暮色の灯  (壱)




勧められるまま、断りきれずに過ごしてしまった酒が悪かったのかもしれない。
否、田坂の診療所を辞してすぐに背を震わせた悪寒は、この体調の崩れを予期したものだったのか。
それに大事は無いのだろうと知らぬ振りを決め込んだのは、我が身の脆さを認めたくは無い総司の頑なさだった。
だがこみ上げる咳に息を継ぐ事すら侭ならない今となっては、そのどれもに後悔の念が走る。
肌を刺す冬ざれの風は骨の髄まで染み入るように冷たく、大路に軒を連ねる家々は、内からしっかりと閂(かんぬき)を掛け、四方(よも)の山並みからの颪(おろし)が行き去るのを、身を潜めて遣り過ごしている。
人の影さえ探すに難しい寥々とした閑寂の中、乾いた咳の音だけが間断なく繰り返される。
狭くなり息を閉ざそうとする気の道が、時折意識すら闇に引きずり込もうとするのを、総司は背に置かれた近藤の手の温もりだけを頼りに漸く繋ぎとめ、錐で揉まれるような胸の苦痛を耐えていた。

「大丈夫か?」
ひっそりと静まり返る店(たな)の軒先で、蹲る背を抱え込むようにして擦りながら問う近藤に、いらえを返す事も出来ない。
「何処が苦しい?」
大丈夫だと、せめて仕草でそう伝えたいのにそれも敵わないもどかしさが、身を苛む苦しさよりも総司には辛い。
こんな風に近藤に心配の種を植え付けているばかりの自分が情けない。
視界を滲ませるのは、咳に咽ぶ切なさではなく、不甲斐ない己への悔しさが半分だった。


――暮れも押し詰まり、今年も後は明日の大晦日を残すばかりとなった今日、五条にある田坂の診療所へ出かけようと玄関の敷居を跨ぐ寸座の総司を呼び止めたのは近藤の声だった。
今から自分も京極にある誓願寺の称全和尚の処へと行くが、田坂の処が早くに済めば其方に寄らないかとの誘いだった。
称全和尚とは紀州藩の三浦休太郎が引き合わせたものだったが、どう云う訳か近藤はこの人物とひどくうまが合ったらしく、暇をみつけては顔を出している。
総司も幾度か共をしたが、別段難しい時勢を語る訳でも無く、ある時は縁に腰掛け茶を啜り、ある時は旨い酒が手に入ったのだと、僧侶らしからぬ剛毅な笑みを浮かべ、称全和尚は客をもてなした。
だがこんな他愛も無いやりとりで終始するひと時が、今は新撰組の筆頭に立ち、組織を束ねる立場となった近藤にとって心休まるものなのかもしれないと、そんな風に思ったのは、此処では昔変わらぬ豪胆な声で笑う師の姿を見る総司の感傷だったのかもしれない。

その近藤が五十日余りに及ぶ幕府の長州行に参加し戻ってから、まだ十日も経てはいない。
今回の征西は岩国に足止めされたまま、広島に踏み入る事も出来ず、ただ失策と云う結果を内外に知らしめるだけに終わった。
もしかしたら近藤は、胸に鬱積しているものを称全和尚と語る事で吐き出したいのかもしれない。
それに付き合いたいと思った時には、人が厳(いかめ)しいと云う顔(かんばせ)に片笑窪を作っている師に向かい、必ず帰りに寄ると約束していた総司だった。

暮れの挨拶をしながらの田坂の診療を終え、足を急がせ寺に駆けつけた時には早日も落ちかけていたが、すでに近藤と和尚には酒が入っており、もともとが嗜むのが限度だったのに、上機嫌の二人に勧められるまま、総司もつい幾つか盃を重ねてしまった。
酔いを醒ますの筈の夜道は、そぞろ歩きと云うにはもう疾うに季節を逸し、この寒さの中歩かせるにはと愛弟子の宿痾を案じた近藤が、駕籠を呼ぶと云うのを止めたのは総司だった。
何故と問われて応えられるものでもなかったが、ただこうして近藤の横に並んで歩きたかったのだと、そんな曖昧な言い訳を総司は今宵だけは自分に許したかった。
そしてその更に核(さね)にあるものが、父とも代わらぬこの師と、これほど長く離れている事が無かった寂しさの裏返しだとは総司自身も気付いていた。
だが胸に抱える業病は、束の間も穏やかな時を許してはくれない。
寺を辞して帰る道も半ばに差し掛かった頃、不意に込み上げた咳を堪えようとした途端、まるでこの隙を狙っていたかのように、凍てた空気は氷の刃と化し、一気に総司の肺腑を刺し貫いた。



あれから。
どれ程も時は経ていない筈だが、辛苦を遣り過ごす身には、僅かな時の流れとて果てないものに思える。
治まらない咳は気の道まで塞ぎ、息をする度に、笛を鳴らすような細い不吉な音が混じる。
「気を確かにもて」
大切な者が苦しむ様を目の当たりにしながら、だがそのひとつも己の力で救ってやる事の出来ないもどかしさに、励ます近藤の声にも焦燥が混じる。
「すぐに伝吉が駕籠を呼んでくる、それまでの辛抱だ」
ただそれだけの動きとて今の総司には辛いだろうに、心配をかけまいと頷こうとする様が見守る者には痛ましい。
伴をしていた伝吉が駕籠を探しに走ってから、まだ幾ばくも経てはいない。
それでも戻らぬ姿を探し、近藤は苛立ちの中で大路の果てに向けた目を細めた。

「卒時ながら」
だがその寸座、突然掛けられた声と同時に、咄嗟に総司を庇うようにして近藤が振り返った。
あまりに病人に気を取られていたせいか、後ろの気配を察するについ疎かになっていた己の油断を胸の裡で舌打しても、既に形勢は立ちはだかる相手に有利にある。
近藤の鋭い眼光が、闇にいる男に向けられた。
「お連れが難儀をされているとお見受けいたした。差し支えなければ水があるが・・・」
が、その殺気を削ぐように、声の主は静かに腰に下げていた竹筒を抜き取り、更に印籠から何やら取り出すとそれを手の平に乗せ、一見無防備とも思える所作で差し出した。
「薬にもならぬ気休めだが、毒は入ってはおりませぬ。咳が鎮まる筈です」
この状況に不釣合いな穏やかな笑い声が、近藤にもひとつ構えの箍(たが)を外させたようだった。
「これはかたじけない」
信じて良い人間か否か・・・、一瞬の躊躇の後、近藤は前者であると判じ、好意を受け取るべく頭(こうべ)を下げた。
だが剣士としての性(さが)がそうさせるのか、額にうっすらと冷たい汗を滲ませ声すら出せないながらも、総司は相手に向ける視線に警戒の色を緩めない。
抱えていた身体を近藤がゆっくり起そうとすると、知らぬ人間の前で不甲斐ない姿を曝すのが嫌なのか、そうされるのを厭うように総司は自らの力で立ち上がろうとする。
が、その矜持も力の入らぬ身には及ばず、すぐさま大きく前に傾いだ。
「無理をするな」
叱る声と共に、細い息の漏れる唇の隙から、無骨な指が受け取ったばかりの薬を含ませた。
「少し辛抱をしていれば直に治まる」
いつの間にか近藤とは反対側に片膝つき、労るように覗き込む顔が、夜目にも酷く真剣だった。
行きずりの、それもたった今会ったばかりの者とて、往生している様を見れば他人事とは捨て置けない気質なのかもしれない。
近藤はそんな風に、目の前の男を判断した。


「お陰で助かり申した」
「大した事もしてはおりませぬ、お気遣いはご無用」
腕にある背は時折波打ち、その都度小さな咳が零れるが、先ほどよりはずっと落ち着いた総司の様子に安堵し、施された親切に改めて頭(こうべ)を下げた近藤を、男が慌てて制した。
「それよりもこのような吹き曝しにいては、もっと具合が悪くなりましょう」
低いながらも良く通る声が、肩で息を繰り返す病人を案じていた。
「今伴の者に駕籠を探しに行かせておる故、直戻るとは思うのだが・・」
応える近藤の調子に、待つ身の苛立ちが再び籠もる。
人通りも途絶えたこの夜更け、通りすがりに駕籠を拾う苦労は推して量かる事が出来る。
それでも一度安息の時を得れば、今度は悪寒の震えに耐えている者を、一刻も早く温い処へと連れ行きたいと心は焦る。
その必死の思いが、闇の彼方に凝らした視線の先に、此方へと駆けて来る人の像を捉えた。
「どうやら上手く拾えたらしい」
愁眉を開き、呟きにも似た安慮の声が漏れる間にも、徐々に大きくなって来る姿の後ろには、駕籠をかく者達が地を刻む確かな足音も聞え始める。

「駕籠に揺られるにはまだ大変だろうが・・・これを」
何とか乱れた呼吸を整えようと伏せていた目の前に、つと何かが差し出された。
まだ身体全部を向けて問うには力足りず、瞳だけで相手を見上げた総司に、闇が邪魔して分かりにくい輪郭の顔が笑い掛けた。
「先ほどと同じものだ。気休めに過ぎぬが、口に含んでおれば少しは辛さも紛れよう」
飾り気の無い物云いが、怪訝に見ていた面輪にも、やがて微かな笑みを浮かばせる。
「・・・すみません・・」
吐く息を幾度か繋げて漸く告げた感謝の意思を、男は笑って頷くことで受け止めた。
「さてもう大事無いだろう故、それがしは失礼仕る」
言い終えた時には既に立ち上がっていた長身に視線を送り、近藤は改めて気付いたように男の形(なり)を凝視した。
背に負った風呂敷の両端を、右の肩の上からと左の脇から通して胸の辺りで結んだ姿は旅の仕度とひと目で判じられる。
先程は心の焦りで其処まで気が回らなかったが、今にして思えば腰に竹筒を下げていたのも不思議な事だった。
だがこうして旅装を見れば、それも納得できる。

「立ち入った事を聞き無礼とは承知しているが、貴殿は今宵どちらに身を寄せられるのだろうか」
用心をしたのか、はたまた言葉に窮したのか、近藤の問いに男は応えない。
初めて見せる、重い沈黙だった。
「申し遅れたが拙者は近藤と申す者。貴殿の様子に、もしやまだ今宵の宿が見つからないのではと、ふと思ったまでを口にしてしまった。助けて頂いた上に、差し出がましい事を云い申し訳ない」
言葉と同時に深々と下げられた頭を、男はやはり黙って見ていたが、静かに身を屈め今一度片膝をつくと、近藤の肩に手を触れた。
「どうか頭をお上げ下され。案じて頂ける事は有り難いが、今宵の宿はすでに決めてある故、ご懸念には及びませぬ」
声音は先程と変わりなく、穏やかなものだった。
「ではせめて名をお聞かせ願えないだろうか」
「尾高周蔵と申す。今日この都へ着いたばかりの田舎者故、気のきいた挨拶も出来ず、こちらこそご無礼致した」
それではと、素早く立ち上がったのは、もう其処まで来て、見知らぬ者の予期せぬ存在に警戒の目を向けた伝吉を意識したのだろう。
相手に負担を与えないような所作で浅く頭を下げると、近藤が止める間も無く、尾高と名乗った男は肩幅の広い背を向けて歩き出していた。

「伝吉」
発作のような酷い咳の峠は漸く越えたものの、まだ荒い息を繰り返している病人を抱えながら、近藤は傍らに伝吉を呼び寄せると、視線で闇に呑まれ行く長身を指した。
無言のまま、これも又目だけで伝吉は頷くと、空(くう)を切るような鋭い身ごなしで、足音も立てず後を追い走り出した。




「昨日の今日だぞ、無茶もいい加減にしろ」
声に不機嫌を隠し切れないのは、結局昨日の内に患者の変化を予期する事が出来なかった、田坂の己自身への苛立ちだった。
咎められれば確かに非は自分にあり、若い主治医の責めに何を以って応えて良いのか分からず、総司は黙ったまま床の中から薬箱を開けようとしている手先を見つめていた。
「薬は苦いが仕方が無い」
そう言い渡せば、何時もならば文句のひとつも出る筈が、今日はやけに大人しい。
妙に聞き分けの良い様子を見せられれば、それはそれで気になる。
「ま、それも自業自得と云うところか」
揶揄した口調が、惚れた弱みのつけと諦めた分だけ和らいだ。
「田坂さんの薬に甘いものなど無い」
相手の憤りが緩んだのを察して、笑って応えた声に、漸くいつもの屈託の無さが戻った。
「それは生憎だったな」
「少しは飲みやすくしてくれれば良いのに」
「した処で、どうせ全部は飲まない奴にはこれで十分さ」
「ちゃんと飲んでいる」
「嘘を言え」
間髪を置かず、頑是無い偽りを封じ込めて戻ったいらえに、見上げていた瞳が不満そうな色を湛えた。
「どちらにせよ、正月は良い休みになる」
「もう起きられる」
「駄目だな」
咄嗟に身を捩って向けた訴えは、薬箱の抽斗に目を落としたままの主に、あっさりと退けられた。

心配された熱も、それ程上がらずに済んだ。
今年も最後の最後に来て新しい歳を迎える準備もあろうに、こうして往診の手間をかけ、田坂を煩わせてしまった事すら居たたまれないのに、更にこれ以上周りの迷惑になる事を思えば、悠長に床についてなどいられない。
まさか歳の初めから寝込む気など、これっぽっちも無かった。

慌てて起こそうとした身を、元のように抽斗を仕舞いながら、田坂が片手で止めた。
「近藤さんにも土方さんにも、向こう十日の養生が必要だと了解を貰っている」
「そんなに要らないっ」
「足りない位さ」
半ば悲鳴のような叫びすら、この医師には全く通用しないようだった。
必死の抗いを歯牙にもかけず、やんわりとかわす顔は眉ひとつ動かさない。
「田坂さんっ」
「そう言えば土方さん、そろそろ戻る頃だろう?」
其処に触れられれば、急所を突かれたように黙る他無い名を止(とど)めに使われ、一瞬にして細い面輪がたじろぎ狼狽した。

昨夜帰りの遅いのを案じ、自ら迎えに出ようとしていた土方の端正な顔が、近藤に支えられ覚束ない足で歩を刻む姿を認めた途端険しく強張ったのを、身体を苛む苦しさよりも遥かに辛い思いで見た総司だった。
今朝も出がけに覗いてくれたが、行ってくると告げる声の調子が決して機嫌の良いものとは思えず、又掛けてしまった心配を詫びる切欠すら掴め無いまま、枕の上から頷くだけで送り出してしまった。

新撰組筆頭と次席にある者の年末年始は、諸方への挨拶に多忙を極める。
全ては形ばかりの行事であろうが、組織の長としてはどれひとつも欠くべき事は許されない。
そして土方は、このような場こそ新撰組という集団を、相手に最大限に印象付けられる機会と心得ている。
それ故ある意味に於いては、局長の近藤よりも精力的に動き回っている。
だが己の人格を殺して万人に合わせるには、相当の精神の疲労があるはずだ。
もとよりその様な素振りなど微塵も見せず、むしろ精力的に公務をこなす土方の、例え僅かでも力になりたいと懇願している自分は、こうして夜具に縛りつけられたまま、我が身ひとつ自由にするも侭ならない。
不甲斐ない己への苛立ち、情けなさ、悔しさ・・・
今此処で刃を胸に突き刺し切り裂けば、そんなどろどろとした負の感情だけが、止めも無く溢れ出そうだった。

「・・・いつもこんなだ」
小さく漏れた呟きは、田坂の前でつい晒してしまった弱気だった。
「こんなとは?」
言った本人はそれきり仕舞いにするつもりだったらしかったが、聞いた方はそうはさせず、改めて問う声に、伏せられていた瞳が慌てて上げられた。
「何でもないのです」
「今度はずいぶんと大人しい事だな」
からかうような口ぶりが、休養を言い渡した時の抗いの様と比べているのだと知り、それまで色を失くしたようだった頬に、俄かに朱の色が刷かれた。
「田坂さんは・・・」
瞳に勝気な色が湛えられ、抗議の言葉が紡がれかけたその時、不意に向けられていた視線が逸らされ、閉じた障子の向こうへと釘付けられた。
「噂の主か」
押し黙ってしまった総司に、白い紙で覆われた仕切りへと目を向け、田坂が笑いを含みながら土方の存在を念押した。


「噂をされていたのか」
「残念ながら、悪いものではない」
「どうだかな」
声は外にも聞こえたらしく、障子を開くなり土方が田坂に視線を落とした。
「そろそろ帰って来るだろうと、それだけの話だ」
「今日仕舞いの台詞を交わした奴等と、明日は事始の台詞で又同じ顔を見る。互いに見たくも無い顔ならば、挨拶なぞは短い方が得策だろう」
本当にそう思っているらしく、普段凡そ感情と云うものを表に出さない顔が、珍しく疎ましげに歪められた。
差していた二本を抜き取り腰を下ろすまでの、病人の枕辺に座すにしては少々乱暴な所作が、更にその鬱憤の深さを物語っていた。

「具合はどうだ」
臥している者に視線を移して問う声にも、愛想が無い。
「・・・もう起きられる」
つい先程田坂に向けられたものと同じ言葉が、今度はまるで全く違うもののように小さく、唇だけが微かに動いて発せられた。
「お前の代わりは、永倉等が持ち回りで兼ねる事になった。暫く大人しくしていろ」
だがそれに応じるいらえは、驚愕に見開かれた総司の瞳を一瞬の内に凍てつかせた。
「そんな事しなくてもいいっ」
制止する手を振り払うようにして夜具を跳ね除け起き上がった上体が、止めるべき位置を大きく外して揺らぎ、倒れると思った瞬間、寸でのところで強い力がそれを遮った。
「無理をするなと云っているのが分らんのかっ」
咄嗟に抱えてくれた腕は、厳しく叱る主と同じものとは思えぬ優しさで支えてくれる。
聞こえるもの全てが朧な音となって遠くに木霊する中、ゆっくりと身体を倒され、再び枕に頭が乗せられた感覚が、総司の意識を漸く現に戻した。

「これは近藤さんの意向だ。聞き分ける事が出来るな?」
まだ像をはっきりと結ぶのに難儀するのか、うっすらと開いた瞼から覗く虚ろな瞳に語りかける調子は、宥め含めるように静かなものだった。
「近藤先生の・・?」
「そうだ、局長命令だ。抗う事は許さない」
聞かぬ者への最後の切り札は、十分すぎる程に効果を現したようだった。
一瞬はっきりと見開かれた瞳が宙を彷徨い、だがすぐに何かを断ち切るように堅く閉ざされてしまった。

近藤が昨夜の出来事で、酷く己を責めていたのは知っていた。
もしも誓願寺にまで足を運ばせなかったらと、きっと悔やんでいるに違いない。
大切な人間に要らぬ憂いを作ってしまった上に、与えられた職務すら全う出来ず、ただこうして床に臥す我が身の情けなさに、今総司はあらゆるものから自分という存在を削ぎとってしまいたかった。
それ程に、役目から外される事への衝撃は大きかった。

「・・・いやだ」
聞き取り難い小さな呟きを漏らし、肱を折って両腕を重ね、それで目を覆ってしまったのは、もう其処にいる田坂に醜態を見せる事を恥ず心すら忘れてしまった、総司の焦燥と悔しさが成ささせたものだった。



「土方さんも正月から忙しい」
踏みしめる廊下の板張りは、真冬の吹きさらしに潤いをすっかり奪い取られ、縮こまった木と木の繋ぎ目が時折乾いた音を立てる。
横に並び、然程熱心でも無く語る医師の声を聞くとも無く耳に入れながら、土方の脳裏にあるのは、独り室に残され、まだ覆った腕を外さないでいるであろう想い人の姿だった。
時に危ういとさえ感じる激しさを垣間見せる事のある総司だが、まさかあれ程感情を露にして抵抗されるとは思っていなかった。
その事が、先程から土方を常にも増して寡黙にさせている。

「沖田君を外に出す事に何か支障があるのだろうか」
不意に落とされた声の調子に、初めて土方が田坂の顔を見た。
「いや、閉じ込めて置かねばならない事情があるのか・・・」
十日動いてはならぬと、医者の立場からそう言い渡して欲しいと土方から頭を下げられたのは、此処に着いて直ぐ、まだ患者の容態も診ぬうちだった。
日を区切ったのは何か思惑があるのだろうが、其処までは流石に知らされてはいない。
それが何なのかを、今田坂は問うている。
だが物言わず再び前に視線を戻した事で、土方は応える事を拒んだ。

「今は沖田君も混濁しているから、其処まで思考を巡らせる余裕も無いだろうが、それも幾日持つものか・・・。退屈が過ぎるようになれば、自ずと企まれた魂胆にも気付くだろう。そうなれば、もう誰の云う事も聞かなくなる」
どうせ求めるいらえは戻らぬだろうと承知をしていても、あからさまに知らぬ顔をされれば意地のひとつもしてみたくなる。
田坂の口調には、そうなった時に総司を止める術を持つのかと、土方を挑発する響きがあった。
「そうならないように終わらせるさ」
何がとは決して語らずに、土方も見えぬ話に相槌を打つ。
「終わらせる手立ては?」
「そうさせる」
断言する口調には些かの揺るぎも無い。
信念と、それを凌駕する自信が土方を支えているのだろう。
歩みを緩める事無く、前を向いたままの怜悧な横顔に、田坂は一度だけ鋭い視線を投げかけた。

きっとこれ以上、何を問うても横の男は応えはしないだろう。
だがその意図する先にあるものが、自分の想い人の為になる事だとだけは、田坂も承知している。
悔しいと、妬ましいと思うそんな感情はとうの昔に過ぎ去った。
今あるのは、時に己をも焼き尽くしてしまう、憎しみにも似た恋敵への激しい嫉妬だけだった。
だがそれでも、土方にしか託せないものがある。

「・・そう、なれば良いがな」
そのもどかしさを紛わせるように、いらえを返した視線が、北風の逆巻く下に出来た陽だまりに流れた。



いつの間にか傾き始めた陽が、今年最後の天道の名残と思えば、人は過去を振り返り多少の思いも馳せるだろうに、それすら外に置いて、土方の胸に重く圧し掛かっているのは、物の影が長くなった室できつく唇を結び、頑なに自分を拒むであろう想い人を、さてどうやって説得するか、その憂鬱だけだった。
駄々など聞かぬと、たった一言で切り捨てればそれで済むものを、たかだかこれだけの事で翻弄される自分には、自嘲して笑うしか術は無い。
それでもできるものならば、憂いに沈む顔は少しでもさせたくは無いと、似合わぬ思案にくれる様には最早呆れを通り越して言葉も出ない。
唯一の者を得た引き換えは、かくも情けない己だった。
得策も浮かばないまま、とうとうひっそりと静まり返る室の前まで来て足を止めた時、そんな弱気の虫を、浮かべていた苦笑の名残を消すことで、土方は閉じ籠めた。


案の定、総司は此方に背を向け振り返ろうとはしない。
それがせめてもの抗いの仕草と思えば、言い渡した方にも胸に辛いものがある。
だが束の間過ぎった感傷を、土方は歩み寄る歩幅を大きくしながら打ち捨てた。

枕辺に腰を下ろしても、薄い背の主は此方を向かない。
「いい加減にしろ」
叱る声と共に肩を掴み、拒む力を封じて強引に身体を倒した刹那、見られるのを厭うように顔だけが背けられた。
きっと瞳の縁は薄紅く染められているのであろう。
そしてそれを人目に触れさせるのは、総司の矜持が許さないのだろう。
「十日の休息だ、たったそれだけの辛抱が出来ないのか」
もっと強く諭す事など訳は無い。
だがこうした姿を見せ付けられれば、どうにも矛先が侭ならない。
そんな自分を土方は持て余していた。
「総司」
「・・・もう、動ける」
遣る瀬無い溜息交じりの声に、視線を合わせずに漸く戻ったいらえは、まだ拘りを解くには至っていないと、硬質な響きが物語っていた。
こんなにも頑なな総司は初めてと云って良かった。
だが想い人をそうまでさせる事情を、土方は察している。


征西から戻ったばかりの近藤は、結局長州には足を踏み入れる事敵わず帰京することになった。
その不首尾を取り戻す為か、時を置かずして年明け早々に、幕府は再び長州に赴く手はずを取り始めた。
それに今一度同道すると近藤から告げられたのは、三日前のことだった。
今回の惨敗は近藤には耐え難い痛恨だったようで、行くと決めた強靭な意志は到底覆せるものではなかった。
無事に戻った安堵の時も与えず又敵陣に赴く師に、憂いだけを残して送り出さねばならない事が、総司には耐えられないのだろう。

だがこうして総司の、近藤への思いの丈を目の当たりにすれば、それは自分に対するものとは別個の感情であるとは重々承知しながらも、土方の胸の裡を酷く落ち着かなくさせるものがある。
想い人の心の実(さね)にあるものは、常に自分でなければ許せない。
その対象が遂に近藤にまで及んでいる事が、土方を苦笑させる。
嫉妬というもは――
どうにも堪え性の無いものらしい。

僅かに漏れた今までとは異なる含み笑いに、初めて総司が土方を仰ぎ見た。
やはりその瞳の縁には、隠さなければならなかった矜持の跡がある。
不思議そうに見上げる面輪の額に手を翳せば、几帳面に上がってきた熱が掌に伝わる。
総司を苛む宿痾は、暮れも正月も無く存在を誇張し、攻める手を緩めない。
常に己の裡に蔓延る嫉妬への呆れた自嘲と、唯一の者を自分から奪い取ろうと爪研ぐ、貌(かたち)無き敵との闘いと・・・
一年(ひととせ)の区切りをつけたとて、それが少しも変わるものではない。
だが今はこの愛しい者の心を、少しでも安らぎの中に置いてやりたい。


「近藤さんと一緒に蕎麦を食うか?」
歳の仕舞いの儀式をそんな風に使う事で、土方は今胸にある想いを、幾分柔らかな口調で、瞠られた瞳の主に告げた。










               事件簿の部屋   暮色の灯(弐)