茜  (七)





帳場に下りた時に、丁度やって来た伊庭八郎と連れ立って総司の部屋に戻った土方は、そこに漂うひんやりとした気配に顔を険しくした。
総司が臥せっていた夜具には微かに温もりが残っている。
まだそう遠くには行ってはいない筈だった。


「どうやら遅かったようだな」
「どうして分かった」
土方の口調に隠せぬ憤りと焦りがあった。
「今朝浅田という奴が忍び込んで来たと聞いた時に、九鬼さんが動き出すだろうという勘はした」
「浅田が焦り始めたということか」
「そういうことだ。どうしても九鬼さんの持っている密書の片割れが欲しかったのだろう。おまけにあんたのあの条件だ。動くのならば今日中と踏んで来たが・・僅かのふいを突かれたようだな」
「・・・総司は」
「追っていったんだろうよ」
「・・ばか野郎がっ」
呻くような低い声だった。


男二人が立ち尽くす冷えた空気を裂いて、ふいに慌しく走り来る足音が聞えてきた。
それを待っていたように土方が廊下に飛び出した。

「どこへ行ったのか分かったか」
「伝吉に追わせています。おっつけ繋ぎの者から連絡が来る筈です」
土方の性急な問いに応える山崎は、あくまで沈着だった。
「私は浅田の元に急ぎます」
頷くだけの土方に一度礼をすると、山崎はすぐに踵を返した。


「ぬかりは無いようだな。浅田という奴の居所も分かっていたのか」
「突き止めたのは今朝方だ。が、こんなことになるのなら泳がせずにさっさと捕縛すべきだった」
「あんたにも自分の読みの甘さを悔やむことがあるのか」
「勝手に言っていろ」
土方の激しい苛立ちが伝わるような、短い言葉だった。



落ちかけた日がまだ沈むに名残惜しいのか、黄昏色を残して闇に覆われるのを邪魔する。

「総司が何故九鬼正之輔を逃そうとあれほどまでに必死になるのか、あんたには分かるか」
当たる西陽に目を細めて、八郎が誰に言うとも無く呟いた。
だが土方は応えない。
「総司には、俺たちよりも先のそのまた先が見えるのかもしれないな」
「・・先のその先・・?」
「必ず明日が来ると信じている・・、いやそれが当たり前だと思っている人間には、案外今しか分からぬものなのかもしれない」

八郎の言わんとしている事は土方にも分かる。否、分かりすぎるほど分かっているからこそ、応えを返すことはできない。
八郎は限られた生の総司が己の将来(さき)を諦めることで、さらに次の世を見ようとしているのだと言っている。
それに頷くことは、総司の存在がいつかこの腕からすり抜けて行くのだと認めるのと同じことなのだ。

「総司は死なん」

たったひと言に全ての感情をぶつけるように言い捨てると、土方は八郎に背を向けて格子の嵌まった窓を開け放った。



刻(とき)はその過ぎ行く足を決して緩めてはくれない。
少しも早く総司と正之輔を見つけ出さねばならない。
そんな土方の胸の裡を更に追い立てるように、闇に染まり始めた外の冷気が一度に室に流れ込んできた。





松尾屋から六角堂は近い。南に下ればわけも無い距離にある。
建物もそう混み入ってある場所では無いから、呉竹という旅籠はすぐに見つかった。

日暮れて薄闇に包まれた旅籠は逗留客の夕餉の支度で忙しそうだった。
それでも躊躇っている暇は無かった。
土間に足を踏み入れると、そこに居た番頭らしき男がすぐに寄ってきた。

「お泊りですやろか」
「ここに浅田という人が泊まっていないでしょうか?」
果たして浅田修三が本名で宿帳に名を記しているとは思えない。
だが今はそれしか手がかりとなるものはなかった。
「・・・浅田はん・・はて?」
案の定、旅籠の者は首を傾げた。
容貌や体格などの特徴を伝えられれば良いのだが、それすら総司には分からない。
ここで頼みの糸を切られたら終わってしまう。

「浅田はんいうお客はんはいてはらしまへんけど、さっき同んなじ事を聞くお侍はんが見えましたえ」
番頭らしき男の更に後ろから女の声がした。
膳を抱えたその女は総司との立ち話が、通りかかりに耳に入ったらしい。

「いつです。それ・・」
「ほんのちょっと前どす。そないなお客はんは居てはらしまへん、言うたら奥から声が掛かって・・結局お名前が違ごうてはったんどすやろなぁ。そのお方は寺田はん言うてはりましたもの。そんで二人で出ていかはりました」
「その二人どこへ行ったか分かりませんか?」
寺田というのは浅田に違いない。
総司の必死が顔に現れたのか、女は一生懸命に手がかりになるものを思い出そうとしてくれているようだった。

「すんません。やっぱり分かりまへんわ。けど堀川の方へ歩いてゆかれはりました。・・・急いで追われはったら、もしかしたら追いつくことができるかもしれまへんえ」
「助かりました」

礼を言った声を旅籠の者が顔を上げて確かめた時には、その背は表口を抜けていた。





焦る気持ちに追いつかない身体を叱咤しながら走りつづけ、結局探す姿は見つけることができず、どうにも続かない息に喘ぐように足を止めたのはもう堀川の土手だった。
極寒のこの季節に闇が濃くなった川原に人影があろうはずもなく、総司は手に何も照らすものを持たずに来た事を悔いた。
荒い息を繰り返しながら辺りを見回しても、ただ荒涼と吹きすさぶ真冬の風だけが肌をさすように吹き抜ける。

息を整えている間にどうやらその冷気を吸い込んだらしく、小さな咳が零れた。
口に手をあててそれを堪えようとしたとき、後ろに人の気配を感じて咄嗟に腰の刀に手をかけて振り向いた。


「あっしです」
声は川原に枝垂れる、すっかり葉を落とした柳の幹の向こうから掛けられた。
「・・・伝吉さん」
ゆっくりと姿を現した伝吉は、顔かたちが分かる距離まで総司に近寄ると、軽く頭を下げた。
「私を追ってきたのですか?」
「沖田さんをお守りせよというのが、あっしが土方先生から受けたお役目です」
伝吉の眼光は闇の中でも鋭く光る。

伝吉が自分を追ってここに来たということは、遠からず土方もここにやって来るだろう。
その前に正之輔を見つけなければならない。
残り少ない時と、正之輔を見つけられぬ焦燥に、総司の心は乱れた。



気が急(せ)くばかりの思いに焦れていると、突然伝吉が総司の袖を引いた。
視線を向けた総司に、伝吉は目顔だけで先を見るように促した。
その方向に目をやると、確かに二つ、辺りを覆う闇とは違う黒い影が此方に向かってくる。
伝吉が更に身体を沈めるように、総司に目配せした。

ふたつの人影は無言のまま、歩を緩める事無く少しづつ近づいてくる。
その後ろの方の人形(ひとかたち)が正之輔だと認められる位置まで来ると、総司の心の臓の音が耳障りな程大きくなった。


総司達の少し手前で、ふいに前を行く影が動きを止めた。
遅れてすぐ後ろの影も止まった。

「相手との駆け引きがうまくゆかん・・・こちらの条件をもう少し厳しいものにしないと金は貸せないと言っている」
総司と伝吉は、今その声がどうにか聞こえる距離にいる。
最初の声の主は浅田修三だろうが、正之助は応えない。


地から巻き上げるような冷たい風と、川に水が流れ行く音だけが暫し全てを支配した。


「浅田、お前は一体何をした」
長い沈黙からようやく正之輔が言葉を発した。
「・・・何を・・とは?俺は役目を果たしているだけだ」
「嘘はいらん。藩はすでにお前を追っていると聞いている。追われるような事を、お前はしたのか」
「何を言い出すのかと思えば・・」
「今朝方お前は俺の元に一体何が目的で来た。お前が欲しいのは俺が預かるもう一つの密書か」

単刀直入な正之輔の問いだった。だがそれだけに正之輔の怒りが総司には伝わる。

「このお役目をご家老様から頂戴した時、すでに我等の身は無いものと二人で覚悟した筈。それを忘れたわけではあるまい」
「・・・身を捨てるだと?」
浅田が嘲笑ともとれる低い笑い声を漏らした。

「十中八、九、成就することの無い役目を背負わされ、仮に首尾よく行っても何事も無かったかのように元の一藩士、失敗をすれば詰め腹・・・これのどこに俺たちに対する藩の情があるっ」
吐き捨てるような浅田の声だった。

「だから藩を裏切り逆に脅したというのか。いや、違う。奇麗事を言ってもそれはお前自身の心の歪みが作った借財の為では無いのか」
「・・・知っていたのか。それならば話はもっと早い。そうだ俺はどちらに転んでも逃げ切れる人間ではない。が、それならばやるだけの事をやってどこまで行けるか逃げ切ってやるさ」
不敵とも思える開き直った浅田の言葉に正之輔は黙した。
しかしすぐに先走る感情を堪え切れぬような声が響いた。

「浅田、俺は今更捨てた命乞いをするつもりは毛頭無い。だが己の腹を切る前にどうしてもお前を斬らねばならぬと、ただそれだけの為に生き延びてきた。お前の勝手な裏切りで大垣藩を潰すわけには行かん。大垣は俺の国元だっ」


だが正之助の悲痛とも言える怒声が風に千切れて消えぬうちに、浅田の手が腰にあった刀に滑って鯉口を切った。
それを己の瞳が映すよりも早く反応して、瞬時に総司の身体が前に出た。

その気配に浅田が振り向きざまに鞘を抜いた抜き身の鈍い光が、総司に向けて濃い闇に放射するように線を作った。
伝吉がその全てを見止める間もなく、次には刀を刀で受け止める激しい音が凍てついた空気に響いた。
刃と刃が合った時にすでにそれを返し、一度浅田との間合いを取ることは総司には容易い筈だった。
が、痛めた右の肩がそれを邪魔した。

浅田の一刀を凌ぐのが精一杯で、合わせた刃はじりじりと力で押される。
総司の危機に伝吉が助成に走り出そうとした刹那、夥しい人の足音が遠くから聞こえて来た。
それに一瞬気を取られた浅田の僅かな隙を、総司は見逃さなかった。
一旦左に流すようにして浅田の刃を受け入れると、すぐにそれを外して横に胴を払おうとした時、

「浅田っ」

九鬼正之輔の叫び声が響いた。
正之輔は真正面から浅田に向かってきた。
隙だらけの構えながら、それでも浅田に刃を向けた正之輔の怒りと哀しみが、咆哮のような唸り声に籠められていた。


それは一瞬の出来事だった。
振りかざされる一刀を交わした浅田の刃は、そのまま正之輔の右肩から袈裟に振り下ろされた。
総司の瞳が凍ったように見開かれた。

だが正之輔の命を絶とうとしていた手はそれ以上おろされることなく、そこにあった全ての動きが止まった。
やがて浅田の体が刀を握った姿勢のままゆっくりと揺らぎ、背中から音をたてて地に叩きつけられた。

その後ろで土方がそれを避けるように飛び下がりながら、静かに刀を振って血潮を拭った。


「九鬼さんっ」
総司が叫び寄るのと、正之輔の体が崩れ折れるのとが同時だった。







「傷自体は大したことは無いから安心していい。簡単な縫合で間に合った」
隣室で正之輔の手当てを終えて出てくるのが待ちきれなかったかのように、総司が立ちあがるのを見ると、田坂はそれを慰撫するように穏やかな眼差しを返した。

「九鬼さんは?」
「もう少ししたら気がつくだろう」
その言葉に今まで張り詰めていた神経が急に緩んだように吐息した総司が、更に正之輔の元に行っても良いかと探るような瞳を田坂に向けた。

「九鬼さんは大丈夫と言っただろう。それより今度は君の番だ」
「・・私の?」
呆れたような口調に、総司が不思議そうに田坂を見上げた。
「誰が動いていいと言った」
「・・風邪はもう治った」
田坂の厳しい視線に、総司の言葉が一瞬たじろいで弱くなった。

「こいつの治ったと大丈夫ほど当てにならないものは無いそうだ」
やはり同じ室の壁に背を預け、脛の長い脚を胡坐にかいて腕を組んでいた八郎が後ろから口を挟んだ。
「土方さんは何処に?」
こんな格好をしていても、隙無く決して崩れることの無い男に、田坂は問いかけた。
「何やら忙しそうにしているよ。大方この件の後始末だろうが、落ち着かない人だね」
同情とも、うんざりともとれる口調だったが、正之輔の怪我が大したことがなかったことが、八郎の心を軽くしているのだと言うことは田坂にも分かった。


あのあと傷を負った正之輔は、事件のあった場所から遠くない西本願寺の敷地内にある新撰組の屯所に運ばれ、すぐに田坂が呼ばれた。
事はまだ公にできるものではないと判断した土方の処置だった。


「が、九鬼さんを新撰組において置くのはまずいのでは?」
「その辺の事もあの人はぬかりが無いだろうよ。こういう事には頭の回る人だからな」
姿の無い昔馴染みに皮肉を言ったところで、まるでそれが聞こえたかのように襖が開いた。

「他に回る知恵が無くて悪かったな」
「褒めてやったんだぜ」
八郎の声が笑っていた。
「お前になぞ褒めて欲しいとは思わん。それよりも田坂さん、ひとつ頼みがあるのだが」
八郎の言葉を聞き流して、土方は田坂に視線をむけた。

「九鬼さんの身を暫し預かって頂けないだろうか」
「土方さん、九鬼さんはここで・・」
それまで黙ってやりとりを聞いていた総司が、初めて土方に向かって言葉を発した。
例えそれが新撰組と大垣藩との諍いの元になろうと、正之輔を自分の目の届く処で守っていたかった。
そんな己の勝手が許される筈も無いことは十分知っている。
それでも願わずにはいられなかった。

「九鬼さんは新撰組とも、大垣藩とも関係の無いところに置く。この件についての口出しは許さん」
どんな懇願も退ける、土方の断を下すような厳しい口調だった。
その土方の強い眼差しを、総司は一瞬撥ね付けるようにして返したが、やがて瞳を伏せた。


「勝手な頼みだが聞き入れて頂くことはできないだろうか」
土方の視線はまた田坂に向けられた。
「これも他生の縁と知れば、すでに他人とも思えない。駕籠を用意して頂けないだろうか。傷口は幸いな事に浅い。固く固定しておけば開く心配は無いでしょう。事情は後で伺うとして、九鬼さんは早くに此処を出た方が良いのでは?」
「かたじけない。駕籠の用意はすぐにできる。護衛として伝吉と吉村という者をつけます」
土方が田坂に頭を下げた。
「その前に、ひとつも言う事を聞かない我儘な患者を一人診て行きたいが・・」
笑いを含んだ田坂の言葉に、もう一度土方が其処に立ちすくんだままの総司を振り返った。





すらりと開いた障子から入って来た八郎を見ると、総司は夜具の上に横たえていた体を起こした。

「九鬼さん、行ったよ。もう気がついていてお前に会いたがっていた」
「・・・傷、痛まないのかな」
「案外に元気そうだった」
総司の横に腰を下ろしながら、八郎の言葉もどこか安堵しているようだった。


結局田坂の言いつけで、総司はそのまま身体を休めることを強いられた。
正之輔を案じる心は止められないが、自分が土方に掛けた心配を思えば今は全てを任せるしかなかった。

「大垣藩は九鬼さんに危害を与えないだろうか・・」
「九鬼さんが持っている密書のことでか?」
黙って総司は頷いた。

その密書を正之輔と浅田が持っていたことで、今回の事件は起きた。
そして正之輔はまだそのひとつを手元に置いてある筈だった。
総司の憂慮はそこにある。

「その事については大丈夫だろう。あれで土方さん、なかなかの策士だからな」
土方を知る者として何やら思うところがあったのか、八郎が低く笑った。
「そうだろうか・・」
「まぁ、たまには信じてやるのもいいさ。それより九鬼さんからお前にと預かったものがある」
「・・九鬼さんが?」
八郎が懐から薄い紙の束のようなものを取り出した。
行灯のぼんやりした灯りだけでは最初は何か分からなかったが、すぐにそれが正之輔と最初に縁を結んだ書物だと知った。


「これをお前に渡してくれと言っていた。何も礼をするものが無いから受け取って欲しいと。
・・・灌漑?またお前に何の意味があるのか」

不審に首を捻る八郎の手から、総司はその古びた書物を受け取った。
正之輔はこれを肌身離さず、弟の形見だと言って持っていた。
それを自分に譲るという正之輔の気持ちは痛いほどに有難いが、貰える筈はなかった。


「・・いつか九鬼さんに返さなくては」
呟いた総司の声が寂しそうだった。
「どうして?九鬼さんの心を無にするのか?」
「そうじゃない。けれどこれは九鬼さんが持っていて初めて生きる本だ。九鬼さんがこれで勉強をして、この先水の被害からたくさんの人達を救う為に必要な本なのです」



総司は暗に自分の限られた生にあっては、正之輔の希望は叶える事ができないと言っている。
それを敢えて言葉にはせずに、ただ紙に墨で濃く書かれた文字を大事そうに指でなぞる総司の胸の裡が八郎に辛い。

総司が九鬼正之輔という男に見たものは、自分には行きつくことの出来ない世の光景だったのかもしれない。
いつのまにか正之輔に、総司は己の将来(さき)を重ねていただろう。
想い人のそんな哀しい心に、遣る瀬無い思いと、誰にぶつけ様の無い憤りが八郎の胸に逆巻く。



「総司」

大切そうに手にしていた書物に気を奪われていた総司が、ふいに掛けられた八郎の低い声に振り向いた。

一瞬の刻(とき)を素早く切り取って掌中に収めるように、八郎の唇が総司のそれを塞いだ。
瞬くような出来事は、それが本当にあったものかと総司の思考を暫し中断した。


「礼を貰った」
からかうような声音に、漸く総司の見開かれた瞳が微かに非難の色を湛え始めたのを認めると、八郎は立ち上がった。

「又来る。早く治せ」
言った時には後ろ手で障子を閉めていた。


「八郎さんっ」

総司の悲鳴のような声が、すでに暗い廊下を行く八郎の背に聞こえた。






あんなことでもして誤魔化さなければ、滾る想いは止められなかった。



「・・・ばか野郎が・・か・・」

独りごちた呟きが、白い息とともに闇に掻き消えた。










             事件簿の部屋     茜 (八)