暮色の灯 (八)




正月を過ぎれば、天道が宙にある時はずいぶんと長くなる。
落ちた日が月に代わるのは遅く、夜が帳を明けるのは早い。
馬の嘶きはそんな極寒の季節の朝未(あさま)だき、生ある営みが始まらない静寂を乱暴に破り、建物の一番奥にあるこの室にまで聞こえてきた。
「来たようだな」
枕辺に座し、眠りにいる者の安息を見守りながら、暫し互いに沈黙の中にいたが、それに仕舞いを告げる土方の声が低く棚引くようにして薄闇に紛れた。

自分達と同時に屯所を出た島田は、思いのほか首尾よく八郎の宿に辿り着いたらしい。
遠慮と云うものなど最早無きように大きくなる足音を聞きながら、これから容赦なく詰問されるであろう事態を予測して、流石に土方も己の顔(かんばせ)に苦い色が映るのを禁じ得ない。

「文句のひとつふたつじゃ、あの人は収まらないだろう」
病人の脈を取りながら、その様を視界の端に捉えた田坂が、満更皮肉でもなく呟いた。
だがそれも、もう大方心配は要らぬまでに落ち着いた総司の容態を見極めたからこそ生じる余裕とは、田坂自身も承知している。
毒による障害も、深夜あの状態で駕籠に揺られた体力の消耗も、どうやら懸念した最悪の事態は免れたようだった。
未だ下がりきらぬ熱が気になるが、それも一時的なものだろう。
あとは力の落ちた身体の隙を狙い、胸の病を直截に攻撃する風邪に気をつけなければならない。
それらを深慮しながら、取っていた左の手首を夜具の中に仕舞うと、相前後するようにすらりと襖が開いた。

八郎は一瞬自分に向けられた視線には目もくれず、後ろ手で襖を閉じ終えても尚其処に立ち尽くし、昏々と眠り続ける総司を真上から凝視している。
鞭打つ手を休める事無く馬を走らせて来たのだろう、日頃乱れると云う醜態を嫌う男が、額に浮いた汗を拭いもしない。
微かに漏れる白い息だけが、身を切るような冷気の中を駆けて来たのだと知らしめる。
やがて無言で土方の横に腰を下ろしても、視線が捉えているのは蒼白な面輪だけだった。
「・・教えてもらう、毒を盛った奴。あんたは知っている筈だ」
低く押し殺したような声が、顔は病人に留めたまま土方に向け発せられた。
「その為に呼んだ」
淡々と応える風ではありながら、土方のいらえも又感情と云うものを際まで抑えているように田坂には思えた。

「副長・・」
「場所を移す」
会話を邪魔せぬ間合いで、不意に襖の向こうから聞き覚えのある声が掛かかると、それが合図のように、土方が無造作に立ち上がった。
その様子を見極め、代わりに総司の枕元に付くつもりなのだろうか、隣の室にいた伝吉が細く襖を開けて姿の全部を見せた。

誰もが無言で室を出るその最後に続いた八郎が、敷居を跨ぐ寸座つと足を止め振り返り、瞼を開こうとしない病人の面輪を、今一度己の眼に刻み込むかのように視界に捉えた。




行灯の灯りを頼らずとも互いの顔を判別できる今頃は、一番冷え込みがきつくなる時でもある。
通されたのは総司の病室になっている室からひとつ置いて隣だったが、キヨの心遣いで火鉢には火が良く熾り十分な暖が取られていた。

「あらいざらい話してもらう」
座すなり八郎は、土方に双眸を据えた。
「知っている事は話す。が、お前にも聞きたい事がある」
その視線を真っ向から受けた土方の物云いも決して譲るものでは無く、むしろ命じる強さすらあった。
「それは尾高周蔵に係る件が、総司に毒を盛った奴等と繋がると解釈して良いのか」
向けていた八郎の眸が、一瞬鋭い光を放って細められた。
全てを省いて直截にぶつけた推測は、どうやら外れてはいないらしく、土方もそう問われる事は承知していたのか、然したる動揺を見せるでもなく無言を決め込んでいる。

「昨日尾高周蔵を襲った奴等の中には沖田君を狙った人間もいた・・・土方さん、あんたはさっきそれと同じ事を認めた」
それまで会話の成り行きを見守っていた田坂が、初めて口を開いた。
「もう隠し様の無い事はどうでもいい。聞きたいのはそれより先の事、何故総司が狙われたのか、そしてそれは誰の策略か。それと、・・・あんたは既に植田と云う奴の居場所も知っている筈だ」
更に後を引き継いだ八郎の問訊は、要所要所だけを短く的確に突いて行き、相手に曖昧にかわす暇を与えず容赦ない。
「全て話してもらう」
最早土方に黙する事を許さぬ強靭さで、いらえは促された。

天道が昇り始めたのか、闇の名残のように薄く刷いただけだった暗さが、いつの間にか夜明け特有のしらじらとした明るさに変わりつつある。
障子の向こうで閉めきられた雨戸の、僅かな隙から零れ落ちる陽も強い。
だがそれは即ち、確かな時の経過を知らしめるものでもあった。
待つ余裕など既に一刻も無いのだと促すが如く、直ぐ其処まで伸びてきた光が、土方にひとつ判断を下させた。

「植田末次は上林家に匿われている」
それが揺ぎ無いものの証として、言葉は土方の口から強く言い切られた。
「かんばやし・・」
だがその名を呟くように繰り返したのは、意外にも田坂だった。

確かに、聞き覚えのあるものだった。
だが一体誰から聞かされたのか――
其処まで思った時、田坂の脳裏に懐かしい面影が浮かんだ。
上林・・それは亡き養父田坂道元との何気ない会話の途中で、記憶の端に刻み込まれた名だった。
実父の知己の縁を頼りこの田坂家の養子となってすぐ、質素を重んじていた養父が珍しく正装で出かけようとしていたのを見て不思議そうにしていると、道元は断りきれぬ縁で体調を崩している公卿の診察に出かけねばならないのだと苦笑まじりに言い訳した。
たまたまその公卿の山荘が、五条坂を清水寺とは違(たが)う方向に登った処にあり、一向衰えぬ夏の強い陽射しの中では、単の羽織とてただ暑さを増すばかりのものだと、うんざりとした調子で零していた養父の顔を今も鮮明に覚えている。
その時の公卿の名が、確か上林と云った。
江戸育ちの身には、知識だけで知っていた公卿と云う存在が、この都には確かに現にあるのだと、新鮮な驚きの中で養父の話を聞いていた少年の日がふと懐かしい。
だがそんな感傷も今は不要なものだった。


「公家か・・確か上林元篤、位は三位の筈だ」
心の隙に入り込んだ懐古の念を即座に打ち捨て、改めて土方に視線を据え問い質す内容にほぼ間違えは無い筈だった。
「そうだ、その上林元篤。三位の公卿だ」
「だがどうしてそいつが新撰組を逃げ出した奴を匿う義理がある?」
八郎の物云いは、例え相手が誰であろうが、己の向かう処に仇なす者ならば手加減が無い。
「上林元篤は禁裏における倒幕思想の大物だ。だが決して表には出て来ない。例え志を同じくする者とて、自分に利が無いと判ずればそう云う素振りすら見せない。いや、朝廷か幕府かを目の前にぶる下げて、さてどちらを取ると迫られれば、自分に見返りの強い方を躊躇い無く選び取る。・・・奴の禁裏でのあざなは、公卿商人(あきんど)だ」
応える土方の調子も少しも臆する風は無く、それはこの男にとっても叉、朝廷も公卿も己の畏怖する対象ではないと云う意志の裏返しだった。

「尾張で詐欺強奪を繰り返していた植田の捕縛が不首尾に終わったとは、伊庭、お前には先に話した通りだ。そしてその植田こそ、尾高周蔵の仇討ちの相手だった」
土方が敢えて承知の事情を語り始めたのは、あとひとり、どうしても力を借りねばならない田坂への説明だった。
「新撰組はその後も探索を続け、昨年暮れ京に植田が潜伏しているとの情報を得た。尾高が京に上って来たのは其れから程無くだ。そしてその尾高の仇討ちの後見を、伊庭は坪内主馬殿に託された。図らずも新撰組が植田を捕らえるのが先か、尾高が仇を討つのが先かになったが、共に追いかけている相手は同じと云う事だ」
「だが新撰組は植田の隠れ場所を、既に上林家の山荘だと知っている」
土方に揶揄するような視線を送りながらの八郎の横槍は、漸くこの男にいつもの余裕が戻った証でもあった。
「お前も知っている筈だ」
「俺は尾高周蔵をつけている内に、あの屋敷の周辺を伺っているのを見て検討をつけただけさ。それが上林とか云う奴の持ち物だとまでは知らなかった」
「尾高を追っている内にか・・・、だとしたら不自然だな」
普通ならば気にも留めずにそのまま聞き逃してしまうだろう会話の落とし穴を鋭く突いて、即座に疑問を投げかけたのは田坂だった。
「そう、不自然さ」
だが二人の内のどちらかから発せられる問いだと予想していたのか、八郎もあっさりと頷いた。
「初めて上ったこの京で、地理も不案内な尾高が、どうして公家なんぞの山荘に目をつけたのか・・・新撰組とて其処まで探索するのにはさぞかし骨を折っただろうに」
一度言葉を止め、ちらりと土方を見遣った視線が、その労すら面白がる風に笑っていた。
「それに坪内さんの書状によれば、植田が京に潜伏しているとの報は、どうやら岩村藩からのものだったらしい」
「藩がか?」
繰り返した田坂の怪訝は尤もだった。

仇討ちとは、本来私的なものである。
増して仇となる人間が無頼の余所者であるのならば、武家に恥ずべく事情として、討たれた者の家が取り潰しになるのは免れない。
尚且つ、どの藩も財政が逼迫している昨今、一軒でも禄高を剥ぎたいのが本音だろう。
それが尾高家には何の咎めも無く、それどころか岩村藩自体が動いて一己の藩士の為に奔走するとはあまりに不自然すぎる。
その辺りの事情を、田坂は突いていた。

「そうだ藩が教えた。そして多分、植田の潜伏場所も岩村藩が探り当てて尾高に伝えたのだろう。裏を返せば、そうまでしなければならない事情が岩村藩にはあったと云う事だ。仇討ちと云うのは本当だろう。が、それよりも尾高をしてどうしても植田を討ち取るか・・いや、新撰組よりも先に捕らえなければならない理由が、岩村藩にはある。それをこの人は知っている筈だ。そしてそれが故に、総司は狙われた」
田坂の疑惑に是と応えながら、八郎の双眸が偽りの欠片も許さない激しさを秘めて土方に向けられた。
「上林元篤に植田を託したのは、元岩村藩藩士で、今は宇治で香を商う家の婿となっている三木清隆と云う男だ」
二人に互いの胸中にある疑惑を語り尽くさせ、漸く土方が重い口を開いた。
「元岩村藩藩士・・」
呟いた八郎の声が、不審そうだった。

「三木清隆は岩村藩の藩校の教授をしていたが、過激な勤皇倒幕論者でもあった。やがてその思想が過熱し、危険な存在と捨て置く事が出来なくなった藩が制裁を加えようとした矢先、それを間一髪で交わして京に逃れて来た。そして元々の素養を生かし、香を商う家の婿に納まった。更に香道を趣味とする人脈を伝い、倒幕思想に傾く朝廷内の公家達に取り入り広い人脈網をも着々と作って行った。加えて、国元の志を共にする学者達との繋がりも未だ根強い」
表情も変えず大事をあからさまにする土方の声には、然程昂ぶる感情は感ぜられない。
「・・ならば」
それぞれの語りを聞きながら、これまでの事実を丹念に繋ぎ合わせ、思考をひとつ方向へと絞り込んだ田坂が口を挟んだ。
「岩村藩は植田を巡って藩内部で、上の者達と三木の残した勢力が対立していると云う事か」
「対立、とも違うようだ。いやいっそその方がすっきりする」
腕組みを解かず宙を睨んで返したいらえは、この先にあるものが、土方自身にも未だ掴みかねている焦燥を言外に籠めていた。

「岩村藩と云うのは、確か家老職を始め強い幕府寄りの藩風だと聞いている。三木と云う人物も思想を違えて藩から逃れたのならば、立場を異にする者同士対立するのは少しも不自然ではないが・・・にしても、ちとおかしいな。もっと何かある」
立場上、諸藩の動向は嫌でも耳に入る八郎らしい意見だった。
「そうだ、何かある。岩村藩が何故それ程までに植田に執着するのか、そして三木清隆が、上林元篤の手を煩わせてまで植田を隠す必要が何処にあるのか。更に己の利がなければ動かない上林が、いずれ新撰組に知れると分りつつ、危険を押して植田を匿うその見返りは何なのか・・・残念ながら、霧の中だ」

新撰組と云う組織の情報を、例えそれが局長の近藤にでも、必要とあらば決して漏らさぬ土方の冷徹さを知る八郎と田坂にとって、ここまで洗いざらい手の内を見せるのはある種驚きだった。
だがそれが何処から来ているのかは、直ぐに察する事が出来る。
未だ見えぬ光に呻吟しながら闇の淵を彷徨っている蒼白な頬の主を思い起こせば、敢えて物言わずとも互いの胸の裡には同じ怒りが逆巻く。

「総司が狙われたのはその煽りか・・・だが何の理もなくして、あいつだけが標的になる筈が無い」
話を一番確かめたい本題に戻し、再び真実を追う八郎の声は、この男にしては珍しく硬いものだった。
「昨年・・・。もう暮れも押し詰まった頃だったが、三木が植田を匿っているとの情報を得て、宇治に総司の一番隊を向かわせた。表向きは宇治での不逞浪士の取締りと云う事にして、あいつにもまだ植田と三木の繋がりは伏せていた。だが三木の屋敷の周囲を特に念入りに捜索するようにとの指示は出した」
「総司にか?」
「あの時はまだ何の確証も得ることが出来ていなかった。それ故新撰組の精鋭隊とも云える一番隊を向かわせる事で、三木と植田を揺さぶろうと計った。植田末次は元一番隊隊士だ。三木は総司の顔を知らずとも、植田は一目で分ると其処を狙った」
「総司の姿を見せつける事で、追ってはすぐ其処まで迫っているのだと知らしめたかったのか」
是と言葉にして応えず、組んだ腕をそのままに土方が無言で頷いた。
「その直後、俺宛に書状が届いた」
「書状?」
怪訝に問うたのは田坂だった。
「そうだ、書状・・・いや、脅し文だった。植田探索の手を止めよ、さもなくば総司を殺(あや)めると書かれていた」
「三木清隆からか」
逸る心を一瞬険しく眸を細めるだけで抑え、八郎は話の続きを促した。
「むろん文には誰とも書いていなかったが、三木清隆である事は間違い無い。・・・奴は植田を匿っている事を隠しもせず、更にこの件から手を引けと、堂々俺を脅して来た。例え新撰組が楯突いた処で、痛くも痒くもない上林と云う大物を後ろに控えさせたからには、奴等も虎の威を借る狐位にはなれると云う事だ」
其処に居ない人間を睨むようにして、土方の言葉は苦々しく吐き捨てられた。
「事情は分った。が、聞きたいのはこれからだ」
八郎の調子は決して急(せ)いて問い質すものでは無い。
むしろ己の言動によって相手に表われる変化をひとつも逃すまいとするかのように土方を見据え、ゆったりとしたものだった。
だがそれだけに、その先にある真実を噤むのを許さぬ厳しさがあった。

「脅迫の的が総司に絞られた事で、あんたがあいつの不調をこれ幸いに禁足を言い渡したのは分る。自分の目が利く内ならば、危険を回避出来るとの判断からだろう。だがそうとするからには、脅迫文が単なる脅しでは無く、総司の身が確かに危ういと、そう信じるに足る証があんたにはあった筈だ」
一気に語り終えて八郎が向けた視線にも動じる事無く、土方はまだ無言を決め込んでいる。
「十日の養生が必要だと、そう沖田君に聞き分けさせて欲しいと言ったあれは、その日限(ひぎ)りで事を解決するとの、土方さん、それがあんたの自信だった。だとしたら既に敵を捕らえる事が出来ると云う、其処までの確証があった筈だ」
問う田坂の眸に映る土方の面は、常と変わらず冷然とした構えを崩さない。
だがこの男は、その己の判断の甘さが、過信が、総司の命脈を途切れさせる寸前にまで追いやってしまった事の痛恨に、今血の滲む程唇を噛み締めている筈だ。
開かぬ口に籠もる土方の激情が迸る瞬間を、田坂も又黙する事で待っている。

「敵は、・・内と外か。・・・新撰組内部の事情を三木に漏らしている奴を監視していれば、外の敵の事情も同時に知り得る事が出来る。だからあんたはその裏切り者の動きを逆手に取って、敵を封じ込めようとしたのか。そして全ては十日でかたがつくと踏んだ。それは内部の敵の正体を、疾うに知っていたからだ」
初め単なる独り言と思われた八郎の呟きは、閃いたそのものを直裁に語る内に確かな憶測に代わり、最後は強い糾弾となって土方に向けられた。
「・・伊東だ」
その名はあまりに唐突に、獲物を狙う獣の唸り声にも似て、或いは過ぎた怒りの暴発のように、土方の唇から低く発せられた。
「外の敵は三木清隆、内の敵は伊東甲子太郎だ。伊東が賊を手引きした」
しかと言い切った双眸は更に細められ、見据えている先にあるのはもう伊東甲子太郎ひとりの姿しか無いその土方を、八郎と田坂は凝視している。

参謀伊東甲子太郎と土方の反りが合わないのは知っていた。
元々土方は伊東の新撰組への参加を心良しとはしていなかった。
だが此処まであからさまに、組織の内部の人間を敵と決めつけ断言するのは尋常の沙汰では無い。
逆を云えば総司殺害の疑惑を切欠として、土方の伊東への感情は、最早嫌悪などと云う生易しいものでは納まらない程に膨れ上がってしまったと云う事なのだろう。
しかし土方程の人間が其処まで辿り着くからには、何らかの根拠を掴んでいる筈だとも二人の男達は承知し、更にそれを沈黙と云う形の中で促した。


「かねてより伊東は三木と親交があった。表向きはあくまで香を売る主と客の関係だったが、それは伊東が京に上ってきた直後から始まっていた。此処までは確かな調べだ。そして昨夏、新撰組が植田捕縛の為尾張に下ると知るや、三木は伊東に奴を逃す相談を持ちかけた。それを引き受けた伊東は自らこの出張を買って出、その時既に木曽に逃げ込んでいた植田とは逆に、東海道方面を受け持つ事を選んだ。万が一の発覚を危惧しての選択だろうが、中仙道を下った島田とは常に互いの状況を報告し合っていたから、新撰組の情報は伊東を通じ、植田と其れを匿って居た奴等には筒抜けだった。捕らえる事など出来ぬ筈さ。そして伊東は遠い地で胡坐をかいたまま、見事に三木からの依頼事を果たした」
それまで填めていた箍(たが)を外して語る土方の頬に、皮肉な笑みが浮かんだ。
「植田捕縛の動きは表向き止めたかの様に見せかけていたが、実は極秘裏で進めていた。そして伊東への不審が募っていた島田が、今一度単独で木曾へ探索の為に赴いた。それを俺は敢えて伊東だけに分るように仕向けた」
「揺さぶりを掛けたのか」
「そうだ、揺すった。そうして追い詰める筈だった」
それが裏目に出、総司に毒を盛らせるまでに至らせてしまった結果へと繋がった今では、八郎に返したいらえにも拭えぬ悔恨と自嘲が籠もる。
だがそれを隠しもしないのは、もう土方を支配しているものは伊東への嫌悪を超えた憤怒しか無いと云う顕れに相違なかった。
そして土方と云う男は、一度牙向いた相手をとことん追い詰める。
八郎は昔馴染みの怜悧な横顔を改めて見遣った。

「総司に的が絞られたのは、、そうする事が俺と云う人間に一番打撃を与える事が出来ると知り得る奴の知恵だ。伊東は己の利と、総司を亡き者にする事で俺への報復を一挙に手に入れようとした」
「証拠は」
「無い」
即座に言い切った語尾には、だが是と応えるよりも強い確信があった。
「無いが見つける。必ずな」

滾る激情を抑えて再び低くなった声を聞きながら、見つからぬ証ならば、己の信念の元、この男はそれを創り上げてでも伊東を追い詰め、手足をもぎ取り息の緒を止めるだろうと、八郎は思っている。
唯一の者を護る為に、些かの躊躇いも無くそうする筈だ。
或いは狂気と云っても良いそれを、しかし己の裡にも確かに存在するのを垣間見ながら、同時に八郎は、未だ深い眠りある者の姿を脳裏に思い起こした。

昨日別れてからまだひと夜も明けてはいない、たった数刻。
その数刻で、想い人の膚は血の色のひと滴もあらぬように色が透けてしまった。
頬に落ちた翳りは、このまま目覚めぬのでは無いのかと思う程に深く、心の臓を抉り取られる感覚が背筋に冷たいものを走らせた。
だが自分から総司を奪い去ろうとした人間を、許すことが出来ないと云う思いは今八郎の裡には無い。
許すと云うのは、人としての感情だ。
見つけたら――
自分は肉の一片とて、血の飛沫のひと滴とて無きまでに、相手を粉砕するだろう。
きっとそうするだろうと、逡巡する間も要らず判ずる冷静さに、八郎は人と云う形(なり)などとっくに捨ててしまった己を知った。

「植田と云う男。・・・三木清隆、上林元篤、伊東甲子太郎、そして岩村藩。この四者が追い狙い匿い・・・だがそれだけのものを切り札に持っていると云う事か」
憎悪に燃え滾る己を静かに隠し、話を本筋に戻す八郎の語りは、裡に秘める激しさと相反し、あくまで鋭利に的を突く。
「上林は倒幕思想を啓蒙する禁裏の大物。だが利がなければ動かない上林を動かしえるその利、危険を犯してまで植田の逃走に手を貸す伊東の利、更にその二人に見返りを与えても十分ありあまる三木の利。それらは三木が岩村藩と対立する立場の人間と云う事を考えれば、岩村藩内部に係わる事か・・・」
それまで黙していた田坂が、自らの脳裏に整理した筋から、今一度話の要点だけを取り出して繋げた。
「岩村藩自体を根元から揺るがすような事柄を、故意か偶然か植田は握っていると云う事だ」
淡々と応える土方の声も、既に一脱走者を追うだけでは事足りぬ事態の大きさに辿り着き重くくぐもった。


大方を語り終え、互いに深慮に入り込んでの沈黙はほんの僅かな間だったが、不意に八郎が視線を障子へと移した。
いつの間にか朝の気配が辺りを覆っているらしく、物の像の詳細を判じるのに行灯の灯りは必要無い。
とっくに開けて良い筈の雨戸は、籠もった三人に遠慮して閉じたままになっていると云う風だった。
その閑寂を破って、人の気配が近づいてくる。

「せんせ、沖田はんが目ぇを覚ましはりましたえ」
障子の外に膝まづいた影から、遠慮がちに柔らかな声が掛かった。
案の定、音をひそめる様にして遣ってきたのはキヨだった。
だが逸る声音から、キヨも又夜中に運び込まれた病人の回復を如何ばかり案じていたのかが知れる。
「今行く」
応えて田坂が立ち上がった時には、既に座している者は無く、ほんの一瞬の差で、誰よりも先駆けて土方が桟に手を掛けた。




「どこか痺れるような処はないか?」
田坂の問いに、総司のいらえは括り枕の上から微かに首を振るだけに止まった。
意識ははっきりしているものの、会話を交わす力までは戻っていないようだった。

致し方が無い処置ではあったが、決して健康とは云えない身体にあれだけの負担を強いたのだ。
こうして再び目覚めてくれたのが僥倖と思わなくてはならないのかもしれない。
そう己に言い聞かせてはみても、あまりに憔悴の激しい病人の様は、思う傍から土方を不安の淵に陥れる。
だが総司は馴染まぬ室の光景と、田坂や八郎までがいるのが不思議らしく、少しの間ぼんやりと二人を見ていたが、すぐに力の無い瞳が何かを探し、彷徨うように宙に向けられた。
やがて視界の中に求めていた姿を見つけると、細い面輪に漸く安堵の色が浮かんだが、それが限界だったのか、土方が其処に居る事を確かめながら、瞼はゆっくりと閉じられた。
「眠れば眠るだけ消耗した体の力が戻る。今度目が覚めた時はもう少し元気になっているさ」
安寧の眠りに戻ってしまった病人を見守る者達に、案ずるなと伝える田坂自身も又、今一度深い色の瞳が開き、唇が動いて言葉を紡ぎ出す様を見届けるまでは、九分九厘の安堵よりも一厘の不安が胸の裡を支配する。

――再び暫しの静寂に沈んだ室に、不意に明るさが増した。
天道が地から完全に離れれば、差し込む光は宙に舞う塵を包んで遊ばせながらしなやかに伸び行く。
それが敷かれた夜具の端を越え、早く臥せる者の頬を照らすまでに強くなるのを、土方は念じている。
そうして光射す事が、病人の命脈を更に確かなものにするのだと信じ、土方は眠り続ける総司を凝視して動かなかった。




「そうだ、此処から北に上り三条の通りを越え暫く行った処だ。高瀬川に沿う細い通りから西に折れて路地を奥に入る。旅籠の名はゐづつ、間口の狭い一見民家と違わぬ造りだ」
八郎の説明も的確ならば、聞き取る伝吉の脳裏に刻まれた地理も又詳細を極めているから、辺りに数多い旅籠の中から目当ての一軒を探し出すのにも、そう難儀しなくて済みそうだった。

「旅籠に気遣いとは、殊勝な事だな」
「帰らないとなれば、暫時の客とて身を案じる位はしてくれるだろうさ」
足早に門を出てゆく伝吉の背を玄関の上がり框で見送りながら、後ろから掛かった声に、八郎は振り返らずに応えた。
「伝吉がいる、それに島田も寄越す。何もお前が此処に残る必要は無い」
「だからあの島田さんじゃ尾高さんが困ると、あんたの物分りの悪さにも大概呆れるね」
うんざりと嫌う調子を隠しもせず、ごちる八郎の面が渋く歪んだ。
暫く自分が此処に留まると云った途端に眉根を寄せた恋敵の様子を楽しめたのも二度が限度で、もう幾度繰り返したのか分らない問答など、とっくに仕舞いにしたい苛立ちが端正な横顔に見え隠れする。
「それよりあんたは早いとこ屯所に戻って狐の尻尾でも掴む事だな」
当たり処をきっちり相手に定めて返し、ゆっくりと振り向き見遣った先に、案の定の仏頂面があった。
その前を素っ気無く通り越し、譲れない勝負に優勢を決め込んで奥へと歩き始めた足取りは軽い。
だがそれもつい先程再び目覚め、今度は微かに笑みすら浮かべるまでに回復した病人の容態の好転を見たからこその余裕と思えば、己が変わり身の早さには八郎自身も呆れている。


天道は既に高い位置に回りこんでい、其処から直角に射す陽は柔らかいと云うよりもただ強く、此れから更に厳しい寒さを凌がねばならない季節を控えているものだとは到底思えない。
「・・・そう云えば。尾高さんてのは焼物をやるんだって云っていたな」
その明るさに黒光りが映える廊下で不意に足を止め語る暢気な調子すら、後ろに続く土方には面白く無いらしく、応えず無言を決め込んでいる様を、八郎も気に止めている風は無い。
「この辺りは焼物をやる家も多いと云うが・・」
葉の無い潅木の枝から、すとんと落ちて出来た日溜りに視線を遣って目を細めながら、八郎の独り語りは終わりそうに無い。
「それがどうした」
行く手を塞がれては、不承不承のいらえにも益々忌々しさが籠もる。
「いや別に」
焦らすように緩慢な動きで振り返った顔が、土方の苛立ちを笑っていた。
「お前も土でも捏ねて暇をつぶす事だな」
不機嫌を隠しもしない横顔が、限りの皮肉を吐き捨て通り過ぎるのを、揶揄するような笑みを方頬に浮かべたまま、八郎は僅かに身をかわすだけで見送った。


だがその後姿が角を曲がり見えなくなると、八郎の面が俄かに真剣なものになった。

己の目で確かめた尾高周蔵の腕は稀有なものだった。
自分や総司を凌ぐ剣客とも云っても、決して過言では無かった。
もしも尾高が剣の道に精進していれば、その腕は否応無しに世に認められるものとなっただろう。
それが何故剣を捨てたばかりでなく、侍の身すら見限り焼物の道に進むようになったのか。
否、尾高は剣を捨てていた訳では無い。
それどころか日々怠る事の無い修練を積んでいたはずだ。
そうでなければたかだかひと月で、あそこまで見事な太刀捌きを見せられるものでは無い。
焼物とは隠れ蓑、そして江戸に行ったのが勘を取り戻す為の修行とは偽りだろう。
だとしたら尾高周蔵と云う人物は、今回の事件の真相を何処まで握っているのか――
八郎の胸に燻るわだかまりは消えない。

「さてどうするか・・」
思いあぐねて足が向いた先は、やはり先程恋敵が通っていった道だった。
横恋慕の無粋は、逢瀬を邪魔する意地の悪さにも繋がるらしい。
「仕様が無いさ」
そんな自分を苦く笑いながら、やがて見えて来た白い障子の向こうにいる想い人に見(まみ)える足取りが少しだけ早くなった。











事件簿の部屋  暮色の灯(九)