暮色の灯 (六) 出先にいる土方を、田坂の診療所へと呼んだのは近藤だった。 その使いを託す者の姿を眼に映した時、総司の瞳が驚きに見張られた。 それは土方の命を受け、暮れから姿を隠していた伝吉だった。 尾高を此処へ連れ込むや否や、まるで全ての成り行きを見ていたかのように伝吉は現れ、更にそうなる事を承知していたとしか思えない落ち着き払った近藤の指示で、直ぐに又何処かへと消えていった。 分らぬ事ばかりの中でも、伝吉は土方への使いに走ったのだと、それだけは総司にも判じられた。 「遅かったな」 案内して来たキヨの後ろにいる土方に、座敷の一番奥から近藤が声を掛けた。 「つまらぬ談義に巻き込まれていた」 それに淡々と応える端正な面差しは、常と変わらぬ愛想の無いものだった。 だがあまりに束の間過ぎて、他の人間には気付かれなかっただろうが、襖が開けられるや否や、土方の目は田坂の横に立ち尽くす総司を射すくめた。 勝手を咎める厳しさと、だが何よりも無事な姿を見つける事が出来た安堵と。 それらの心の有り様を一瞬に籠めた視線は、総司を其処に縛りつけ、動けなくするのに十分だった。 「田坂さん、総司が又厄介をかけた」 「これで終わってくれれば有り難い」 下げられた頭に掛けられた田坂の声が、揶揄するように笑っていた。 「が、とりあえず先に傷を診させて貰いたいのだが・・・」 「傷?」 怪訝に顔を上げた土方は、まだ総司の身に起きている異変を知らない。 「こいつは、自分の二回りはある人間の下に敷かれたのさ」 八郎の言葉で咄嗟に向けた土方の視線が、うろたえて揺れている総司の瞳を捉えた。 「尾高さんに・・・、あの、暮れに助けてもらった人なのですが、又助けられたのです」 「何処を」 「・・え?」 「何処を傷めたと聞いているっ」 土方は総司の説明など聞くのももどかしげに、その身に負っているらしい傷の事を、この男には珍しい性急さで問い質す。 「何処も傷めてなどいない」 「総司っ」 頑なに拒む様に、遂に近藤からも低い叱責が飛んだ。 「田坂さん、すまぬが宜しく頼む」 立ち上がり頭を垂れた師を見れば、総司ももうそれ以上抗う事は出来ない。 更に土方の険しい視線に見据えられた途端、それでもまだ何か言いたげだった唇が噤まれ、同時に瞳も伏せられた。 思い切りの悪い足取りで、田坂の後ろに続く薄い背が廊下を曲がり見えなくなると、漸く土方は室に身を入れ、後ろ手で障子を閉めた。 乾いた空気で敷居はすっかり滑りが良くなっていたようで、桟と桟を合わせた途端に思いがけない大きな音がした。 だがそれをものともせずに、土方の視線は即座に八郎に向けられた。 「伊庭、尾高周蔵、お前にはどう云う用件の持ち主だ」 問いながら腰のものを抜くと、三人が円を囲むようになる形で座した。 「新撰組じゃとっくに調べがついているだろうに」 「仇討ちの後見か?」 「ほらみろ」 横に来た土方を見遣った顔が、皮肉に笑った。 「断れない人に、頼まれたのさ」 「坪内主馬殿か」 「其処まで知っているのならば、わざわざ聞くあんたの意地の悪さも筋金入りと、いっそ褒めてやりたいね」 「それこそ、お前には疾うに承知の事だろう」 辛らつな言葉の応酬は、昔馴染みの気安さが、わだかまるものを残さない。 坪内主馬は、やがて八郎が流派の後継者となるだろう心形刀流の道場を、江戸の番町で開いている。 坪内家は御小納戸役の幕臣であり、門弟とは云え伊庭家との繋がりも深いのだろう。 そんな意味で断りにくい相手と、八郎は云っているらしい。 「褒められついでにお前の知っている事、全て話してもらう。坪内殿はその尾高周蔵の仇の事を何と云った」 「新撰組も追っている人物だと、ただそれだけさ。名は・・・植田末次とか云ったか」 八郎の調子は素っ気無く、仇なる人物に対しては、興味を持っているのか否かは判ずるに難しい。 「伊庭君、尾高周蔵は坪内道場では高弟だったのだろうか?」 それまで何事かを考え込んでいたように、厳つい表情を崩さなかった近藤が、組んだ腕をそのままで問うた。 「いや、尾高が坪内道場に居たのは、若い頃に半年ばかりと、後は去年、秋も暮れる頃からのひと月程だったと云う事です。主馬さんは坪内家の知行地がある関係で、かつて一度美濃を訪れた際に、岩村藩にある心形刀流の道場に立ち寄り、其処で尾高の剣術の才を見出したらしい」 「それで江戸に呼び寄せたのか・・・」 自らも道場主としての近藤は、山野に埋もれるに惜しい才を見出した、指導者としての坪内主馬の心情が我が身のものとして分かるのか、呟いた声には深く納得するような響きがあった。 だがその尾高は、僅かの期間江戸に居ただけで国元に帰ったのだと云う。 運を掌中に包み込んだ人間が、先に見(まみ)えるだろう栄華を、惜しげもなく捨て去るとは考え難い。 まして尾高は若い。 何か余程の事情が起こったと勘ぐらなければ、到底信じられない話だった。 「何故尾高は半年ばかりで国元に戻った?」 土方は、そう云う辻褄に合わない話の綻びを鋭く突いて来る。 「何でも焼き物をやるのだと云ったそうだ」 「焼き物だと?」 流石の土方も呆気に取られたらしく、めったに聞くことの出来ない怪訝な声に、八郎の唇の端が愉快そうに歪められた。 「主馬さんもこれには驚いたらしい。主馬さんは後々尾高を自分の後継者に育て上げる腹積もりもあったらしいからな。俺とて最初に聞いた時にはどんな奴か顔を見たくなった」 「見る事が出来て幸いだったな」 「どうにかな」 苦々しげな恋敵の顔を見れば、更に笑いは止まらないとばかりに、八郎の声は面白げだった。 「だが坪内殿は、何故伊庭君に尾高周蔵の仇討ちの後見を依頼してきたのだろうか」 他愛も無い言葉ひとつのやり取りに、互いの意地を通そうとする二人に釘さすように、近藤が話を核心に戻した。 「・・・これから先は」 一度ちらりと土方に視線を流すと、八郎は口元から笑みを消し、正面から近藤を見据えた。 「この人が良く知っていると思いますが、尾高の仇討ちの相手、植田末次は元新撰組隊士。脱走後は尾張美濃近辺で詐欺強奪を繰り返し、未だ行方不明。尾高周蔵の兄、尾高助左衛門は、その植田に昨夏斬られて命を落とした」 解決を見ないこの事件が、心の重しになっているのは否めなく、八郎の語りを聞きながら、近藤の顔にも苦渋に似た厳しいものが走る。 だが土方の表情は、微塵にも変わらない。 「兄の仇討ちの為に、今一度剣を握らねばならなくなった尾高は、師である主馬さんの門を再び叩いた。時の限られた中で荒修行とも云える稽古を繰り返していた処へ、岩村藩から、植田が京に潜伏しているとの報がもたらされたのが丁度半月前」 「そして京に上って来た最初の夜に、近藤さんと総司が出くわしたのか」 八郎の後を続けて、尾高の軌跡を己の脳裏に刻み込むように、土方の低い声が漏れた。 「らしいな。尤も主馬さんからの早飛脚の文が俺の元に届いたのはその翌日、大晦日の事だった。新撰組も血眼になって探している筈の相手だ、その膝元の京では、仇を討つ前に植田を捕らえられてしまう可能性が大きい。それ故尾高を助け、見事本懐を果たさせてやって欲しいと、文には書かれていた。・・・どうやら主馬さんは、尾高と云う人物に惚れ込んでしまっているらしい」 最後は苦笑しながらだったが、八郎の物云いには坪内主馬の心情を厭う響きは無い。 坪内道場では、かつて新撰組の永倉新八が師範代を勤め、島田魁も故郷の縁を頼り、腕を磨いていた時期がある。 その二人が京にいながら、新撰組であるが故に尾高の事を打ち明けられず、敢えて自分に後見を託されて欲しいと文を寄越した坪内の行動が、八郎にはむしろ慕わしいものに思える。 記された内容は一切の装飾を省き、淡々と隠す事無く真実だけを連ねており、しかしその簡潔さ故に、書いた人間の掛け値の無い心の有り様を伝えていた。 目を通しながら、弟子を案ずる坪内主馬が、白い紙を透かせて頭を垂れているようだった。 きっと尾高が江戸を発った後も、坪内は自分に援助を求めるのをずいぶんと迷ったのであろう。 それが瀬戸際に来て、どうにも居たたまれなくなり筆を取ったらしい。 早飛脚と云う慌しさが、そんな事情を察せよと云っているように、八郎には思えた。 「知っている事は話した。それから尾高は俺の事はまだ知らない。あの人を見つけたのは昨日の事だからな。尤もさっきの件で、つい名を叫んだからにはもう隠すことも出来まいが・・。さて、この先はあんたが喋る番だ。俺はあの人と一緒に、伝吉の姿も見つけたぜ」 手の内を見せた見返りを、八郎は容赦無く促す。 取引となれば土方も隠すつもりは無かったらしく、薄く引き締まった唇が動いた。 「昨年の夏、植田の探索は不首尾のまま打ち切られた。が、それは表向きの事に過ぎない。この失敗の責を感じ、その後も単独で奴を追い続けていた島田が、漸く手にした情報から植田を捕らえに再び美濃に向かったのは、去年の暮れの事だった」 語る土方の脳裏に、その捜索の役目を自ら買って出て、一月近くも時を費やした挙句、見つからなかったと涼しい顔をして帰ってきた人間の顔が、一瞬浮かんだ。 その人物。 伊東甲子太郎の白皙を、しかし土方は即座に切り刻んだ。 ――脱走した植田末次が新撰組隊士として朝廷の名を騙り、悪行を働いている故早急に捕縛せよと、尾張藩からの使いが来て直ぐに、伊東を始めとする数名が東へ下った。 伊東は尾張に止まり東海道近辺を探し、同行した島田魁は分かれて中仙道を下り、じき塩尻に近い木曽福島まで探索の手を伸ばしたが見つからず、やはり此方も無念の内に帰京せざるを得なかった。 それを報告に来た時の、苦渋に満ちた島田の顔を、今も土方は克明に覚えている。 島田は、必ず植田は自分の探した範疇にいた筈だと、それを見つけられなかったのは何か情報が漏れていたからに相違ないと、あからさまには云わなかったが伊東を疑っている事を隠しもしなかった。 その後伊東には極秘裏で、土方は島田に植田の行方を追わさせていた。 そして昨年暮れ、植田が美濃岩村藩にいるらしいとの情報を得た島田は、どうしても赴かせて欲しいと畳に額を擦り付けた。 その夜養母の危急と云う事にして、凍てた月の明るさすら厭うように、屯所の裏口から美濃へと旅立った島田の姿を知っているのは土方と伝吉だけだった。 五日。 必死の探索を続けていた島田から、早飛脚でもたらされた文には、植田がすでに一足違いで京に向かった後だったと、そして昨夏岩村藩内で、植田に兄を殺された尾高周蔵も、その仇を討つ為に修行中だった江戸から京へと上っている筈だと記されていた。 「尾高周蔵の名も島田の調べで知った。が、その尾高が、近藤さんや総司とああ云う出会いをするとは思いの外だった」 驚いたと云いながら、八郎に説く土方は眉ひとつ動かす訳でも無いが、云っている事だけは本当なのだろうと、読めぬ相手の顔を見ながら八郎は思う。 自分とて、まさか総司の方が先に尾高と面識を得るとは思ってもみなかった。 世に渦巻く人の数は計り知れない。 その中のほんの一握りにも満たない人間が、この京と云う地に手繰り寄せられ結びつけられるのは、不思議としか云い様が無い。 人には互いに繋がる、持って生まれた縁(えにし)と云うものがある。 それを運命(さだめ)と呼ぶのなら、この出会いを、偶然と一言で仕舞いにしてしまうにはまだ早いのかもしれない。 総司と尾高の奇遇に、天はこれから何を置き土産にしようとしているのか・・・ だが何も分からずとも何も見えずとも、もう想い人は自ら渦中に飛び込んでしまった。 それを思えば、既に戻る道は無く、先へと進むしか無い現に、今八郎は憂いを禁じ得ない。 「俺は歳からそれらの一連の事情を、尾高さんに会った後に初めて聞いた」 例え局長の自分にも、形を掴むまでは極秘裏に物事を運ぶ土方を、近藤が揶揄するような笑いを籠めて見た。 「この人はそう云う人です。・・・が、土方さん、あんたにはまだそれだけでは無い事情がありそうだな」 近藤に相槌を打ちながら、八郎の視線は鋭く土方に向けられた。 「総司は気付いていないようだが・・・」 敢えて言葉を止めた八郎が、この先に続けるものを予想し、更にそれに対する構えなのか、土方は仏頂面を崩さず一点を見据えて動かない。 「禁足はちと不自然すぎたな。あんたにしては焦っている」 応えぬ土方の怜悧な横顔からは、裡に秘める感情が分からない。 だがいらえが戻らぬからこそ、それが是と承知できた八郎の胸の裡が俄かにざわめく。 「先に矢で狙われたのは、総司の方だった」 此方から仕掛けぬ限りは埒の明かない相手に、全てを省いて告げた一言に、初めて土方の端正な面が歪められた。 「伊庭君っ」 だが太い声で短く問うたのは近藤だった。 「あの時、弓を引いた奴が狙ったのは確かに総司だった。敵は最初から総司に的を定めていた。だが矢は尾高に向けて放たれた。尾高もそれに気付き、結果的に庇われる筈が総司を庇って矢を受けた」 「どう云う事だ」 気色ばむ近藤には応えず、八郎は視線を土方に止めたまま動かさない。 表情の僅かな動きひとつからでも、真実を見逃すまいと凝視している。 「敵は総司をずっと視野に入れておき、あいつが其れに気付いた刹那、尾高さんに向かって矢を射た」 「総司が気付いた刹那・・・」 「そうです。総司が尾高を庇うと踏んで放った」 視線は相変わらず土方を捉えたまま、八郎は近藤にいらえを返した。 「総司に矢が当たれば、気を取られた尾高に隙が生じる。其処を突いて、直ぐに二本目の矢が、今度はあの人に向かって放たれる筈だった。二人共に殺すには、離れている位置ではしくじる可能性が大きい。だから確実に仕留める為に、敵はそう仕組んだ。射る奴は寄せ集めの連中とは違い、最初から総司と尾高だけを標的にして、周囲の注意が散漫になる時を待っていた。あの時・・・尾高と共に、確かに総司も狙われた。そして土方さん、あんたはその理由を知っている筈だ。禁足を言い渡したのは、狙われているあいつを屯所に閉じ込め、危険を回避させる為か」 「歳っ」 唸りにも似た近藤の声が、土方に向け発せられた。 だが土方の唇は堅く結ばれたまま、開かれようとはしない。 「あんたが言わない・・いや、まだ言えないのには事情があるのだろう。が、俺は俺のやり方で総司を狙った奴を見つける」 際まで抑えた八郎の苛立ちの代わりのように、火に追い立てられた鉄瓶の口から、湿った音が間断なく噴出す。 「必ずな」 念を押して立ち上がった八郎を見ることもせず、沈黙の中で微塵たりとも動かぬ土方の横顔に射す黄金色の陽が、高い鼻梁のこちら側に、抑えている苦悶そのものを映し出すように深い影を落とした。 思わず身じろいでしまったのは、それが傷に触れられた痛みからでは無く、貝殻骨の辺りに貼られた軟膏の冷たさが、ぞくりと首筋まで這い上がる感覚に全身が震えたからだった。 「少し辛抱しろよ」 「でも冷たい・・」 応える調子に珍しく強い抗いが籠もるのは、放っておいても治ると云う主張はいともあっさり退けられ、肌を覆ってゆく白い晒しの大仰さが、ひたすら遣る瀬無く情けないものにしか思えない不満から来る、田坂への甘えだとは総司自身も気付いてはいない。 「直ぐに冷たくなくなるさ。それにしても、あの人の下に敷かれて、良くこんなもので済んだものだな」 田坂の調子には、その事を感心する風な響きすらあった。 総司も咄嗟に構えたのだろうが、それにしてもこの身を遥かに凌駕する重さと共に地に叩きつけられた事を思えば、背中の、ちょうど肩甲骨の浮き出ている辺りが酷く腫れてはいるが、それだけの怪我で終えた事が奇跡に近かった。 それは倒れこむ寸座、総司の背中に回された尾高の腕が衝撃を和らげた結果に他ならない。 瞬時にそう云う体勢が取れるのは、尾高自身が尋常ではない俊敏さの持ち主なのだろう。 だが其処まで思えばもうひとつ、田坂の胸の裡を翳らせるものがある。 尾高は何らかの事情で命を狙われ、そしてそれを知った総司は躊躇いも無く疑惑の中に飛び込んでしまった。 想い人は―― こうなればもう誰の言葉にも耳を貸さない、そう云う強さ激しさを裡に秘めている。 先程自分が診た人物の顔を、田坂は複雑な思いで脳裏に浮かべた。 宿痾を抱える胸への圧迫は、殊更避けなければならない。 少しだけ腕を上げさせ、脇を通して腹まで晒しを巻きつける手つきは、こなれた職人のそれのように淀みなく動く。 「きつくはないか?」 問い掛けに、無言で頷くだけの仕草が、今施されているこの治療が本意では無いと告げていた。 「・・田坂さん」 「何だ?」 晒しの端を、最後のひと巻に仕舞い込みながら応えた声が、其方に気をとられているのか愛想無い。 「尾高さんに会いたいのだけれど」 「構わないが。・・・近藤さんや土方さんも同じ事を思っている筈だ」 脱がせていた着衣の後ろ襟の辺りを持ち、それを着せ掛けてやりながら、そう問われる事は疾うに承知の事だったのか、田坂のいらえは淡々としている。 「近藤先生や土方さんと一緒ならば、通り一遍の挨拶になってしまう」 「形はどうあれ、心を籠めれば同じ事だろう」 「でもっ」 袖を通し終え、胸元を合わせながら、総司の食い下がりは常に無く執拗だった。 田坂の意見は確かにそうなのかもしれない。 それでも総司は尾高と向き合い、自分の言葉で礼を言いたかった。 近藤や土方の後では遅かった。 「・・・あの人には二度も助けられた」 最後は自分に言い聞かせるように呟いた語尾が、障子の白を緋の色に染め上げた残照に溶けるように消えた。 「本当に大丈夫故、どうか頭を上げて欲しい。私こそこうして厄介を掛けてしまっている事が心苦しい。何より、貴方を巻き込んでしまった事が申し訳ない」 尾高周蔵は床の上に傷ついた左脚を伸ばし、右脚は膝で折り、丁度半分だけ胡坐をかいているような姿勢で、深く頭(こうべ)を垂れたまま動かない総司に、先程から幾度も同じ言葉を繰り返し掛けている。 朴訥と飾り気の無い気質こそがこの男の本当なのだろうが、こうなると気の利いた台詞で相手を慰撫する術など持たない不器用さが、ひたむきにぶつけられる真摯に戸惑い、果ては狼狽の対象にすらなるらしい。 傷を洗い清め縫合する間も呻き声ひとつ漏らさず、己に施される処置を眉も動かさず見ていた度量の持ち主が、こうまでも困惑している様は、傍で見ている分には何とも気の毒な気がする。 「もうそれ位にしろよ、尾高さんが困っているぞ」 助け舟を出したのは、そんな尾高を見かねた田坂の同情からだった。 脅すように促され、少しだけ上げられた瞳が、案ずるなと云う言葉を信じて良いものか判じがたいらしく、まだ不安に揺れていた。 「これしきの傷はかすり傷にも及ばない、もう気に止めて下さるな」 やっと相手の硬い表情が解れつつあるのを認めると、その糸口を窄めないように、尾高は精悍な面差しに明るい笑みを浮かべた。 「それよりも、貴方の方は大丈夫だったのだろうか?何しろあの時は咄嗟の事ゆえ、手加減もできずに下に敷いてしまった」 「私は大丈夫です」 ずっとそれが懸念だったのか、俄に真剣味を帯びた尾高の声に、総司が慌てて首を振った。 「嘘では無い。幸い軽い打ち身だけで済んだようだ、尤もその治療も本人は不満だったらしいが」 ちらりと揶揄するように総司を見、次に尾高に向けた田坂の顔が苦笑していた。 「ならば良かった」 外見(そとみ)に似合わぬこの若者の頑固さを、尾高も短い間に知り得たようで、言外に込められた田坂の意図を素早く察して応えた目が楽しげに和んだ。 「ともあれ・・・そろそろ近藤さんと土方さんに終わったと声を掛けねば、二人とも呼ばずともやって来るぞ」 「・・あっ」 「何だ、忘れていたのか?」 急に落ち着かなくなった総司の様子に、流石にうんざりと田坂が零した。 「そうじゃない、忘れてなどいない。・・・けれど」 「けれど何だ?」 「尾高さんは・・・あの、尾高さんは動けないのだから、暫くは此処に・・」 躊躇いがちな声が、そうして欲しいのだと云う懇願を隠しもせず、この診療所の主に向けられた。 「そのつもりだ」 問うた方は精一杯の勇気を振絞ったのだろうが、それに戻ったいらえは呆気ない程に簡潔だった。 「いや、それは困るっ」 正直に安堵の色を浮かべた面差しの反対側から、今度はそれを拒む鋭い声が走った。 「困るも困らぬも、もしも此処では気に入らないと言われるならば、貴方の次なる塒(ねぐら)は新撰組になるがそれでも宜しいか?直に顔を見せる近藤さんは、これ幸いとばかりに愛弟子の恩人を屯所に招き、懇ろにもてなしてくれる筈だ。・・少なくともこのまま貴方を帰そうなどと云う気はこれっぽっちも無いだろう」 真実を述べているに過ぎない田坂の言葉だったが、聞くものにとっては強烈な脅しにもなるらしい。 「それが嫌ならば、傷が塞がるまで暫くは此処で養生してもらう」 然したる風も無く淡々と告げられた止めの文句に、抗う術無く剛毅な気性の主は押し黙った。 「ではそう云う事で承知してもらう」 その尾高の様子など気にも止めない風に、田坂は軽い身ごなしで立ち上がった。 「さて、苛々しているだろう人間を呼んでくるか・・・」 待っている者の渋面を脳裏に浮かべたのか、障子に手を掛けながらの憂鬱そうな独り言に、今度は聞いていた総司の面輪が翳った。 遠くなる田坂の気配を感じながら、残された二人にはそれぞれの意味で思う処があるのか、先程までの和やかな空気は消え、重い沈黙が室を支配する。 「あの・・・」 先にそれを破ったのは、総司の方だった。 「何だろうか?」 深い思考に捉われているように目を伏せていた尾高が、やっと総司に視線を向けた。 「尾高さんは、八郎さん・・・いえ、伊庭さんとはお知り合いなのですか?」 「伊庭八郎殿か?」 姓と名を繋げて聞く尾高に、頷いただけで是だと応える総司の仕草には、黙するからこその真剣さがあった。 「私の剣の師は、江戸の番町と云う処で道場を開いている、坪内主馬と云う人物だ。貴方はご存知だろうか?」 「坪内さまの道場ならば、江戸に居た頃に近い場所にありました。それに・・・」 不意に言葉を止めてしまったのは、田坂によって、既に自分が新撰組の者と知られてはいるが、もしや尾高にとってその名は嫌悪するものだったらと、躊躇する総司の心が為させたものだった。 「新撰組には永倉新八殿、島田魁殿と云う坪内先生の門弟がおられると聞く」 その総司の懸念を自ら払うように、尾高の口がふたりの名を告げた。 「永倉さんや島田さんを、尾高さんはご存知なのですか?」 「共に坪内道場の俊英だったと聞いている。が、私が江戸に行った時と、二人のおられた時期とは外れ、顔までは存ぜぬ。それに私が坪内道場に居たのはほんの半年あまり。坪内先生にとっては不肖の弟子でもあったからな」 驚いて見開かれた瞳に、自嘲ともつかぬ苦い笑い顔が向けられた。 「坪内先生は伊庭八郎殿のお父上、伊庭軍兵衛殿の高弟。心形刀流で学べばその祖である伊庭道場の跡継ぎの名前位は知っている。だが直接お会いしたのは先程が初めてだ」 「初めて・・?」 尾高の言葉が信じて良いものだとは咄嗟の勘だったが、それでもまだ疑惑は総司を捉えて離さない。 「私は坪内道場始まって以来の変わりだった者らしい。それ故そんな噂を知った伊庭さんが、面白半分に顔を覗きに来られたのかもしれぬ」 先程ほんのちらりと見せた翳りなど、もう何処にも無いように白い歯を見せ豪放に笑う顔からは、嘘は見受けられない。 ――尾高の脚に矢が突き刺さっていると知った時、確かに自分はその名を叫んだ。 だから直後に八郎が呼んでも不思議は無い。 だが人が云った言葉を繰り返し口にしたのでは無い、もっと前からこの尾高と云う人間を知っていたのだと、そう感じさせるものが八郎の様子にはあった。 それにあの場に八郎が居合わせた事も、偶然と片付けるにはあまりに不自然すぎた。 「いや・・もしかしたら、あの時かもしれない」 「・・・あの時?」 不意の呟きを聞きとめて見遣った時には、それまで尾高の面にあった笑みが消えていた。 冗談の続きには語る事の出来ない、何か重い事情があろうのだろうか、そんな風に相手の沈黙を捉え、思いを馳せていた総司に、尾高の唇がゆっくりと開かれた。 「私が江戸に行ったのは二十歳の時だったが。・・・その年の夏、伊庭殿のお父上軍兵衛殿が亡くなられた」 「八郎さんが十五の時だったと聞いています」 八郎は自分の家の事についてはあまり多くは語らないが、実父はコロリと恐れられる流行病で急死し、今の伊庭道場の主である養父は、亡き父親の高弟であったとは総司も知っていた。 養父は実直な人柄で、実子の有無にかかわらず、心の修養とその実践を自ら成り得る者が流派を継ぐ云う戒め、「一子不伝」を全く意に介さず、決して軍兵衛とは名乗らず軍平と記し、己の存在は、軍兵衛亡き後長子の自分に心形刀流を譲るまでのものと決め付けている頑固者だと苦笑した時の、八郎の眼差しにあった柔らかさを、今も総司は覚えている。 「その伊庭軍兵衛殿の葬儀の手伝いに、坪内先生に連れられて行った。伊庭さんがこの変わり者を知ったとすれば、多分あの時なのだろう」 ほんの僅かの時だったが、他所に思考を飛ばしていた総司を現に引き戻した尾高の目が、慌てて自分に向けられた細い面差しに、穏やかに笑いかけた。 「きっとそうなのだろう」 更に重ねられた言葉には、それで良いのだと、無理矢理相手を納得させるような強引さがあった。 曖昧に頷く深い色の瞳が、それで承知したとは云わない疑問の色を湛えていたが、尾高は見ない振りを決め込むように視線を逸らせた。 ――激怒されるのが当然の覚悟で今一度門を叩いた自分に、師の坪内主馬は何も言わずに稽古を付けてくれた。 仇の植田末次が京に潜伏しているとの情報を藩から得た翌朝、日の昇るのも待たず深閑と寝静まる道場の、師の室の方角に向かい一礼をし踵を返したその足が、霜が帳を下ろしていた地に、縫い付けられるように止まった。 視線の先に立っていた師は既に袴を付け、そのまま無言で先に立って歩き出し、不肖の弟子の旅立ちを門まで見送ってくれた。 やがて敷居を間に内と外に別れ、今一度深く頭を垂れた自分に、それまで一言も発しなかった唇が動いた。 何事か困難が生じたら、今は幕府奥詰のお役について大坂にいる筈の伊庭八郎殿を訪ねよと、たったそれだけを言い置いて、国元で初めて会った時と少しも変わらぬ伸びた背筋を見せた。 首尾よく仇を討てとは云わなかった。 見知らぬ土地で、弟子の難儀を憂える言葉だけを残して去ってゆく師に、下げた頭を上げられなかったのは、瞑った目の奥を熱くするものを必死に堪えていたからだった。 だがその心の温くとさに、常に恩を仇でしか返せぬ我が身が、尾高には辛い。 今まで息を詰めるように自分に向けられていた視線が、不意に逸らされた感覚に、尾高が顔を上げ怪訝に総司を見ると、その瞳は障子を凝視して動かない。 更に神経を集めれば、複数の人間の気配が確実に此方に遣って来る。 「貴方の師が来られたようだ」 からかうように掛けた言葉に、向けられた硬い面輪がぎこちなく笑った。 |