暮色の灯 (七) 小春日和と云って過言で無い穏やかだった日中も、陽が翳れば、本当に厳しい寒さはまだこれからやって来るのだと、改めて知らしめる冷たさに身が竦む。 「これを湯に溶いて来てくれ」 腰から抜いた大小ふたつの刀を床の間の刀掛けに預けながら、まだ廊下に立ち尽くしている総司の、更にその脇に控えていた隊士に向かい、土方は懐から取り出した紙の包みを差し出した。 「熱い湯の方が良いのでしょうか?」 云われた男は動かない総司を気遣いつつも、横をすり抜けるようにして土方の前に進み出で、包みを両手で受け取り遠慮がちに問うた。 「いや、あまり熱くなくとも良い。だが早急にやってくれ」 「承知しました」 それが己に課せられた使命とばかりの几帳面さで頷くと、見慣れぬ顔の隊士は、敷居を跨げずにいる総司の脇を過ぎる時に軽く一礼し、足早に去って行った。 「いつまでそうしている、さっさと中に入れ」 自分はもう袴の紐を解きながら、土方は未だ入るに入れず竦むようにして止まったままの足を促した。 「そんな処に突っ立っていると芯まで冷え切るぞ、お前は今日は湯に浸かる事が出来ないのだぞっ」 分っているのかと、一向動く気配の無い様子に業を煮やした土方が、言いざまに総司を振り返った。 「分っている・・・」 「ならばさっさと言う通りにしろ」 脅すように催促され、慌てて身を内へと滑らせ障子を合わせると、漸く総司は土方を見上げた。 あれから田坂に案内され、尾高の室に現われた近藤は、二度に渡り愛弟子を助けてもらった礼を、かたじけないとの重い一言に籠め、後はただただ深く頭(こうべ)を垂れた。 恐縮するを通り越して狼狽する尾高に、案の定、近藤は新撰組での養生を申し出たが、それには二三日は動かさぬ方が良いとの田坂の助け舟で、暫らくは診療所で預かる約束が暗黙の内に成り立った。 土方は入って来て直ぐに、やはり近藤と同じく礼を述べ頭を下げたが、それから後はひたすら無言に終始していた。 何かを考えているようでもあり、尾高と云う人物を見極めているようでもある沈黙は、総司にとっても戸惑うものだった。 更に二人が現われた時、その後ろにいる筈のもうひとりの人物を目で探した総司に、それだけで察したのか、八郎は先に帰ったと土方は告げた。 あの場に現われた不自然さを問い質したい相手は、まるでそうされる事を避ける様に、先に姿を消していた。 ――何かが、自分だけを置き去りにして、けれど確かに動き始めている。 近藤と尾高の会話をぼんやりと耳に入れながら、室を金色に覆い始めた黄昏時の不安定さにも似て、焦りだけが総司の心を落ち着かなく騒がせていた。 「・・・土方さん」 火鉢の炭に息を吹きかけ、今少し強く火を熾している背に向かって、躊躇いがちな声が掛かった。 「禁足を解けと云うのならば聞かないぞ」 いらえに籠もる苛立ちを知れば、総司もそれ以上の言葉が続かない。 言葉が途切れて生まれた沈黙の長さに、流石に土方が振り向くと、かの声の主はまだ閉めた障子を背にしたまま此方を見ている。 臆して揺れる瞳に見つめられれば、何とはなしに後ろめたい思いにかられるのは、もうどうにもならない惚れた弱みなのだろうか―― 「早く火にあたれ」 そんな胸の裡を悟られまいと掛けた声は、自分でも舌打ちしたくなる程無愛想なものだったが、せめてそれを補うように、土方は脇を空ける仕草を見せ、佇んでいる者を火の傍へといざなった。 促されてもまだ暫らくはその場を動かない総司だったが、やがて逸る心の方が勝ったのか、おずおずと歩を進めて土方の横までやってくると、今度はその照れ隠しのように隣を見ないで端座した。 「背中は痛むのか?」 火箸をたぐりまだ熱を持たない炭に火を移す作業に視線を置いたまま、傍らに来た影に問う声は、決まり悪さの代償のように先程よりは柔らかい。 「もう何処も痛くはない」 間髪を置かずに返ったいらえは、総司も叉声を掛けられるのを待っていたのだと察せられ、土方にはそれが可笑しくもあり、叉ただそれだけの事で安堵を隠せない心が愛しくもあり、隣には分からぬように苦笑した。 「土方さん・・?」 が、己の事には腹が立つ程に無頓着な想い人は、その分他人の感情に起伏する僅かな機微には酷く敏感に反応をする。 今も不思議そうに見上げた眼差しには、先ほどの名残が尾を引いて、再び不安に揺れ始めた兆しがある。 だが瞬きもせず次の言葉を待つ瞳に、お前の稚気を愛しいと思ったのだと正直に云えた処で、総司は揶揄されたと受け取り、今度は真摯な怒りをぶつけてくるのだろう。 「お前、今夜はどうやって寝るつもりだ」 敢えてそうさせてみたいと思う己を漸く抑えて、土方は全く別の事を問うた。 「どうやって・・って?」 意図するものを判じかね、深い色の瞳が更にその先を促した。 「背を床につけて眠る事はできないだろう?」 強か打った背中は施された治療が功を為してはいるだろうが、それでもそれを下に押し付けたのでは、痛みで眠る事など敵わぬ筈だ。 先程控えの隊士に湯に溶いて持って来るようにと命じたのは、田坂から渡された痛み止めだった。 「うつ伏せで眠る」 そんな事など案ずるなと云わんばかりに、笑いながら応えた想い人の思考は何処までも邪気が無い。 それが土方には憎らしい。 労りの言葉に隠したのは、今宵はこの腕(かいな)に身を託せよとの、艶な誘いのつもりだった。 それに総司は呆れる程明快ないらえを返して来た。 だがそうなれば一旦鎮めた意地の悪さが頭をもたげ、困った顔をさせてみたくなる己の稚気を、土方も止められなくなる。 「こうして・・」 耳朶に触れて囁かれたと思った途端、不意に背に回された右腕一本の力で引っ張り上げられ腰までが浮いた感覚に、総司の瞳が土方に向けて見開かれた。 「俺に抱かれていれば、何処も痛い思いをせずとも朝まで眠られるぞ」 立ち膝を余儀なくされた者と、座したまま腕(かいな)で戒めの籠を作る者との目線の位置が逆になって、見上げる立場になった土方の眸が揶揄するように笑っていた。 からかわれたのだと、そう思った途端に、細い線で縁取りされた面輪に鮮やかな朱の色が刷かれた。 「土方さんっ」 身を捩って怒りを訴えても、この手練の持ち主には何の抗いにもならない。 憤る様すら楽しんでいるような眼差しが、益々総司の困惑に拍車をかける。 「土方さんっ、人が来るっ」 解放するどころか更に左腕まで回しての拘束は、総司の全てを封じてしまい、身動きすら侭ならない。 相手に酷な悪戯をやめる気が毛頭無いと知れば、今度は外の現実が総司を脅かす。 使いを頼まれたあの隊士が、直にやって来るだろう。 土方は早急にと云って渡した。 だとすればもう戻って来てもおかしくは無い。 そう思った間際から、まだ遠いが、廊下の板張りを踏む微かな音が聞えて来た。 「土方さんっ」 悲鳴に似た短かい声の訴えるものが、怒りから懇願に変わる。 それを承知で殊更焦らすように、土方の唇がゆっくりと開いた。 「ではうつ伏せでなど寝ないと云え」 それは即ち、この腕に任せてひとつ褥を共にするのことを、総司自身の口から誓えとの、意地の悪い責め句だった。 「云わなければ離さない」 悔しさに唇を噛み締め、見下ろす勝ち気な瞳が段々に潤んでくるのすら、征服者には更に責めたててしまいたい駄々を起こさせる。 「云え」 あらゆるものから水気と云うものを奪い取ってしまう乾いた季節の廊下は、木も痩せてしまう所為で、踏みしめる音も常より大きく響く。 「人が来るぞ」 そんな事は何憚らないと脅す顔(かんばせ)は、それが嘘では無い自信と余裕に満ち溢れている。 土方にだけ神経を奪われていた総司の瞳が、一際大きくなった足音に気付き咄嗟に外に向けられた寸座、頼りない身が硬直したように強張った。 人の気配は、もう直ぐ其処まで来ていた。 「・・伏さって・・は」 視線を土方に戻し、睨みつけるようにして見る瞳に溜まったものを堪えて振り絞られた声は、聞き取れぬ程に小さく、しかしそれが羞恥の限界だったようで、そのまま言葉は続かない。 「寝ないか?」 助けてやるのか、更に意地をしているのか・・・・ 後を継いで続けた土方に頷いた途端、悔し涙がひとつ、白い頬に零れ落ちた。 強張りを解かない身体から、漸く戒めの力が緩められたのは、室の前に立ち止まった影が、盆を置き伺いを立てる為に廊下に片膝をついた直後だった。 それでもまだ惜しむように放さぬ腕から、総司は素早く身を別つと、先程よりも余程間を取り、土方から大きく離れて座し顔を伏せた。 今の自分を他人に見られるのは、耐え難い事だった。 その様子を、土方は苦笑しながら視界の端で捉えている。 硬質な横顔を見せて俯いてしまった姿を目の当たりにすれば、さてもやり過ぎたかと己を叱ってみた処で、そんな後悔など一瞬も持たない。 此方を見もしようとしない総司は心底怒っているのだろう、だがそれも愛しいと思えば、最早救いようの無い自分に自嘲の笑いのひとつも漏れる。 「薬を持って参りました」 「入れ」 今の今まで度を越えた恋着を想い人に強いていた様など、微かにも感じさせない低い声で、土方は外に居る者を促した。 田坂の処方する薬は、飲む前に匂いに負けてしまう総司の為に、なるべくそれを緩和するよう配慮してくれてある。 服す事が相手の嫌悪の対象になるのならば、もうそれは病を癒す薬では無いと云うのが若い医師の持論だった。 それでも総司の場合は特にその度合いが顕著で、田坂も処方には苦労を強いられているらしいとは、土方も常々感じていた。 だが今回ばかりはそれが違っていた。 差し出された盆に乗った湯呑みからは、薬草独特の鼻につく甘い匂いが、辺りにあるもの全てに染み付いてしまいそうな強さで漂ってくる。 が、それも今日はいつもとは違い、外傷の薬と思えば不審ながらも合点がいった。 「全部飲めよ」 掛けられた声に漸く土方に視線を向けはしたが、総司はもう匂いに参っているらしく、更に湯呑を差し出すと、咄嗟に目を瞑り顔を背けた。 「ばか、嫌がらずに飲め」 一喝されやっと正面に戻された瞳は、半ば懇願するように土方を見上げている。 それに動じる風も無く、無理矢理大振りの湯呑みを握らせると、骨ばった指はどうにか捉えはしたが、まだ口元に持って行くには躊躇いがあるらしく、総司は中にある液体を憂鬱そうに見ている。 「さっさとしないと、お前を待っている其処の人間が困るぞ」 云われて初めて視線を移せば、緊張を強いられ縮こまるようにして障子際に座している隊士が瞳に映った。 空になった湯呑みを下げるつもりで待っているのだろう。 だが落ち着かない風情の男は、ふたりの話題の的になったのだと知り、急いで首を振った。 「・・あの、私は後ほど伺うように致しますので」 「いえ、直ぐに飲み終えます。すみません」 おどおどと頭を下げる男の様子に慌ててそう応えたものの、それが自分に薬を飲ませる土方の策だと気付いた時にはもう遅かった。 「残すなよ」 恨めしそうに向けられた瞳には知らぬ振りを決め込み、一言云い置いて立ち上がりると、土方は留守の間に積まれていた書状に目を通す為に文机に向かった。 主が居なくとも、厄介事は律儀に貯まるらしい。 だがこれを全部片付けるとなると、今宵は夜更けまで掛かるだろう。 そうなれば先程の約束は自ら反古にする事になる。 ならば恋路を邪魔する無粋な紙の山など、端から手を付けない方が得策か。 そんな事を思う自分を苦く笑って進める歩は、例えふたつみっつの僅かなものでも思い切りが悪い。 ――だがその足が、背後の物音で突然止まった。 次の瞬間、振り返りざまに土方の視界が捉えたのは、口元を覆った総司の手指の隙から流れ落ちる琥珀色の液体と、横に倒された湯呑みから、みるみる畳に広がる染みの輪だった。 「総司っ」 駆け寄る一瞬、ひとつひとつ時を止めてしまったかのように土方の眸に刻み込まれるのは、ゆっくりと前に傾(かし)いで崩れ折れる半身だった。 「総司っ」 辿り着き、伏した身の肩を抱いてあお向けると、唇の色まで失くした蒼白な面輪が、額に玉のような冷たい汗を浮かべて苦しげに歪む。 毒を盛られたのだと気付くのに、時は要らなかった。 「島田を呼んで来いっ」 自分の持ってきた薬が大変な事態を引き起こしている状況に、青い顔をして小刻みに震えている男を怒鳴りつけても、思考の全ては恐怖で止まっているのか、抜けた腰が立つ様子は無い。 「早くしろっ」 動かなければすぐさま刃が閃きそうな怒声に、男はやっと障子の桟をつたって立ち上がると、今度はもつれる足で転ろがりそうな勢いで廊下を駆け出した。 「苦しいのかっ?」 問う声にうっすらと瞳は開かれたが、言葉にして応える事は敵わず、その代わりに胸の辺りを押さえていた指をどうにか伸ばし、それで咽喉元を掻きむしろうとする。 だが次第にその指先までもが間断なく震えだす。 土方の双眸が、今一度畳に倒れている湯呑みを捉えた。 零れている量からと、総司が湯呑を落とした間までを逆算して推し量れば、服したのはそう沢山では無い筈だ。 だがこの苦しみ方は、毒の即効性とそれ故の危険性を意味している。 一瞬の躊躇いが息の緒を断つ。 土方は抱きかかえていた身体を畳の上に横臥させ、総司の唇を割らせると、己の指を咽喉深くまで差し込んだ。 その刹那、華奢な身が苦しげに身悶えた。 「吐けっ、総司、吐けっ」 昼から何も食していなかった胃の腑は、暫し何の変化も見せなかったが、絶え間ない上からの強引な刺激に、やがて少しづつ、畳に広がるものと同じ琥珀の液体を逆流させ始めた。 「副長っ」 開け放たれたままの室に飛び込んできた島田は、中の異様な光景に一瞬足を止めたが、すぐさま事態を把握し駆け寄ると、総司を挟んで土方の横に屈みこんだ。 「島田、桶に水を入れて持って来いっ。それから伝吉を田坂さんの処に走らせろっ」 命じる間にも土方は総司の背を擦り続け、或いは嘔吐を促す為に時折一箇所を強く押す。 その都度、折れてしまいそうに薄い背が反り返る。 「・・油断だ。・・畜生っ」 「副長?」 一時を争う状況下で、すぐさま伝令を実行に移すべく立ち上がりかけた島田が、唸るような低い声に振り返った。 「馬鹿野郎っ、急げっ」 だがその一瞬の逡巡すら許さぬ怒声が、後ろから飛んだ。 ――襖も障子も隙無く締め切り、外からの一切を遮断した密室の中で行われたそれは、あまりの痛々しさに、時に島田すら目を背けたくなるような過酷なものだった。 島田と伝吉、そして急を聞いて駆けつけた近藤の見守る中、土方は用意された桶の水を、もう自分では飲む力も無い総司に口移しで与えると、今度は直ぐに己の指を咽喉の深くまで差し込んで吐かせる。 半ば意識の無い身は、その度に手足の指の先まで強張らせるが、幾度目からは与えた水が朱を混じらせて逆流してくるようになった。 負担を掛けている咽喉か奥の臓腑か、そのどれかに出血があるのだろう。 脆弱な造りの身体は、疾うに体力の限界を超えている筈だった。 しかも肺に宿痾を抱える総司にとって、如何に毒を洗いなおすのが先決とは云え、これ以上の負担は元々の病をこじらせる結果になりかねない。 「歳っ、もう駄目だっ」 短く叫んだ近藤の手が、新たな水を求めて桶に伸びた腕を掴んだ。 だがそれよりも一瞬早く、土方の視線が障子へと向けられると、縫い付けられたように動きそのものが止まった。 室に居る者の目が一斉に其方を見上げた中、開けるその間ももどかしげに入ってきた田坂は、其処の誰もにも目をくれず、真っ直ぐに総司の傍らまでやって来ると、即座に力なく弛緩している腕の手首に触れた。 「飲んだのはいつ頃の事だ」 「半刻は経ていない。すぐに吐かせたが全部は無理だった」 最小限の会話を交わしながら、土方の面(おもて)は壮絶なまでに険しい。 乱れた髪が冷たい汗で額に絡みついている蒼い頬の持ち主は、血管(ちくだ)を透かせた瞼を固く閉じ、横臥したまま動かない。 田坂の指に触れる脈も確かに弱くなっている。 「沖田君っ」 耳に唇を近づけて呼んだ時、微かに睫が揺れ瞳は薄く開かれたが、直ぐに叉貝殻の裏のような瞼の奥に隠された。 それは耳元での刺激に条件として示された反応であり、意識は混濁と云うよりも完全に失われているようだった。 ちらりと脇に流した田坂の視線の先に、水桶と盥がある。 土方はすぐさま飲んだ毒を洗い流す処置をとったのだろうが、ただですら一度喉を通ったものを逆流させるのには、激しい体力の消耗を強いる。 毒がどのようなものだったのか即座には判じかねるが、痙攣、震え、嘔吐、それ等の症状が今の処見受けられないのは、繰り返された荒治療が一応の功を為しているからだろう。 「別に部屋を空けて欲しい」 「隣に用意してある」 応える間も厭うように立ち上がった土方の腕には、かかえ込むようにして抱き上げた華奢な身体があった。 そしてその姿を、島田は愕然と見ていた。 ――油断した 確かに、土方はそう云った。 だがそれは自分の痛恨そのものだった。 あの時植田末次さえ見つけていたら、全ては其処で終わっていたのだ。 伝吉によれば、今日五条坂で狙われたのは尾高周蔵だけではなく、総司も諸共だったと云う。 そして敵は時を置かずして返す手で毒を盛り、更なる攻撃を仕掛けてきた。 油断したのは自分だった。 総司を護る事が出来なかったのは、完膚なきまでの己の失態だった。 そして燃え滾る怒りは、この屯所内に賊を手引きした筈の一人の人物に向けられた。 伊東甲子太郎の冷たい白皙を、島田は一瞬脳裏に描き、すぐさまそれを引き裂いた。 田坂より先に隣室へと向かう土方の腕から、宙に浮いた細い四肢が力なく揺れるのを、島田は血の滲む程に強く唇を噛み締め、己の眼(まなこ)に刻み込んでいた。 闇に棲むものだけがひっそりと息吹くような静寂に紛れて、複数の人の気配が遠くにある。 此処の主が慌しく出かけたのは知っていた。 何か手短にキヨに指示を与えながら、慌しく室の前を通り過ぎた直後に、馬の嘶(いなな)きが聞こえた。 早馬を仕立て迎えが来たからには、患者の容態は一刻を要するものなのだろうかと、その時は漠然と思っていた。 その田坂が戻って来たのだろうが、一人では無い。 客は往診に出かけた急患に関係する者なのだろうか。 木目も見えぬ天井に目を凝らし、五感の神経を研ぎ澄ませ、尾高周蔵はその数を探っている。 ――こんな形で初めて見(まみ)え、その後も皆が引き払った後に幾らか会話を交わしたが、たかだかそれだけでも、田坂俊介と云う自分と同い年の医師の度量と人の深さは十分に判じ得た。 信頼をして良い人物だと、そう思ったからこそ、迷惑をかける事は出来ないと思った。 それ故夜が明けぬ前に、此処を抜け出す心積もりでいた。 だが田坂は日が落ちて直ぐに件(くだん)の事情で出かけたきり帰らず、今自分がいなくなれば、損得の無い心づくしを見せてくれたキヨと云う婦人だけが残される。 昼間襲った敵は、既にこの診療所に目星をつけているかもや知れない。 だとしたら田坂が戻らぬ内は、キヨをひとりにすることは出来ない。 そんな思考を繰り返し、今の今まで田坂の戻りを待っていたが、状況は益々自分にとって不利益に動き始めているらしい。 寝入っている者を起こさぬようにとの配慮なのか、物音は直ぐに止んだが、引き締められた空気だけは消しようが無い。 動けば僅かな気配でも、即座に察せられてしまうだろう。 其れほどまでに、やって来た者達は神経を張り巡らせ少しの弛みも無かった。 不自由な足を庇い、日が明けるまでに此処を抜け出すのは、どうやら今は無理のようだった。 「仕方が無いか・・」 諦めの呟きと共に漏れた息が、墨を刷いたような漆黒に、異な白を散らせて溶けた。 「もう大丈夫だろう」 眠り続ける総司の脈を診ていた田坂の言葉に、初めて土方の面に安堵の色が浮かんだ。 だが大丈夫だと云う、そう云わしめる所以は何処から来るのかと、その証を己が掌中にするまではまだ気を緩める事など出来はしない。 先程から瞬く事も忘れて凝視している面輪には、行灯の朧な灯りの元ですら、微かにも血の気と云うものが見当たらない。 ほつれて乱れた髪を指で掬って掻き揚げてやりながら見る頬には、深い翳りが刻まれている。 たった数刻の間に陥った総司のその憔悴ぶりが、土方には恐ろしい。 ――例え駕籠であっても、睦月の凍てる冷気に病人を晒し動かす事に、当初田坂は難色を示した。 しかも体力を消耗しつくした身は、運ばれる途中の揺れに耐えられるのか、それも危惧だった。 そうして誰もが懸念する中を、強行に総司を此処へ移さねばならなかったのは、屯所の中にまで伸びた敵の攻撃をかわす為には止む終えない処置だった。 薄氷を踏む思いでの道中が、如何に長く果てないものに思えたか事か・・・ 捨てた筈の神仏に、護れよと念ずる己の不遜を、土方は笑う事が出来なかった。 「毒だが・・・」 不意の呟きに、漸く土方が病人から顔を上げて田坂を見た。 「土方さんの話を聞く限り、朝鮮朝顔のような類の毒に似ている」 「麻酔薬に使うと云うあれか」 「そうだ。朝鮮朝顔の葉や種子に含まれる毒を使ったものだと思う。薬としては痛み止めや麻酔薬に使われるが、神経を麻痺させるだけに、過ぎれば心の臓や息を止める強烈な毒となる。盛られた毒の強さは分からぬが、通常ではあの湯呑みに入っていた量の半分程で致死量に至る筈だ」 田坂を真正面から捉た土方の顔が、死と云う韻が踏まれた途端に、硬く強張ったのが夜目にも分かった。 「俺の処方する薬は、匂いと云うものを極力抑えてある。毒が入っていたものは強烈な匂いがしたと云う事だが。・・・多分それで舌を痺れさせる刺激や異臭を紛らわせようとしたのだろう」 殊更抑揚を抑えて語りながら、しかし自分の出した薬に毒を盛られたと云う事実が、田坂を打ちのめしていた。 常日頃匂いの強いものには難儀すると零していた総司が、しぶしぶでもそれを飲んだのは、自分が処方したものだからに尽きる。 口に含んだ時、何か異な味覚に不審は感ずれど、それ以上の疑いなど欠片も持たなかったに相違無い。 ただただ自分を信じた総司の心を思えば、田坂の裡に堪えようの無い怒りが燃え滾る。 「毒は湯呑みに仕掛けられていたと思われる」 その田坂の心中を察し、少しでも憂いを晴らそうとするのか、土方の声が幾分和らいだものになっていた。 「湯呑に?」 「そうだ。俺が湯に溶いて持ってくるようにと薬を渡した隊士は、賄い方にその包みごと渡し、後は受け取ったそれを持って来ただけだった。そして託された賄い方も・・・此方の方は壬生に屯所があった頃から居た者だが、云われるままに薬を湯に溶いて渡した」 「二人とも信じて良い人間なのだろうか」 まさか土方ともあろう者が、両者の言い分だけを鵜呑みにして信じているとは思わなかったが、田坂は念押すように問うた。 「両人を信じられる、信じられぬは今のところ不明だ。が、二人の動きを全て見ていた者の情報は信ずるに足る」 「誰かに見張らせていたのか」 土方の物言いは、端から疑いを持ち、第三者に行動を監視させていたと云う風にとれる。 其処まで思った時に、田坂の脳裏にふと過ぎる疑問があった。 それは新たに湧いたものではなく、ずっと燻り続けていたものが、俄かに浮上したと云った方が良かった。 「土方さん、あんたは何かを隠している」 薄く息して目覚めぬ病人を挟んで黙す土方に、田坂が鋭い視線を向けた。 「暮れに寝込んだ沖田君に、あんたは十日の禁足を言い渡すよう俺に頼み込んだ。それと今度の事は何か関係があるのか?いや、もしかしたら・・・昨日矢で狙われたのは沖田君だったのかっ?」 だが土方はいらえを返さず、田坂から逸らせた視線を再び蒼白な面輪に止めた。 「そうなのかっ?」 それが応えと受け止めて、詰め寄る語尾が苛烈にしじまを震わせた。 夜半から次第に強くなり出した風が、通り道を塞がれた腹いせのように、雨戸を叩き建物全体を揺るがす。 眠りに在る者の安寧を邪魔する程のそれにも、総司の瞼は閉じられたまま、開かれる気配は微かにも無い。 「屯所の中まではと、気を緩めていたのが俺の油断だった」 病人だけを視界に捉え、苦渋に歪む顔(かんばせ)から漏れた低い声が、獣の唸りにも似て、未だ深い闇にくぐもった。 |