暮色の灯 (参) 正月を越せば日が長くなると邪気無く云われれば、それは新しい歳を迎えて浮かれるお前の目出度さだと、揶揄して笑い捨てる筈の自分が、その当人の萎れた顔を見るにのには、どうにも憂鬱を持て余しているのには呆れ果てる。 それを惚れた弱みとひと括りにされるのも癪に障るが、ならばこのまま引き返す気も端から持ってはいない。 ――板敷きを踏む足元に伸びる初春の陽が、想いひとつも侭ならぬ様を嘲るように戯れるのを、八郎は暫し目を細めて見ていた。 「正月から手習いとは、心構えの良い事だな」 障子を開けた途端、独特の湿り気を持った墨の香が鼻をくすぐる。 総司は文をしたためる処だったらしく、文机に向かった身体はそのままに、墨を磨る手を止めて向けた瞳には、先程よりは幾分生気が戻っていた。 「八郎さん、帰ったのではなかったのですか?」 「可愛げの無い奴だねぇ」 不思議そうに問う声に、こちらも気の無い返事を返し、八郎はさっきまで自分が座っていた場所に再び腰を下ろした。 「終わっちゃいないからな」 「何が?」 「話の続きさ」 「・・・話って?」 「花梨の主、探すつもりなのだろう?」 応えもせず、頷きもせず、さりとて視線を逸らせるでも無く、総司は八郎を見ている。 自分のいらえから、一体何を探ろうとしているのか、用心して口を閉ざしている風でもあった。 「邪魔はしないから安心しろ」 その様子を見取って、八郎が苦笑した。 「俺もお前の人探しに付き合ってやれる程暇でもない」 嘘か真か、淡々とした口ぶりからは判じかねたが、そうはっきりと明言されれれば、総司も一応の警戒を解いたようだった。 「付き合ってくれなどと言ってはいない」 漸く身体ごと向き直って告げた、少しばかり捨て鉢のような調子が総司にしては珍しい。 それが先程の土方との諍いの名残だとは、八郎にも容易に知れる。 だが其処を突いてからかえば、それこそ自分とはもう口もきかなくなるだろう。 そうと知りながらも、もっと怒らせてみたいと思う駄々を抑えるのに骨を折りながら、八郎はまだ不機嫌にあるらしい想い人に、常と変わらぬ端正な顔を向けた。 「伝吉が知っているだろう、その人間の居処」 「だから伝吉さんが行った時にはもう居なかったと」 「そう信じていると俺につく嘘は、もう少し上手にしてくれろ」 中途で遮って、それ以上の偽りを拒む口調は強い。 「伝吉は知っている。が、お前には話さなかった。そう思っていると顔に書いてあるぜ」 揶揄して笑った眸が、再び唇を噤むことで怒っているのだと訴えている細い面輪を映し出した。 「怒るな」 宥めるつもりの声が、籠もる笑いを堪え切れずに弾けた。 「怒ってなどいない」 「それが怒っていると、人は云うのさ。伝吉は知っていると、そう素直に言え」 正面切って、しかもこう遠慮も無く笑われてしまえば、怒りの勢いは自ずと削がれる。 「伝吉は知っている。さてその次は?」 催促の声は、まだ可笑しそうにくぐもる。 これ以上は何を秘めても、言った傍から暴いてしまうだろう相手に、総司は観念の息をついた。 「・・・伝吉さんともあろう人が、見失うなどとは思えない。・・・まして翌朝行ったら、姿が無くなっていたなどとは」 漸くぽつりぽつり語り出しはしたが、総司は時折何かを考え込むように続けるのを躊躇い、言葉は暫し途切れる。 「あの伝吉ならば、少なくともそんなしくじりは考えられんな」 さり気ない相槌に、我が意を得たりとばかりに、総司が八郎を見て頷いた。 それは伝吉を知る者ならば誰もが思う事だった。 あの土方が信頼を置く男が、足取りを追った人間から目を離すなどとは、到底信じられない。 総司も伝吉の嘘は直ぐに分った筈だ。 だが偽りを見抜かれるのを承知でも、伝吉には隠さねばならぬ理由があった。 そしてそれは・・・ 「相手の人に、何か事情があるのだろうか」 不意に掛かった思いつめたような声に、それまで伝吉の偽りの先にあるものに思考を奪われていた八郎が、怪訝に総司を見遣った。 「人に素性を知られては困るような・・・だから伝吉さんはそういう事情を察して、私に教えてくれなかったのでは無いのだろうか・・」 「相手の事情で伝吉が口を閉ざした、と云うのか?」 まじまじと見て問う八郎に、頷いた深い色の瞳が真剣だった。 ――今自分は呆れているのだと そう告げたのならば、この顔はどんな風に変わるのだろうか。 伝吉が隠す理由は相手の為だと、総司は自分なりに解釈し、その事を寸分も疑ってはいないのだろう。 まさか事情があるのは新撰組の方で、その男の身辺を探っているとは露程にも思ってはいない。 自分を助けてくれた人間を見つけ出して礼を言いたいと、ただそれだけの為に動こうとしている。 まず信じる事から入ってしまう想い人の心根は、あまりに一途に走るが故に、八郎には酷く危ういものに映る。 疑う事を知らない訳では無いのだろうが、時にはそれすら横に押し退けてしまうひたむきさは、逆に大きなしっぺ返しとなって総司自身を傷つける事が侭ある。 だがそれを幾ら言葉で諭した処で、聞き分ける諦めの良さも又、持ち合わせてくれてはいない。 想い人は。 儚さ故の強さと、危うさ故の激しさを、合わせ鏡のようにして裡に有している。 そしてそれに負けるのは、常に惚れた自分と云うのが、八郎にはもどかしい。 こうして応えを求めて瞬きもせぬ瞳に見つめられれば、胸に吹くのは自嘲を通り越した遣る瀬無い風だけだった。 「では聞くが・・・」 漸く思惑から戻って問う声が物憂い。 「お前が言っている通り相手に事情があり、それを察した伝吉が敢えて教えなかったとする。だとしたら礼を云いたいと探し出す事は、相手にとっては迷惑になろう」 尤もな八郎の意見に、細い面輪がたちまち翳った。 「そしてお前がやろうとしている事は、伝吉にも迷惑が及ぶ」 「分っている」 「分っているのならば何故動こうとする」 「・・・その人」 先程までの勝気は何処へやら、言いかけた声が気弱に止まった。 黙ったままの総司の瞳が、つと八郎から逸らされ、懐紙にくるまれた花梨の実を捉えた。 「その人がどうした?」 そうしなければいつまでも沈黙から出そうに無い総司を、強い声が促した。 「京にはあの日、着いたらしいのです」 「お前を助けてくれた晩と云う事か?確か暮れの晦日と聞いたが」 八郎の念押しに総司はゆっくりと頷くと、手を伸ばし、盆の上にあった白い包みを手に取った。 「もうすっかり暗くなっていたし。・・・それにあの頃合では旅籠を探すにも難しい」 掌に乗せたそれを、もう片方の指で大事そうに取り上げて語る声が、真冬の夜の冷たさ寂しさを思い起して沈む。 「伝吉さんに教えて貰ったのだけれど・・・」 水気をからからに抜いた山吹色の実の欠片を、戯れるように指で転がしながらの呟きは何処か心許ない。 「尾高さんと云うその人、あの夜は其処からそう遠くない神社の祠の中で、夜を過ごしたそうなのです」 「野宿か」 重ねて問う声に返ったいらえは、微かに頷く仕草だけで言葉は無い。 「・・・見つけても、迷惑ならば決して声は掛けない」 伝吉から聞いた凡そで、総司は相手の事情と云うのが、その人間の矜持に係わるものだと思っているらしい。 掛け値の無い真摯な思いを目の当たりにすれば、呆れたと、それだけで仕舞いにするには、己の意地の悪さが少々居心地悪い。 だが八郎は、総司の行動の行き先を、確かに己が手に掴む為に敢えて問う。 「声を掛けないで礼は言えないぜ」 「言えなくてもいい」 そして想い人の唇から戻ったいらえは、やはり予期した通り、望んだ諦めの良いものではなかった。 尾高と名乗った人間が残したたったひとつの手がかりを、総司は自分の掌に置いて視線を止めている。 ――苛む苦しさだけに支配されていた時の、朧気な記憶を手繰っても、尾高は防寒になるようなものを身に纏ってはいなかった。 地に置いた提灯の灯りが映し出した姿は、質素な木綿の羽織袴だけだった。 祠に在れば、確かに吹く風を凌ぐ事が出来るだろう。 それでも一夜にして、地も水も凍らせてしまう寒さに、到底眠る事など出来なかった筈だ。 駕籠の揺れは、酷い咳が長く続いた身体には辛いものだった。 けれど貰ったこれだけは落とすまいと、懐紙に挟んで仕舞い込んだ胸の袷を手で押さえて、辛抱の時を遣り過ごしていた。 見ず知らずの自分に気遣いを見せてくれた人間の親切の形見を失くすまいと、ただそれだけに必死だった。 あの時口に含んだ実は、甘い中にも少しだけほろ苦さがあった。 けれど素朴で柔らかな甘さが口の中に広がると、それまでの錐で揉まれるような胸の痛みが、嚥下する度に薄らいで行く気がした。 近藤の腕に支えられながら一番辛かったのは、父とも違わぬ師に心配しか掛けられない我が身の情け無さだった。 身体と心の両方を苛む、どうしようもない切なさの中で、あの実だけが唯一自分を癒してくれた。 だから忘れる事は出来ない。 もしも尾高が慣れぬ土地で難儀をしているのなら、自分に出来る精一杯を尽くしたい。 だが相手が要らぬ節介と拒むのなら、仕方が無いと諦めてはいる。 言葉で伝えられない感謝ならば、せめて遠くから頭を下げたい。 今、総司はそれだけを思っていた。 「迷惑ならば、見て終わるだけでもいい」 視線をまだ花梨の実から離さず再び呟いた声は小さなものであったが、八郎の耳に届いたそれは、語尾まで良く通る鮮明さが、総司の意志の強さを物語っていた。 芽吹く季節を控える冬の陽は、傾いたとてその勢いを衰えさせはしない。 じき夕刻と云うこの頃合、幾分人が減った往来に歩を進める八郎の眸は、確かに視界に入る情景を映し出しながら、その実脳裏には半分も届いてはいない。 総司から伝え聞いた伝吉の話によれば、尾高周蔵は、その夜は五条坂に近い小さな神社の祠に身を寄せたのだと云う。 確かに、其処までは伝吉も嘘は言ってはいないだろう。 だがその後の足取りは、土方と極一部の者だけが知る新撰組の機密になるらしい。 さても尾高は何処に消えてしまったものか。 「聞いて応えてくれる程親切でもなし」 声にせず笑ってごちた呟きは、今頃はいつもの仏頂面を更に顰めている筈の、恋敵へと向けたものだった。 人の世に、無造作に放り出されたいくつもの細い糸の端は、一見それぞれが何の繋がりも無いように在りながら、時として信じられない縁(えにし)で結ばれている。 ・・・それは。 偶然では無く、なるべくしてなった事柄なのだが、実は八郎自身にも、尾高周蔵に会わねばならない事情がある。 尾高が仇と狙い探し求めている相手を、新撰組が先に捕らえてしまう前に、かの人間の本懐を成就させてやらねばならない。 それが江戸の知己からの、断りがたい頼み事だった。 だがまさかこんな形で、想い人に係わって来るとは思ってもみなかった。 土方の鼻を明かしてやるのには興が乗るが、総司までもが渦中に飛び込んでくるとなれば、些か動きづらい。 こればかりは恋敵の心中を己と重ね合わせ、八郎は苦く笑った。 「困ったものさ」 独り語りの仕舞いに足を止め、投げかけた視線の先には、早馴染みの格子が見えている。 そう大振りでは無い松飾が控えめに正月を祝っている、路地の奥にひっそりと佇む建物は、瀟洒な造りが何処かの家中の荘にも似て、一見旅籠とは判じがたい。 慣れた道を歩んでいた足は、思惑に入り込んでいた主を、律儀に今宵の宿に連れて来たらしい。 暫らくは此処が己の住処となる格子を開け、客を案内して続く飛び石の一番手前を、八郎ゆっくりと踏みしめた。 陽も大方沈みかけ、天道が稜線に姿を隠すのにもそう時は掛からないだろうと云う頃合になれば、流石に風の冷たさが肌に染み入る。 うららかな陽気につい忘れかけてはいたが、本当に暖かくなるには、まだひとつ雪の深くなる季節を越さねばならぬのだと、こんな風に寒さが厳しくなれば否が応でも思い出す。 天は明るい日を、幾つも続けてはくれない。 夕方から明るい空に不釣合いな黒い雲が出て来ていたのが、天候の崩れの兆しではないのかと、総司は憂える心を抑えきれない。 風が荒び雪が降れば、あの尾高と云う人物は又難儀をするかもしれない。 それを思えば、探すあてを未だ持たない事に焦る。 けれどこの負の感情は、もうひとつ、胸に在る大きなしこりを疼かせる。 探しに行きたいのだと云えば、土方は激怒するだろう・・・ あの時。 土方との諍いの、本当の原因は何だったのか―― どうして素直な返事ひとつが出来なかったのだろう。 そうして思い起こしながら、だがそんな答えは疾うに知っている。 あれは自分の駄々だった。 いつまでも病人ではないと抗ったのは、我が身ひとつが思うにならない苛立ちがさせた、土方への八つ当たりだった。 受け止めて欲しいと願った、甘えだった。 今頃悔やんでも、もうどうにもならない自分の愚かさには愛想が尽きる。 「・・・ばかだ」 呟いて、唇を噛み締めた途端に、頬に滑り落ちそうになったものがあった。 それを慌てて目を瞬いて堪えた。 これ以上不甲斐ない自分を知るのは嫌だった。 どの位そうしていたのか・・・ そのままぼんやりと、畳に伸びる自分の影に視線を置いていた時、廊下の軋みすら気にしているような、遠慮がちな足音が聞こえてきた。 気付くのが遅れ咄嗟に顔を上げると、もうすでに気配の主は、当人よりも大きな影を障子に映していた。 「沖田さん」 聞きなれた声に、総司の頬が緩んだ。 「います」 寸暇を置かず応えると、障子の桟が静かに左右に開かれ、島田魁は体に負けない大造りの顔を見せた。 「お忙しいのではなかったのでしょうか?」 「・・・えっ?」 「文をしたためていらしたのでは?」 入ってくるなりの申し訳なさそうな声は、総司の後ろの文机にある巻紙の事を指しているようだった。 「すみません、とっくに終わっているのです」 片付けようと手を伸ばした途端、触れた位置が悪かったのか、円筒の巻紙は自ら身を解き、文机の上を滑り、伝い落ちた畳の上にまで、まるで生有るもののように白い道を作る。 総司よりも島田の方が一瞬早くその端を掴み、漸く転がる紙の勢いは止まった。 「すみません」 受け取りながら繰り返し詫びる頬に、一瞬にして朱の色が刷かれた。 「・・・あの、島田さんの方は、もう良いのでしょうか?」 だがそんな羞恥を押し退けて、総司は急く気持ちそのままに島田に問うた。 「私の仕事は、今日は仕舞いです」 向けられた眼差しは、呼び寄せてしまった事を気遣い、改めて不安にいるらしい面輪の主を、慰撫するように柔らかなものだった。 「例の、沖田さんと局長が会われた浪人風の男ですが、伝吉からの託けでは、やはりその後一度も姿を見つける事が出来なかったそうです」 「そうですか・・」 こう云う返事が戻ってくるだろうとは、九分九厘予想していた。 だが人と云うものは、希を持てばこそ、残りの一厘に掛ける期待の方が遥かに大きい。 それを真っ向から断ち切られれば、応える声が沈むのは隠しようも無い。 歳が明けてすぐに、伝吉は姿を消していた。 新しい探索が始まったのだと思いはしたが、それが何かとは、土方と後はその仕事を任されたごく一部の者しか知らない。 だがあの人物の最後の足取りは、伝吉だけが知っている。 顔も姿も、一番に記憶している筈だった。 あれから何か新しい手がかりは見つけられなかったのか、到底叶うべくも無いと承知で、今一度問いたいと思った時には、すでに総司の足は、今唯一伝吉に接触できる島田の元へと向かっていた。 その島田は近藤が長州から帰京して直ぐに、所属する二番隊から元居た監察方へと戻った。 山崎、吉村等現在の監察方を支える二人がそのまま長州に潜伏し、手隙になった為の一時的なものと云うのが、隊内の者たちへの表立った説明だった。 だから島田なら何か他の情報も知っているのでは無いのかと・・・ それも総司の希の糸だった。 「伝吉も自分のしくじりを責め、沖田さんに申し訳ないと悔やんでいました」 目の間で落胆を隠せない者に掛ける言葉には、部下の失敗を己に置き換え、心底すまないと思っているいる島田の悔恨が滲み出ていた。 「そんなっ、伝吉さんの所為では無いのです」 否定して急いで上げた顔が、みるみる困惑に染まる。 「・・・私が悪いのです。もっとしっかりとしなければいけないのに」 最後は呟くように語尾を濁した横顔は、今にも砕けそうに硬い。 総司が云わんとしているのは、今話題にしている事柄だけを指しているのではないのだと、島田にもすぐさま察せられた。 この若者にとっては、こうして動けずに過ごす日々が、何にも増して辛いのだろう。 任された責任を果たせぬ悔しさと焦りと、思うが侭にならない身体と。 きっと自分を責め続けるだけで、長い一日が終わるのだろう。 それを推して計れば、島田の胸にも痛ましいものがある。 そして何より・・・ 今己が係わっている秘め事が、図らずも総司を追い詰める結果となっていると云う事実が、律儀すぎるこの男には心苦しい。 「文はお身内の方へでしょうか?」 感傷を切り捨てる為に変えた話題のあまりの不自然さを、胸の裡で苦く笑いながらも島田はつとめて快活に問うた。 「姉なのです。もうずっと書いていなかったのであまり心配をさせるなと、昨日も近藤先生に叱られたばかりで」 「ずっと?」 怪訝に問う声に曖昧に頷いた面輪が翳った。 「姉上さまからは?」 「それが・・・月に一度は必ず便りをくれるのですが、私が筆不精なものだからずっとそのままで」 嘘をつく器用を持ち合わせていない笑い顔には、無理に作ったぎこちなさばかりが際立つ。 何か便りを送れぬ事情があるのだろうが、そこまで他人の自分が踏み入ることは出来ない。 さりとて此の侭素知らぬ振りをするには、白い紙を見ている横顔はあまりに寂しすぎる。 「それより島田さんのお母上は如何でしたか?」 そんな思いにくれて躊躇っている時、今度は総司の方から話の筋を変えてきた。 「はい、お陰様で。病は大した事はなかったのですが何分年寄り故、気弱になっていまして」 「でもご無事なら何よりです」 邪気の無い笑い顔が、心底嬉しそうに島田に向けられた。 養母の具合が悪いと、島田魁が国元に帰っていたのは、昨年暮れの事だった。 本来ならば私事で隊を留守にするなど勝手は許されないが、それまでの島田の功績と、並々ならぬ恩がある養母への事情を察し、特例として五日間の帰郷が許されていたのだった。 「沖田さんにまでご心配を掛けてしまい、申し訳の無い事です」 「申し訳が無いだなんて」 頭を下げかけた島田を、総司が慌てて止めた。 「私は、・・・私こそ、いつも人の心配の種にしかならない」 大きな背の主に掛けた声が、遣る瀬無さにくぐもった。 「本当にそんな風に思っているのですか?」 だが急に変わった島田の調子に驚いて上げた視線の先に、此方を見据える厳しい双眸があった。 そう思っていると応えれば、たちまち怒り出しそうな勢いに、総司の方がたじろいだ。 「そのように思っているのは沖田さん、貴方ひとりだけです」 「そうでしょうか?」 「そうです」 しかと断言する強さにつられるように、細い面輪に笑みが浮かんだ。 「島田さんのお墨付きならば、そう思っても良いのかな」 「墨など幾らでも差し上げます」 更に頭ごと大きく振って頷く様に、形の良い唇から、堪えきれないような小さな笑い声が零れた。 こんな事が罪滅ぼしとは思わぬが、それでも何処か安堵している自分を自嘲しながら、島田はまだ当分続きそうな屈託の無い笑い顔を見ていた。 暫し。 伝吉の事にはそれきり触れず、とりとめの無い話を交わしていたが、何か気がかりがあったのか、当たる陽で障子が茜色に染まりつつあるのに気付いた島田が慌て始めた。 「つい長居をしてしまいました、私はこれで」 「すみませんでした、私が勝手を言ったばかりに」 「いえ、役に立たない報告で私こそ・・・」 あまり悠長にしている時が無いらしく、応えながら片膝ついて立ち上がろうとした姿勢が、しかし不意に止まった。 その挙措の不自然さに島田の視線の先を追えば、薬盆の上に、あの花梨の実を入れた包みが広げてそのままにしてある。 「花梨ですね」 咄嗟に何と説明しようか狼狽を隠せない総司の耳に、意外にも柔らかな声が聞こえた。 「島田さんは分るのですか?」 「私の生まれ故郷では実がなるとそれを細かく刻み、砂糖に漬けて薬の代わりにしていました」 「大垣で?」 「いえ、大垣は養子先です。大垣とは近いのですが、私の本当の郷里は、木曽川と長良川と云う二つの大きな川に挟まれた美濃の山奥です」 「それでは伝吉さんとは・・・」 「そうです、伝吉とは生まれ故郷が近くなのです。尤も私は両親(りょうおや)を十四で亡くしてからは故郷を離れ、それから戻る事は無かったのですが」 語りながら島田の脳裏には、遠く山深い国元が映し出されているのかもしれない。 そんな穏やかな物云いだった。 「・・そう云えば何時だったのか。そんな話をしている途中で、丁度其処におられた副長に、花梨の実は酷く堅いが、砂糖に漬けている間には柔らかくなるのかと聞かれた事がありました」 「土方さんが?」 ゆっくりと頷いた島田の顔が、何処か楽しげに和んでいた。 「はい。私も副長らしからぬ事を言われると不思議に思っていましたら、幾ら咳に良いと云い含めても、苦い堅いでは口にはしないだろうと笑っておられました」 それは言葉にするまでも無く自分の事を指しているのだと、敢えてそう云わぬまでも、向けられた島田の双眸にある柔らかさが総司に告げていた。 「では、今度こそ失礼します」 漸く体の全部を立ち上げて、見上げる総司に目だけで会釈すると、島田は来た時と同じく静かに桟を別ち、冷気が入り込むのを厭うように素早く廊下へと身を滑らせた。 再び独りになった室は、もう陽も大方傾いた所為か、主にも素っ気無い顔を見せ始めた。 乾いた季節は木から湿り気を奪い痩せさせ、皮膚一枚にも満たない僅かな隙すら見逃さぬ狡猾さで、冷たい風を忍び込ませる。 島田が去ってまだ幾ばくも経てはいないのだろうが、ぼんやりと過ぎた時はその間の記憶を曖昧にさせるだけに、ひどく長い事そうしていたような錯覚に、現に戻った総司を陥らせた。 慌てて文机の上をみれば、白い紙は広げられたままに、墨で湿らせた筆はとっくに先が固まっている。 片付けなければならないと伸ばした指先が、其処に辿り着く前に薬盆に端に触れた。 「・・・あっ」 思わず声を漏らしてしまった時には、倒してしまった湯呑から、まだ飲み残しの薬湯が流れ出し、みるみる花梨の実を包んでいた懐紙を汚した。 自分の行儀の悪さが為した不始末とは云え落胆する心は隠せず、黄ばんだ実だけを包みから取り出し手の平に置けば、俄かに薬湯の香りが鼻をくすぐる。 大振りの湯呑みに入った煎じ薬は、滋養がつくようにと、土方が暮れに買って来てくれたものだった。 小川屋から取り寄せたそれは、朝鮮人参の根を木綿の袋に詰めたもので、田坂の治療の邪魔になるものではないと云っていた。 だが初めて飲めと持ってこられた時、匂いだけで参ってしまい、咄嗟に口元を両の手で覆って拒んでしまった自分を土方は叱った。 熱ければ匂いも増す、ならば冷めてからなら飲みやすかろうと、それからは日に三度、荒熱を取り去り几帳面に届けられていた其れを、何とか次が来る前までに飲み干さなければならないのが、ここ数日総司の憂鬱だった。 けれどあんなに嫌っていた匂いが、今は無性に胸に切ない。 凍え始めた指先で、湿り気を帯びてしまった花梨の実を摘み上げると、小さく唇を開き滑り込ませてみた。 思わず顔をしかめたてしまったのは、やはり慣れる事の出来無い匂いと、実に浸された薬の苦味が舌に障ったからだった。 だがそれも少しの間の事で、すぐに口中に広まったのは懐かしい甘さだった。 ――素直になれなかった頑なさを、今詫びれば土方は許してくれるだろうか。 それでも座したまま其処を動けないのは、もしそうでなければと云う不安に躊躇う、意気地の無い自分だった。 「・・・にがい・・」 日暮れの近さを知らせる薄闇の室に、更にそれより寂しい独り語りが小さく漏れる。 けれど誰かに応えて欲しかった。 土方に、叱って欲しかった。 苦い薬を、否と拒んで訴える我侭を聞いて欲しい人間に、今胸掻き毟られる程に逢いたかった。 |