暮色の灯 (五) 「賑やかだな」 後ろをついて来る総司に、田坂が声を掛けた。 確かに行く先からはキヨの笑い声と混じって、近藤のそれも一緒に聞えてくる。 「近藤先生が、キヨさんに会うのを楽しみにしていたから」 「いつもあんなに上機嫌でいてくれれば助かるがな」 「そんな事を言ったらキヨさんが怒る」 「だから此処で言うのさ」 キヨが聞いたら本当に怒り出しそうな事をさらりと嘯(うそぶ)く広い背に、呆れた眼差しを向けながらも、総司も漸く遅れて来た正月の賑わいに弾む心を隠しきれない。 歳が明けてから射す陽は、此れから来る春の勢いそのままに強く、しかし同時に、まだ本当の極寒の季節を控えている緊張感をも秘め、縁側に静かな溜まりを作っている。 その輪の中に歩先を進めれば、撥ねて零れる光が、足袋の白さを妙にくっきりと浮き立たせる。 そんな事にすら面白いと目を細めるのは、やっとそれまでの余裕が心に出来た証なのだろう。 だがそうと気付けば、今度は改めて裡に鬱積していたものの重さを思い知らされ、土方に当たっていた自分が恥ずかしい。 近藤の供をして外に出た事を、きっと土方は怒るだろう。 けれど今日は素直に詫びる事が出来る。 閉じ込められていた籠から放たれれば、こんなにも変わり身の早い己の単純さに、総司は苦笑した。 「何だ?」 忍び笑いを聞き止めて、田坂が怪訝そうに振り向いた。 「何でもないのです」 それに笑みを浮かべたままで応えた時、廊下の曲がり角からキヨが姿を現した。 「いや、若せんせい、もう診察が終わりはったんどすか?」 田坂と総司を交互に見て、キヨの調子は少しばかり大仰だった。 「終わった。早すぎると、キヨの顔には書いてあるが」 こんな仕草を見せるのは、大抵キヨの意向に添わない状況に自分が事を運んだ時と承知し、田坂も苦笑いの先手を打たざるを得ない。 「へえ、うちは近藤はんと二人でお話ししたい事が仰山おますのや。せやから若せんせいには、沖田はんをもう少し診ていてほしかったんどすわ」 田坂の皮肉をやんわりと交わし、キヨは悪びれる風も無い。 「俺はそうしたいが、早く切り上げて屯所に戻らなければ土方さんに叱られると、沖田君がそう云うのだから仕方が無いだろう?」 「田坂さんっ」 都合よく引き合いに出され、直ぐに後ろから抗議の声が上がった。 「それよりキヨは何処かへ行くのか?」 そんな総司の文句など端から気にも留めず、田坂は最初に持った疑問を口にした。 座敷の近藤を一人残したまま、キヨが出かけるのは腑に落ちない。 「近藤はんも甘いものがお好きや云わはって。そんで松浪屋はんの豆餅を思いついたら、どうしても食べて欲しゅうなりましたのや」 「松浪屋の?」 「へえ、すぐに戻ってきますよって、お留守番おたの申します」 こうして説明をしている間ももどかしいのか、田坂が返事をする前に、キヨのふくよかな体が二人の横をすり抜けようとした。 「キヨさん」 それを咄嗟に呼び止めたのは総司だった。 「私も一緒に行きます」 「いや、それやったら嬉しいわぁ。沖田はんと二人やったらたんと豆餅が買えるわ」 「おいっ」 止める田坂の前に、キヨが立ちふさがった。 「沖田はんはキヨと出かけたい、云うてますのや。若せんせいには近藤はんのお相手がありますやろ」 有無を云わせぬキヨの口調には田坂も弱い。 「そや、こないにつまらんお喋りしている間に売り切れてしもうたら大変や。沖田はん行きますえ」 「すぐに戻ります」 苦い顔で立ち尽くす田坂に向けた総司の声が、いつも揶揄されてばかりの相手を封じ込めた小気味良さに、嬉しそうに笑っていた。 松浪屋は、田坂の診療所から五町も行かぬ処にある菓子屋だった。 総司もキヨに連れられ、幾度か足を運んだ事がある。 いつもは求肥(ぎゅうひ)に甘みを抑えた餡を包んだものを名物としていたが、毎年正月になると松の取れない間だけ豆餅を売り出し、それが又旨いのだと、この店の菓子を振舞われる度にキヨに聞かされていた。 「たんと残ってるとええんやけど・・」 本当にその事を案じているらしく、キヨは時折小走りになる。 「そんなに買ってどうするのです?」 「家に帰って食べますやろ?そんで近藤はんと沖田はんのお土産にしますやろ、それから残りはキヨがまた明日食べますのや」 不思議そうに問う総司に、あっさり応えるキヨの歩みは、目当ての店が近づくにつれ更に早くなる。 「近藤先生も甘いものは好きだけれど、そんなに沢山は食べられるかな」 「残さはったら、土方はんにも分けて上げたらよろしいわ」 もう心は店先に飛んでいるのか、前を向いたまま事も無げに言い切るキヨを追う総司の唇から、堪えきれ無い小さな笑い声が漏れた。 狭い小路を勝手知ったる足取りで縦横に通り抜け、幾つかの角を曲がると一気に視界が開けた。 広い通りを狭いと感じさせる数の人や荷車が賑やかに行き交う、其処が東大路だった。 それを真っ直ぐに突っ切ると、今度は清水寺まで続く、勾配のきつい坂の登り口になるが、松浪屋は大路を渡らぬ此方側にある。 ある程度の予想はしていたが、それでも本当にこんなに沢山買うのかと、改めて総司が問う程の量を、キヨは当たり前のように注文し終えて満足そうだった。 それを三つに分けて包んで貰っている間を持て余し、何気なしに店の外に遣った総司の視界の中で、人の姿が慌しく流れ行く。 五日目ともなれば、往来にも正月気分は薄い。 それでも初荷を運ぶ大八車の勢いが、そのまま活気になっている町の様子を、総司は飽きもせず眺めている。 「やっぱりいつものお菓子も貰おておきますわ」 今日は豆餅だけと決めたものの、迷いに勝てず他の菓子を求めるキヨの声に笑いを禁じ得ず、振り返ろうとしたその時、総司の視線が息を詰めて一処に止まった。 「沖田はん?」 丁度総司の方へと体を向けていた店の者の驚いた様子につられ、キヨが後ろを向いた時には、既に薄い背は店を飛び出していた。 「沖田はんっ」 慌てて叫んだ声だけが、往来の人ごみに紛れて、もう影すら見つけることの出来なくなった姿を追い駆けた。 ばらばらの様でありながら、その実ひとつの規律を作って流れている人と人との間を、ぶつからないように身を交わして横切りながら、急(せ)く心に追いつかない足が総司にはもどかしい。 必死に追う後姿は、一歩距離を縮めたかと思うと、すぐさま横から来る者に邪魔をされ叉遠のく。 せめてもの幸いは、一際目立つ長身と、更にそれが坂を登り始めた所為で、視線さえ逸らさなければ見失う心配が無い事だった。 「あのっ、尾高さん・・」 東大路を超え坂を登り始めて暫くして、漸く前を行く背に向かい、総司は声を掛ける事が出来た。 不意に呼び止められたにも係らず、驚く風も無くゆっくりと振り向いた顔は、紛れも無くあの夜の侍だった。 だが相手にとって総司の位置は丁度逆光になるらしく、声の主を見極めようと細めた目が鋭かった。 「去年の暮れに、尾高さんに助けて頂きました」 急峻な坂をずっと走り続けた息は、否応なしに上がる。 言葉は一度に続かず聞きづらいかもしれない。 それをより鮮明なものとする為に、総司はいま少し歩み寄りながら語りかけた。 「・・・あの時の」 相手の記憶の中には暗闇で見た面差しよりも、耳に届いた声の方が確かなものとして残っていたようだった。 一見自然体のそのものに見えるが、しかし何処にも隙の無い構えが、言葉と共に緩められたのを、総司の剣士としての鋭敏な神経が察した。 「すっかり元気そうになられた」 笑った顔の白い歯が、射す茜色の陽の中で際立つ。 「あの時はお礼も言えずに申し訳ありませんでした」 「あれしきの事で、そんなにされては困る」 突然深く下げられた頭(こうべ)に尾高は慌てたようで、顔を上げるように促す手が、言葉よりも先に総司の肩に触れた。 こうして白昼天道の明るい下で見ても、腰に差した二本が、華奢な身体にどうにも重そうな風情の若者は、見かけによらず実直な気質らしく、裡にある感謝の念を衒う事無くぶつけてくる。 侍の上っ面だけの矜持を心良しとはしないが、それでもこの者が今自分に見せている態度は素直すぎる。 それが尾高を困惑させている。 「どうか顔を上げて下され」 いつの間にか此方の方が懇願している様を苦笑して掛けた声に、やっと上げられた面輪は、ひとつひとつが細く丹念な造りなだけに、背後から射す光の明暗の強さに負け、妙に心許ないものに映る。 だがその面にある瞳が、不意の笑い声を察しかね、不思議そうに尾高を見ていた。 「いや、失礼。貴殿を見ていたらある者を思い出し、つい懐かしくなった」 「私を見て?」 取って付けた言い訳を、言葉通りに受け取る総司に向けられた眼差しが、いつの間にか親しげなものに変わっていた。 「悪さをしてばかりでいる悪戯者なのだが、それを叱ると、今の貴方のように殊勝に頭(こうべ)を垂れる。だが貴方と違うのは、果たして反省している様子が本当だったのかどうか、後からいつも判じかねる処だ」 少しばかりうんざりとした声に、総司が笑った。 「お身内の方ですか?」 「左様」 一言応え、あとは笑みを浮かべただけで、それ以上は尾高も応えない。 自分に向けられている眸が今映しているのは、或いはその者の姿なのか・・・ しかし其処まで詮索する己の不躾を、総司は胸の裡で叱った。 そして同時に、まだ名乗ってもいない失態にも気付いて慌てた。 「申し送れましたが・・私は沖田と言います。あの時は名乗る事も出来ずに・・・」 急に改まった口調は、又も尾高を面食らわせたようで、暫し総司に視線を据えていたが、やがて堪え切れ無い低い笑い声が、今度は遠慮もなく漏れた。 それを聞きながら、尾高が笑う理由に心当たるものが無い総司の面輪が、戸惑に染められる。 「これは失礼をした。改めて名乗るまでも無いが、私は尾高周蔵」 どうして良いのか分からぬ風に見つめている深い色の瞳に向かって詫びる声は、何処かまだ愉快そうだった。 ――失礼。 と、そう言えばそうなのだろうが、それが呆れる程明け透けに、悪意の欠片も見当たらなければ、逆に拘る方にこそ引け目を感じさせる。 「尾高さんは、あの家に用事があったのでは無いのですか?」 総司もその例外では無く、相手の笑いにあるのが何かを勘ぐるのを早々に仕舞いにすると、自分達よりも先にある家屋へと視線を移し、先程から疑問に思っていた事を問うた。 それは町屋風の民家とも違い、黒い門構えの向こうの敷地は、かなり奥深くまで広がっているようだった。 「良く分ったものだな」 言い当てられて驚いた様子ではあったが、初めから隠すつもりも無かったらしく、直ぐにそうと認めたいらえが返って来た。 「尾高さんはあの建物に向かって、余所見もせずに歩いていたから」 「では少しも気付かず、付けられていた訳か」 「あの家に行かれる処だったのでしょうか?」 「いや、勝手に覗き込もうとしていただけの事」 全く気付かずにいた筈が無いとは思いながらも、屈託の無い笑い顔を向けられれば、総司の面輪にもつられて笑みが浮かぶ。 初めて会った時は夜でもあり、又自分の状態も普通のものでは無かったから、細かい処まで相手を観察する余裕は無かったが、それでも尾高の形(なり)が、質素を極めるものだとは知れた。 それは今も変わらず、この季節にしては珍しく晴天が続き、冬である事を一時忘れさせる小春日和のうららかさの中でも薄着の尾高は目立つ。 だがそのような事に些かの引け目も感じさせないのは、衣類の上からも容易に察せられる強靭な体躯と、健やかな肉体が基成す、力強さ明るさが作り出すものだと思えば、総司には尾高が眩しい。 「この家には登り窯があるのだが・・」 そんな思いに捉われていた総司に、目線を建物の黒い門に移して尾高が呟いた。 「・・・のぼりかま?」 初めて聞く言葉では無かったが、あまりに突飛に外された話の筋に、言葉の意図する処が分らず、怪訝に反復した声が小さい。 「私は土を捏ね、器を焼く真似事をしていた。それ故京に来たならば、一度は京焼きの窯元を尋ねて見たいと思っていた。が、不意に見知らぬ者が見せて欲しいと申し出ても無理だろうな」 最後は自分自身を諦めさせているような溜息を吐きながらの尾高の語りは、総司の瞳を驚きに見開かせるに十分だった。 「どうされた?」 だがそんな様子こそ、尾高には理解出来ないものだったようで、声も出せずにいる総司に掛けた声が不思議そうだった。 「尾高さんは武士だと思っていたから・・」 「武士にはつい先日戻った」 これも又ごく自然に返ったいらえに、総司の頭は益々混乱する。 「・・・戻った、って」 「兄が死んで、その家督を継がねばならなくなった。それ故今は焼き物の道から暫し外れている」 「それは・・・」 知らなかった事とは云え、結果的に相手の事情に踏み込む事になってしまった自分の浅慮を総司は恥じた。 「すみません、立ち入った事までお伺いしてしまいました」 「どうと云う事は無い。別段隠している訳でもないから聞かれれば応える、ただそれだけのこと」 物云いには、後悔に狼狽している者を慰撫するような、穏やかな響きがあった。 「それよりも。・・・だいぶ増えたな」 人が聞けばそれまでと全く変わらぬ尾高の調子だったが、その中に俄かに緊張が走ったのを、総司自身も己の鋭敏な勘で察していたものと重ね合わせたのか、さり気無く周囲を伺っている声の主を見上げた。 だが視線が捉えた精悍な顔からは、それ程切羽詰まった様子は見受けられない。 ――殺気もどきの気配を感じたのは、会話のどのあたりからだったのか。 場所を移動して、敵の目を自分だけに引き付けようとも一度は考えたが、相手は思いの他数を集めたらしく、みるみる囲いの体制を取られた。 人一人を庇いながら敵陣を破るのは無理だと踏んで、総司も暫し様子を伺っていたそれを、尾高も察していたらしい。 「ひとりふたりならば無用の殺生は避けたいと、足に任せて逃げ切る処だが・・」 「何人位かな?周りに迷惑が掛からなければ良いけれど」 まるで他人事のように呟いた総司に、尾高が面白げに視線を向けた。 「意外に肝が据わっているらしい。いや、意外と云う言葉は失礼だったか」 「良いのです。慣れています」 本当にそう思っているらしく、笑って応えた顔には拘りが無い。 「巻き込んでしまった貴方には申し訳が無いが、取り合えず此方から踏み込み、血路を開くので其処から逃れて欲しい」 敵の様子を気にするでも無く、淡々と語る度胸の良さよりも総司を驚かせたのは、狙われたのが自分だと言い切っている尾高の言葉だった。 そしてどうやらその確たる根拠が、尾高にはあるらしい。 だがそれを何故と問うより早く、風切るように走り出した背を、これも又瞬時の間も置かず総司が追った。 仕掛けるのは此方とばかりに油断をし、まさか相手から斬り込んで来るとは思っていなかった敵陣に、俄かに動揺が走ったその隙を見逃さず、尾高の左の親指が鯉口を切るや否や、鞘を離れた刃は、逆光の中で銀の弧を描き、正面に立ちはだかっていた男に真っ向から振り下ろされた。 瞬く間も無いその一連の動きを、やはり敵の間に飛び込みながら、総司の瞳はひとつひとつ鮮明に脳裏に焼き付けて行く。 類稀な剣客―― そう形容して良かった。 ある程度の予測はしていたが、その範疇を大きく超えて、尾高周蔵と名乗るこの人物の腕は、総司にとって驚愕すべきものだった。 だがその尾高も又、横の若者の動きに目を釘付けられていた。 俊敏さが、尋常では無い。 囲いを切り崩された敵が逆襲に出る前に、尾高が二人目に目を移した瞬間、一人の男が地に叩きつけられた。 刃は返してあったらしく、血こそ噴き出してはいないが、どうやら打たれた男の肩は骨が砕かれているらしい。 苦痛にのた打ち回る様こそ、息あるだけに生々しく、見る者達を臆させるのには効果的だった。 若者の一太刀は、必ず相手を倒す。 己の弱点となっている脆弱な体躯と力の無さを補う、それが唯一の手段と心得ている動きだった。 これが新撰組の沖田なのだと―― 噂に聞いていた剣客と、どうにも頼りない印象を与える若者とが、漸く尾高周蔵の中で結びついた。 だがこの修羅の場でしかと眼に刻んでいる今でさえ、信じられない思いを優先させる自分に、独り苦笑いを禁じえない尾高のその胸の裡を、総司はまだ知らない。 鮮やかな切口で倒されて行く味方を目の当たりにして、構えを見せていた者達の顔に怯むものが見え始めたその時、背中合わせになりながら、共に対峙する相手に注がれていた尾高の視線と総司のそれが、同時に一点に向けられた。 だが次の瞬間には坂の上の方角、総司の丁度真正面にいた敵が、咄嗟に振り向いたのも遅く、一閃した刃光と共に、声ひとつ上げる事無く土ぼこりを上げて地に伏した。 阻むものが無くなり、急に開けた視界の先に立つ者の顔を見た刹那、総司の瞳が驚愕に瞠られた。 「斬ったら駄目だっ」 刀についた血潮を無造作に振るい落としている伊庭八郎に、総司が掛けた第一声は其れだった。 「急所は外してある。後で田坂さんにでも縫ってもらえ」 いらえを返しながら、倒れた男には一瞥もくれず、まるで今のこの状況を忘れさせるようなゆったりとした足取りでやって来た八郎は、然したる構えも見せずに総司の横に立った。 「それとも、土方さんが困るかえ」 「ここは新撰組だけの持ち場では無いから・・・」 からかうような八郎の口調に、憂鬱を隠せない呟きが、総司の唇から零れ落ちた。 呆気に取られるような二人のやりとりを、尾高も面白そうに聞いている。 「それにしても。・・そろそろ仕舞いにしといた方がいいだろうな」 視線だけは取り囲んでいる敵に鋭く据えながら、八郎の声はどこまでも気負いが無い。 「左様。道を塞いでいては、此処を通りたくとも通れぬ者達に迷惑がかかる」 背中越しに、八郎よりも少しだけ身丈の高い尾高の声がした。 その言葉の終わらぬ内に、唸り声と共に闇雲に正面から襲い掛かってきた相手を、低く腰を落し胴を払ったたった一撃で、声の主は倒した。 血飛沫を上げ、物のように坂を転がり落ちる人間を見て、臆さない者の方が少ない。 先程から切先だけは此方に向けてはいるが、攻撃を仕掛けて来たのが今の男一人だけと云う事から察すれば、敵陣は数を恃(たの)みの寄せ集めと知れる。 それを踏まえて、尾高は相手に最後の威嚇を見せたのだろう。 殺気ばかりが逸っていた者達の囲いが、じわじわと後ろに退きつつある。 やがてその内のひとりが、抜けがけるように身を翻し坂を駆け出すと、切欠を待っていた残りの者達も、後はもう振り向きもせず足をもつれさせる勢いで我先に続き始めた。 だが張った神経を緩めずその様を見ていた総司の視界の隅に、ほんの少し、入るか入らないかの微かさで黒い影が映った。 それが何かと認識するより先に、右の足が鋭く地を蹴っていた。 危ないと、叫ぶ間もなく尾高の前に飛び出したまでは覚えている。 が、次の瞬間すっぽり身を包むような何かに覆われたと思った寸座、今度は激しい背中の痛みに襲われた。 ――覚えているのは其処までだった。 「総司っ」 八郎の険しい声が、混濁の淵から徐々に総司を呼び戻す。 「大丈夫かっ」 まだ朧な意識の中、自分の上にあるものの重さが苦しく、思わず呻き声に似たものが唇の隙から漏れた。 だがそれが人の体で、更に尾高だと分かった途端に、総司の全てが記憶が、途切れる直前にまで溯って蘇った。 必死に身体を捩りその下から這い出て見れば、庇う筈が逆に庇ってくれた主は、額に冷たい汗を浮かべて唇を噛み締めている。 「尾高さんっ」 名を呼び、更に尾高を苦しめている元凶を視線で探ると、左の脚の膝の上辺りに細い矢が突き刺さっている。 「・・・大事無い」 応えた声は確かに気丈なものだったが、激しい痛みを伴うらしく、顔は伏せられたままだった。 「尾高さん、矢を抜く。暫し堪えてくれ」 言うが早いか、八郎はすでに矢に触れていた。 矢の先は銛の様に鋭く広がっているから、抜き出す時に再び傷を深める。 だが早くに取り除かないと、周りの肉が矢を捲くように硬くなり、抜く事自体が難しくなる。 見る限りかなり深くまで食い込んでいるそれを抜くには、相当の苦痛を伴う筈だった。 「・・手数をかける」 その事を承知しているのか、覚悟を決めたように尾高の目が閉じられた。 「総司、この人の膝を抑えていてくれ」 八郎に促され、総司は尾高の動きを全身の力で止めるように、矢の突き刺さっている左脚を両手で押さえ込んだ。 一気に凶器が脚から抜き去られた時、尾高は声ひとつ漏らさず、鋼のような体を僅かに硬直させただけだった。 だが栓を抜かれた血管(ちくだ)は、堰を切ったように血を溢れ出させ、小豆色の袴を濃い紅に染め上げて行く。 「お前歩けるか?」 八郎が向けた問いは、先程尾高と共に地に叩きつけられた時、総司が受けた衝撃を憂えたものだった。 尾高の傷を凝視している面輪は硬く蒼ざめてはいるものの、総司は気丈に頷いた。 「ならば駕籠を拾って来い、この人を田坂さんの処に連れて行く」 その間にも八郎は、己の片袖を千切るとそれを傷の上から巻いて血止めにしている。 言葉の終わらぬ内に、総司も叉立ち上がり、坂を駆け出した。 軋むように痛む背は、叩きつけられた時の名残だろう。 だがそんな事はどうでも良かった。 例え身がばらばらに砕かれようとも、一時でも早く尾高を苦しみから解放しなければならない。 あの時。 尾高に向けられ放たれた矢に気付いて庇おうとした自分は、叉も逆に助けられてしまった。 咄嗟に地に伏せたからこそ、矢は尾高の脚を射たが、あのまま自分が盾になっていたら間違い無くもっと深い傷を負っていただろう。 否、それだけでは済まなかった筈だ。 尾高には二度助けられた。 一度目は遣る瀬無く沈む心を、そして二度目は命そのものを。 総司にとって尾高周蔵は、今何を排しても助けなければならない人間だった。 陽はいつの間にか傾き、室に差し込む西日が、視線を落としている畳のささくれまでをも金色(こんじき)に煌かせる。 身体を暖めるようにとキヨが入れてくれた茶も、その心遣いの名残を、微かな温さに留めるだけになってしまった。 尾高周蔵をこの診療所に運びこみ、田坂に傷の手当てを託してからもう小半刻が経っている。 座敷の一番奥にいる近藤は腕を組み、何かを考え込むようにじっと動かない。 その横で八郎も、いつもとは異な厳しい表情で、半眼にした双眸は一点を見据えている。 始めはぽつりぽつりとあった会話もいつの間にか途絶え、今は総司も伏せた瞳が映し出す畳の目を見るともなしに視界に入れている。 が、その総司の顔が不意に上げられた。 同時に八郎も襖を見、近藤も又腕組みを解いた。 「君はどうしても厄介を拾って来るのが好きなようだな」 襖を開けて現れた田坂は、腰を浮かした総司を手で制し、更に動きかけた唇が何か言葉を発する前にそれをも封じた。 「それであの人はどうだえ」 近藤の前でもあり、流石に胡坐をかくなどという行儀の悪さだけは控えている八郎の声にも、憂えるものは隠せない。 「傷は深いが、幸い骨は外れている。暫くは不自由をするだろうが、十日も経てば元の通りに歩けるようになるだろう」 必要最低限の事実だけを端的に述べる田坂の説明は、医師と云う仕事柄がさせるものらしい。 「田坂さんにはいつも迷惑をかける」 それまで寡黙に座していた近藤が、深く頭を下げた。 「いや、こんな事には慣れています。どうかご懸念無く。・・・但し」 近藤に丁寧に応えながら、田坂の視線は総司に流れた。 「今度は其処のお弟子さんを、診たいのですが」 「・・・私は、何処も怪我などしてはいない」 今にも立ち上がりそうな勢いで田坂を見上げていた総司の調子が、急に弱いものとなった。 「お前の背中は正直に悲鳴を上げているぜ」 だが精一杯の強がりを、八郎の鋭い目が容赦無く見破る。 咄嗟の事ゆえ尾高も庇うだけが精一杯だったのだろが、あの頑強な体の重みを真っ向から受けて地に打ち付けられたからには、それなりの大きな衝撃があった筈だ。 総司の右肩が落ち加減になっている事も、そしてそれが何処かに熱を持つ痛みから来ている事も、尾高を此処に運び込んだ時に気付いていた八郎だった。 「尾高さんが君の事を心配している。自分の下敷きになったからには何処か傷めているのではないかと」 「尾高さんが?」 案じていた人の名を聞いて、遂に中腰になった時に、それまで悟られまいと気をつけていたにも係わらず、咄嗟の動きの隙を狙ったように走った背中の痛みに、総司の顔がしかめられた。 「ほらみろ」 揶揄する八郎の声にも、懸念が的中した憂鬱が混じる。 「総司っ、我がままを云わず診て貰え」 近藤も眉根を寄せて、叱る声を憚らない。 「怪我人を心配させる怪我人も良くは無いが・・・」 すっかり立ち上がった総司に向けていた視線を、今自分が開けて入って来た襖に遣って、不意に田坂の言葉が止まった。 「煩い人間が、来たようだな」 その後を引き取った八郎が、此方はもう鬱陶しさを臆面も無く顔に出して、うんざりと呟いた。 そして総司は、キヨの柔らかな声と、応える土方のそれが段々と近づいて来るのを、ある種慄きを持ちながら、しかし何を咎められても甘んじて受け容れる覚悟の中で聞いていた。 |