陽 秋 -あきひ- (壱)



 河原町通りの西側、五条通りから紫明通りまで南北に貫く通りを、寺町通りと云う。通りの東側には大小約八十の寺院塔頭が立ち並び、西側には寺院の用を足す、書物、数珠、法衣、それに硯、筆、紙屋などが軒を連ねている。又、東海道の終点三条大橋が近い所為もあり、常に通りの賑わいは絶えない。その寺町通の、ある筆屋に総司は居る。かれこれ、もう四半刻になろうか…。
 間口一間程の小さな店の帳場には、店の大きさの割に大柄な主が、にこりともせずに座っている。しゃくれた顎と、飛び出た目、そして座りの良い大きな鼻を持つ主の顔は、愛嬌があるとは到底云い難い。が、何かしらの拍子で唇の端が上がると、引っ張られるように太い眉毛が下がり、目元だけ七福神の布袋像に似てくる。それが総司には可笑しい。途中からは、主のその変化を楽しみに店に居るようなものだ。
 その主が、
「熊野筆がよろしおす」
 じっと総司を見上げて云った。もう何度も繰り返されている台詞だ。
「熊野筆にしなはれ。大和筆を手本にしながら、研鑽を積んだ熊野筆は、最近では大和筆に勝るとも劣りまへん。私が太鼓判を押します」
「ご主人の云われる事は分かるのですが…。困ったな」
 総司は曖昧な微笑を浮かべた。

 田坂の診療所に行くのなら、帰りに筆を買って来て欲しいと近藤に云われたのは昨日の事だった。多摩の小島鹿之助に贈ると云う。近藤自身は、大和筆を好んで使っている。だから漢学の師に贈る筆は、自分も使って良さを分かっている大和筆を贈りたいのだろうと、総司は思っている。しかし店の主は熊野筆に決めるまで、解放してくれそうにない。

「困ったな」
 吐息交じりの呟きが漏れた。その時ふと背後に兆した人影に、何となく視線を流した。すると、細身の若い男が店の前を通り過ぎるところだった。だが総司は思わず店の外に出た。横顔だけを見せて去ったその男に、見覚えがあったのだ。
 …どこで会ったのだろう。
 大急ぎで記憶を辿るが、直ぐには思い出せない。そうしている間にも、男の姿は人ごみの向こうに遠くなる。
 会ったのはそう昔の事ではない。むしろ最近の事だ。
 そこまで記憶を辿った時、男が一瞬だけ向けた目を思い出した。昼下がりの柔らかな陽射しとは対照的な、挑むようなあの強い視線を、どこで見たのか。あれは…。
――伝五郎の屋敷の庭だ。
 弾かれたように思い出した時、突然男が道を逸れ、家と家との細い路地を曲がった。しかし男は路地に消えたのではなく、家陰に潜み、反対側の質屋をじっと見ている。総司は質屋に目を向けた。店先には、草臥れた格好をした男が、風呂敷包みを抱えて立っている。店の者が声を掛けても、男は俯いたままだ。その内に奥から又一人出て来た。店の者が、番頭さんと呼んだ。その番頭に声を掛けられて、漸くおずおずと男は顔を上げた。だが変化が起きたのはその瞬間だった。番頭の顔を見た男が、息を呑んだのが遠目でも分かった。そして怯えるように後ずさると、物凄い勢いで店を飛び出したのだ。しかし力の無い足は直ぐにもつれ、男はよろめいて転んだ。そこに番頭と店の者が大丈夫かと近寄った。すると男は差し伸ばされた手を払いのけ、尻餅をついたまま正面向くと、突然、懐から出したものを二人に向かって翳した。中天から射す陽を弾いて光ったそれが、
 包丁だ―。
 そう判じた瞬間、総司は男に向かって走り出した。

 総司に気づいた男が振りむいた。
「…来るなぁっ」
 男は泣くように叫んだ。包丁を握っている手が震えている。
「来るなっ」
 構わず近づくと、また一段と大きな喚き声を上げた。男と一間ほど距離を置きながら、総司はさり気なく周囲に視線を巡らせた。
 いつの間にか出来た人垣が、男と総司を、遠巻きに見守っている。その中の一点で、総司は視線を止めた。伝五郎の屋敷で見かけたあの男が、じっと見ていたのだ。だが男は、総司の目に合うと、さり気なく視線を逸らせた。
「来るなっ、云うてるやろぉっ…」
 腰を落とし、両手で握った包丁を前に突き出している男の声は、まるで懇願しているようだった。
「もう止めたら如何ですか?」
 一歩踏み込むと、男は泣き出すような表情で首を振った。
「その物騒なものを、渡して下さい」
 更に一歩近づいて手を伸ばした刹那、
「わあぁっ」
 男が目を瞑り包丁を振りかざした。その刃を、右に身体を傾け避けようとした総司だったが、一瞬、視界の端を小さな影が翳めた。咄嗟に下を見ると、それはまだ歩くにも覚束ない幼子で、幼子は、足元に座り込むと、あどけない笑顔で総司を見上げた。
「あぶないっ」
 子供の上に覆いかぶさり、横に飛び去ろうとしたその時―。頭の上で硬い音が弾け飛んだ。
 突然訪れた静寂の中で、子供が火が付いたように激しく泣き出した。その子を庇いながら振り返ると、尻餅をついた男が呆然と総司を見ている。男の一間程後ろには包丁が転がっている。そして包丁の傍らには、黒い小石が一つ。素早く総司は遠巻きにしている人の群れを見た。するとその視線に合うのを避けるように、伝五郎の屋敷に居た男が、すっと人垣を離れた。
 野次馬たちが騒めき始めた。その時になって、遠くからけたたましい声が近づいてきた。その声に、弾かれたように男が顔を上げた。誰かが役人を呼んだらしい。男の窪んだ目に、臆病そうな色が浮かんだ。そうこうする内にも、役人の足音は近づいて来る。
「退けっ、退くのやっ」
 荒々しい声が、人垣を割った。
「あっ」
 総司は、短く叫んだ。
 腰を抜かしていた男が四つん這いで風呂敷包みまで行くと胸に抱え、立ち上がりざま走り出したのだ。
「待って下さいっ」
 追いかけようとしたが、泣き叫ぶ子供が襟にしがみ付いて離さない。
 やがて男は道の東側を流れる水路に飛び込むと、水しぶきを上げながら、あっと云う間に寺と寺の間に消えた。




「それで?」
 土方は憂鬱そうに訊いた。
「伝五郎さんの家で見た人は、きっと逃げた男を追っていたのです」
 何も云わず、土方は煙管の灰を落とした。
「でもそれを、私が邪魔してしまった…」
「……」
 また始まったかと舌打ちしたい衝動を抑え、土方は視線を部屋の外に向けた。山崎が来たのだ。誰でも入れるよう障子は開け放してあるが、山崎は総司が部屋にいるのを見ると、持ってきた書類だけを置いて引き返そうとした。それを土方は止めた。
「用があるのではないのか?」
「いえ…、急ぐものではありませんので」
「俺も急いでいる仕事は無い。用件を云え」
「はぁ…」
 戸惑い気味に、山崎は総司に視線をやった。
「私の事は気にしないで下さい」
 総司が慌てた。
「そうだ、こいつの事は気にしなくていい」
「では…」
 それでも遠慮気味に、山崎は話し始めた。
「新撰組に直接関わる事では無いのですが、山科の随心院の南側に釣月寺(ちょうげつじ)と云う寺があります。三日前、そこに賊が押し入りました。被害自体は大した事ありませんでしたが、最近同じような事件が続いていますので、一応お耳に入れておいたほうが良いと思いまして…。盗まれたと公表したものを、そこに記しておきました」
「だが届け出たのは、盗まれたものの一部だろうな」
 報告書に目を通しながら、土方は皮肉に笑った。
 京の古い寺々では、司法の介入を迷惑がる傾向が強い。一種の隔絶社会と云えた。今回の被害届けも、どこまで本当か分からないと土方は見ている。が、いずれにせよ寺社領内で起こった出来事は東西奉行所の管轄であり、新撰組の与り知らぬことだった。それをわざわざ耳に入れに来たのは、山崎の裡から、まだ護足衆の存在が離れない所為かもしれない。そんな風に土方は判じた。
「随心院と云うと奈良街道か」
 報告書を膝の上に置いて、土方は訊いた。
「はい、釣月寺も街道沿いです」
「ならば盗まれたものは、もう京の外に流出している可能性が高いな。まぁ持ち場内の質屋、仏具屋に不審な者が現れたらすぐ通報するよう、触れを出しておけ」
「はい」
 山崎は頷くと、総司に黙礼しその場を去った。
 その背中が見えなくなるとのを待って、
「それで、結局お前はどうしたいのだ」
 土方は総司を促した。その目の中に、明らかな苛立ちがある。
「伝五郎さんに聞いたら、あの人の事が分かると思うのです」
「訪ねて礼でも云うのか?投げてくれた小石で助かりましたと?」
「いけませんか?」
 総司、と土方はため息交じりに続けた。
「確かにその男は、包丁を振り回した男を追っていたのかもしれない。そして成り行き上、お前と子供を助けた。しかしすぐに人目を避けるように消えた。それはお前と関わる気が無いと云う事だ」
「……」
 瞬きもせず、総司は土方を見ている。そして土方は、その瞳の中に、じわじわと利かん気な色が覗いて来るのを、頭を抱えたくなる思いで見ている。
「とにかく、お前が接触することは、相手にとって迷惑以外の何物でもない。そう云う事だ」
「……」
「分かったなっ、この話はもう終わりだ」
 しかし総司は不満そうに口を閉じている。
「総司っ」
 頑なな相手への苛立ちが、とうとう荒げた声になって迸ったその時。
「副長…」
 穏やかでない中の気配を察したのか、障子に隠れるように、臆病そうな声がした。
「何だっ」
「…申し訳ありません、局長がお呼びなのですが」
 障子に映った影が、縮こまった。
「今行くっ」
 立ちあがり、土方は総司を見下ろした。だが一文字に口を結んで抗う面輪に合うと、込上げる怒りを押しとどめるように息を吸い込み、乱暴に背を向けた。が、敷居際でもう一度振り返ると、憤然と総司を睨み付けた。
「いいか、迷惑の押し付けは、嫌がらせだぞっ」
 脅すように云い捨て踵を返した後ろ姿を、総司は勝気な瞳で見送った。




「それは達吉どすやろ」
 伝五郎はにこやかに頷いた。
「達吉さん?」
「へえ、達吉どす。達吉の亡くなった父親と私が遠縁で、おたきだけでは手が回らん時は、達吉とその姉のやゑに手伝うて貰っとるんどすわ」
 そう云ったふくよかな頬が綻んだ。。
「沖田はんが達吉を見た云うのは、寺脇はんのその後を教えに来てくれはった時と違いますか?」
「ええそうです、その時です」
 声を逸らせて、総司は頷いた。
 男を見かけたのは、屋敷の門の手前だった。男は総司と視線が合うと、それを嫌うようにすっと裏口に消えた。その時の、隙の無い男の後姿と強い視線が、総司の裡に強烈な印象となって残っている。
「帰りに、門の所で見かけたのです」
 言葉にして記憶を確かにして行くと、午后の陽に煌めく小菊の群生の向こうに見た光景が、色鮮やかに蘇る。
「あの日、達吉には山科まで使いに行ってもろうて、丁度沖田はんと入れ違いに帰ってきましたのや」
「そうだったのですか」
 総司は笑みを浮かべた。
「で、沖田はんは何で達吉の事を?」
 興味深そうに、伝五郎は聞いた。
「先日、助けて頂いたのです」
「達吉が沖田はんを?」
 驚いたように、伝五郎は目を瞠った。
「はい。それでお礼を云いたかったのですが、此方で見かけたとしか分からなくて…」
 礼を云いたいと云うのは本当であったが、総司にはもうひとつ気がかりがあった。
 彼は暴挙に出た男の後を付けていた。だが結果的にそれは失敗に終わり男は逃げた。そして事情はどうであれ、その失敗の原因の一端を担ったのが自分である事に、総司は責任を感じていた。もしかしたら達吉なら、あの場を別の方法で収められたかもしれないのだ。
 そんな事を総司が考えているなど知らず、
「そうどすか、そうどすか、達吉が沖田はんを」
 嬉しそうに伝五郎は笑った。
「ああそうや、丁度ええ。明日、四ツ(午前十時頃)前に達吉が来るんどすわ。沖田はん、ご予定は?」
「明日は夜番ですから、その時刻なら大丈夫です」
「ほなら、達吉を待たせておきます」
「良いのですか?」
「はい、うちも達吉に沖田はんのような友達が出来たら嬉しおす。無口でお愛想のひとつも云えんけど、ほんまは気持ちのええ奴どす。それはうちが約束します。これも神さんがくれはったご縁と云うものどすやろ。どうか達吉と、友達になってやっておくれなはれ」
 まるで自分の息子を託すように、伝五郎は丁寧に頭を下げた。
「私の方こそお願いします」
 その伝五郎を見、総司も慌てて頭を下げた。

 耳の悪いおたきが、総司に菊の名前を教えている。
 菊はおたきの丹精の賜物で、今が見ごろだった。その説明が、時折とんでもない方向へ逸れて長くなるのだが、総司は辛抱強く聞いている。
 二人の声が、四半刻余りも聞こえたか…。漸く庭の方が静かになった。どうやら総司はおたきから解放され、帰って行ったらしい。

「おたきの話は長ごうてあかん、沖田はんもご苦労やったな」
 伝五郎はひとり笑った。その時、客の帰りを待っていたように障子に影が差した。
「お頭」
「お入り」
 敷居を跨いだのは、達吉だった。
「怒っても無駄や。もう約束してしもうた」
 先手を打つまでもなく、浅黒い顔が怒っているのを、伝五郎は楽しそうに眺めた。
「何であんな奴にうちが会わなあかんのどす」
 怒りをむき出しにして抗議する若者に、伝五郎は目を細めた。
「初めて見たわ、お前のそんな顔」
 笑われて、達吉は口惜しそうに黙った。
「ええやないか、沖田はんはお前に礼を云いたいと云ってはるんや、素直に云われたら」
「友達と、云わはりました。そないなもん、要りまへん」
「そうでもないえ、友達はええもんや。それにお前と沖田はんは何とのう気が合うような気がするのや」
「合いまへん」
「まぁそう云わんと」
 悠長に、伝五郎は手を振った。
「袖すり合うも他生の縁と云うやろ?」
「断って下さい」
「もう約束してしもうた」
「お頭っ」
「おおそうやった」
 伝五郎はあらぬ方へ視線を置き、ポンと手を打った。
「今日は小川屋はんと碁を打つ約束をしていたんや」
 そして一人呟くと、袖なし羽織の紐を解きながら立ち上がった。
「おたき、おたき、出かけるえ。羽織はどこやったかいな」
「へぇ…?何どすやろ?」
 おっとりと、おたきが聞き返す。
「羽織や、羽織。碁を打ちにな、小川屋さんへ行くのや。途中で松葉屋の饅頭を買うていかなあかん」
 謡うような足取りで小さくなる丸い背を、廊下に半身を乗り出した達吉の恨めし気な目が追った。






事件簿   秋陽(弐)