茜  (五)





キヨと入れ替わるように夕刻近くになってやってきた伊庭八郎は、大きな包みを手にしていた。

「どうしたのです、それ?」
「馴染みの店で作らせた」
何を又持って来たのかと、不思議そうに床から見上げる総司に八郎は事も無げに告げた。
「誰が食べるのですか?」
「お前に決まっているだろう」
「だってここで食事は貰える」
「お前は飼われてでもいるのかえ」
うんざりとしたような八郎の物言いだった。
それに総司が面白そうに声を立てて笑い出した。
「笑っていないでさっさと食え」

身体を起こしてやるのを手伝いながら、まだ可笑しそうに笑みを作っている唇が、昨夜奪ったものだと思えば胸に切ない。
もう一度思いの限り、意のままに蹂躙したい欲望を八郎は堪えた。


「九鬼さんにの分も持って来たのだが・・。部屋にいるか?」
そんな己の胸の裡を隠すように、八郎は問うた。
「いると思うのだけれど・・」
「何だ薄情な奴だな。知らないのか」
どこか躊躇しているような総司の応えに低く笑った。

「九鬼さん、友人という人をずっと待っているらしい」
「まだ姿を現さないのか?」
「今日のところは・・・でも・・」
「でもどうした、はっきりしない奴だな」
黙ってしまった総司に些か焦れたように、八郎はその先を促した。



新撰組は九鬼正之輔を探り、追い詰めようとしている。
長州藩と大垣藩が繋ごうとしている絆を断つ為に、それはどうしても必要なことだった。
自分は新撰組の人間だ。そして何よりも土方を裏切ることはできない。
だが新撰組の成功は、正之輔が授けられている使命の失敗であり、そのまま死をも意味する。
狭間にあって総司の心は、今どちらにもつけずに大きく揺れていた。
それでも正之輔を死なせたくはなかった。
残された救う道はひとつしかない。
正之輔に藩との係わりを断たせて、何処か遠くへと逃すことだ。
藩のために、国元のためにすでに命は無いものと覚悟をしている正之輔を説得するのは難しいだろう。
希(のぞみ)は万が一よりも少ないのかもしれない。
が、総司はそれをやらずにはいられなかった。
そして唯一頼みにできるのは、どちらにも柵(しがらみ)の無い八郎しかいなかった。



「八郎さん」
総司の黒曜石に似た深い色の瞳が、何か一つ堅く決めたように八郎を捉えた。
「他藩の事情に係わるのはやめておけ」
総司の心を瞬時に見透かしたような八郎の応えだった。
「でも、何とかしなくては九鬼さんの身が危ない」
「あの人はとっくに自分の命など諦めているだろうよ」
「それは分かっている」
「では何故その人の決めた道を、お前は邪魔しようとする」
いつになく厳しい八郎の言葉だった。

「生きてほしい」
ただそれだけを、八郎から瞳を逸らさずに告げた。
余計な言葉は必要なかった。

「九鬼さんには生きてほしい。・・・それが九鬼さんの国元でなくてもいい。いつかあの人が弟さんの意志を継いで、水で苦しむ土地の人達の手助けができれば・・・それをして欲しい。だから死んでは駄目なのです」
「だが九鬼さんはそんなお前の思いなど、要らぬ世話だと怒り出すだろうよ」


己の見限られた将来(さき)を、正之輔に託そうとしている総司の心は痛い程に、否、苦しい程に八郎の胸に迫る。
だが正之輔とて武士。貫き通さねばならぬものがある筈だ。
それを分からぬ総司では無い筈だが、黒曜の瞳は揺ぎ無く今自分を見据えて離さない。

「分かっています。私は九鬼さんに武士としての矜持を捨てろと言っている。けれど本当にそれが人としての矜持と言えるのだろうか?」
「人としての?」
「もしも九鬼さんが本当に弟さんの意志を継いで、水と闘う国元の役に立ちたいと思うのならば、その志は死んでしまったらそこで終わってしまう」
「仕方が無いだろう。九鬼さんも承知の筈だ」
「そんなのは嘘だ」
「嘘?」
「九鬼さんは弟さんが悔いを残して死んでしまったと言っていた。もしも九鬼さんが今命を断つことがあったら、はやりその魂は悔いを残したままだ」


八郎は初めて見る総司の生きることへの執着に圧倒されるように、言葉語らずただその姿を凝視している。
形を変えてはいるが、総司は自らのことを言っている。
生きたいと、そう、総司は激しいまでの思いで今口にしたのだ。

「・・・きっと、悔いが残る」
余韻のように呟いた言葉は、もう隠しもせぬ総司の、己自信へのものだった。
「九鬼さんには生きてほしい」


繰り返す総司の懇願にも似た言葉に、八郎は腕を組んで暫し瞑目した。
九鬼正之輔は総司の願いを聞き入れはしないだろう。
国をでるときに己の命を捨てた人間に、その使命を放り出して逃れろと言ったところでそれは叶わぬ相談だ。
否、九鬼正之輔という武士に対する愚弄だとも言える。
だが総司はそんな事どもを全て承知の上で、無理を通そうとしている。
総司の思いは、明日が来るのが当然と信じている人間には、あるいは想像のつかない激しいものなのかもしれない。



「新撰組は・・・」
八郎がやっと開いた双眸を細めた。
「新撰組はどの辺りまで知っている?」
「多分ほとんどの事は・・・。九鬼さんが待っている友人は浅田という人で、先に京に来てすでに長州藩との折衝に入っているらしいのです。新撰組は何かの情報からその人の事を知って、長州藩と大垣藩との結び付きを阻止しようとしています。それで九鬼さんの事も分かって・・」
「だとしたらおかしいな」
「おかしい?」
「その男・・・浅田と言ったか。何故九鬼さんの元に現れない」
「九鬼さんの事は新撰組が見張っているのです。だからそれを知って迂闊には尋ねて来ることができないのではないかな。現にそれらしい人が今朝九鬼さんの事を、偶然ここに入ろうとしたキヨさんに尋ねたそうだから」
「それは変だぜ」
「変?何故・・」
「本人が新撰組を警戒して姿を見せないというのは分かる。それならば当然の事だろう。だが今朝来たんだろう?そいつ」
「キヨさんの話ではどうやらその人に間違いはなさそうなのだけれど・・」
「頼りない話だな」
「言葉の訛が大垣のものに似ていたと、キヨさんが言っていたから多分・・」
「まぁ、間違いはなさそうだな。そいつは浅田という人間だろうよ。が、会わないで帰っていったんだろう?九鬼さんに」
総司は黙って頷いた。

朝からその気配は無い。
二つ向こうの部屋の正之輔の動きには敏感になっていたからそれは確かだった。

「新撰組の目を気にして姿を現さないのならば、こんな近くまで来る事はしないだろう。それを知らないからやって来たのさ」
「では何故九鬼さんに会わなかったのだろう・・?」
「それさ。新撰組を警戒してはいないならば、もうとっくに九鬼さんの元に姿を見せている。いや、ここに最初から逗留して九鬼さんを待っていた筈だ。・・・その浅田という男が役目に忠実に動いているのならばな」
「どういうことです・・」
総司の声に不安の色が混じった。
「・・・怖くなって逃げたか・・いや、それだけでは無さそうだな。九鬼さん、どうやら巻き添えをくらいそうだな」
「巻き添えって・・・」
黒曜の瞳が凍ったように見開かれた。


如月も終わりにさしかかった冬の陽射しは、一日ごと強くなり勢いが増す。
暮れかけた西日も窓の格子の間から、白い障子を通して畳の上に長く伸びる。
総司は八郎を凝視して身じろぎしない。

室に零れる残照が、憂鬱そうな八郎の横顔を薄い茜色に染めた。





眠れぬ辛さに先ほどから総司は幾度も寝返りを打っている。
時刻はもう四ツを過ぎただろう。
しんと静まり返る闇には身を切るような冷たさがある。

あれから八郎は正之輔を呼び、三人で夕餉の膳を囲んだ。
とりとめもない話をして八郎が帰る時には、正之輔も一緒に自室に引き上げた。
その間別段変わったところはなかった。


ひとつ溜息をついて総司は掛けてあった厚い夜具を除けて、のろのろと身体を起こした。
まだ身体には熱が籠もっているらしい。
背中にぞくりと悪寒が走り身体がふらついた。
それをやりすごしてすっかり起き直り、冷気に触れた途端に軽い咳が零れ出た。
片手で身体を支えて堪えながら手を伸ばし、枕盆にあった湯のみの中の飲み残した茶を口に含んだ。
が、それが悪かったらしい。
鎮まらない前に注ぎ込まれた液体は、喉を潤す役目はせず別の方向に流れ、やがて咽返るような激しい咳になった。
間断なく続く咳は、息をすることすら許さない。
伏せるようにして片手で夜具の端を握り締めたが、冷たい汗だけが額に噴き出る。

ふいに開いた障子から室の中よりも更に低い外気が流れ込んだ。
それが誰によるものか確かめる事すらできなかった。



「沖田さん、飲むことができますか?」
身体を少し起こされて口元に当てられた湯のみは微かに温かく、少しずつ傾けて唇から流し込まれるものはほのかに甘かった。
どうやらそれが効いたらしく、次第に総司の咳は鎮まり、荒い息を繰り返すようになった。

「楽になりましたか?」
「・・・伝吉・・さん?」
漸くその声の主を判別できた。
整わぬ呼吸を肩でしながら、総司はやっと顔をその方向にむけた。
「伝吉さんは・・ずっと・・・ここに・・?」
伝吉はまだ総司の骨ばった背を摩ってやりながら黙って頷いた。

「九鬼さんの事・・見張っているのですか?」
「いえ、土方先生から沖田さんのお守りするようにと言われています」
「・・土方さんが?」
「大変心配されています」

総司は一瞬瞳を伏せた。
土方に勝手ばかりをしている自分が申し訳なかった。
が、それよりも先に、その名を聞けば会いたいと思う寂しさがどうしようもなく胸を覆う。


「・・・それ」
そんな心を自分自身にも隠すように、伝吉が片手にしている湯飲みを指差した。
「甘い」
少しぎこちなく、伝吉に笑いかけた。

「砂糖を溶かしたものです。こんなものでも咳には効きます」
およそ表情というものを面に出さない伝吉が、闇の中で微かに頬を緩めた。
「けれどそのお陰で助かりました」
実際咳は治まり、今はこうして普通に息ができている。
「あっしの生まれた家は貧しくて薬などとても買えませんでした。それでも父親が弱くなった時に咳を鎮める為の唯一の薬がこれでした。砂糖もなかなか工面するのが大変でしたが薬よりは安かった」


初めて聞く伝吉の身の上だった。
この寡黙な男は常に感情というものを殺したように、話す声すら滅多に聞いた事が無い。
山崎と同じ元監察方で、今は二番隊伍長の島田魁がその国元から連れてきたということしか総司も詳しいことを知らない。
島田も又伝吉については多くを語らない。
その島田が以前同じ地で生まれ育った者には、血に繋がる何かそんなものがあるように感じるのだと、伝吉の事を言っていたことを思い出した。
そこまで思った時、総司の中でふと過ぎるものがあった。


「伝吉さんは大垣の出身ですよね」
「大垣ではありません。その近くですが・・美濃の山の中です。が、京に来るまでは大垣に居ました」
どこか昔に触れるのを拒むような伝吉の応えだった。
「浅田修三という人の事・・・何か知ってはいませんか?」
過去に触れることを厭う人間に敢えてそれを聞くのは躊躇われたが、総司は己を励ますように言葉を繋げた。
「私はお武家さんの世とは遠く離れた処で生きていた人間です。一介の博打打にはそこまで立ち入ることはできません。が、浅田という人の事は知っています」
「知っているのですか」
思わず伝吉に詰め寄るように身体を前に進めた。
「浅田という人はそこにいる、九鬼という人と同じ禄高を貰う、藩でも古い家柄の人間でした。それが何故あっしなどが知っているのかと問われれば、それはあまり良いことではありませんや」
「・・・良いことではない?」
「あっしは博徒でした。そこで顔を知っていると言えば、おおよその検討はつきますでしょう」
「では浅田という人も賭け事を・・・?」
「あっしが大垣を離れる頃、やっこさんはかなり負けが立てこんでいた。その先どうなったかは知らないが、あのまま負け続けていたのなら、借金はかなりかさんでいることでしょう」
「・・・借金」


浅田修三は正之輔に会いたいに違いない。
だからわざわざ此処まで戻ってきた。
八郎はもし浅田が役目どおり長州藩との話し合いを進めているのならば、新撰組に見張られている正之輔を知り、警戒をしてそんなことはしないだろうと言った。
今伝吉が語る浅田という人間の過去が、総司の胸に引っかかる。


「浅田という人は新撰組が追っている人ですよね」
総司の瞳が伝吉を捉えた。
「長州藩と大垣藩との繋がりを作らないようにと・・・。前に土方さんも追っている元大垣藩士の所在ははっきりしていると言っていた。だったら何故今頃九鬼さんを見張って浅田という人を捕らえようとしているのです。居場所が分かっているなら、九鬼さんを見張る必要は無い筈です。新撰組は浅田とういう人を見失ったのですか?」
伝吉は語らない。ただ口を堅く閉ざして総司を見ている。
「・・・伝吉さん、教えて下さい。浅田という人は何をしたのです。いえ、何をしようとしているのです。それは九鬼さんにも危険が及ぶことなのですか?・・・伝吉さん」



伝吉の沈黙は静寂(しじま)に囲われた室の冷たい空気を、更に張り詰めさせるように総司には思えた。
それは僅かな時だったのかもしれない。
瞬きもせずに自分を凝視する総司の瞳に負けたように、伝吉がひとつ息を漏らした。


「浅田という男はどうやら大垣藩そのものにも追われているようです。いや、すでに長州はこの件から手を引いているようです。・・・だが、これ以上のことはあっしにも言えません。どうか勘弁をして下さい」
本来ならば絶対と言って良いほどに口を割らぬであろう伝吉が、ここまで機密を漏らしてくれればそれ以上は総司にも望みようがなかった。

「伝吉さん、ありがとうございます。・・・けれど、もうひとつだけ聞かせてほしい。これは伝吉さんが答えたくなければそれでもいい」
総司の声音が憂いを帯びて少し低くなったように、伝吉には聞こえた。
「・・土方さんは全てを知っているのですか?」
伝吉は応えない。
それが全てが是だという、伝吉の意志なのだと総司は知った。


二人を覆う闇が、またひとつ濃くなった気がした。






夜がしらじらと明ける頃になっても、総司はひどく重苦しい思惑の中にいた。

浅田という人間が大垣藩に追われているとしたら、すでに長州から金を借り受けるという目論みは失敗に終わったということだろう。
それは浅田の、何かしら藩に対する裏切りによる。
だとすれば同時に、正之輔自身にも生きる道が断たれたという事だ。
正之輔はどこまで知っているのだろう。
今までの様子から察すれば、まだ浅田が長州との交渉に奔走していると信じているらしい。


「・・・今なら間に合う」
我知らず漏れた呟きは、最後の希(のぞみ)だった。

正之輔はきっとまだ何も知らない。
大垣藩が浅田に目を捉えられている内に、正之輔を逃すことができるかもしれない。
時は一刻を争う。
総司はまだ覚束ない身体を叱咤しながら起き上がると、羽織るものも探さずそのまま室を出ようとした。
行き先は九鬼正之輔、その人の処だった。

だが二歩も歩かぬうちに、冷たい畳を踏みしめる素足が止まった。
咄嗟に大刀を掴みなおしたのは、総司の中にある剣士としての研ぎ澄まされた勘だったのかもしれない。
壁に沿い息を殺すようにして、その気配が人の影になるまで、刀の鯉口に手を掛けたまま待った。

数をかぞえる程の間ではないはずだ。だが緊張の刻(とき)はひどく長い。



「もし、お武家さまどちらのお部屋の方でございましょう?」
ふいに外で響いた人声は警戒を籠めてはいたが、殺気のあるものではなかった。

その声に俊敏に反応して総司が廊下に出るのとひとつ遅れて、後ろに連なる室の障子が朝の静けさを破るように無遠慮な音を立てて開け放たれた。
きっと正之輔に違いない。
だが後ろを見る余裕はなかった。
総司の目は今一点に注がれている。
まだ薄暗い廊下の先に、驚いて立ちすくんでいるこの旅籠の者を突き飛ばすように、身を翻して駆け出した後ろ姿があった。


「浅田っ」

叫びながら自分の横を走り抜けようとする正之輔の腕を咄嗟にとって総司は止めた。
「九鬼さんっ、駄目だ」
「何故っ」
振り向きざまに総司につかまれた腕を振り解こうとする正之輔の抵抗は強い。
それを必死に放すまいとするが、到底力では敵わない。
すぐに均衡は破れて手から正之輔のそれが離れた瞬間、余った勢いは総司の方向に働き、身体ごと横にあった柱に叩きつけられた。

「沖田さんっ」

正之輔の声が一瞬遠くに聞こえた。
大丈夫だと応えようにも、強(したた)か打たれた背の衝撃は、そのまま咳を呼び胸から込み上げるもので言葉も紡げない。
「沖田さんっ」
崩れおれたまま激しい咳に波打つ身体を支えるようにしてやっている正之輔の腕にも、我知らず力が入る。

「お医者はんを呼ばはった方がええんと違いますやろか」
先ほど浅田に声を掛けた旅籠の者も走り寄ってきてくれた。
ここで具合が悪くなったときに、土方に宿賃の他に多すぎる心付けを託されているらしい。
上客に粗相があってはと、声に不安が混じる。

「・・大丈夫・・です」
漸く咳の合間を縫って、それだけを告げた。
これ以上騒ぎを大きくして欲しくは無かった。
無理やり立ち上がろうとした時、身体がふいに宙に浮いた。
容赦無く続く咳は総司の内にある力をも共に吐き出し、咄嗟に何が己の身に起こったのか確かめる余裕をも無くしていた。

微かに温もりの残っていた夜具の上に横たえられた時、初めて正之輔の腕で運ばれたのだと気付いた。

「・・・すみません」
「喋らない方がいい。私こそ申し訳なかった。つい力が入ってしまったようだ」
正之輔の心配そうな眸にあって、己の情なさに総司は顔を背けたい思いだった。

「・・浅田さんと言う人・・・だったのですか・・」
目を瞑り息を整えながら、その切れ切れに総司は問うた。
「浅田だった」
正之輔の応えは短いものだった。
その中に籠められたものは、総司には分からない。


自分達に背を向けて逃げ去ったあの男が正之輔に何を伝えに来たのか。
自藩に追われる身が何故正之輔に接触しようとしたのか・・・
まだ全てが霧の中にある。
だがその浅田は今確実に伝吉と吉村が追った筈だ。

「九鬼さん・・」
総司が薄く瞳を開けて視線を正之輔に向けた。
「田坂さんというあのお医者さんを呼んだ方が良いのだろうか。それとも伊庭さんを・・」
そのどちらも要らぬという風に総司は首を振った。
「もう大丈夫です・・」
「しかし・・」
「・・・それよりも、九鬼さん・・浅田さんは大垣藩に追われている」


急激に勢いづいて室に射して来た朝の陽を眩しそうに目を細めてやり過ごすと、総司はいつか言わなくてはならなかった事に触れた。

「あなたが任された使命は、すでに失敗に終わったのです」
どんな感情を宿してもいけないのだと思った。
殊更抑揚の無い口調で言い切ったのはそのためだ。

正之輔は何も言わない。
仰臥して天井を見る総司にはその表情が分からない。
否、今正之輔を見れば次に告げる言葉が躊躇われる。

「逃げてほしいのです」
「・・逃げると?」
「分かっている筈です。自分の身が晒されている危険がどのようなものか・・」

今正之輔の前に進むべき道は、藩のこの企てを己が一身の暴挙として責を被り、腹を切る事だけだった。


「沖田さん・・・貴方が何故私の事情を知っているのか・・それは聞かない。知れてしまえば仕方の無い事。だが藩よりこの役目を頂戴した時に、すでにこの身は無いものと国元を発ってきた。気持ちは有難いが、とうに決めたこと。どうか捨て置いてやって欲しい」
静かな正之輔の声だった。

「それでは九鬼さんの言っていた、亡くなった弟さんの意志はどうなるのです」
敢えて顔を見ないようにしていた総司が、身体を横にして正之輔に向き直った。
「弟も分かってくれる」

「違うっ、九鬼さんは何も分かっていない」
思わず視線を其処に止めた、総司の激しい言葉だった。

「弟さんはきっと哀しんでいる。九鬼さんが自分の処に来ることを怒っている。思う限り自分のやりたいことが出来る刻(とき)を持ちながら、どうしてそれを安易に捨ててしまうのかと・・きっと悔しがっている」

総司に責められながら、まだ正之輔は沈黙の中にいる。

「私は九鬼さんに、武士の矜持を捨てろと言っている。それがどんなに礼を逸する事かも分かっている。でも九鬼さんには生きてほしい。生きて次の世にも、またその次の世にも繋げられる仕事をしてほしい」
総司が肩肘を夜具について、それで身体を支えるようにして身体を起こした。

冷たい指が捉えたのは、端座した膝に置かれている正之輔の手だった。
触れた正之輔には人の温もりがあった。
それを血の通わぬものにはしたくなかった。


「九鬼さん・・」

今一度物言わぬ正之輔に詰め寄ろうとしたとき、外に人影が動いて障子が遠慮も無く開けられた。



咄嗟に向けた視線の先に、八郎が乱れた息を整えることもせずに立っていた。









        事件簿の部屋      茜 (六)