陽 秋 -あきひ-(八)



 手入れをされた中庭の奥に、山茶花の垣根が見える。その白い蕾に群れ射す陽が柔らかい。だがこの温柔な陽気も昼下がりの一時だけで、早朝などは、胸を掻き抱きたくなるほど冷え込む。事件の発端が秋も半ばだった事を思えば、晩秋から冬へ、季節は足早に過ぎ去ったのだ。ついこの間の出来事が、もう手の届かない昔になっている、そんな寂しさとも似た思いが総司を襲う。
「堪忍どす」
 その時、束の間の感傷から呼び戻す声がした。
「ほんま、すまんことどす」
 慌てて目を向けると、申し訳なさそうに目を瞬いている伝五郎の顔があった。
「いえ、謝らないで下さい。たまたま近くに来たので寄っただけなのです。本当に、玄関先で帰るつもりだったのです」
「けどなぁ。こうして折角寄ってくれはったのに…」
 総司は必死に説くが、伝五郎は納得しない顔だった。
 達吉に会いに来たのはこれで二度目だった。最初の時も約束を入れておいた訳ではない。だがもしかしたら、家にいるかもしれないとの淡い期待はあった。が、こうして二度とも会えないとなると、駄目で元々と云う潔さは何処かへ消え落胆だけが胸を重くする。すると我儘なもので、留守にしている達吉が恨めしくさえ思えてくる。
「ちょっと其処まで見て来ますわ」
 落ち着かない様子で、伝五郎が腰を浮かせた。
「いえっ…」
 総司は慌てて止めた。まるで己の身勝手さを見透かされたようなばつの悪さが、顔を紅くする。
「達吉さんの都合も聞かずに来た私が悪いのです。又来ます」
「けど沖田はんも忙しおすやろ?…ほんま、何をしておるのやろ、達吉は。だいたい、ほんの其処まで使いに出ただけで、こないに掛かる筈がありまへんのや。又云うても、今度いつ会える分からしまへん。そうや、会えなくなってしもうたら、どないするつもりなんや、あいつは」
 話している内にも、伝五郎の不満は益々募る。
「それは大丈夫です」 
 ところが総司は、その伝五郎に悪戯げな目を向け笑った。
「私と達吉さんは縁があるようですから」
「縁?縁云うと、ご縁の、あの縁のことどすか?」
「そうです」
「…はぁ」
「達吉さんと私は縁があって出会えたのですから、きっとまた会えます」
「そないに云うてくれはると、ほっとします」
「達吉さんが聞けば嫌がるだろうけれど、嫌も縁です。仕方がありません」
「そりゃ、そうどすなぁ」
 きっぱりと云いきって笑う顔につられるように、豊かに肉付いた顔にもようやく笑みが浮かんだ。が、その時だった。伝五郎の視線が、総司が見過ごす程僅かな一瞬、山茶花の垣根へ鋭く走った。そしてその目の光を素早く消すと、大仰に咳ばらいをした。
「けどなぁ…」
 やがて云った。
「そないに云うて貰えば貰うほど、達吉は罰当たりやと、うちは情けのうなりますのや」
「……」
 執拗に蒸し返され、総司は戸惑いながら伝五郎を見詰めた。
「こないだの事件では、ええように宝物探しに付き合わせてしもうて、それだけでも申し訳ないと思うてますのに、沖田はんは達吉をこないに慕ってくれはって…。ほんま、おおきに。あいつは日本一の果報もんどす」
 と、目頭を押さえてしみじみ語る割りには、伝五郎の声は凄みが効いて大きい。
「そんな事はありません」
 だがそんな機微には気付か無い総司は慌てる。
「私は達吉さんの邪魔をしてばかりでした。達吉さんに謝らなければならないのは私の方なのです」
「いいや、沖田はんは少しも悪うありまへん。悪いのは達吉どす」
 伝五郎は片手を振って一蹴する。
「なのにあの阿呆が、どこで何をしておるのか、さっさと帰ってくればええものを…。だいたいあいつは気働きが下手なんどすわ。人様への配慮ゆうもんが足りまへんのや」
「でも…」
「でももへちまもありまへん。そうなんどす。あいつがしっかりしてくれへん事には、あの世からお迎えがの駕籠が来ても、ほいほいと乗る事もできへん」
 伝五郎は大きくため息を吐くと、情けないとばかりに大きく首を振った。
「……」
 そこまで云っては達吉が気の毒だと思いつつ、だからと庇えば火に油を注ぐ結果になるのは明白だ。ほとほと困り果て、総司は曖昧な笑みを浮かべると、そっと庭の小菊に視線を逸らせた。


「達吉、ええ加減にしたらどないえ」
 洗った青菜を笊に上げると、前掛けで手を拭きながら、やゑが土間から振り返り云った。その視線の先には、山茶花の垣根の向こうから聞こえて来る会話を、壁に身を寄せるようにして聞いている達吉がいる。
「ほら、早う行かんと」
「……」
「沖田はんが、帰ってしまうえ」
 焦れて呼んでも、片膝たてて聞き入る背は振り返らない。
「達吉っ」
 達吉は顔だけ向け、しっと、指を立て姉を黙らせると、又すぐに背を向けてしまった。
「ほんまに、いけずやな、あんたは」
 頑なに会いに行こうとしない弟に、やゑは呆れて呟いた。するとその時、伝五郎の声が一段と大きくなった。今度は達吉を見放してやってくれるなと、総司に懇願している。
「…あの世から駕籠が来てたまるか」
 達吉は苦々しく顔を歪めた。その横顔を見ながら、やゑは噴き出した。
 達吉が帰って来ているのを、ある時伝五郎は気付いたのだ。だが一向に姿を見せようとしない達吉に焦れ、それならばと、当人に聞こえるように話しを始めた。しかも達吉の勘に障るような事ばかりを意地悪く。どうやら、一筋縄ではいかない達吉を怒らせ燻りだす策に出たらしい。
「お頭に云われっぱなしで腹が立つなら、沖田はんに会いに行けば済むことやろ?」
 土間に下りて来た達吉に、やゑは諭した。
 が、達吉は、笑いを残している姉の口元をじろりと一瞥すると、草履を突っかけ出て行ってしまった。その頑固な後ろ姿に、やゑは呆れたように首を振った。



 軒の下では感じないが微かに風があるらしく、小菊の花弁が、時々波のように光を弾く。その光の移ろいを、先ほどから総司は縁に腰かけぼんやり見ている。そうして四半刻も経たのだろうか…。ふと兆した影に後ろを振り仰ぐと、土方が立っていた。
「どうしたのですか?」
 土方が総司の部屋に出向いて来るのは珍しい。だが土方は答えず、総司の傍らに腰を下ろすと胡坐をかいた。
「伝五郎の所へ行って来たのか?」
「……」
「ところが目当ての人物はおらず、しょげている。…まぁ、そんなところか」
「土方さんには関係の無い事です」
 むっとした気持ちがそのまま声に出たらしい。
「図星らしいな」
 土方の口元が意地悪く歪んだ。
「達吉さんも忙しいのです」
「何とでも云うさ」
 からかうような笑みを浮かべたまま、膝の上の頬杖に顎を乗せると、土方は庭に目を向けた。その横顔を不満そうに見ていた総司だったが、やがて抗議も無駄と諦めると土方の見ている先を追った。そうして気づけば、小菊の群れに降り注いでいた陽は、いつの間にか傾きを鋭くし、花の影を長く伸ばしている。ぼんやりしている間に、晩秋の陽は素早く時を刻んでいたのだ。そして総司は、達吉と会えなかった事が、それ程自分を気落ちさせていた事に驚いた。
「孝介の事だが…」
 庭を見たまま、土方が云った。
「向井殿の世話で、太物屋で働き始めたそうだ」
「孝介さんが?」
 途端に総司は身を乗り出し、
「人の事には熱心だな」
 土方は顔を顰めた。
「ああ、良かった」
 だがそんな厭味などどこ吹く風で、嬉しそうに総司は笑った。
「元々商家で育った人間だけに、商売の勘も良く店でも重宝がられていると云う事だ」
「そうか…。孝介さんも頑張っているんだ」
 噛みしめるように、総司は呟いた。
 孝介の妻のおよしは、事件の後田坂が診ている。田坂によれば、およしの病の大きな原因は、自分を責め続けていた心にあると云う。時をかければきっと良くなると、田坂は太鼓判を押してくれた。孝介の仕事が落ち着きを見せ病も良くなれば、およしは自分に自信を持てる。その時およしは、もう孝介を自分から解放してあげたいなどと思わないだろう。自分が孝介の足枷になっているなどとは、思わないだろう。
 うちの業が、あの人の邪魔をせんように…。
 そう一緒に願って欲しいなどと哀しい事は、もう云わない。
「良かった…」
 もう一度呟いたその声を聞き留めた土方が、総司を見た。
「ひとりごとです」
 視線に気づいて笑うと、
「可笑しな奴」
 呆れたように土方は云い、庭に向けていた目を眩しそうに細めた。
「それにしても、向井様は大活躍でしたね」
「向井殿だけではないさ。今回の件では、御奉行醒井様を筆頭に、西町奉行所の全ての人間が覚悟を決めての行動だったらしい」
「御奉行様も?」
「全ての責任は自分が取ると云われたそうだ」
「立派な御奉行様ですね」
「中々勇敢で、自ら繋ぎの役を買って出られ、度々商家の主に化けていたそうだ」
「御奉行様がご自身で?…すごい」
「その位の人物だから、向井殿も命がけで仕事が出来たんだろうよ」
「近藤先生と似ている」
「…ふん」
 土方は気の無い返事をしたが、否定もしなかった。
 茜を帯びた西陽は更に低くなり、深く色づいた楓の葉と葉の間を突き抜けるように射し込む。
「…眩しいな」
 目の上に手を翳し、総司は呟いた。その白い横顔を、土方は無言で見ていたが、話しのついでのように付け加えた。
「その御奉行様から、近藤さんが筆を貰ったそうだ」
「…筆?」
 土方は頷いた。
「熊野筆とか云っていたな。芸州安芸で作られているらしい」
「熊野筆を?近藤先生が?」
 総司は驚いたように瞳を瞠った。
「知っているのか?」
「少しだけ」
「何でも醒井様の郷が熊野だそうだ。近藤さんは大層気に入ったようで、さんざん蘊蓄を聞かせて俺にも買えと勧める。あの人の悪い癖だな」
「……」
 顔を顰めた土方の声を耳に素通りさせながら、総司の脳裏にふと予感が走った。
「土方さんっ」
 そしてその予感を強く手繰り寄せるように、勢い込んで訊いた。
「その御奉行様、顎が長くて、目と鼻も大きくて、それから体も大きな人だと云ってはいませんでしたか?」
 気圧され、一瞬土方は身を反らせたがすぐに眉根を寄せた。
「会ったのは近藤さんだ、俺は知らん」
「…そうか、近藤先生か」
 総司はがっかりと肩を落とした。土方は渋面を作ったが、
「そう云えば…」
 ふと思い出したように顎を撫でた。
「笑うと布袋さんに似ていたとか…、訳の分からん事を云っていたな」
 その瞬間、総司の脳裏に忽然と、間口一間の小さな筆屋の帳場に窮屈そうに収まる大柄な姿が蘇る。しゃくれた顎と飛び出た目に座りの良い鼻。愛想が良いとは到底云い難いその主は、しかし何かの拍子で唇の端が上がると、釣られて太い眉毛が下がり、目元だけどことなく布袋像に似る。強引に熊野筆を勧めた主の店は、確か向井が番頭に姿を変えていた質屋の目と鼻の先…。
「あの人だ…」
 思わず漏れた呟きに、土方が怪訝な目を向けた。
「土方さんっ、あの人だ、あの人が御奉行様だったんだっ」
「……」
「そうか、そうだったんだ」
「さっぱり分からん」
「ああそうか、土方さんには分かりませんよね」
 明るい笑い声が、晩秋の陽の中に弾ける。
「分かりたくもない」
 憮然と返ったいらえを聞いた途端、総司は身体を二つ折りにして笑い出した。その総司を土方は呆気に取られて見ていたが、やがてそれにも飽き庭に目を戻した。
 隣の笑い声はまだ止みそうにない。これみよがしに吐いた溜息も、聞こえてはいないだろう。
 諦め細めた目の先で、花の影は建物の影に重なり、茜色の夕暮れがすぐそこまで迫っていた。



 北山から吹き下りて来る北風を避けるように、人々は足早に五条の橋を渡る。その人波に押され、総司の足も速くなる。ところが橋の真中まで来た時、突然、その足が止まった。視線に気づいたのか、川を見ていた男が欄干から手を離して此方を見た。
「達吉さん…」
 呆然と総司は呟いた。そして止めていた足を急いで踏み出した。
 達吉の前に立つと、総司はひとつ息を呑んだ。
「本物だ」
「うそもんでたまるか」
 相変わらず愛想の欠片も無い物云いに、総司は笑った。
「およしさん、元気になったそうですね」
「孝介自身に張りが出て、それが一番の薬になったようやな」
「良かった」
 水面に弾ける光に目を細め、総司は頷いた。が、すぐに別の疑惑に捉われた。
「達吉さんは、何処かに行く途中だったのでしょう?」
 再会の喜びの後に訪れたのは、気がかりだった。忙しい達吉の事だ。こうして足を止めている時も惜しんでいるのかもしれない。
 だが達吉は軽く首を振った。
「あんたを待っていたのや」
「…え?」
「あんた、留守に来たやろ?」
「ええ…」
「せやから待っていた」
 淡々と話していた達吉だったが、途中から段々と気まずそうな調子になり、最後は怒ったような乱暴な物云いになった。そんな達吉の様子を呆然と見ていた総司だったが、不意に、
「あっ」
 と、小さな声を上げた。今日は一のつく日だ。
「私が田坂さんの処へ行くのを知っていて、それで達吉さんはここで待っていてくれたのですか?」
 総司の問いに達吉は答えず、又川に目を遣ってしまった。その横顔を見ながら、総司の胸に忽然と湧いたもの…。驚いた事に、それは苛立ちだった。
「達吉さん」
 総司は強い口調で云った。
「もし私が今日の予定を明日にしていたら、朝にしていたら、道を違えてこの橋を渡らなかったら…、その時はどうするつもりだったのです。それに人混みに紛れて見失ってしまうかもしれない。そうなったら、どうするつもりだったのです」
 そんな事になれば達吉とは会えず仕舞いになってしまう。
「その時は又次にすればええやろ」
 だが詰問する総司の勢いを削ぐように、平然と達吉は答えた。
「そう云う事じゃない」
「そう云う事やろ、煩い奴やな」
「違う」
「そんなん知るかっ」
「知って下さい」
 短気に物云う達吉に、総司は執拗に食い下がる。
「私は達吉さんに会えないのは嫌だ」
「……」
「私は達吉さんに会いたかった。でも行くたびに会えずにがっかりした。その内もう会えないのではと不安になって来た。すれ違いが重なれば、縁だって薄れてしまうかもしれない、そんな風に考えたりもした。でもそんなのは嫌だ」
 瞬きもせず凝視する総司を、達吉は無言で見詰めていたが、やがてくるりと身を捻り欄干に両肘をついた。そして、
「それは無いやろ」
 と、横顔を見せたままぽつりと呟いた。
「何故?何故分かるのです?」
「何でやろうな?そんな気がするのや」
 振り向いて、総司を見た目が少しだけ笑っていた。川に目を戻した達吉に倣うように、、総司も欄干に手を置き川を見た。
「縁があるとか、無いとか…。いろいろ便利な言葉やな」
「……」
「けど、少しは当たっている気がするわ」
 苦笑いを浮かべた達吉の横顔を、傾きを深くした陽が照らす。
「…良かった、達吉さんと縁があって」
「迷惑やけどな」
 憮然と顰めたその顔が可笑しくて、総司は唇辺に笑みを浮かべた。だがその笑いは堪えようが無いほど広がり、とうとう口元を隠すように総司は俯いた。
「おい」
 低い声が叱る。
 ――横で達吉が睨んでいる。
 そう思っても可笑しさがこみ上げて、顔を上げられない。
 笑い泪が滲む目で見る川が、陽を弾き煌めいている。
 光りの波が、水面にうねる。
 どこまでも広がるその柔らかな光が、もう冬のそれだった。




秋陽 了





事件簿