茜  (六)





「・・八郎さん」
伊庭八郎は硬く険しい表情で暫くそこに立って総司を見下ろしていたが、漸くひとつ息をつくと腰の大小を外して、枕辺に座り胡座をかいた。
「まったく朝から驚かせるものじゃねぇよ」
「すみません・・・でも何故?」
「何故ってお前・・」
呆れたような口調だった。
「旅籠の者が血相変えて飛んできたのさ」
「此処の人が?」
「何かあったら連絡をするようにとは言っておいたからな。そういう意味では行儀が行き届いて感心なことだ」
満更でもなさそうに八郎がやっと方頬を緩めた。

「何でもなかったのに・・」
「じきに来るぜ」
そんな総司の不満などお構いなしに、八郎が憂鬱そうに呟いた。
「来るって・・誰が?」
「俺が親切して教えてやったからな。もっともこの恩はたっぷりと返してもらうが」
「八郎さんの言っていることは分からない」
「お前の会いたい奴だよ」
その言葉に、総司は息を呑んだ。

その名は言わずともすぐに分かる。
言葉に出せば胸が締め付けられるように会いたい人間は一人しかいない。
が、同時に八郎の横に居る正之輔を見た。
ここに土方が現れては正之助にその正体が知られてしまう。

「もういいだろう。九鬼さんに何を隠すこともあるまい」
総司の当惑を見透かしたような八郎の言葉だった。
「大方の事は土方さんから聞いている」
「土方さんから・・?」
「お前には黙っていて悪かったな。だが知らぬことばかりでは何もできない」

まだ何と言ってよいのか分からず、ただ八郎を見る総司の耳に、慌しい足音が聞えてきた。
それはまっすぐにこの部屋の前までやってくると、そのままの勢いで閉ざされていた室を開け放った。



「・・・なんだ、お前もいたのか」
土方は荒い息を整えもせず、総司の枕辺に座っている八郎を見た。
余程急いで来たのだろう。
土方はこの寒さだというのに、額に汗を滲ませている。
「ご挨拶だね。恩人に向かって。それにしてもあんたも他愛の無いものだな」
自分への遠慮の無い言葉が土方の精一杯の照れ隠しと知って、八郎が笑い出した。

「お前に言われる筋合いはない」
腰を降ろして、皮肉に応えを返しながら総司を見た。
「大丈夫なのか」
「すみません。何とも無いのです。少し旅籠の人が驚いて大げさになってしまって・・。九鬼さんに叉助けてもらいました」
横臥して土方を見上げながら、総司は視線を正之輔に移した。
その仕草で初めて土方は正之輔に顔を向けた。

「九鬼正之輔殿か。この度は総司がいろいろと世話になったようで・・・。礼を言います」
頭を下げた土方に、正之輔が慌てた。
「いえ、私は何もしてはいません。むしろ沖田さんが居なければ見知らぬ都で途方に暮れていたところなのです」
「私は総司の兄代わりで土方と申す者。ご存知かとは思いますが新撰組の者です」
端正な顔に、一瞬宿った鋭い眼差しに正之輔は戸惑ったように土方を見た。
が、双眸を決して逸らすことはしなかった。

「貴方が新撰組副長土方歳三殿・・・、であられるか」
正之輔が吐息するように低く漏らした。
黙って二人を見ていた総司の瞳が見開かれた。

「すでにご承知の事とは思ってはいたが、やはり知っておられたか」
「お名前だけは存じておりました」
「それは用心をするようにと?」
「お察しの通りです。今となってはそれも無用となったようですが」
正之輔の顔に初めて自嘲するような笑みが浮かんだ。

「それでは九鬼さんは私のことも・・?」
総司の問いは呟きにも似た小さなものだった。
「貴方があの新撰組の沖田という人間と同一人物だと知ったのは、こうして縁を持ってずいぶんと経ってからです。名前は知ってはいたが、貴方とその剣客と結び付ける事ができなかった。が、知ったらからと言って、それが何に変わるものでも無かった」
総司を見る正之輔の目が優しかった。


「九鬼さん、大垣藩の目論みは不首尾に終わった。これで貴方も役目から解かれた筈。できればこのまま逃れて欲しい。士道をその柱とする新撰組の副長ともあろう者が、貴方にその道を誤れと言っているこの矛盾は百も承知。これはあくまで土方一個人の口から出ている事。だが聞き届けて貰えるのならば、この沖田の望みを叶えてやって欲しい」

「土方さん」
今一度静かに正之輔に頭を下げた土方に、総司が身体を起こしてその腕を掴んだ。
自分の為に正之助に懇願してくれている土方のそれに縋り付きたい思いを、必死に堪えた。


「一度だけ、ここに藩からの繋ぎが来ました。藩は私に腹を切れと、それだけを言ってきました。そして私はこの計画の失敗を知りました。その時にすでに腹を切る覚悟でした」
そんな土方に敢えて応えを返さず、正之助は静かに語り始めた。
「九鬼さんっ」
総司の声は悲鳴の様に短かった。

「だが私はそれをしなかった。いや、できなかった。私は知りたかったのです。何故浅田修三は失敗をしたのか・・そしてどうして藩に追われる身となっているのか。それを知るまでは腹を切ることはでき無いと思った。何も知らず上の陰謀に踊らされて腹を切ったのでは、あの世に行って弟と会った時に叱られます。だから土方さん・・知っているのならば教えて欲しい」
正之輔の眸は穏やかな色を失わないまま、土方を捕らえた。

「浅田修三は何をしたのです」


いつの間にか朝の陽は室の全部を覆っていた。
溢れる明るい光の中で、ひとつの影も動かなかった。




重苦しい沈黙の中で、誰もがそれぞれの思いで土方の口から語られるものを待っていた。

「まだはっきりとした事は分かってはいないが・・」
一旦切れた言葉はそれを繋げるかそうすまいか、土方の迷う心裡を映していた。
その土方の腕に掛けた総司の手が、僅かに力を籠めた。
そこから隠してはくれるなという総司の願いが土方に伝わる。

「長州藩と大垣藩が金の貸し借りを通して絆を結ぼうとしている。そこまでの経過は新撰組は、すでに情報として収集できていた。これは昨年局長近藤が長州に下ったおりに、共に随行しそのまま潜伏して諜報活動をしていた監察方の探索によるものだ。
だから浅田の上洛は新撰組にとって予期されたものだった。当然の如くその動きを見張っていたが、どうしたことか浅田は長州との接触を持とうとしない。その不可思議な行動が分からず、我々も暫く様子を見る事にした。そんな折に、九鬼さん、貴方が上洛してきた。てっきり貴方を待って共に行動に移すのかと思っていたところが、又しても浅田はこの宿を引き払い、姿を隠してしまった。そのうちに大垣藩内部の動きがおかしくなった」

土方の語る言葉を聞きながら、正之輔は端座した姿勢を崩さず身じろぎしない。
ただ眸に湛えられているものは静かな色だった。

「・・・大垣藩の事も探っていたのですか」
総司の語尾が震えた。
自分の知らないところで土方も新撰組も、九鬼正之輔が熱く語ってくれた国元を疑っていたということが少なからず衝撃だった。
だが土方はそれには応えなかった。


「藩が浅田を追っているというのは、それは失敗に対する制裁などではなく、浅田が何か藩に対する裏切り行為をしたということなのでしょう」
やっと告げた正之輔の声が、それまでの沈黙がどれ程深かったかを物語るように、少し掠れた。

「浅田は大垣藩が長州に当てた密書を持っている。どうやらそれを逆手に藩を脅したらしい」
「藩を脅す・・」
「調べによれば浅田という人間、博打に嵌まって借金が嵩んでいるということだ。例え今回の件、事が成功裡に終わって藩に復帰できたところで博徒から追われる毎日には変わりあるまい。そうなればいずれ己の所業が藩に知れることになる。役目に失敗しては命は無い。が、無事に戻れたところでその先も知れている。どちらに転んだところで自分に利が無いと踏んだ浅田は藩を脅して強請り、身柄の保全と共にその金でどこかに逃げようとしているらしい。奴は最後の賭けに出たのだろう」

「下手なくせにとんだ博打を打ったものだな」
それまで床柱に背を預けるようにして黙って座っていた八郎が、吐き捨てるように呟いた。

「それではもう浅田とういう人は九鬼さんとは関係が無い筈です。なのに何故さっき・・」
途中まで言って総司がはっとしたように口を噤んだ。
「ようやく現われたらしいな」
土方が総司に視線を移した。
「ようやくって・・・それでは土方さんは九鬼さんの処に浅田という人が現われるのを承知で・・・?」
「今回の事に関しては長州はとっくに手を引き、そ知らぬ顔を決めている。だが大垣藩は紛れも無い証拠を浅田の手に握られている。その密書の行方を新撰組は追っていた。そしてどうやらそれは九鬼さんにも係わりがあるらしい。だとしたら浅田は必ず九鬼さんの元に現われるだろう。その為に我々は九鬼さんの身辺を見張っていた」
「そんなことっ・・」
「これは九鬼さん自身の思惑をすでに超えて、幕府と大垣藩の問題だ」
土方の口調は総司に抗いは許さぬという、新撰組副長としての厳しいものだった。


「土方さん、もうひとつ教えて欲しい」
「貴方にはもう隠すこともない」
「幕府は・・すでに大垣藩を潰そうとしているのでしょうか」
九鬼正之輔の目が正面から土方を捉えた。
「幕府はこの二つの藩の工作を知らない。今はまだ新撰組の調べとしてだけある」

正之輔は土方の言葉に何かを思いつめるように、暫らく口を閉ざした。



室に射し込んでいた陽射しが一瞬翳った。
冬の空にある天道を、雪雲が隠したのであろう。


それを切欠にしたように、正之助が深く息を吐いた。

「密書は二つあり、それが合わさり初めて一つのものとなるのです」。
やがてゆっくりと紡がれた言葉は、低い声がその胸の裡にある重苦しさを表していた。
「では・・」
総司の蒼ざめた面が正之輔に向けられた。
瞳は驚愕と絶望を見たように見開かれていた。
正之輔も密書を持っているというのならば、大垣藩は正之輔自身をも消そうとするだろう。

「藩は浅田と私のどちらに何があっても良いように、二重に工作をしたのです。そして事が不首尾に終わった時には、密書とともにその身を呈して藩を守れということだったのです」
正之輔の声音は話す内容とは裏腹に、むしろ淡々としたものだった。
「浅田が私に接触をしたがっているのは、私が持っているもう一つの密書を欲しいのでしょう」

「己の保身の為に守り札にしようという訳か。博打打ちが神頼みっていうのじゃ洒落にもならねぇ」
遂に横を向いてしまっていた八郎が、面白くもなさそうに口を挟んだ。

「土方さん、貴方は私の持つこの密書を望んでいらっしゃる」
「確かにそれに相違ない。新撰組は二つの密書を手に入れ、大垣藩の企てを阻止するが為に動いている」
「土方さんっ」
総司の悲壮な声だった。

「だが新撰組は大垣藩を潰そうというのではない。歴とした証拠をつかんだ上で、長州との絆を断てればそれでいい。だからこそ、貴方の持っているものを頂きたい」
土方は総司を見ないで正之輔に双眸を据えた。
それを受け止めて、正之輔も決して視線を外さない。


息を詰めるような沈黙の刻(とき)だった。

「・・暫らく、いや、一日でいい。猶予を頂けまいか。今更逃げることなどしない。が、せめて考えるときが欲しいのです」
「ならば刻限は今日の夜までと切らせて頂くが、それでよろしいか?」
「かたじけない」
端座した姿勢から正之輔は深く頭を下げると立ち上がり、室を出て行った。




「土方さんっ」
土方の腕を掴んだ総司の声は、責めているとも、懇願しているともどちらにもつかない短い叫びだった。
「総司、土方さんにとちゃぁこれでもできぬ譲歩をしているんだ。お前の気持ちも分かるがこれ以上は九鬼さんに任せる他ない」
八郎の諭すような声だった。
「土方さん、あんたもうここに居るんだろう?ならば俺は帰るよ」
「世話を掛けたな」
「それはいいが、この狭い室であんたの難しい顔を見ているのは気が滅入る」
軽口を叩きながらも、隙の無い身のこなしで八郎は腰を上げた。


「八郎さん・・・」

その八郎の背に何かを言いかけて総司が途中でとめた。
まだ総司は正之輔を説得し、逃す事を諦めてはいない。
八郎は障子の桟に手をかけて、総司の沈黙を促さず辛抱強く待っている。


正之輔を助けたい。
だが奥詰という幕閣の中枢近くに居る八郎の立場を考えれば、これ以上頼ることは迷惑をかけることになる。
正之輔は自分一人で守るしかない。
僅かな間に巡らせた思考は総司にひとつの決心をさせた。


「・・何でもない。すみませんでした」
ようやくそれだけを告げて笑い掛けた
「また来る」
そんな総司の様子から、八郎は何かを察しようとするかのように暫らくそのままの姿勢で立ち尽くしていたが、やがて短い一言を残して障子を閉めた。



「俺を怒っているか?」
八郎の足音が消えると、土方は総司に向き直った。
「怒ってなどいない」
「それは怒っている目だな」
土方に腕を掴まれ手繰り寄せられた。が、引き込もうとする胸に手をあててそれを止めた。
「隠していたのは仕方が無いことだと分かる・・でも、九鬼さんを囮(おとり)に使うような真似は嫌だ」

自分の言っていることは、どうにもならない事なのだとは承知している。
それでもこうして土方にささやかな抵抗を試みるのは、どこにも持って行きようの無い思いの八つ当たりだ。
そんな総司の抗いを強引に封じ込めるように、土方が胸に抱き入れた。
付けた耳から土方の心の臓の音が聞こえてくる。
この温もりに包み込まれれば、自分は何をも拒むことができなくなる。

「・・・嫌だ」
否という言葉は、己の弱い心に対するものだ。
更に土方が腕に力を篭めたときに、ふいに走った肩の痛みに総司が小さなうめき声を漏らした。

「どうした」
「・・何でもありません。さっき柱にぶつかった時に痛めたのかもしれません」
それでもまだ痺れるように残る痛みからは解放されない。
土方に肩を露にされたのはあっという間だった。


薄い肩の後ろ側が赤く熱を持ったように腫れている。
これだけ酷く跡が残ればさぞ痛みがあったはずだろうが、総司はそれすらも忘れて九鬼正之輔の事に心を囚われていたのだろうか。
今この事情にあってすら、こんな事にも拘る己の胸の裡を土方は自嘲した。
それは確かに嫉妬という感情だろう。

真中が蚯蚓(みみず)腫れになっている傷跡に唇を這わせると、総司が一瞬たじろいで身体を堅くした。
逃れようとする身体を後ろから捉えてそれを許さなかった。
「・・・人が来ます」
唯一自由になる首だけを後ろに傾けて、土方を咎める声が小さかった。
それでも土方は愛撫にも似た行為をやめない。
「土方さんっ」
懇願の言葉を紡ぐ総司の頤(おとがい)を片手でつかむと、後ろから覆いかぶさるようにしてその唇を塞いだ。


息が止まるかとかとも思えた時は、或いは束の間の出来事だったのかもしれない。
それでも解放された唇は土方の温もりを残し、総司の思考を暫し混濁させた。

「お前が悪い」
まだ背を抱きながら、土方が耳朶に低く囁いた。
「・・・なぜ?」
「九鬼という男のことばかりを考えている」
「そんなことは無い」
振り返り土方を責める口調は強かった。
「では俺の事だけを考えていろ」
「・・いつも土方さんの事しか考えていない」
「嘘をつけ」
「嘘じゃない・・」

思わず顔を隠すように又前を向いてしまったのは、どうしようもなく土方を求める心を止められない自分を曝す事を恐れたからだった。
土方の唇が背を這った時に突き抜けた震えるような感覚は、総司の身体の奥深くに燻るような情炎の火を灯した。
蹂躙するような抱擁は己の唇に未だ熱く、その名残の尽きるのを知らない。
こんな淫らな自分を知られるのは怖かった。


「お前は残酷な奴だな。少しは寂しいと言え」
含むような笑いを籠めながらも、土方の声音はそれを否と応える事を許さぬ響きがあった。
「・・・寂しかった」
「聞こえない」
「土方さんは意地悪だ・・」
振り仰いだ黒曜の瞳が真摯に憤っていた。
だがそれはみるみる露に濡れひとつ雫になって滴った。
「・・・意地悪・・だ」
しゃくりあげるのを堪えながら紡ぐ言葉は途中で途絶える。
それすらいとおしげに聞きながら、今度こそ土方は縋りついてくる身体の全てを正面から受け止めた。

「すまん。少し意地をしたくなった・・・泣くな」
腕にある頼りない身体が時折震えるのを、包み込むように抱きしめながら、土方は想い人の耳朶に触れて低く囁いた。




薄く瞼を開いたとき、辺りは黄昏の色に染まっていた。
「よく寝ていたな」
違えるはずの無い声の持ち主の姿を、まだ全部は覚醒していない頭のまま視線だけを動かして探した。
「・・もう夕方?」
「どうやらそうらしいな」
ぼんやりとした総司の声音に土方が流石に可笑しそうに応えた。
「キヨさんに帰って貰わなくては・・」
総司の意識はまだ夢と現(うつつ)の境を彷徨っているらしい。
「今日はキヨさんは来ない。俺では不満か?」
からかうような土方の声だった。
指だけを出して掛けてあった夜具の端をつかんだ時、それを握り締められたその感覚で初めて全てが現に戻った。

「・・土方さん、帰らなかったのですか?」
「帰って欲しかったのか?」
慌てて首を振ったその仕草に、土方が笑った。


あれから田坂が往診に来てくれて、肩の打ち身の痛みを止める為に少し強い薬を飲まされた。それに少しばかり眠くなる何かが入っていたらしい。昨夜はろくろく眠れなかったこともあって、睡魔はすぐに訪れた。そのまま目覚める事無く、今になってしまった。


「九鬼さんは・・?」
「まだ何も言ってはこない」
土方もそのことは憂慮しているのであろう。どこか落ち着かぬ風情だった。

長く眠りの中にあった身体は喉も口の中もひどく渇いていた。
視線だけを動かして水の入った湯のみを探すと、土方もそれに気付いたようだった。
すぐに湯のみを手にとったが、中には僅かばかりの飲み残ししか入っていない。
これでは総司の渇きを潤すには到底足りないだろう。
「下で貰ってこよう」
言った時には立ち上がっていた。



土方の居ない室はただ広い。
たった一時の事なのに、こんなに不安になる自分を総司は持て余していた。
情けない己を叱咤しても、寂しがる心は言うことを聞かない。
そんな自分に負けたように仰向けていた体を横にすると、障子の向こうに耳を澄ませて再び戻る想い人の足音を待った。


それは本当に微かな物音だった。
否、音というよりも、気配と言った方が正しかった。
それ程までに僅かなものだった。
土方の戻る事に全部の神経を注いでいたからこそ分かりえたのかもしれない。

だが総司は俊敏に反応するとすぐに身体を起こし、室の隅の行李に畳まれていた着物を素早くつけ、大小を手にして室を出た。
急に行動を起こされた身体は、それについて行くことができず総司を一瞬よろめかせたが、そんなことに拘ってはいられなかった。
すぐにふたつ先の室を声も掛けずに開けると、己の勘に寸分の狂いも無くそこに正之輔は居なかった。

この旅籠の二階は二つの階段がある。それは階段が二つあればそれだけ逃げる道ができるという、火事で前の建物が焼けた経験から来るものらしかった。
ひとつは帳場に直接繋がるもので、もうひとつは階下のどこかに出るものらしいが、その奥の階段を正之輔は使ったものらしい。

まだ暮れきらぬ明るさが幸いした。
正之輔の姿を見止めた旅籠の者がひとり居た。下働きらしいその男は、正之輔らしい侍が宿の裏口から忍ぶように出て行ったと総司に教えてくれた。
「その人はひとりだったのですか?」
「へえ、おひとりで・・ああ、そうだそのお武家さまに朝早く物を尋ねられました」
「ものを?」
「六角堂に行くにはどないな風に行けば良いのかと」
「六角堂?」
「そこの近くにある・・何でも呉竹という旅籠を知らんかと・・」
男が言葉を最後まで言わぬ内に、総司は裏のくぐり戸から飛び出していた。


九鬼正之輔は浅田修三の居場所を知っていた。
あるいは浅田に呼び出されたのかもしれない。だがそれはもうどうでも良かった。
正之輔は確かにそこへ向かった。
それだけが今総司の目の前にある現実だった。



日が沈みかけた道は総司の影を長く伸ばして揺らす。
ずべてが闇に覆われる前に、正之輔を探し出さねばならなかった。

逸る心に逆らうように思うように動いてはくれない身体が恨めしかった。
それでも総司は走らずにはいられなかった。



正之輔を救うのはもう自分しかいなかった。










          事件簿の部屋      茜 (七)