静かに、だが烈としてそこにあった。





薄く開いた瞼の隙から白い光が入り込み、闇に慣れていた瞳にはまだ眩しく、総司は思わず目を細めた。
「具合はどうだ」
掛けられた声の方に顔を向けると、脛の長い脚を無造作に胡坐にかいて八郎が覗き込んでいた。
自分がどうなって、何故八郎がいるのか、総司の思考は追いつかないようだった。
「熱もだいぶひいたな」
額にあった濡れ手拭の代わりに置かれた手の平のひんやりとした冷たさに、総司が気持ちよさそうに瞳を閉じた。
その感覚で記憶の欠片が少しづつ戻ってきたようだった。

「・・・八郎さん、こんなに朝早くに来てくれたのですか?」
瞳を開いて問うた声は、からからに乾いた喉を通して少し掠れた。
「一晩看病してやるって言っただろう、昨夜」
まだ少し頭が朦朧としているらしい総司の言葉に、八郎は苦笑した。

「そんな・・」
「そんなもこんなも、もう朝になっちまった」
「・・すみません」
「お前の世話には慣れているさ」
総司は一瞬瞳を閉じた。
この人にはいつも助けてもらっている。それに何も返せない自分が情けなかった。

「それより九鬼さんにも教えてやらなくてはな。ずいぶんと心配をしていた」
「九鬼さん・・・もう起きているかな」
「昨夜はきっと寝ていないだろうよ」

立ち上がり九鬼正之輔の元へと向かう八郎の背を目線だけで見送りながら、総司の胸はすでに次なる不安で覆われていた。

自分で身体を大切にしなければ、周りの者は辛い思いをする。
そう親身になって叱ってくれた正之輔だった。
亡き弟の志を継ぎ、もう一人の弟のために、或いは水害で苦しむ国元の人々の為に危険な賭けを藩から強いられている正之輔の身が案じられた。

仕舞われていた右の手を夜具から出してみた。
二度三度握っては開く動作を繰り返した手指には、情けない程に力が入らない。
これで正之輔を守ることができるのだろうか・・・。
否、守らなければならない。
際限も無く傾いて行きそうな己の弱気を、総司は今一度強く掌を握り締めて叱咤した。






「・・・たんと残さはって」
昼に用意された膳の上のものを見ながらキヨの溜息交じりの小言に、総司は申し訳無さそうに夜具の中に潜った。


キヨは朝早くに来ると、早々に伊庭八郎を帰してしまった。
「男はんにはご病人の看病は向きませんよって。それに伊庭はんには上様を御守りしはる大切なお仕事があるんと違いますか?」
キヨの前にあっては八郎も敵わぬように、また来ると言い残して所司代屋敷へと戻って行った。


「こないに食べはらんでは、治るものも治らしまへんで」
「・・夜にはきちんと食べますから」
「そないな嘘、キヨにはお見通しです。沖田はんはキヨが夜には帰っていないと幸いに、御膳には箸もつけんつもりですやろ」
「・・・そんなことありません」
言い当てられて狼狽した。

熱はずいぶんと下がって楽にはなったが、身体全体がだるくて仕方がない。
まだキヨを喜ばせる食欲もあろう筈は無かった。

「でも、キヨさんが持ってきてくれた煮つけは美味しかった」
「ほんまに?それやったら嬉しおす。そういえばこれだけは綺麗に食べてはる」
キヨは満足そうに空になった小鉢を見た。
「さっき九鬼はんにも差し上げたら喜んでくれはった」
ふくよかな頬に嬉しそうに笑みを浮かべてころころと笑うキヨを見て、どうやら機嫌を直してくれたと総司も安堵の息を漏らした。

「キヨさん、九鬼さんはどうしていますか?」
正之輔は朝一度様子を見に来てくれただけで、その後自分の室に籠もりきりらしい。

「九鬼はんなぁ・・。ずっとご自分のお部屋から出んみたいやけど・・。誰ぞ待ってはるのと違いますやろか」
「九鬼さんが言ったのですか?」
「九鬼はんが直接言わはったんと違いますえ。さっき火鉢の炭を貰いに行った時、丁度九鬼はんが帳場で、自分に使いか文が来なかったかと聞いてはりましたんや」
「使いか文・・?」
「へぇ・・。そんなものは来てはらしまへんと言われて、少しがっかりしてはったご様子でしたなぁ」

九鬼正之輔が待っているのはまだ戻らぬ友人だろうか。それとも長州藩からの何らかの連絡を待っているのだろうか。
総司の不安は大きい。


「せやけど・・・あの番頭はんは知らんかったんやろか・・」
ふいにキヨが不思議そうに呟いた。
「知らなかったって?」
「へえ。うちが此処に入ろうとした時に、お侍はんに呼び止められたんですわ」
「侍・・?」
「ここに九鬼というお人が泊らはっているかどうか、そう聞かれましたんえ。朝も早ようにこないな大きな荷物を持って入ろうとしてたから、旅籠の人間と間違えはったみたいやわ」
可笑しそうに笑うキヨは、確かにここの大女将だと言えばそれで通る良い恰幅の持ち主だ。

「それでキヨさんは何と応えたのです?」
ほおっておけばいつまでも笑い続けていそうなキヨに、総司は先を促した。
「うちはここの人間やあらしまへんから、そないなお人は知りまへんと応えたんですわ。
うちも若せんせいから九鬼はんのことを聞いていまへんでしたしなぁ。
もしお探しなら店の人に聞いてみましょうかと言ったんやけど、ご自分で聞くからええ言わはって・・けど、結局あのまんまなんや。けったいなお人やな」
「キヨさん、その侍どんな風な人でしたか?」
「どないな風と言わはってもなぁ・・・ほんのひと言ふた言交わしただけやし・・」
「背は高い人でしたか?痩せていましたか、それとも太っていましたか?」
「背ぇはそんなに高いことあらしまへん。若せんせいよりもうんと低ぅて・・せやけど若せんせいよりもずっと横に太いお人やったなぁ・・」
キヨの基準は皆田坂だ。
だがいつもはそれを面白がる余裕が、今の総司にはなかった。
「そうそう、えらい目ぇのきつい人やったわ。そやからあないに人相が悪いんや」
キヨはどこか自分で納得しているようだった。

「訛り・・とかありませんでしたか?」
「言葉にですか?」
「上方の訛りとか、江戸の訛りとか・・・」
「そういえば・・・」
「あったのですか?」
「キヨの生まれは膳所なんですけど、似ているようで京の言葉とはすこぉし違いますのや。そのお侍さんも上方の言葉によう似てはったけれど、違うようでした」
「・・・・それは、例えばもっと西の方の・・長州とか」
暫くそれを言うまいか躊躇ったが、思い切って総司はキヨに問いかけた。

「多分・・あれは尾張の言葉と近いんとちがいますやろか」
キヨは何か遠い記憶を思い出すように、少し難しい顔をした。
「・・尾張?」
「へえ。うちの姉の子が尾張の商人に縁があって嫁ぎましたんや。それで一度若い時分大せんせいにお暇を貰ろうて、姉とふたりで伊勢参りをしがてらその娘のところに寄った事がありましたんや。そんとき聞いた言葉と似てはりますわ。後にも先にもそれがキヨの一回きりの遠出やったさかいによう覚えています」
キヨの目が昔を懐古して和んだ。

「大垣というのは、尾張に近いのかな?」
「大垣?大垣言うたら尾張の近くですわ。・・・そや、九鬼はんも時々似たような訛りがではりますなぁ」
九鬼正之輔はほとんど訛りを感じさせない言葉を話す。
だがキヨは敏感にその言葉の違いを聞き取っていたらしい。
総司はキヨに尋ねたという男が正之輔が待っている人物だと確信した。
そしてそれは土方が調べている人間だとも・・・。


「ほんま、九鬼はんどないしてはるんやろ・・・」
話が正之輔になったことで、キヨはそちらの方が気になり始めた様子だった。
「さっきお会いしたとき、あまりお顔の色が良うなかったんですわ」
「具合が悪いのかな・・私の風邪がうつったのかもしれない」
少しばかり気になって、総司の声が憂えて小さかった。


昨夜も寒かった。その中を八郎のいる所司代屋敷まで走らせてしまった。
いくら近いとはいえ、極寒の季節だ。
もし自分の為に風邪でも引かせてしまったら申し訳なくていたたまれない。

「ご病気と違いますやろ。そないなご様子ではありまへんでした」
「・・・そうかな」
「キヨを信じなはれ。これでも若せんせいを一人前のお医者さんに育てたおなごですえ。若せんせいよりも診立ては確かなもんです」
総司の心配をひと言で振り払って、キヨが声を立てて笑った。
「ほんまですわ。・・・そやなぁ・・九鬼はんの冴えないお顔は気鬱の病やろか」
「気鬱の病?」
「へえ。何かお心に重いものがあるんと違いますやろか。そんな風でしたえ」

キヨの言うことが本当ならば、正之輔は連絡が誰かに取れないことで焦っているのだろうか。
だとすれば先ほど正之輔のことを尋ねたという男の件と何処か繋がる。



「失礼してもええですか?」
そんな思考に囚われていて外に動く人の気配に気付くのが遅れた。

「どなたはんです?」
キヨの方が先に障子に映る人影に声を掛けた。
「へぇ。こちらにお泊りの沖田はん言うお方にお届け物をするように託(ことづ)かってきました店のもんです」
「届けもの?」
キヨが桟に手をかけ開けると、そこに確かに商家の手代風の形(なり)をした男が立っていた。

総司は思わず零れそうな声を、咄嗟に止めた。
山崎はキヨには分からぬように総司に目配せをすると、静かに室入って来た。


「土方副長から託かってきました。何かご不便があったら聞いてくるようにと」
上半身を起した総司の横に来て端座した山崎の目は、すでに商人のそれではなかった。
「いや、新撰組のお方でしたんか」
キヨが目を丸くした。
人当たりの良い手代風の男が、鋭い気を身に纏った人間に豹変する様に心底驚いているようだった。
「山崎さんは土方さんの右腕なのです」
総司がそんなキヨをみて、面白そうに笑った。
「そうやったんですか。あんまりよう化けてはるから吃驚しましたん」
「驚かせてしまい申し訳ありません。が、少しばかり新撰組の者と知られるのはまずいので」
山崎もキヨにあっては流石に苦笑せざるを得ないようだった。
「へぇ。若せんせいにも、沖田はんが新撰組のお人だと言うことを周りに知られんようにとくれぐれも言われてます」
それは総司が他の剣客に狙われることを警戒してのことだと、キヨは信じている。
「・・・キヨさん、実は私が新撰組の人間だと言うことは、まだ九鬼さんにも話してないのです」
「よう分かってます。大丈夫、キヨはひと言も言いませんよって安心しなはれ」


キヨは総司ができる限り他人に自分の身分を明かしたくは無いことを察している。
それが総司のどこか心の深いところから来ているらしいことも、患者として来るようになってその人柄に触れてすぐに分かるようになった。
大きな病を抱えながらも、決して弱音を吐かぬ尋常の精神の強さではない総司だが、それと背中合わせに危うげな脆さも又持ち合わせている。
一見相反するように見えるこの二つは、或いは総司の心根の優しさに裏づけされたものなのかもしれない。
せめてその心が人よりも少しでも哀しむ事が無いようにと、キヨは神仏に手を合わせたくなる。
目の前で頼りない身体を起こして自分を見ている若者は、いつの間にか他人ではない人間になってしまったようだった。


「キヨさん、九鬼さんの様子・・・見てきては貰えないでしょうか?」
遠慮がちな総司の声だった。
きっと山崎と何か話があるのだろう。
「お安い御用です。ほなちょっと見て来ますわ。慣れん土地ですよって難儀してはることもあるかもしれへんし・・・」
「すみません」
頭を下げる総司に笑いかけて、キヨは身軽に立ち上がった。



「山崎さん、新撰組は九鬼さんを探っているのでしょう?隠さないで教えて欲しいのです」
キヨの姿が消えると、総司は山崎に詰め寄るように問いかけた。
「副長に調べるようにと言われているのは他の人間です」
「嘘はつかないで下さい」
「嘘ではありません。新撰組が追っているのは浅田修三という元大垣藩士です。九鬼という人間ではありません」
総司の視線をまっすぐに受け止めて、山崎はたじろがなかった。

「・・浅田」
総司には正之輔が待っているという友人の名が分からない。
そういえば正之輔はその友人の事に関しては、ただこの旅籠で藩の金策の為に落ちあうという事を告げただけで何も言わない。

「それよりも沖田さん」
山崎の声が総司の思考を遮った。
「土方副長が大変心配をされています。具合は如何ですか?場合によっては私がここに泊り込むようにとの事ですが・・」
「そんな必要はありません。もう屯所へ帰ることができます」
思いもかけない申し出に、総司が慌てた。
「副長は沖田さんの警護の意味も含めて言っておられるのですよ」
「警護・・?」
山崎が静かに頷いた。

「先ほど言いましたように、新撰組は元大垣藩士の浅田という人物を探っています。沖田さんの様子からすでに承知のものとして話しますが、浅田は長州藩への借金の交渉を任されこの京にやってきています。大垣藩というのは財政の建て直しはできたが、治水灌漑に関してはまだまだ金が足りない。筆頭家老の小原という人物は強い勤皇思想の持ち主です。長州藩との付き合いも深い。だが藩自体はまだ佐幕か討幕かで揺れている。ここで長州藩の援助が成功すれば、藩内部の思想は一気に勤皇討幕に傾くでしょう。そこが小原鉄心と長州藩の目論見なのです」
「・・・その交渉に九鬼さんも係わっていることは、山崎さん・・いえ、土方さんも知っていることなのでしょう?」
総司の瞳が嘘を許さないという強い色を宿して山崎を見た。

「多分沖田さんが想像されているとおりです。が、これ以上の事は私の口からは言えません」
山崎の応えもまた、断固たる否定のそれだった。

「そういう事情で九鬼さんが待つ浅田という人間の周りは長州に囲まれています。その浅田が九鬼さんへの接触の為にこの旅籠に来ると言うことは、沖田さん、あなたも長州勢からの目に曝されやすいところに居るということです。或る意味では大変危険な場所で静養していると言うことなのです」

山崎の言うことはもっともな事だった。
だが逆にここを離れてしまったら、九鬼正之輔の身に何かあった時にそれを事前に防いでやることはできなくなる。
総司の思惑は、土方や山崎とは又別のところにあった。


たった数日の縁ではあるが総司にとって、九鬼正之輔は自分にとって大きな存在になっていた。
それは友情とかそういうものを超越したところから来ているものだった。
強いて言うのならば、九鬼正之輔の次なる世へ自分が何かひとつでも役に立って残したいというその情熱の様なものに、心を揺さぶられたのかもしれない。
そしてそれは己の限られた将来(さき)を、もしかしたら正之輔に託したいという自分の果てない希(のぞみ)なのかもしれない。
そんな風に総司は自分の心を思っている。


「山崎さん、私は大丈夫です。今日にでも屯所に戻ろうかと思っていたのです」
「無理をなさってはいけません。多分そう言われるだろうから、そこのところはちゃんと釘を刺してくるようにと、副長に言われて来ました。田坂先生の許しがあるまでは必ずここで大人しくなされているようにと・・そうお伝えするよう言いつかってきました」
山崎の声音がどこか笑いを含んでいた。
「・・本当にもう何とも無いのに」
溜息のように呟く総司の血の気の無い蒼白い頬を、山崎は複雑な思いで見ていた。



「沖田はん、九鬼はんがお見舞に来たいと言わはってくれてますけど、具合はどうですやろう」
正之輔の処に行っていたキヨが戻ってきた。
「具合なんてもうとっくに良いのに・・・」
「あきまへん。まだ熱が全部下がらんうちは横になって大人しゅうしていて貰います」
横の山崎にも言い含めるようなキヨの口調だった。
「これは長居をしてしまいました。それでは私は」
山崎は苦笑して腰を上げようとした。

「沖田さん、もしも不便がありましたら、向かいの大野屋という旅籠に吉村がいます。つなぎはここの下男になっている伝吉がつけます」
立ち上がりかけた寸座、障子の向こうの足音に気を取られていたキヨに分からぬ素早さで山崎が耳打ちした。
総司は思わずその厳しい顔を凝視した。


吉村貫一郎は山崎と同じ監察方、伝吉はその情報収集に使っている男だった。
すでに新撰組はそこまで包囲の網を張って追い詰めていたのだ。
正之輔と浅田の使命が成功裡に終わる確率は極限られた。

そしてそれが失敗に終わるとき、正之輔に残されたものは・・・・。
心の臓の音が自分の耳に障る程、大きくなった。
身じろぎせずに押し黙ってしまった総司を一度振り返ったが、山崎はそのまま踵を返すと室を出て行った。




「昨夜はどうなるかと思いましたが、少し安堵しました」
夜具の上に身を起こしている総司の顔を見ると、正之輔は心底ほっとしたようだった。
「九鬼さんにも迷惑を掛けてしまって・・」
「そんなことは良いのです。それより横になって居なくてよいのですか?」
「九鬼さんからも言うてくれやす。ちっとも言うこと聞いてくれませんのや」
横からキヨが口を挟んだ。
「沖田さん、キヨさんの言うことを聞かなければいけませんな」
「ちゃんと聞いています」
「ほな早よ横になりなはれ。キヨは下へ行ってお茶を貰ってきますよって」


キヨが出て行って正之輔に促されるようにして、総司は身体を横たえた。
枕に頭を付けた途端に襲うような疲労感を感じて瞼を閉じてしまった。

「ほらごらんなさい。無理をするからだ」
「・・・本当に慣れているのです。こんなこといつもの事だから」
気丈を装ってみても止まらない眩暈に、まだ目は開けられなかった。
己の意志についてゆけない身体が悔しかった。

「私の弟もよくそう言っていた」
「・・弟さんが?」
やっと瞳を開けて正之輔を見ると、その面がどこか哀しそうだった。
「あまり私達に心配を掛けたくはないと・・そう思っていたのか、それとも本人が労わられるのが嫌だったのか、身体が辛いと零したことはついぞ聞かずに逝ってしまった。だが残された者にはその心が切ないのです」
「・・・・弟さんの気持ちはきっと」
途中で言葉を噤んでしまった総司を、正之輔は促しもせず待っている。

「弟さんはきっと、ひとつ辛いと言う度に自分が弱くなるのが嫌だったのです」
仰臥したまま正之輔から視線を逸らせて、総司が呟いた。
「弱くなる?」
正之輔の問い掛けに、総司は黙って頷いた。

「苦しいとか辛いとか・・そう言葉にして漏らしてしまうと、どんどん心が弱くなる気がして怖いのです。寂しいと言えばきっとその分人恋しくなる。・・・だから心と反対の事を言って堪えていたのだと思います」
「そうだろうか・・」
「・・そうだったのだと思います」
再び顎だけを引いて頷く蒼い顔を見ながら、正之輔はそれが総司の心そのものなのだと悟っていた。


昨夜廊下から聞こえる抑えた人の声を、最初は気にも止めずにいたが、どうも様子が総司のことを話しているらしいと知ると、悪いとは思いながらもつい聞き耳を立ててしまった。
労咳という言葉に思わず息を呑んだ。
理由(わけ)あって死を覚悟して上ってきたこの地で、偶然にも出会い欲得の無い親切を自分にしてくれた若者だった。
その総司の身体を蝕んでいるものが労咳であれば、何と神仏は惨(むご)いことをするのかと、若くして死んだ弟の身と重ね合わせてその無情を恨んだ。臍(ほぞ)を噛む思いだった。


「もし弟がそう思っていたのならば、私は余計に辛い」
「・・辛い?」
訝しげに、総司の瞳が正之輔を捉えた。
「辛いのです」
言葉と共に漏れたのは、遣る瀬無い吐息だった。
「苦しいと、寂しいと、何故言ってくれないのか。言ってくれれば知りえたものを。知っていれば苦しい時には背を摩り、寂しい時には話しをしてやれた。それで弟の心が安らいだかは分からぬが、それでも知らずにいて出来なかった事への後悔は今もこうして私を苛む。・・・きっと、沖田さんの周りの人達もそう思っていることでしょう」

総司を見下ろす正之輔の眼差しが、哀しくなる程に優しかった。



火鉢に置かれた鉄瓶が、室の中の冷たい空気をも暖かい何かに変えてくれるように、静かに音を立て始めた。









           事件簿の部屋      茜 (五)