茜  (八)





如月が弥生に変わる頃には、陽の勢いは時折目を眩ます程に力強くなる。

四、五日、土方は九鬼正之輔の件に関して各方面の情報収集やら、その始末に追われているようだった。
ただとっくに床を上げて起きだしていた総司の処に来ても、詳しいことは一切話さなかった。
こうして土方が自分に沈黙しているのは何か含むところがあるからだと承知しつつ、それでも焦れるような日々を送っている総司だった。



「・・九鬼さんの事は」
夜更けてもう寝ようかと思ったところに、ようやく仕事を切り上げて土方がやって来た。
暫く普段と変わらないとりとめの無い話をしていたが、それが途切れた時、遂に総司は己の胸をずっと重く占めていた事を切り出した。

「お前はそればかりだな」
一瞬自分を見つめる瞳に呆れるように吐息して視線を遣りはしたが、土方は総司の腕を取って強く引き寄せた。
「でも・・」
「ここのところお前の中にはそれしか無いようだな」
「そんな事は無い」
「嘘を言っても先刻お見通しだ」
諦めにも似た土方の苦笑だった。
「もう少し我慢しろ」
「我慢したら、九鬼さんはどうなるのです」
「さて・・全ては上手く行くか否か・・天のみが知る」
「そんないい加減なことを」
黒曜石の深い色に似た瞳が真摯に怒っていた。
「天は俺だ。暫く黙っていろ」
それに不満の応えを返す前に、唇は土方のそれに塞がれた。


ゆっくりと、時に激しく蹂躪するような抱擁は、総司の全ての感覚を麻痺させ、身体ごと惑溺の淵へと誘う。
そのまま身体を夜具に押さえ付けられると、土方の指が解くべく紐を探った。
その手を咄嗟に総司が掴んだ。

「いやか?」
唇を離し労わるように聞きながら、だが土方の眸はもう己の欲情を止める事はできないと伝えていた。
「・・そうじゃない。けれど・・」
その先を総司は言葉に出来ない。


土方と肌を合わせるのは、初めて九鬼正之輔と出会った日の前の夜以来だった。
幾日ぶりかに知った温もりは、すでに自分の身体の芯を溶かし始めている。
そして何よりも自分自身が土方を欲している。
どこもかしこも触れて欲しい。その熱さの中に包み込んで欲しい。
だがこんな自分を知ったら土方はどう思うだろう。
心よりもそんな身体の先走りが、総司を戸惑わせる。


「・・・土方さんに触れられる度に、私はどんどん違う人間になってゆく」
「違う人間?」
「心より・・」
総司が堪えられないように瞳を伏せた。

「心より、身体の方が先に土方さんを求めてしまう。嫌だと心は言っても身体はいう事を聞かない・・こんなのは嫌だ。・・・自分ではないようで嫌だ」
一度も土方を見ないで総司が言い切った時、ふいに身体が浮いた。


「目を開けろ、総司」
何が起こったのか分からぬ内に促されて瞳を開くと、いつの間にか正面を向かい合う形で土方の膝の上に抱きかかえられていた。
そこに自分を映す、包み込むように深い双眸があった。


「俺がお前を初めて求めたとき、俺は言ったな」
土方の眼差しは静かに、だが総司に瞳を逸らすことを許さない。
骨ばった冷たい手をつかむと、すでに欲望の貌(かたち)を刻み始めた己自身へと触れさせた。
躊躇うように引こうとするその手指を、土方は逃さない。

「お前がいとおしくて、恋しくて堪らないのだと・・・だからこそこうして体が欲しがるのだと。俺は例えお前の意志に叛いても、お前を俺のものにしたいのだと」
「・・・土方さん・・」
「お前もそうなのではないのか、俺の事をそう思ってくれているのではないのか?だから考えるよりも先に俺を求めてくれるのではないのか?」
土方の言葉は、ひとつひとつ刻むように紡がれた。

「違うのか・・総司?」
唯一限りなく愛しい者を見ていた土方の眸にあるものが、次第にそれを形に変えて欲する激しい愛欲の色に変わっていた。

土方が自分を求めている。
そして何よりも自分が土方を求めている。
欲しいのは土方で、それ以外の何ものでもない。

心で思うよりも更に激しい何かを求める為に走り出す身体を、総司はもう止めることができなかった。
土方の首筋に腕を絡めると、自らその唇を奪うように重ねた。



土方を迎え入れた身体は、無理を強いられ大きく仰け反り、いっときその衝撃を拒みはするが、絶え間ない愛撫に少しずつ強張りを解き、繋いだ熱は宙に浮いた足の爪の先までも隈なく侵してゆく。
軋むような苦痛すら、やがて繰り返される律動の波に呑まれて更なる悦びをもたらす。
時折噛んだ手の甲から漏れる切ない息は、甘美な忍び声をも含む。

触れられれば敏感に反応するそこは、もう土方を求めて隠しようが無い。
羞恥も困惑も欲情もすべてを曝して、ただ土方の熱に翻弄されつづける。
高みに追い込まれた身体は、これが限界と眦(まなじり)を濡らして伝えても、土方はまだ愛しい者を追い詰める手を緩めない。

「・・一緒だ」
戒めの手からの解放は、耳朶を噛まれて囁かれるのと同時だった。
「・・・あっ・・ぅ」
緩やかに弓状にしなった白い裸体は、一瞬痙攣して、欲望の証を包み込んでいた土方の手の内に解き放つと、弛緩したように力抜け、背に回されていた力強い腕に全てを任せて沈んだ。

「総司」

呼べばうっすらと瞳を開くが、まだ言葉は紡ぐことはできない。
薄い胸を上下させて荒い息を吐く、ただただいとおしい想い人の額に浮いた玉のような汗を、前髪を指に絡ませるようにして掻き揚げると、土方は静かに唇を下ろして拭った。







大垣の豪商、松前屋治平衛の寮というのは総司と九鬼正之輔が逗留していた松尾屋のすぐ近くにあった。
ここ暫く温かい日が続いたせいか、気の早い白梅が良く手入れされた中庭に蕾を綻ばせようとしている。

二十畳はあろうかと思う広い室を二間開けた真中で、土方は先ほどから端座したまま目を瞑っている。
が、その眸がふいに開らかれたとき、すでにそこに厳しい光を宿していた。


「待たせてしまったかな」
静かな声の主はそのまま平伏している土方の前に、軽い衣擦れの音をさせて座した。
「顔を上げられよ」
ゆっくりと、土方が下げていた頭を上げた。
「土方歳三と申します」
「新撰組副長とは名乗らんのか」
大垣藩筆頭家老小原二兵衛忠寛は、含むように笑った。

「それがしは大垣藩士小原殿に会いに来ました故、今日は新撰組の土方ではございません」
「その方も中々に言う」
小原は相好を崩したが、その目の奥にある鋭さだけは消しようがなかった。

「してその土方が、いったい何の用かな」
「貴藩の浅田修三という藩士の落し物を拾いました」
「・・・浅田のぉ・・さて、知った名では無いが」
「小原殿の文を持っておりました」
「・・文?」
「長州藩に大垣藩は借財すると言う内容でしたが、その成就の暁には大垣藩は長州藩を全面的に支援すると・・・そういう条件を提示していました」
「ざれ言を言う」
小原の低い笑い声が漏れた。
「ざれ言と言われるのならばそれでも構いません。が、しかし落し物、しかも物騒な内容だとしたら一応は上に届けねばなりませぬ」
土方の言葉に、小原二兵衛は応えず視線を外した。



春のそれに似た、うららかな日差しが縁まで延びていた。

「・・そういえば」
暫し中庭に目を向けて、見るとも無く梅を眺めていた小原が口を開いた。

「一昨年、一部の過激な長州勢が御所に火を放った折に、京の町は大方焼けてしまった。その際に当藩邸も類焼した。その責を長州がとりたがっているという申し出はあったが・・。が、それは嵯峨の材木商から当方にもたらされたもの。更に当時火は幕府方が鷹司卿邸に放ったものもあった。そのどちらの貰い火を蒙ったかは誰も分からん。その様に言って、すでに申し出は断った筈・・」
「嵯峨の材木商とは福田屋理兵衛のことを言われるか」


福田屋理兵衛は嵯峨の材木商で豊かな財源を背景に、小原が言っている御所攻撃まで長州藩の有力な後援者であった。
この事件のあと、長州に亡命している筈だった。


「・・さて、そこまでは。この寮の持ち主で松前屋の持ち込んだ話。半分本気ででも聞かねば商人の言うことは信用できぬ」
「あくまで大垣藩は長州との繋がりを作ろうと画策した覚えは無いと言われるか」
「覚えの無いものは答えられぬ」
「ではこの様な話し自体が、大垣藩では最初から無かった事だと?」
「左様、当方では何事もありはしなかった」
「ならばひとつお伺いしたい」


庭に向けていた顔を、小原がゆっくりと土方に戻した。

「貴藩の勘定方の人間で九鬼正之輔という者をご存知であられるか。家禄は百石、小原殿のお家柄と肩を並べる藩でも古い家と伺っています。それがしの古い知人ですが、息災にしているかと、少々気になりました」
「勘定方に・・・確か」
土方の心が読めぬ小原が、訝しげにそこで言葉を切った。

「先ほど小原殿は大垣藩では最初から何も無かったと仰られた。では九鬼正之輔とういう人間も勘定方でさぞお役目に励んでいられることでしょうな」
土方の端正な顔が、ここに来て初めて笑みを浮かべた。

「それがしは九鬼殿より一通書状を預かっております。それを返せぬまま別れてしまったが、それは九鬼殿に手渡せる日まで、この土方が必ず預かりおくと、そうお伝え願いたい」
土方の双眸が小原を見据えた。


小原は黙した。
否、今このとき、目の前の人間に如何に応えを返すべきか、すべての思考をそこに集めている。
土方歳三という男は、九鬼正之輔の身柄の約束を、密書を盾に自分に迫っているのだ。



静寂のなかにあって、張り詰めた沈黙の時を破ったのは小原が先だった。

「九鬼正之輔は今体の不調とやらで休みをとっている。が、直に役目に戻るだろう。その方の託(ことづけ)確かに小原が預かった」
溜息交じりのその言葉に、土方が静かに頭(こうべ)を垂れた。
「ではそれがしはこれにて」


「待たれよ」
隙無く立ち上がった土方に、小原が声を掛けた。

「ひとつ聞きいてみたい」
「何なりと」
「その気になれば大垣藩を揺らすことくらいできる自信はあるだろうに、何故に九鬼正之輔という一介の藩士に拘りその切り札を使わぬ。人の弱みを自分ばかりが握るのは少しばかり卑怯というものだろう」
穏やかな小原二兵衛の声だった。



冬の名残を留める季節とは思えぬ、気まぐれに温(ぬく)い風が、庭にあるまだ葉のつかない木の枝に戯れた。

「弱みと申されれば・・・」
枝の隙が作った間から零れた陽射しに、土方の目がふと眩しそうに細められた。

「それがしにもどうやら弱みがあるらしい。あるいはそれが為の気紛れとでもお思い頂きたい」
「ほう・・その方にも弱みがあるのか」
「中々に手強く、この身が朽ちても尚解放してはもらえますまい」

遠くに向けた土方の双眸が、更にその先を見て和んだ。





土方が去っても、小原二兵衛はそこを動かず庭の白梅を暫し見ていた。

「松前屋、そろそろ姿をみせろ」
顔を向けずに言い放つと、静かに襖が開けられ初老の男が現れた。

「あの男、わしを脅しよった」
そんな風に言いながらも、小原の声にはどこか愉快そうな響きが含まれていた。
「私はまだ長州様と手を組むのは、時期が早いと申し上げた筈でございます」
「分かっておる。今回ばかりはわしも焦った。藩の基盤を確かなものにしておかねばこの先どの世が来ても大垣は生き残れぬ」
「ですが、まだ今は徳川様の御代でございます」
「それも承知しておる。そう責めるな・・・。確かに今はまだ徳川の世だ。が、直にそれも違うものになるだろう。だがわしが一番に守らねばならないものは、常に大垣の土地と民だ」

脇息に肩肘をついて、小原二兵衛が庭に向けていた顔を松前屋に戻した。
その目にあるものは決して憂慮の色ではなく、断じて揺るがぬ信念に裏打ちされた、何ものをも跳ね返す力強いものだった。


「・・・にしても、九鬼正之輔の身分を戻しておかねばなるまいな」
その小原が吐息と共に呟いた。
「約束をなさいましたからには」
「無理矢理だが・・・仕方があるまい」
「私のいう事を聞かぬせいでございます」
松前屋治平衛の低い笑い声だった。

「私はあの土方という方を、あそこまで動かす人間を一度見て見たいと思いました」
「土方が自分の弱みと申したあれか」
「左様、余程に惚れているのでございましょう」
「お前も酔狂な事を言うようになった」
「ご家老様同様、治平衛も歳をとりました。冥土への土産話は沢山の方が喜ばれましょう」
「一緒にするでない」
憂鬱そうに横を向いた小原を、松前屋治平衛が嬉しそうに笑った。







明日早朝に京を発って大垣に戻るという九鬼正之輔を見舞ったのは、月が変わって十日も経たぬうちだった。
結局正之輔の身を案じ焦れながらも、土方の意図した事が成就し、身柄の安全が確約されるまでは勝手に動くことができなかった総司には、あれから初めての再会だった。

やはり明日の正之輔の出立を聞いた八郎と総司が連れ立って、ここ五条の田坂俊介医師の診療所にやって来たのは、昼もだいぶ過ぎた時刻だった。



「ずいぶんと元気そうだね」
「ありがとうございます。皆さんには何と礼を言って良いものか」
八郎に応えた九鬼正之輔はまだ左の手を白い晒しで首から吊っていたが、顔の色も良く、何より生気に満ちていた。

「もう傷は痛まないのですか?」
「大きく動かせば痛みはありますが、今はほとんど」
「ならば良かった」
笑いながら言う正之輔に、総司が心底安堵したように笑みを返した。
あの時正之輔を庇いきれずに傷を負わせてしまった事を、総司は酷く後悔していた。

「そうだ」
思い出したように、総司が手にして来た包みを解いて古びた書物を取り出した。
「これ、やはりお返ししなくては」
渡そうとしていたのは、正之輔がよこした灌漑と書かれた本だった。

「・・これは沖田さんに差し上げたものですが」
訝しげに見る正之輔に、総司が笑いかけた。
「こんな大切なものを頂くわけにはゆきません。それにこれは九鬼さんが持っていてこそ役に立って生きるものです。九鬼さんが弟さんから譲られて、そして又もうひとりの弟さんに譲られて・・・そうしたらきっと大垣の人達は水を憂える事無く過ごせる日が来ます」
両の手に持って大事そうに差し出す総司に、だが正之輔はそれを受け取らずに穏やかに笑いかけた。

「これはある本を抜粋したものなのです」
「抜粋?」
正之輔は笑みを消さぬまま続けた。

「灌漑について記されたこの本は、膨大な資料として藩の書庫にあります。それらは気の遠くなるような昔から、この事業に携わってきた先達が少しずつ記して来た藩の財産なのです。私が差し上げたそれは、そのほんの一部を写し取ったものなのです」
「・・・それでは」
「弟はそのひとつひとつを、こつこつと写し取って自分で勉強をしていたのです。だから沖田さん、どうかこれを、弟が兄を助けてくれた礼に差し上げたがっていると思い、受け取ってはもらえないだろうか」


自分の手にある書物に目を落としながら、それでも総司はしばし迷っているようだった。
例えそれが一部であろうが人に渡してしまえば、揃っていた形見の書物から歯が欠けてしまったように寂しい思いを、正之輔もその身内の者もしないだろうか。


「それに、その本は沖田さんに持っていてもらわねば困るのです」
総司の戸惑いを見透かしたように、正之輔が声をかけた。
「困る・・?」
ようやく顔を上げた総司に、正之輔は頷いた。
「その本自体が、今回の事件の火種なのです」
「では・・」
「そうです。本の中の一枚だけを差し替えてあるのです。その一見測量の記録かと思われる数字こそ、大垣藩が長州藩に融通してもらうよう申し込む予定だった金の金額なのです。そしてその期限の日は測量したと記されている日付。・・・この一枚に書かれている数字はすべて今回の借財に関する数字上の条件なのです」
驚いたように瞳を瞠る総司に、正之輔の眼差しはあくまでも穏やかだった。

「手の込んだことをしたものだ」
八郎が総司の手から薄い本を取り上げると、興味深気に中を捲り始めた。

「密書という形では危険が多すぎます。私の持っているのは全て数字上の条件を記したものですが、浅田が持っていた本には婉曲にこの件が無事成就した暁には、長州とのより強い絆を結ぶという内容が同じように記されていたのです」
「ではそれは土方さんの元に?」
総司の問い掛けに、正之輔は暫し沈黙したが、やがて躊躇いを捨てたように口を開いた。

「土方さんの手の内にある筈です。私に何の咎めも無く、ただ藩は何事も無く帰国せよとの知らせを寄越しました。禄高はそのまま、書状には休暇の終わりだとだけ告げてありました。・・・土方さんが何らかの手を打ってくれたとしか思えません」
「ほらみろ、あの人は結構に策士なんだよ」
八郎のうんざりとした声だった。

「だから沖田さん、これは貴方の手にあって欲しいのです。この本は大垣にあってはならないものなのです。だがこれ一枚以外は、全て弟が書き写したものです。弟の気持ちを・・・どうか貰ってやってはいただけないだろうか」


「貰って差し上げてもいいだろう」
中庭から声を掛けながら縁に上がってきたのは、田坂医師だった。
「珍しいところから来るね」
「こっちを回った方が早いのさ」
八郎に苦笑しながら応えを返して、田坂はもう室に足を踏み入れていた。

「弟さん、君に感謝しているんだぜ。貰わなければ罰が当たるかもな」
いつもよりもさばけた田坂の物言いは、それだけで総司の気を楽にさせる効果があったようだった。
伏目がちにしていた瞳を上げて、総司は正之輔を見た。

「大事にします」
「ありがとう。きっと弟は喜んでいます」



総司は八郎が熱心に読み始めている薄い本に目を遣った。

表紙の隅は数え切れない程捲られた名残か外に丸まり、先は千切れている。
紙も黄ばんで変色してきている。
形あるものと言うのならばひどく粗末に見えるこの本の中身は、しかし未来永劫人々の中に知識となって生き続けるのだろう。

その逞しさ、強さに、総司はふと眩しげに瞳を細めた。



「そろそろここを閉めないか。いくら今日が温かいと言ってもまだ春は遠い。風が寒くなってきた」
田坂に言われて、そこに居た誰もがもう夕刻が近づいて来たのだと初めて知った。
庭の潅木の陰もずいぶんと前に長く伸びている。

「京は大垣と似ているのです」
辺りを染め始めた黄昏の色の気配に、正之輔が誰に言うでもなく呟いた。

「大垣と・・?」
総司の声に、正之輔が一度そちらを見て頷いた。が、すぐに又庭に目を遣った。
「四方を山で囲まれた国元は、こんな風に西日のあたる頃になると、まるでどこもかしこも茜色に染まってしまうのです」
語る正之輔の視線は、すでに遠く故郷を見ているようだった。

「国元が私を少しでも必要としているのならば、私はそこに帰らねばならない。・・・確かに、私にはまだやらねばならぬ事がある。命を粗末にするなという貴方の言葉が、私には嬉しかった」
正之輔が静かに総司を見た。

「・・・私は、まだまだなのです」
確かな声で言い切って、正之輔が総司に向けた眸が、かつて見たことの無い強い光を宿していた。
「・・・まだまだ・・?」
「そうです。まだまだなのです」


白い歯を見せて笑う正之輔を見ている総司の頬を、冷たさを増した風が薙ぎるように過ぎた。






日が落ちる間際の黄昏の道を、総司は八郎と並んで歩いていた。


「九鬼さん、無事に大垣まで帰ることができるかな」
田坂の診療所を辞してからずっと無言だった総司が呟いた。
「大垣までは訳の無い距離だから心配はなかろうが・・・」
言葉を切った八郎を、総司は見た。

「問題は藩に戻ってからだろう」
「けれど、それは土方さんが・・・」
「身柄の安全は約束されただろうよ。が、それが役目とは言え、結果的には藩の急所を握ってしまった人間だ。今までどおりにはゆくまい」
「では・・」
詰め寄る総司に、八郎は視線を向けた。
「立場上はきつい状態におかれるだろうな・・・死ぬまで」
総司の黒曜の瞳が見開かれ、足が止まった。
「そんな顔をするな。あの人は大丈夫さ」

「・・・私は九鬼さんに生きて欲しかった・・。けれどそれは返ってあの人に辛い先を歩ませるだけのものになってしまったのだろうか」
絞りだすように紡ぐ総司の言葉が、時折風に浚われる。

「九鬼さんは腹を切ろうと思えばいつでも切ることはできた。或いは針の筵(むしろ)のような先を生きてゆくよりも、腹を切った方が楽だったかもしれない。が、それをせずにあの人は敢えて国元へ戻る道を選んだ。何故か分かるか?」
総司を見る八郎の双眸にある色が深かった。


「あの人はとっくに藩は捨てた。が、治水や灌漑の仕事に生涯を賭けると決めたのさ。その為にだけに助けられた命を使おうとしている。死んで命を終わらせるよりも、生きた証を次の世に繋げると決めたのだろう。
あの人は心底強い人だ。自分にまだまだと言い続けられる。
・・・そしてその道を開いてくれたお前に、きっと感謝しているだろうよ」

包み込むような眼差しに、総司が慌てて視線を逸らせた。


八郎の優しさがこんなにも胸に染入るのは、人恋しくなる夕暮れ時のせいだろう。
そんな風に誤魔化そうとしても、閉じた目の奥が熱い。



「紅一色だな・・・」
八郎の感嘆するような声に瞳を開けると、そこに鮮やかに染められた夕景があった。


視界に入る落ちかけた日の光は、一瞬現(うつつ)との境を朧にする。

「・・・ほんとうに」

自分はもしかしたら、まだまだ先を見ることができるのかもしれない。
正之輔の眸にあった強さが、それを確かに約束してくれていたように思えた。
総司はその遥かな向こうを見据えようと、少しだけ目を細めた。



「・・・どこもかしこも茜色だ」

吐息するように呟いた横顔を、残照が茜に照らした。








               茜  了   2002.10.18



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