暮色の灯 (弐) 正月も二日を過ぎ三日目ともなれば、何かと気忙しかった屯所の中も落ち着きを取り戻す。 ここ数日冬とは思えぬ良い日和に恵まれただけに、今日のような穏やかな昼下りは、尚一層独り取り残された寂しさが遣る瀬無い。 歳を越して射す陽は俄かに勢いづいて次に来る春の麗らかさを垣間見せ、障子を透かし零れる光の筋も、夜具のすぐ縁まで届こうとしている。 それに手を伸ばし掬い取ろうとした自分の稚気を自嘲するように、総司は頬を緩ませた。 掴んだ処で形無き煌きは、人のあざとい戯れを笑うように、するりと手指の隙から滑り落ちてしまうのだろう。 土方は今朝も早くから近藤と出かけて行った。 年始の挨拶を述べるだけに、待つ時の方が遥かに長いのだと、元旦の夜戻るや否や、うんざりとした口調で漏らしていた。 今日も帰りは遅くなるのだろうか・・・ そんな事ばかりを思い待つ身に、時の流れは緩慢過ぎる。 自分と外とを隔てる白い紙の砦を、総司は暫くぼんやりと視界にいれていた。 暮れも晦日に引いてしまった風邪は、どうにか大事に至らずに済み、気だるさだけは残るものの動くに不自由が無くなれば、こうして床に伏している事すら疎まれる。 横になっていれば弱気に傾くばかりの心を振り切る様に、総司は掛けていた夜具を外し、のろのろと身を起した。 だが身体を縦にした途端、限られていた視界が、急に開けて広がった。 たったこれだけの事で、胸に重くあったものが少しだけ軽くなったように思うその単純さに、今度こそ堪え切れない小さな笑い声が零れ落ちる。 その勢いのまま立ち上がると、縦にされずにいた身体は、急な動きに不満を唱えるかのように揺らいだが、それも一時の事で、夜具という枷を抜け出た開放感は肉体の辛苦など遥かに凌駕する。 瞳に映るものは、先程から何も変わってはいない。 だが見慣れていた筈のひとつひとつが、否、伸び行く光のひと筋とて、息吹いて生あるもののように力強く見えるのは、やっと視点を其処まで持って来る事が出来た表れなのだろう。 室にある然も無い光景に、漸く新しい季節が近づいて来たことを知り、総司は眩しげに目を細めた。 「何だ、存外に元気そうだな」 「おめでとうございます」 すらりと障子を開いた途端に、座したまま見上げて迎えた細い面輪が嬉しそうに笑った。 室の中は夜具も片付けられ、総司は袴までつけている。 「大人しく寝ていると思っている人間はまだ外か」 昼前に会った近藤に、総司は暮から臥せていると聞き、歳の初めの訪問が、そのまま見舞いになる事に憂慮を禁じえなかった八郎も、屈託の無いいつも通りの笑い顔を見れば、安堵の反動は自ずと揶揄するような口調になる。 「もう何とも無い」 「どうだかな」 火鉢を挟んで向かい側に座り込みながら改めて見れば、たとえ三日と云えど床についていた証は、否応なしに想い人の頬に翳を刻んでいる。 身に着けている白地の紬は、正月だからとおろしたのであろうが、まだ抜けやらぬ面輪の蒼さが、仕付をとったばかりの真新しい生地の張りに対比されて痛々しい。 「正月早々あの人の仏頂面と、二度顔つき合わせるのは御免だぜ」 眉根を寄せて見たものの、こうしてこの者の持つ儚さを改めて見せ付けられれば、言葉に含む辛らつさも勢いが削がれる。 「八郎さん、近藤先生や土方さんに会ったのですか?」 「下城する折に偶然だがな」 そんな風に見られている事など知る由も無く、八郎を見る深い色の瞳が大きく瞠られた。 ほんの数刻前、顔を見て送り出した筈の人間の消息を、もう急(せ)いて問うその裏にあるものが、土方恋しい総司の寂しさだと知れば、次のいらえには意地のひとつもしてみたくなる。 先程からつまらぬ妬みに躍起になっている自分を、八郎は心裡で苦く笑って打ち捨てた。 「八郎さんも二条城に行ったのですか?」 だが続けて問う不思議そうな物云いは、将軍家茂が大坂城で歳を越したからには、警護を役目とする八郎にとって、今は京洛にある幕閣の城には縁が無いものと判断した、総司の思い込みらしい。 「新年の挨拶を述べなければならない人間が、俺にもいるのさ。二条城へはついでだ」 疑問に応えた短い言葉の意味する処が、心形刀流を次期に継ぐ者の立場に関わる事であると流石に察せられたようで、八郎はやはり自分とは異なる世界に身を置く人間なのだと、行儀悪く胡坐を組んでも決して隙を見せない主を見る総司の瞳が、少しだけ眩しげに細められた。 「どうした?」 その微かな変化を見止めて、訝しげ問うた顔が笑っていた。 「何でも無い」 「嫌な奴だねぇ」 火鉢に手を翳しながら、呆れたような低い笑い声が、室に籠もった。 ――何かと気ぜわしくなる暮からは休みも無く、漸く非番の巡って来る正月三日を待てず、役目を終えると昨夜の内に舟に乗り込み、京へ着いたのはまだ夜も明けやらぬ頃合だった。 大坂を離れる事の出来ない養父から、この地で心形刀流の道場を開く者への新年の託を預かり、それをつつがなく果たし、京洛での宿舎になっている所司代馬術師匠鈴木重兵衛の屋敷に赴き挨拶を終えて出た処で、黒羽二重に身を包んだ近藤土方と会った。 そしてこの時、形ばかりの祝辞の遣り取りに苛立つ心を抑え、少しでも早くに見(まみ)える事を欲していた相手は、暮から臥せっているのだと聞かされた。 大事は無いのだと語る近藤の言葉は、隣に立つ土方の渋面からも本当だとは判じられた。 余裕があればこそ、昔馴染みの機嫌は良くも悪しくも顔に出る。 だがどんなに案ずる事は無いのだと告げられても、一度聞いてしまった事実は不安な予兆に変わり、坂道を転がるように増幅されて行く。 手を掛けた障子が横に滑り、向けられた笑い顔を眼(まなこ)に映す今の今まで、心安まる事などなかった。 そんな自分の思いなど知る由も無いだろう総司を責めた処で仕方が無いと諦め、何気なく脇へと逸らせた視線が、盆の上に乗った幾つかの白い包みに止まった。 田坂の処方していった薬なのだろうが、小さな包みは総司の命脈に欠かせぬ綱となりながら、しかしそれを服さねばならない宿痾を八郎に思い起こさせ、そうなればくるんである紙の白さすら禍々しい。 不吉な思いと対峙するように、八郎は暫し見慣れぬ包みに視線を留めていたが、ふとその中に違う形の大きさがある事に気付いた。 つと手を伸ばし其れを指で掴んだのと、予期せぬ動きに、一瞬反応が遅れた総司が盆に目をやるのが同時だった。 「飴か?」 止めようとする手を難なくかわし、すでに掌の上で開かれた包みを覗き込んでいた八郎が怪訝に呟いた。 「分からない」 いつもより調子を落とした総司の声が、強引な所業を咎めていた。 「分からない?」 そっくり返した問いにも、いらえは頷くだけで戻ってきた。 「何かの実を干したものか・・・。花梨の色にも似てはいるが」 「・・・かりん?」 「知らないのか?」 「木を見た事しかない」 我が身の無知を恥じる風に、今度は少しばかり声が小さくなった。 「実は堅く、とても食えた代物ではないが、干して使えば咳や風邪の薬になるらしい」 そう云われてみれば、八郎が指で摘み上げている黄色味を帯びた其れには、ひと滴の潤いも見当たらない。 「けれど甘かった」 「甘い?食ったのか?」 言葉にはせず、頷くか否かの曖昧さで首を縦にした仕草が、言ってしまってから後悔している総司の狼狽を物語っていた。 「誰かが寄越したものか?」 「・・・この間、咳で困っている時に、助けてくれた人に貰ったのです」 向けられた八郎の視線が、求めるいらえを得るまでは逸らされぬだろうと諦めたのか、ぽつりぽつり語り始めた様が、それでもまだ全部を語るには躊躇っている。 「花梨を砂糖や粗目(ざらめ)に漬け、それを乾かせて薬代わりに使うのだと聞いたことがある。この吹いたような白い粉はその名残か」 今一度、確かめるように己の指にあるものに視線を移した八郎だが、実の処、これを寄越したと云う人間の事の方が既に気に掛かっている。 咳で難儀している時に助けられたとならば、それは外での出来事だろう。 或いは先程、自分が連れ出したばかりにと、悔恨の念を露わに語っていた近藤の話と重なるものなのか―― だとしたらその人間の事はすでに土方の耳にも入っているのだろうが、この花梨らしき実を総司が持っている事まではまだ知らないらしい。 そうでなければ総司はとっくにこの実の正体を知っている筈だ。 かつて商いにしていた薬の知識をもってすれば、土方がそれを解いて説明するのは訳も無い。 その土方にすら総司は隠し、大事に持っている言う事実が、八郎にとっては又胸騒がす種になる。 「土方さん、知っているのか?」 「何を?」 案の定、応える声には此方の出方を探り、怯むような心許なさがある。 「此れをくれたと云う人物の事だ」 「助けて貰った時は近藤先生も一緒だったし、土方さんも知っている。・・名前も、尾高さんと聞いた」 「ほう、近藤さんも一緒だったのか」 まだ興の覚めやらぬ風に、目だけは花梨とおぼしき実に止めながら、敢えて承知している事を聞く己の人の悪さに、八郎は知られぬように苦笑した。 「咳に効くから口に含むと良いと・・・」 「それで甘いと知った訳か」 「別れ際に、駕籠で揺られるのも大変だろうからと、もうひとつくれたのです」 他愛も無い世間話をするような調子は、知らず知らず総司の警戒を解かせたようで、その時を語る瞳が何処か和らいで見えるのは、行きずりの他人から受けた親切を思い起こしているからなのだろう。 「だがそれをお前は食わずに大事に持っているのか。その御仁を探し出す、せめてもの手がかりにしようと」 騙るに落ちたと知った時はもうすでに時遅かったようで、咄嗟に八郎を仰ぎ見た総司の顔が、言い当てられた事への驚きと、安易に秘め事を暴かれた己の守りの甘さへの後悔に硬く強張った。 「そう怖い顔をするな、正月だ」 相手の怒りなど大して気にする風でも無いが、やんわりと宥める八郎の声が何処か浮かない。 花梨の実を切って乾燥させたものなど、大して珍しいものでは無い。 だが総司にとっては、それだけが唯一の手がかりなのだろう。 そして打ち明ければ捨て置けと云われるに相違ない土方には初めから隠して、この大して役にも立ちそうに無い実ひとつを頼りに、恩のえにしに繋がる相手を探し出そうとしている。 ただ一言、受けた親切に改めて感謝したいと云う思いが、総司の曲がることを知らない素直さから来ているものだとは承知している。 それでもそれを止めたい方向に自分の心が動くのは、見えぬ相手にもう妬いている証拠に他ならない。 恋情と背中合わせにある、嫉妬と云うこの厄介な感情は、時も場合も相手すら選ばずその存在を誇示して暴れる。 「困ったもんだねぇ」 まるで想い人の行動の行方を憂えるように、手にした実の欠片を光に透かす振りをして、八郎は己の身の裡に滾る想いを誤魔化した。 「・・・そう云えば」 何か思いついたままに零れてしまったような声が、暫しどちらともなく黙り込んで生まれた静寂を不意に破った。 「何だ?」 「その人、とても伝吉さんの話し方と似ていたのです」 僅かに残されている記憶を、壊れ物を扱うような大事さで手繰り寄せながら、少しずつ総司は確かなものにしているようだった。 「伝吉と?」 総司は、伝吉の言葉尻にある里言葉の訛の事を指しているのだろう。 「では島田さん辺りとも似ていると云う事か?」 伝吉は同郷の島田の縁で新撰組の仕事をしていると聞いている、だとしたら島田の語調とも似ている筈だった。 「島田さんとも似ていたけれど・・・。でも思い出すと、伝吉さんの方が似ている気がするのです。島田さんは大垣の出身だけれど、伝吉さんは同じ美濃でも、もっと山深い処だと前に聞いた事があるのです。だから伝吉さんと島田さんの言葉は本当に良く似ているけれど、少しだけ違うのです」 身を乗り出すようにして語る総司は、何時に無い多弁さが、やっとひとつ掴みかけた手がかりの糸を更に引き寄せようと必死だった。 総司の耳が確かだと云うのは、八郎も認めるところだった。 人が生まれ持つ俊敏さには、それに見合う聴力も付随している。 否、聴く力が並外れているからこそ、音がまだ形を成さない前に、空気を震わせるものを勘で受け止める事が出来、瞬時に身体を動かす事が可能なのだと八郎は思っている。 だから人には分らぬ、島田と伝吉の微妙な韻の違いを、総司は聞き分けるのだろう。 「・・・美濃、ねぇ」 気の無い八郎の呟きに、何か云おうと開きかけた総司の唇が、不満そうに閉じられた。 「美濃の山奥なら、花梨の実など珍しくも何とも無いが・・」 「そうなのですか?」 探しているものに一歩近づいた嬉しさが、逸って発した声に隠し切れずに表れていた。 「伝吉、居たのか?だとしたら伝吉はとっくに知っているだろう、その人間の居場所」 先程から総司が引き合いに出しているのが伝吉と云う事に持ち続けていた疑問を、八郎はそのまま口にした。 伝吉が一緒だったのならば、近藤はきっと後を追わせた筈だった。 「追ったのは追ったのだけれど・・・。その夜は何処に泊まったのかまでは分ったのです。けれど翌朝もう一度伝吉さんが確かめに行った時にはもう・・」 「居なかったのか?」 頷いた面輪が、たちまち直面している困難に戻されて翳った。 「・・・居なかった・・か」 時折激しく熾る火鉢の中の色を見ながら、何かを思案するような物憂げな呟きが八郎から漏れた。 「・・・その人、手に竹刀たこがあった」 それまでの、どちらかと云えばのどかな話題から、いきなりの変わり様に、流石に声の主に視線を向ければ、此方を見ている瞳がひどく真剣だった。 この花梨の実を寄越した時に乗せた手の平にあったのだろうそれを、総司は克明に記憶していたらしい。 剣士であればこそ、そういうものに目が行くのは自然な事だった。 「武士ならば竹刀だこなど珍しくも何とも無いだろう」 「でもまだ固まりかけていない、出来たばかりの・・・」 勢い込んで言いかけた言葉は、だが不意に止まり、それを怪訝に思い顔を上げれば、やはり総司の視線はある一点に釘付けられている。 思いもよらず早々に帰ってきた恋敵の影を、八郎は鬱陶しげに見遣った。 「来ていたのか」 土方は其処に八郎が居る事に然して驚く風も無くちらりと一瞥したが、その横に端座している総司の姿を見た途端に眉根を寄せた。 「寝ていろと、言ってあった筈だ」 「けれどもう何処も悪くない」 「それはお前の決める事ではない」 言葉尻がやや上がった物云いは、明らかな不機嫌を隠せず、咎めると云うよりも叱責と云った方が相応しい、厳しいものだった。 もう大方快方に向かっているとは云え、屯所を離れれば落ち着かず、少しでも早くに顔を見たいと戻って来てみれば、想い人はそんな心など知らぬように床を払っていた。 この者を封じ籠めて置ける枷が、言葉と云う、いとも簡単に破られる容(かたち)無きものでしか無い事が、今の土方には何にも増して苛立たしい。 いっそ幾重にも縄を掛け自由を奪い、己が目の届く内へ縛り付けてしまえば少しは安堵出来るのかと、らしくも無い焦燥が際まで来た時、瞬きもせずに見つめていた瞳の主の唇が微かに動いた。 「もう、とっくに熱もないし、巡察にも出られる」 総司は総司で、それまでの不満が溢れ出た様で、言い訳の筈の言葉は、途中から感情の昂ぶりと共に一気に抗いへと変わった。 だが向けられた瞳にある強さは、そのまま土方の怒りに拍車をかける。 そして更に土方の無言が、今度は総司に更なる不満の言葉を繰り出させる。 「どうして土方さんは・・」 「口応えは許さんっ」 それまでどうでも良いように聞き流していた八郎ですら一瞬顧みた、あまりにも激しい土方の怒声だった。 総司はきつく唇を噛み締め、強張った横顔は、立ち尽くし射すくめるような厳しい視線を送る土方を見上げて動かない。 「良いと言うまで、屯所から出ることは許さん」 やがてゆっくりと命じた声は常よりも余程に低く、だからこそ怒りの深さを知らしめ、更にぴしゃりと音を立てて桟を合わせた荒々しい所作が、それをどうにか堪えている土方の辛抱を物語っていた。 ――気配はとっくに遠のいても、総司は土方の姿を隠した障子を凝視して身じろぎしない。 恋敵の後始末をしてやる義理も持たぬが、さりとて、硬い表情のまま、裡は気の毒な程に萎れているだろうこの想い人をどうするか・・・ 「・・・どうしてだろう」 その八郎の思案より先に、誰に云うともなしに独り語りの小さな呟きが零れた。 「何が?」 きっとそれで仕舞いになる筈だった会話の糸口を逃さず、問うた声に敢えて気の無い風を装うのにも、全てが土方の仕出かした結果への手助けに繋がると思えば癪に障る。 「歳が明けたばかりなのに・・・」 だがそれをも意図せず、形の良い唇から遣る瀬無い吐息が漏れた。 凡そ問いとはかけ離れたいらえでも、今の総司にはそれが精一杯で、そして一番正直な心情なのだろう。 新しい歳を床に臥して迎えなければならなかった悔しさと、人々が目出度さに浮かれる正月から土方との諍いは、今総司の心を闇の淵に閉じ込めてしまったに相違ない。 或いは――― 傍から見れば取るに足らない口喧嘩も、この者には想う人間との一年(ひととせ)を占う不吉なものに映るのかも知れない。 だがそんな姿を目の当たりに見せ付けられれば、裡に走るのは苦い想いが先だった。 恋敵に妬き、果ては親切を施したという見ず知らずの人間にまで嫉妬し・・・ 正月早々と、先程総司が漏らした遣る瀬無い呟きが、今己の身に訳も無く重なる容易さに八郎は苦笑した。 「そう気にするな」 総司に掛けた言葉は、実はこの少しも侭ならない感情に、今年も翻弄され続けるであろう己へと向けられたものなのかもしれない。 そんな事を思いながら今一度遣った視線の先に、もう先程までの勝気な風はすっかり失せて、ぼんやりと白い障子を見ている寂しげな面輪があった。 「意地が悪いねぇ、あんたも」 声も掛けず入って来、室の主など見向きもせずに通り過ぎ、火鉢の前に腰を下ろしながら、これまた客に振り向かない背に掛けた八郎の声が揶揄して笑っていた。 「底冷えってのは、寒いだけでつまらんな」 だからと云って江戸を恋しがる言葉を続ける訳でもなく、火箸を手繰り点きの悪い炭に外気を当てると、一瞬にして紅の色が熾った。 「伊庭、お前と違って俺は忙しい」 後ろを向いたまま、愛想の欠片も無い応えは、機嫌の悪さを隠そうともしない。 「聞きたいんだろう?」 「何をだ」 「正月から当り散らされて、気の毒な奴の様子さ」 「生憎それを聞く暇も持ち合わせてはいない」 「聞きたくなければそれでもいいさ」 思ったものと寸分も違わず戻ったいらえに、だが返すそれも又、凡そどうでも良い風に素っ気無かった。 「面白い話を聞いた」 火の熾り具合に満足したのか、暫し火鉢の中を覗き込んだまま無言でいた八郎が漸く発した言葉の調子は、世間話でも始めるように衒いの無いものだった。 だが土方は相変わらず振り向かない。 それに不満を唱えるでも無く遊ばせていた八郎の視線が、ふと床の間に鎮座した花器に止まった。 松やら南天やらの鮮やかな色彩は、正月だからとそれらしく活けたものだろうが、男所帯の風流は花にも武骨に表れるようで、器をはみ出した枝は大振り過ぎて最早豪快とも云える。 「新撰組は雅だねぇ」 「活けた奴に聞かせてやれ」 やっと相槌らしきいらえを戻したのは、単に皮肉を返す為では無く、中断してしまった話題に、何か土方の鋭い勘が働いたのだろう。 八郎もそうなるとは承知していたらしく、互いの相手は机と火鉢と決め込み背中合わせにしていた格好からゆっくりと体を回すと、すでに土方は此方を向いていた。 「で、どちらの話が聞きたい?」 さても聞きたいのは、未だ沈んだ面持ちで独り室に籠もる人間の方だと知りながら、敢えて問う顔には、先回りの余裕が不敵に浮かぶ。 「面白い話の方だ」 その挑発に乗る風も無く、応える方も眉ひとつ動かさ無い。 「素直じゃ無いねぇ」 が、そうして揶揄したところで、では総司の様子をそっくりこの男に語れるかと問われれば、あの寂しげな横顔を、恋敵に教えてやるにはどうにも面白く無い。 素直で無いのは一体どちらか・・・ 凡そ親切とは云いがたい自分を、八郎は唇の端だけを歪めて笑った。 「早く話せ」 だが相手を促す土方のこの性急さこそが、先程の件が尾を引く苛立ち故とは容易に判じられる。 「江戸の話さ」 それを十分に意識して、殊更ゆったりとした口調が、うららかな初春の陽射しに些かの不自然も無い。 「江戸だと?」 「江戸だよ」 苦々しげに問う土方に、これも素っ気無い声が応える。 「嫌なら聞かなくてもいいんだぜ」 「話せ」 舌打ちすら聞こえてきそうな催促に、いらえを返した唇の端が、面白そうな笑いを湛えた。 「坪内道場を知っているだろう?」 「番町の坪内道場か?確か永倉が師範代を勤めていた。島田とは其処で会ったと云っていたが」 「その坪内主馬殿の道場だ」 頷く八郎の眸が、僅かに細められた。 「この秋、坪内道場にひとりの客がいたそうだ。何か故あっての事だろうが、主馬殿はその人間についての一切を、誰にも話さなかった」 「誰にも?」 「誰にも、だ。門弟達にも詳しい経緯を語らず、そしてそいつは僅か一月足らずで其処から姿を消した。道場に来たのは、長らく竹刀を振るわなかった勘を取り戻す為の修行という事だったらしい」 「珍しいことでもあるまい」 「そうさ、珍しい事では無い。一度は剣を捨てた、或いは離れて居た者が昔の流派で腕を磨くと云うのは良くあることさ。だがその男、相当の腕だったらしい」 土方は八郎に視線を据えたまま、無言を決め込んでいる。 しかしその沈黙が、話の続きを促していた。 「ひと月、それこそ寝食も忘れたように稽古に没頭していたが、その間最初から最後まで、門弟の誰もが敵わなかったそうだ。・・・俺が聞いたのは其処までだ」 「何処が面白い」 漸く土方から発せられた声が、話の先に繋がるものを隠さず語れと鋭い。 「面白い筈さ、あんたにはな」 「どういう事だ」 「その男、美濃の出身だったらしい」 ほんの一瞬、それまで微塵も表情を変えなかった面に苦い色が走ったのを、八郎は見逃さなかった。 「美濃出身がどうした、坪内道場では珍しくもあるまい」 だがそれも錯覚かと思える僅かの事で、今一度見遣った時には、たった今土方の裡に動いた筈の感情は、怜悧な顔(かんばせ)の何処にもその跡を残していなかった。 坪内家は知行地を美濃に持っている。 美濃出身の二番隊伍長島田魁は、尾張藩遠藤家に奉公に上がり江戸勤番となった際に、その縁を結んで心形刀流の坪内道場で剣を磨くことになったのだと聞いている。 土方はその辺りの事情を指していた。 「そうだな、珍しい事ではない。現に島田さんもそうだからな」 心形刀流の頂点に立つ家に生まれ育てば、同じ流派の噂は否応無しに八郎の耳にも入るらしい。 そう接点があったとは思えない島田の事情も、八郎は坪内主馬を通して聞いていたらしく、これには素直に相槌が返った。 「伊庭、俺はお前に付き合っている暇は無い」 「さっき聞いたよ」 辛抱のしびれを切らせて繰り出された皮肉をさらりと受け止め、八郎はまだ急ぐ様子も見せない。 「美濃の話はもういい」 「それならば京の話をしてやろうか」 「伊庭っ」 「その男を、昨日偶然京で見た奴がいた」 向けられた短気を軽く交わし、あたかも相手の変化を楽しむように、いらえはゆっくりと戻った。 「美濃の男が秋に江戸に行き、正月に京にいる。ただそれだけに不思議はあるまい」 「確かに不思議無いだろうさ」 「ならばもうくだらん用件は済んだだろう、さっさと大坂に帰る事だな」 言いざまに向けた背を、八郎の苦笑が追いかけた。 「少しの間京に留まる。あんたには生憎の事だな」 ちらりと一瞬後ろに流した視線の鋭さが、土方の警戒を露わにしていた。 「お役御免を言い渡されるがいいさ」 「願っても無いねぇ。そうしたら俺は総司を連れて江戸に帰るよ」 「勝手に言っていろ」 もう何を云っても二度と振り向かないだろう背の主は、一言吐き捨て、文机の上の硯箱から細い筆をとった。 ――暫く。 八郎も火鉢の傍を離れないようだったが、やがて立ち上がった気配にも端から無視を決め込み、溢れた陽で温床のようになっている室に突然忍び込んだ風の冷たさで、障子が開けられたのだと土方は知った。 「・・・ひとつ言い忘れたが」 ふと思いついたように掛けた声に籠もる笑いが、それは忘れていた事では無く、敢えて最後まで仕舞っておいたのだと云っていた。 漸くこの男の遊びが終わり、話の核心に触れる時が来たのだと、土方は待たされた苛立ちを堪え、三度(みたび)目線だけで、桟に手を掛けたまま動きを止めている八郎を仰ぎ見た。 「暮れに総司を助けたとか云う奴、やはり美濃の出らしいな」 初めて土方が、あからさまに険しい色を浮かべた。 「おまけに手には新しい竹刀だこがあったそうだ」 「総司が言ったのか」 「ちゃんとあいつの話を聞いてやろうと思った矢先に、あんたに邪魔された」 それまで衒う風も無く淡々と皮肉を繋げていた端正な顔が、それだけは面白く無かったと見えて隠す事無く歪められた。 「その坪内道場に居た男、名を尾高周蔵と言う」 最後に其処に辿り付くだろう事は、それまで語られた話の流れから凡そ予想していたらしく、今度は土方にも驚いた様子は無い。 だがそれは取りも直さず、総司を助けたのは尾高周蔵と云う名まで土方は突き止めていたと告げる事実に相違なかった。 「禁足も、果たしていつまで護られるものやらば」 半ばそれを楽しむような八郎の調子が、閉められた障子の乾いた音に重なった。 |