暮色の灯 (四) 忍ぶように歩を進める廊下の雨戸に打ちつける風は、僅かな隙を縫って入り込み、時折手燭にある灯を横に薙ぎる。 だがそれよりも激しい鼓動が、うねる様に今総司を内から揺する。 人気の無い静まり返った室を幾つか通り過ぎたその先に、合わせた襖の間から、やはりまだ零れる明かりがあった。 一際高鳴る心の臓の音を鎮める為に足を止めると、総司は息を吹きかけ灯を消した。 その途端、一瞬にして自分の影をも呑み込んでしまった闇に、まるで地の底まで引き摺り込まれるような心許なさが襲う。 灯りの無い寂しさは、漸く此処まで遣って来た勇気をも萎えさせる。 ――来なければ良かったのだろうか 逡巡する間は長ければ長いほど、更に怯む思いを増長する。 踏みしめる板敷きの冷たさが、足袋を履いていない素足の裏から背筋を伝って這い上がる。 どの位時が経たのか、暫しそうして立ち尽くしていたが、やがてそんな自分にも愛想が尽き、総司は小さな息をひとつ吐くと、凍てついてもう感覚の無い踵を返した。 だが闇の先へと向けられた足が、一歩も前に踏み出す事無くぴたりと止った。 「お前は用も足さずに帰るのか」 動けぬ背を、後ろから低い声が追う。 襖が開かれたのは知っていた。 それまで零れていた糸のように細い明かりが、突然背後を覆う様に広がったのも知っていた。 けれど振り返ることは出来なかった。 声の主の顔を、見ることが出来なかった。 「総司っ」 いらえを求める口調は、沈黙に隠れる事を許さず強い。 もう戻ることは出来ないのだと観念しつつも、せめてゆっくりと身体を向けたのは、自分の心を励ます時が欲しいと願った総司の弱気だった。 暗さに慣れた瞳にも、真正面から見据えている土方の双眸の厳しさは分かる。 物云わず、顎をしゃくる仕草だけで入れと告げ向けた背に促され、何処にも行き先を見つけられなかった足が漸く動いた。 「お前はばかかっ」 先に総司を入れ、自ら襖を閉めた途端に土方が発っしたのは怒鳴り声だった。 もう休む処だったのか、敷かれた夜具の上を苛立ちのぶつけ処のように大股で歩き、室の隅の乱れ箱にあった羽織を鷲掴むと、まだ襖の脇に突っ立ったままの華奢な身体めがけて放り投げた。 「さっさと着ろ」 更に大きくなった声に、総司はやっと土方の怒りの原因が自分の薄着にあると気付き、受け止めた其れを慌てて肩に羽織った。 「お前は自分の身体がどういう事になっているのかが、分かっているのか」 片袖を通す所作を目にしながら漏れた声には、頓着の無い相手の様子に些か怒気を削がれ、うんざりと吐く溜息が混じる。 「分かっている」 「分かっているのならば、どうしていつもこう云う無茶をする」 「・・・直ぐに帰るつもりだったから」 「直ぐに帰るつもりの奴が、此方から声を掛けなければ入って来られなかったのはどう云う訳だ」 意地の悪い問いに、一度は何かを応えかけた総司の唇が、射すくめるような視線を受けて言葉を作り出す前に噤まれ、そのまま一緒に瞳も伏せられた。 両方の袖を通し終えた羽織は、丈も巾も大きく、中で身体が浮く。 だが襟元を合わせると、懐かしく、安堵出来る匂いが覆い包んでくれる。 それは土方が、花梨の実は砂糖に浸している内には柔らかくなるのかと、そう問うたと島田から聞いた時に、胸の裡に込み上げた切なさに似ていた。 悪かったのは自分なのだと、今ならこの温もりの中で素直に云える事が出来るだろうか・・・ 謝りに来たのだと、その最初の一言を紡ぐ為に、総司はやっと顔を上げ、正面に土方を捉えた。 「・・・すみませんでした」 己を鼓舞してやっと告げた声はくぐもり、聞き取れぬ程に小さい。 「何を謝る?」 返った土方の声が、少しだけ柔らかくなったと思うのは錯覚だろうか。 「昼間、素直になれなかった・・・」 それに励まされるように続ける言葉は、更に口籠もる。 「ではいつもは素直なのか?」 「そんなことっ」 揶揄するような物云いに、一瞬の内に細い主輪に朱の色が上る。 ――謝るのだと、一度思い立てば矢も盾も堪らず、人々が寝静まったこの頃合まで待つ時は、どれ程長く思えた事か。 逸る気持ちで来たものの、いざとなれば拒まれるのではないかと怯える心に負け、遂には引き返そうとした自分を、どうしてそんな風にからかうのか、総司には土方が分からない。 悔しさに思わず目の奥を熱くさせるものが、こんな事ひとつで翻弄される我が身の不甲斐なさ、情けなさまで煽り立てる。 これが下された咎と云うならば、今こうして目の前に姿を晒している事すら居たたまれない。 長い沈黙に堪えられず、再び俯きかけた顔が、だが不意に頤に掛けられた指で強引に上向かされた。 何が起こったのか分らず、ただ驚きに瞠られた瞳が、先程とは打って変わって真剣な土方の眼差しを捉えた。 そのまま瞼を閉じる暇(いとま)も無く、胸の内に引き入れられ唇を塞がれた瞬間、咄嗟に両の手を拳にして身と身の隙に砦を作ろうとしたが、いつの間にか背に回されていた腕は、更に強い力で抗いを封じ込める。 息の出来ない苦しさに、僅かに開かれた唇の端から滑り込んだ舌先が、怯むもうひとつのそれを捉え絡み付き、思うざま蹂躙してゆく。 やがて逃れようともがいていた身体からは力が抜け、忘我の淵に浚われるのを恐れた指は、唯一縋る事の出来る場所を求めて土方の衣を握り締めた。 仕置きのような戒めから解き放たれたのは、苦しく切なく、そして時折は意識すら遠のく、甘やかな時を幾つ数えた後だったのか―― 一度は拒んだ胸の内で息する唇は、まだこの突然の理不尽を咎める言葉も紡げない。 土方は勝手だと、そう言って責めたいのに、今は荒く上下する胸の高鳴りを抑えることすら叶わない。 だがじきに、もたれている胸の鼓動と自分のそれが並んで打っていると知った時、総司は残っていた全ての力を抜き、静かな安寧の狭間に漂う様に、更に深く身を沈めた。 愛しい者を腕の籠に囲うように抱きながら、土方も叉乱れた呼吸を整えている。 胸に宿痾を抱える総司は、常人よりも遥かに劣る肺腑の動きで、吸う息すら限られている。 それを誰よりも承知し何よりも畏怖している自分が、こうして辛い思いを強いさせる矛盾にはもう自嘲する術も持たない。 が、堪え性なと、顔を見た途端何処かへ吹き飛んだ。 何故来ないのだと、どうして姿を見せないのだと焦燥は頂点に達し、落ち着かない苛立ちに、立ち上がり叉直ぐに座り直し。 いったい幾度それを繰り返した事か、覚えてもいない。 遂に欲していた気配が近くまで来たのを察した時、滑稽にも思える喜びに満たされ、だが手前で止ったまま少しも動か無い様に、何故にこんなに酷な仕打するとどれ程恨んだことか。 やがてそれが非情に去り行くのを感じた時、一瞬にして廊下に飛び出していた。 ただひたすらに翻弄され続けた、そんな自分の有様など、この愛しい者は知らないのだろう。 だから教えてやりたい。 どんなに自分は待っていたのかを、どんなに欲していたのかを。 お前は残酷な奴だと。 そう告げる言葉の代わりに、土方は回している腕に更に力を込めた。 「・・・謝りに・・来た」 漸く息を繋げて声を作り、見上げた瞳が勝ち気な色を湛えていた。 だがその視線を逸らすでも無くいらえを返すでも無く、拘束を強いている主は、未だ腕ふたつで作る柵(しがらみ)を解こうとはしない。 「なのに・・」 更に責めようとする言葉が、突然覆い被さった影に呑まれて途切れた。 「物言うな」 命じる声は、高い位置から聞こえてきた。 だがそれよりも確かに伝わるのは、規則正しい心の臓の刻み音(ね)だった。 封じ込まれたのは、再び土方の胸の内へだったのだと―― 気付いた瞬間に、包む闇は、唯一安堵できる場所へと変わった。 「何故もっと早くに来ない」 身じろぎする隙すら許されず、今度はあべこべになった責め句に、辛うじて顎だけを上に向けた面輪が、困惑と狼狽に染まっている。 怒っていると思ったのだと、拒まれるのが怖かったのだと、すぐに本当を言えない自分の頑なさが総司には情けない。 「俺は待っていたのだがな。お前はそうでは無かったのか?」 暫しいらえを躊躇っていた唇が、漸く何かを紡ごうとしたそれに抜け駆けするように、苦笑交じりの声が、耳朶に触れんばかりにして囁かれた。 大きく見張られた両の瞳が映した土方は、片頬だけを緩めた笑みで此方を見ている。 動きの侭ならぬ中で、急いで首を振る事だけが、否と応える総司の精一杯だった。 「もう分った」 そう云って止めてやらなければ、細い首が千切れてしまいそうな必死さに、再び低い笑い声が室に漏れた。 ――今もまだ、頭(かぶり)は小さく振り続けられている。 その度に押し付けられた前髪が、夜着を擦り衣擦れの音をさせる。 きっと総司の心も、壊れんばかりの不安にあったのだろう。 だが身体こそ、こうして己の内に封じ込めてはいるものの、共に掴んでいる筈の心は、今この時にあっても、目を離したその途端に、気儘にすり抜けて行ってしまいそうな錯覚を土方に呼び起こす。 一体何時になったらこの愛しい者は、自分に安堵の時をくれるのか。 しかしそれは、永久(とわ)にもたらされる事は無いのだと承知している。 恋情の焔が尽きる事無く燃え盛るように、不安の燻(いぶし)も又より高く立ち上る。 だとしたらどの世に在っても、自分は翻弄され続けるのだろう。 「お前はつれない奴だな」 分からぬ言葉を不思議そうにしている瞳に向けた顔が、それを惚れた弱みと諦めて、今宵三度(みたび)苦く笑っていた。 「辛いか?」 労わりの言葉は嘘ではないが、抱く者の温もりをじかに合わせた肌で知ってしまえば、逸る体はもう主の言うことなど聞き分けはしない。 その心を知ってか知らずか、総司は微かに首を振り瞳を閉じた。 それが合図のように、首筋から鎖骨の窪みへと下り、やがて胸の仄かな彩りに辿りついた土方の舌先が、一層執拗に這った時、背に敷かれた、ひとつは夜着の、もうひとつは羽織の、二枚の衣を重ね合わせて指に掴んでいる身体がびくりとしなった。 その様を見届け一気に滑らせた手指を、密やかに息づく昂ぶりに触れると、初めて戒めから逃れようと総司が身を捩った。 それを許さず更に強く手の内に捉えると、今度は朱に染められた眦から幾筋か零れ落ちるものがある。 褥に縫い付けられるように組み伏されれば、声を塞ぐ為に手を動かす自由も与えられず、上がる息の間からは、遂にはすすり泣きにも似た忍び音が漏れ始める。 もう許して欲しいと懇願する右の指を、握っていた羽織から上にある背へと回した途端、それを待っていたかのように、不意に腰が浮き、その心許なさに半ば朧だった意識が戻り、寸暇を置かず抱え上げられた下肢が大きく別たれる感覚に、羞恥の雷(いかずち)が身を震わせた刹那、最後の責め苦が総司の中心を貫いた。 無理を受け容れる身体は、初め辛さだけを優先させる。 頤を鋭角に反り息を止め、辛抱の時が悦楽の変わる瞬間を待って、総司は苦痛を耐える。 それを視界に捉えると、土方は己の性急さを堪えて一度動きを止め、薄い胸に緩やかに隆起する朱(あけ)の色に唇を寄せ舌を絡ませた。 その一瞬、異なるものの存在を堅く拒んでいた内が、切ない吐息と共に守りの柵(しがらみ)を解いたのを見逃さず、ふたつがひとつになれる際まで一気に己を沈ませると、背にあった総司の指が更に強く食い込んだ。 「・・あっ」 自分とは違(たが)う身を刻み込まれる度に、胸も下肢も跳ね上がる。 身体の中心に抱え込んだ熱は、いつしか脳髄までをも溶かし、自分の唇から漏れる短い声が、ひどく甘美な響きを含み始めたのを総司は知らない。 「もうっ・・」 滲むもので物の像など結べない視界の中で訴える限界は、言葉と云う形を最後まで作る事が出来ず、後は縋る背に爪立てる切なさだけで懇願された。 それを聞く土方の動きが一層激しくなり、細い悲鳴と共に、際まで昇り詰めていた総司の欲情が解き放たれたのと、身の内が熱い迸りに満たされたのが同時だった。 ふたつひとつのまま、波間にたゆとうようにゆっくりと堕ちて来る身を、時に籠を作り時に柵を作った腕が、今はただ静かに受け止めた。 荒い息で大きく上下する胸は、その度に蒼みが強い白い皮膚を通して、骨の形をくっきりと浮き上がらせる。 片手を喉元に当て押さえれば、難無く息の緒を止められてしまいそうな頼りない身体は、その奥に業病を宿している。 無理はさせまいと、否、この脆い肉体を誰よりも案じ、先を危惧させるものは全て排除しなければならない自分は、その実こうして一番に負担を掛けさせている。 だがもしも誰かに、ならばこの者を欲するのを止められるのかと問われれば、端から是と云ういらえは持たない。 「辛かったか?」 同じ言葉で二度目の労りは、一度目よりもずっと柔らかい。 それが己の欲を堪える術を持たない後ろめたさだと分かっているだけに、声にも苦い笑いが籠もる。 だがそんな土方の心の有り様など知る由も無く、薄く開いた瞳は潤み、まだ総司の心の大方は朧な夢路にあるらしい。 おずおずと伸ばされた両腕が、まるで心を現に戻す手がかりを求めるように、汗ばむ首筋に縋りついた。 「・・・謝りに・・来た」 ようよう繋いだ言葉には、意のままに翻弄し続けた者へのささやかな抵抗がある。 「・・・なのに・・」 「分っている」 そんな事はどうでも良いのだと耳朶に囁けば、総司はきっと怒るだろう。 胸の裡で苦笑しつつ、再び責める言葉が紡がれる前に、もう幾度目かの強引さで、土方は己のそれで開きかけた唇を塞いだ。 冬の日の晴天は、籠もる湿り気が抜けた分だけ、凍てる空気を冴え冴えとさせる。 吐く息が白く濁る朝の廊下を渡りながら、総司の歩みは次第に鈍る。 後ろから来る人物が、誰であるのかはとっくに知っていた。 それでも振り向くのが遅れたのは、この苦手な人物とどうやって会話を為したら良いのか分らぬ心がさせる、総司の躊躇いだった。 「沖田君、もう具合は良いのですか?」 知らぬ振りを決め込むのも限界と諦め、やっと足を止めて身体を向けた総司に、笑みを浮かべた伊東甲子太郎が近づいて来る。 「ご心配をお掛けしてしまいました」 「そのような事はご懸念無く。が、此れを機会に、若いからと高を括らずゆっくりと養生した方が宜しい」 伊東は幾分大仰ともとれる言い回しで、頭を下げかけた総司を止めた。 「近藤局長も、この度の件に関してはご自分に非があったと、随分案じておられるご様子でした」 労わると云うよりも、掛けた言葉に相手が示す反応を探る風に、如才無い視線が向けられた。 案の定、伊東と見る総司の細い面輪が翳った。 確かにあの夜近藤の前で起こった咳は発作に似た酷いものだったが、幸にも然程熱も上がらず、土方の怒りは買ったものの、一昨日からはもう床を上げて起き出してしまった。 その間近藤は、多忙の合間を縫って日に一度は必ず様子を見に来てくれた。 最近はゆっくりと話も出来なかった師と、枕元で交わす他愛も無い会話が、総司には何よりも嬉しかった。 だがそれを他人に指摘されれば、近藤の立場を慮り、申し訳なさが先に立つ。 「・・・近藤先生にも迷惑を掛けてしまいました」 「いえいえ、病を抱えながら仕事に就く貴方の事を、この私とて案じているのですよ。それが近藤局長ならば尚更の事でしょう」 伊東は繰り出す言葉に棘を潜め、そしてそれを隠そうとはしない。 明らかに自分に対して敵意を持っている事は、総司も察していた。 それを知りながらも、尤もな意見をされれば返す言葉が無い。 「それよりも、私は貴方に常々言いたいと思っていた事があるのですよ」 話を変えると云うよりは、初めから其方を伝えたかったとでも思えるような、伊東の物云いだった。 「私に・・?」 歓迎される事では無いと分ってはいるが、そう承知していてもいざとなれば構えが出来る。 「そう、貴方にです」 総司の声が俄かに硬いものになったのを確かめると、更に念押しするように、唇の端に笑みを湛えた白皙が頷いた。 「沖田君、この際貴方は新撰組を離れて養生に専念すべきです」 最後まで聞くまでも無く、やはりと云う思いが総司の中に走る。 嘗て伊東は、近藤や土方の前でも、同じような趣旨の意見を述べた事がある。 それを頑として拒み通した時、自分に向けられた双眸の中に、憎悪に似た感情が在ったのを、総司は未だ鮮明に覚えている。 「ただですらひび割れた茶碗のような身体で、人並み以上に動き回らねばならない生活が、一体どれ程続くと思うのです。いや、そればかりではない。こうして貴方が休む事は新撰組そのものの士気にも係わる・・・」 「伊東さん」 労りを隠れ蓑にした攻撃が更に続こうとしたその時、穏やかな、しかし太い声が背後からそれを遮った。 「どうか其処までにしてやっては貰えませんかな」 近づいて来る近藤の姿が視界に入った途端、総司の瞳が伏せられた。 伊東の云っている事は、間違いなく正しい。 だからこそ我侭に目を瞑ってくれている近藤が、こうして盾になり庇ってくれるのが総司には辛かった。 「自分の身ならば、これもその辺りの事は重々承知している筈。又見守る者にも何れはの考えはある故、伊東さんの進言は有り難いが、今暫くは見逃してやっては貰えますまいか」 相手に視線を据えて朴訥と語る言葉は、時にどんな鋭い非難をも封じ込める強さがある。 今の近藤が其れだった。 伊東に反撃の余地を与えない。 「沖田君の師である近藤局長が其処まで言われるのならば、部外者の私などが差し出た事を云う筋合いは無いのでしょう」 あくまでも柔らかな口調を崩さず告げる伊東の双眸こそは、しかし限りなく冷たい。 「邪魔者は疾く消え行くのが宜しいらしい」 近藤に対して軽く目だけで会釈をすると、ゆっくりと其処を離れかけた伊東の足が、だが二歩目を踏み出さない内に総司の前で止まった。 「・・・そう云う事ならば、沖田君はいつ隊務に戻られるのかな」 突然の問い掛けは、それまで泰然と構えていた近藤を流石に慌てさせたようだった。 「総司には、暫く私の護衛をしてもらう事になっている」 寸座に取って付けたと知れる繕いに、総司の瞳が驚きに見張られた。 「局長の?」 その総司が唇を開くよりも先に、振り返った伊東が近藤に怪訝な目を向けた。 「じきに又伊東さんと西国へ道中せねばならぬ故、こんな身でもそれを阻止せんとする輩で近頃は何かと物騒らしい。土方副長が身辺に護衛を付けろと煩くて堪らぬ。実は今から出かけようと思い、丁度これを探していた処だった」 厳(いかめ)しさから、時に畏怖すら感じさせる顔(かんばせ)も、笑えば片笑窪が出来て急速に親しみやすいものになる。 それを伊東に向け、近藤は豪放な笑い声を立てた。 「近藤先生、さっきの事・・」 これから何処かへと出かける途中だったのか、五つ紋を染め抜いた黒羽二重を纏った伊東の背が視界から消え行くと、それを待っていたように、総司が急(せ)いて近藤に問うた。 「歳が煩い事を言うだろうが。・・・まあ、言ってしまったものは仕方が無い」 腕組みをして笑った顔が、これから身に降りかかるであろう憂鬱を、言葉程にはうんざりしている風でも無かった。 「では今からお供します」 逸る心を隠せない声からは、例え数日と云えど、閉じ込められていた日々に鬱積していた総司の心の重さを推し量る事が出来る。 それを哀れと思い、だが直ぐにそれよりも、矢のように浴びせられるであろう土方からの文句の数々を慮り、横で明るい笑い顔を見せる愛弟子に気付かれぬよう、近藤は己の胸の裡だけで深い息をついた。 「歳が居なくて幸いだったな」 「土方さんはもうとっくに出かけていたから」 笑いを含んだ声に顔を向ければ、悪戯気な瞳が此方を見ていた。 「何だ、それではお前は知っていてついて来たのか?」 頷いた顔に、嬉しそうな笑みが広がった。 「早くに出かけて、帰りは遅くなると言っていたからきっと気付かれない」 護衛は明日からで良いと告げた時、頑なに首を振り、伊東に云った事を盾にして、半ば強引に付いて来た理由はそんな処にあったのかと、近藤も苦笑せざるを得ない。 総司が分る事は無いと信ずる秘め事など、土方はいとも容易く暴くだろう。 だが外へと解き放たれた事を邪気無く喜んでいる者に、今それを教えるのは少々酷な気がする。 「では早くに終わらせて帰らねばならんな」 そんな思いの欠片も悟らせぬよう、行く手に射している昼の陽に、近藤は眩しげに目を細めた。 総司一人を供にしての近藤の外出は私事だった。 正月も五日になって漸く自分の用件で動く暇が出来たと漏らす口調には、それまでの忙(せわ)しさから抜け出た気安さがある。 途中で菓子を買い求めた時にも、今から行く先の主が好物なのだろうかと、総司もあまり詮索をしなかった。 だが他愛も無い会話に終始して歩く道も、目的の場所はそう遠くは無いと告げられたきり長く続けば、流石に不審に思うようになって来る。 西本願寺にある屯所を出て、まっすぐに七条の通りを東に暫く来たが、近藤は何処にも道を折れる様子が無い。 その内に加茂川も見えてくるだろうと思った途端、脳裏に閃くものがあった。 「・・・近藤先生」 突然足を止めた総司を、少し前を行っていた近藤が振り返った。 「あの・・、今から行かれる処って」 「田坂さんの処に挨拶に行くのだが?」 とっくに予期していた展開だったのか、少しも慌てる風も無く、むしろ悠然と応える様が総司には恨めしい。 「お前が世話になるばかりで、正月に挨拶に出かけんでは申し訳が立たん。キヨさんにも久しぶりに会って礼を言いたい」 それが言い繕いではなく、近藤の真実から来ているのだとは、語る口調の真摯な重さで分る。 そして新年の挨拶にかこつけて診察を受けさせるつもりなのだとの魂胆も又、云わずとも知れる。 「早くに済ませて戻らねば、歳に知られるぞ」 止めの文句で動かぬ足を促すと、さっさと向けられた大きな背に、総司は遣る瀬無い溜息をついた。 「薬は捨てずに飲んでいたようだな」 ひとつの異な音も聞き逃すまいと、息を詰めるようにして己の耳に全部の神経を傾けていた田坂が、曝された背から漸く離れて掛けた声には、からかうような響きがあった。 「ちゃんと飲んでいた」 それに応える面輪は、小さな不満を隠せない。 「全部とは、俺も思わないがな」 だが返す言葉も、総司の急所を忌憚無く突く。 袖を通し終え襟を合わせながら追う視線の先で、田坂は火鉢の傍らに胡坐をかいて座り込んだ。 室の暖を今少し強くする為、火箸で重なりあった炭を手繰り息を吹きかけると、下でちろちろと熾っていた火が、一気に黒を鮮やかな紅に変えた。 「出歩いても良いのか?」 「暫くは近藤先生の護衛をする事になったのです」 次々に紅に染まる漆黒の塊に注意を捉われながら問うと、いらえの声が嬉しそうに逸った。 「それでは土方さんも承知したのか・・・」 つい漏れた独り言のつもりだったのに、背後の様子が不意に静まり返った気配に、田坂が怪訝に振り向いた。 「どうした」 つい今しがた喜びを隠す事が出来なかった声の主は、気まずそうに無言を決め込んでいる。 「知らないのか?土方さん」 呆れた調子が、益々総司に困惑の様を作らせる。 「・・・今日、土方さんが出かけた後に決まった事だから」 「誰が決めた?」 立ち上がりながら、いつの間にか詰問する風になっている自分に気付き、田坂は苦笑した。 「近藤先生です」 「近藤さんが、ねぇ・・」 腑に落ちないのを無理やり納得させたとも取れる田坂の様子に、今度は総司の方が、薬棚の引出しを探り始めた長身を不思議そうに見上げた。 「この間の薬、暫らくは続けて飲めよ」 何をか言いかけた唇が声を発するのを遮るように先に掛けられた言葉は、総司を黙らせるのに十分だったらしく、聞いた途端に口の中に広がる苦味が蘇ったのか、向けられていた面輪が憂鬱そうにしかめられた。 その様子に、遠慮の無い笑い声が室に響いた。 |