暮色の灯 (九) 「・・・尾高さんは?」 昨夜の荒治療は総司の喉にずいぶんと負担を掛けてしまったようで、くくり枕の上から絞り出された声は、細い上に酷く掠れて聞きづらい。 それを痛ましいと眉根を寄せながら、だが土方の胸の裡には向けられた問いにこそ棘立つものがある。 漸く目覚めた想い人は、顔を見るなりいの一番に他人の安否を気遣った。 此処が田坂の診療所だと知らされた途端に、自分を庇って怪我をした尾高も叉同じ建物の中にいると気付き、俄かに落ち着かなくなったらしい。 不快なこの感情が嫉妬と云う厄介なものだとは、土方も重々承知している。 だがこの者にだけは、それを抑える事が出来ない。 「人の心配をする暇があったら自分の身をいとえ」 臥して見上げている面輪に視線を据えて諌める声は、いつものそれよりもずっと低い。 それを不機嫌の証であると機敏に察した瞳は、蒼白い頬の先で忽ち不安に揺れる。 「尾高周蔵の事は案ずるな、伊庭が居候を決め込むそうだ」 病人に向ける態度ではないと流石に走った後悔は、不機嫌な物云いを幾分和らげるには役立ったが、語る内に叉も己の意にそぐわぬ事情に触れなければならなくなった皮肉に、土方の端正な面が再び苦々しげなものに変わった。 「・・八郎さんが?」 「伊庭は余程に暇らしい」 怪訝に見つめる瞳に頷いきながらも、仏頂面だけは崩せない。 「ついでにお前の暇潰しの相手もしてやるよ」 声がした途端、障子が左右に音無く開き、その向こうに隠せぬ笑いを唇の端に浮かべた八郎が立っていた。 「忙しい奴は帰らなくっていいのかえ」 土方とは相対する形で枕辺に腰を下ろしながらの問いかけは、揶揄して煽る事で、相手の顔に表われる反応を楽しむ風に向けられた。 「暇を持て余せば次は要らぬ節介か、お前も惚けぬ内に江戸に帰る荷物でも纏めて置くことだな」 あざとい挑発を鼻先だけであしらう口調は、容赦と遠慮のそのどちらの欠片も無い。 「伝吉を置いて行く、何か不便があったら云え」 しかし総司に戻した土方の目が、実際の処八郎の言葉通り自由が効かぬ身の忌々しさを隠せず、舌打ちすら聞こえてきそうな苦い風情で細められた。 だが屯所に戻らなければならない、土方の限られた時を知って慌てたのは総司の方だった。 「土方さん、あの時・・・」 その焦りのままにやおら身体を捻って訴えようとした途端、ひとつ零れたそれが障りとなって、あとは息継ぐ島も無く激しく咳き込み始めた。 まだ声を言葉に変えて紡ぎ出すのすら力を振絞らねばならない身には、例え空咳のひとつでも酷く堪えるらしく、掴んだ土方の腕を支えにして、総司は息の痞えを外に押しやる度に一際大きく寄せ来る胸の痛みに耐えているようだった。 「ばか、無理をするからだ」 そう叱りながら摩る背の、骨の形が直截に掌に触れ得る肉の薄さ頼りなさが、土方にはひたすら己を脅かす不吉なものに思える。 やがて咳はようよう鎮まる気配を見せ始めたが、総司はたったそれだけで投げなしの力を使い切ってしまったのか、瞳を閉じたまま荒い息を繰り返している。 「又夜に来る、それまで大人しく寝ていろ」 宥めすかす、この男にはおよそ似合わぬ労りも功を為さず、枕の上の頭は、物言えないもどかしさの代わりのように左右に振られた。 「・・・あの・・ひと」 無理を強いられた喉は悲鳴を上げ、遂に笛吹くような細い音を言葉と一緒に混じらせ始め、それが枕辺に座す者達の耳には何とも禍々しい。 「喋るな」 「・・あのひと・・おかしい・・・」 厳しく諌める声にも怯まず、総司は苦しげな汗を額に浮かべ、必死に訴えるのを止めない。 「あの人?お前に薬を持ってきた奴の事か?」 息を整える事が出来なければ微かに顎を引く仕草で応える他無く、しかしそれすら大儀そうに、乱れた襟の袷から覗く鎖骨の窪みが大きく上下する。 「声を出さなくてもいい、指で応えろ」 どんなに止めても聞き入れる意志が無いと見るや、せめてこれ以上の負担を避けさせる為に土方の取った判断は、己の掌に包み込んだ総司の指に力を籠めさせる事で、是か否かを促そうとするものだった。 「あの新しい顔の隊士の事だな?」 今一度問う顔を見上げ、更に握られた指を手の平に立てて、総司はそうだと頷いた。 「・・・目が、・・ずっと追っていた・・」 それでも是非と二つのいらえだけでは、疑惑の全てを伝えるには限りがあり、掠れた声が聞き取り難い細さで再び唇を震わせた。 「お前が薬を飲む処をかえ?」 すかさず八郎がその前後を補ってやると、今度は深い色の瞳が其方へと向けられた。 「・・・視線に気付いて・・あの人を見ても・・もうそんな素振りは。・・・だから・・飲むのを・・止めて・・」 時折苦しげに息を繋ぎながら、身体に残った力の有りっ丈を使い切り、漸く其れだけを話し終えると、総司は精根尽きたかのように瞼を閉じてしまった。 険しい顔でその様子を見守りながら、だが聞かされた真実の衝撃は、激しく土方を打ちのめしていた。 脅し状が届いてから、密かに総司の身辺に目を配り護らせていた伝吉によれば、薬を運んできた者にも作った賄い方の者にも、共に不審な動きは見られなかったと云う。 が、報告の最後に、それまで淡々と語られていた調子を少しだけ違え、だからこそ何処かがおかしいのだと、まるで独り語りのように呟いた伝吉の言葉が、土方の耳に幾重にも木霊する。 賄いの者は新参の隊士が持って行った薬を一番手近にあった湯呑に溶かして渡し、受け取った隊士も又、その往復にひとつもおかしな素振りを見せなかった。 互いに不審な点は見当たらない。 更に薬を作った者は壬生に屯所があった頃からおり、総司に疑惑を持たせた隊士はここ一月程前に入隊した者で、二人の間に接点は無い。 そこまで思考を巡らせた寸座、土方の脳裏をふと掠めたものがあった。 毒は最初から湯呑の内側に塗られていたのだとしたら・・ 二人共に敵方の人間だとしたら、見張られているのを承知で堂々と毒を盛る事が出来る。 常に五人以上の人間が働いている賄い方の、その中の一人に頼んだのは偶然ではなかったのだ。 最初から意図して声を掛け、掛けられた者は予め中に毒を塗った湯呑を選んで薬を作った。 今まで一人ずつ切り離した単独での行動しか追ってはいなかった、だから見逃していたのだ。 あまりに簡単すぎるからくりだからこそ、気付かなかったのだ。 毒を盛った人間の顔貌が、今脳裏に蘇る―― それが急速に鮮明さを増す中、焔が音を砕いて燃え盛るよりも激しい憤怒が、土方の裡に逆巻いた。 「夜に又来る」 だがその迸りの片鱗すら見せず、病人に掛ける声音は、むしろ和らいだものだった。 「必ず来る」 微かに開いて見上げた瞳に目線を合わせ強く契ると、掌に包んだままだった総司の指を今一度握りなおして頷き、土方は静かに立ち上がった。 田坂とキヨへの挨拶もそこそこにし、焦れて玄関に向かうまでの廊下が長い。 いっそ駆け出したい衝動を抑え、板敷きを踏みしめる土方の後ろに、いつからともなく気配を感じさせない影が続いていた。 「捕らえている者、土蔵につれ行け」 背中だけを見せて、声は命じた。 「吐かせる」 振り向かない主に無言で頷くだけで応えた伝吉は、俊敏な身ごなしで縁から庭に下り立つと、進める歩を緩めぬ土方の脇を走り抜けて消えた。 その姿を視界の端で捉えながら、土方の裡に、先程までのような怒りの憤激は既に無い。 否、無いと云う形容が当てはまらないのだろう。 息の緒を止めず、ぎりぎりまでの恐怖と苦痛を与え、流れる血潮にも、裂ける肉にも、砕ける骨にも眉ひとつ動かさず、殺してくれと叫び出す声など端から聞かず、責める相手に氷室よりも凍てた視線しかくれないだろう己を土方は承知している。 怒りが人としての感情ならば、そんなものなど疾うに捨て去った自分には要らぬものだった。 ――かつて島田は土方が仕掛ける責め苦に幾度か立ち会った事がある。 思わず息を呑む惨い場面も見てきた。 その最たるものは池田屋襲撃前の古高俊太郎のそれだったが、しかしあれとてこの男にとってはまだ仕置きの内ではなかったのだ。 そう思わせる程に、今目の前で繰り広げられている土方の拷問は凄惨を極め容赦が無い。 だがそれよりも島田を驚愕させているのは、狂気にも似た責めを繰り返しながら、一時も外れる事無く、土方自身が確たる己を保っていると云う事だった。 極限まで研ぎ澄まされた冷徹さで相手の限界を見極め、苦悶から逃れられる唯一の手段である意識の逸失を決して許さない。 拷問に掛けられているのは、総司に薬を運んで来た者だった。 あと一人賄い方だった者は、湯呑を手渡した直後に出奔していた。 それが土方の怒りを更に煽っているのは否めない。 舌を噛み切らないよう猿轡で戒められた男の顔は、滴る血と汗と、腫れあがった皮膚で元の形を判別するのすら難しい。 少しずつ積まれた重石の下にある両足の骨は肉の中で砕かれ、例え命が助かったとしても、もう地を踏みしめる事は出来ないだろう。 「二度は問わぬから良く聞け」 その男の髪を掴み、抑揚の無い声は問う。 「頷くだけでいい」 常と少しも変わらぬ低いそれが、だが島田には淵より深い土方の怒りの顕れに思える。 「お前を差し向けたのは、三木清隆か」 頷かぬ相手の喉仏を、当てた掌で砕くようにじりじりと押す。 薄い皮膚を一枚通し、骨に直接損傷を与えられるような苦痛に、男が猿轡の下からうめき声を漏らした。 「三木清隆だな」 息の出来ない苦しさと、強く喉を締め付けられる恐怖に、それまで頑なだった男の目が見開き、首が微かに縦に振られた。 一度強気の箍(たが)が外れてしまえば、後は堪えていた恐怖がその幾十倍もの勢いで襲い掛かる。 意識を手放してしまえば肉体と精神の苦悶から解放されるが、残酷な責め手は視界が薄暗くなるその瞬間を狙いすましたように、再び現の修羅に引き摺り戻す。 「毒を盛ったのも、三木の指図か」 朦朧とした思考は何の役にも立たず、死の淵を垣間見せられた慄きと恐れを回避しようとする本能だけが、男に再び是と頷かせた。 「毒は、貴様が盛ったのか」 何もかもが呆と云う音になって鳴るだけの耳に届いた冷ややかな声は、脳髄まで震えが這う戦慄を呼び起こし、視界に像の形すら結べない男が、それでも微かに頷く仕草を見せたのは、ただ外界からの刺激に反応した意志無き他動だった。 だが次の瞬間、閃光のような土方の平手打ちが飛び、男の首が横に刎ねられたかと見えた錯覚に、島田が思わず息を詰めた。 それと共に、伏せた格好で下半身に重石を積み上げられ、僅かに身じろぎする隙も無い筈の男の体が、血飛沫を上げて激しく飛ばされ、無理に捻じ曲げられた足の骨が、辛うじて留めていた最後の形を失くす鈍い音が、蔵の厚い土壁に呑まれた。 ぐったりと動かない男は、果たして生あるものなのか―― 素早く屈み、己の指の腹を男の口元近くに当て生死を確かめた伝吉が、まだ息がある事を目だけで島田に伝えた。 「まだ死んでもらっては困る。役に立たせるのはこれからだ」 まるで何事も無かったかのように淡々と告げる端正な横顔からは、感情と云うものが読み取れない。 「島田」 その土方が、漸く自分を凝視している者を振り向いた。 「はい」 「今一度岩村藩の事情を探ってくれ。いや、尾高周蔵が陶器を作っていたと云う身辺だ。仇討ちは隠れ蓑だ」 「隠れ蓑・・・」 「岩村藩には尾高をして必ず植田を捕らえねばならない何かがある筈だ。それが三木清隆が植田を匿う理由だ」 島田に疑問を質す余地を与えず、土方の口調は鋭い。 「それから伝吉」 生きる屍の脇に屈んでいる伝吉に視線を移して続ける声も、其れと同じように変わらない。 「総司の処へ戻ってくれ」 だが最後に加えたこの一言だけが、僅かに調子が違った。 そしてそれこそが、土方が人に戻った瞬間なのだと島田には判じられた。 伏したまま微動だにしない男に、物を見るような冷ややかな一瞥をくれ、自ら重い土蔵の扉を開けた広い背は、茜に染まり始めた夕景の中に無言のまま歩を進め、二度と振り返ろうとはしなかった。 「キヨさんを怒らせるぞ」 「そうして見ていれば、何も食べる事が出来ない」 「見ていなけりゃ余計に食わないだろう、お前は」 もう幾度同じやりとりを繰り返している事か・・・ 柱を背に腕を組んだ姿勢のまま、流石に業を煮やしているらしく、八郎のいらえはうんざりと返った。 幸いな事に毒は洗い流されたものの、その為の荒治療の方が総司の身体には負担だったらしく、失くした力を補うかのように深い眠りについていたが、それでも昼すぎに三度(みたび)目覚めた時には受応えもしっかりとし、傷めた喉もずいぶんと良くなっていて周りの者を安堵させた。 が、まだ用意された粥を食するまでには行かないらしい。 羽織に袖を通さず肩に掛けただけで夜具の上に端座し、キヨが柔らかく炊いて来てくれた粥の乗った膳を、先ほどから総司は困ったように見ているだけで箸もつけようとはしない。 「八郎さん・・・」 「キヨさんの説教の巻き添えにされるのは御免だぜ」 向けられた気弱な瞳に、素知らぬ振りを決め込むつれなさは、される方よりする方が何故か後ろめたい。 「・・・尾高さん、どうしているかな」 総司の方もそろそろ根負けしつつあるのか、続けて紡がれた言葉は、意外な方向に話を振った。 「お前に案ぜられるとは、あの人も心外だろうよ」 「そんなこと・・」 意地の悪いいらえに、一瞬恨めしそうに見上げられた視線に合えば、更に胸の裡で遣る瀬無い溜息のひとつも漏れる。 だがそれもこれも惚れた弱みだと、その一言で片付けられないものが今八郎にはある。 自分の京での滞在先を、土方は疾うに調べてあるだろうとは踏んでいた。 だがその土方からの突然の報は、心の臓の鼓動を一瞬止めるに余り有るものだった。 島田の乗ってきた馬を借り受け、明けやらぬ薄闇の中、鞭打つ手を一時も休めず辿り着いた自分を待っていたのは、思わず息している事を確かめずにはいられなかった蒼白な面輪だった。 血管(ちくだ)の藍を薄く透かせた瞼は凍てたように閉じられ、その奥に隠れた瞳に二度と見(まみ)える事が出来ないのではと、膚が粟立つような戦慄を覚えたのは確かに幾刻か前の事だった。 それ故、未だ今日と云う日が終わらぬ内に、その主とこうして他愛も無い会話を交わしているのが、何とも不思議な光景に思える。 まさか夢幻でもあるまいが、それでも八郎は、この僥倖を更に確かなものにする為に、未だ膳を前に思案にくれている横顔を凝視せずにはいられない。 「八郎さん」 暫しあらぬ錯覚に入り込んでしまった八郎を現に戻したのは、いつの間にか此方を向いていた総司の躊躇いがちな声だった。 「何だえ?」 自分自身でも呆れる弱気を自嘲しながら返すいらえは、それを隠すのに気が無い風を装う分だけ要らぬ世話がやける。 「八郎さんは何故京に残っていたのですか?昨日尾高さんが狙われて怪我をした時、八郎さんはあの人の後を付けていたのではなかったのですか?だからあの時八郎さんが居たのは偶然では無くて・・」 「あまり急(せ)くと又咳が出るぞ」 溜めていた疑問を解き放った勢いで、一気に語ろうとする総司をやんわりと制しながら、叉も思わぬ方向へと流れる話の飛びように、ここまで来れば八郎も苦笑いを禁じ得ない。 総司の思考は既に尾高周蔵一人に捉われてしまっているらしく、そうなれば幾ら腕を掴んで引き止めようが、その手を振り解いて走りだす気性は嫌と云う程承知している。 「お前の思っているとおりさ」 凡そ素っ気無い口調に含むのは、此れから先の想い人の行動を諦めながらも、だが決して良しと認めていないと、己にこそ言い聞かせる戒めだった。 「では八郎さんは、やはり尾高さんと何か係わりがあるのですか?」 「お前もとんと可愛げの無い奴だねぇ」 瞬きもせずいらえを待つ瞳に返した声が、あまりに真摯な様を揶揄して笑っていた。 「恋しい心が足に枷して動かぬならば嬉しいと、花街ならば世辞のひとつも粋なものを」 「八郎さんっ」 からかわれたと知って、白いと云うよりもまだ蒼い彩の方が余程に強い頬に朱が刷かれた。 「怒るな、報いの無い用心棒を買って出てやっているのだ」 「でもっ・・」 「尾高周蔵は仇討ちの為にこの京に潜伏している。俺はその助太刀を、尾高の師坪内主馬殿から頼まれただけだ」 まだ止まらぬ怒りの眼差しをさらりと交わして、八郎は漸く問われた本筋に戻って応えた。 「仇討ち?」 それも聞きなれない言葉に、総司の唇から怪訝そうな声が漏れた。 「尾高周蔵の仇は、元新撰組隊士植田末次。そいつが今京に潜伏している。が、こいつはお前も知っての通り新撰組にも追われている。其れゆえ新撰組に捕われない前に、愛弟子に見事本懐を遂げさせてやって欲しい云うのが、坪内さんから俺へ託された文の内容だった」 「・・・植田。・・島田さん達が尾張まで追った、あの植田末次の事だろうか?」 名を繰り返し、暫し記憶を手繰り寄せる風に沈黙していた総司だったが、思いついて直ぐに八郎に向けられた顔は驚きを隠せず、深い色の瞳が大きく瞠られていた。 「植田と云う人は一番隊に居たのです。土方さんが去年の春に江戸で隊士を募集した時に来た人で、見習いの期間もあったから一番隊に配属されていたのはひと月にも足らなかったけれど」 口の達者だった、それでいて常に狡猾な目の主の姿が、総司の脳裏に朧な記憶となって思い浮かぶ。 「その植田だ。土方さんによれば結局探索も無駄足になったらしいが。尾高周蔵の兄、尾高助左衛門は美濃岩村藩藩士で、昨年夏どう云う理由か知らないが植田を泊めた際に斬られた。新撰組の探索の手が、尾張美濃に伸びたのはそのすぐ後の話だ」 「では島田さんが美濃方面に行った時には、もう尾高さんのお兄さんは・・・」 「殺された後だったらしい。尤も島田さんはその時点では、この事件の事はまだ知らない」 「知らないって・・。でも島田さんは中山道をずっと下って木曽福島まで辿っているのだから、途中で何か噂も聞かなかったのだろうか・・」 八郎の言葉に異を唱える訳ではなかったが、島田の探索の丁寧さ確実さ、そして何より本人の実直な人柄を知る総司の口調は、ついつい庇う風なものになる。 「落ち着け。何も島田さんが見落としたと云っている訳では無い。・・・今度はちゃんと袖を通せ」 勢いづいて思わず身を乗り出した途端、総司の肩から滑り落ちた羽織を拾ってやりながら窘める声は、話の続きよりも其方の方が気に掛かっている様子だった。 「探索に向かった島田さんがこの件を知らずに通り過ぎてしまったのは、岩村藩の事情が絡んでいるとも考えられる」 「・・岩村藩の?」 「歴とした藩士一人が無頼の輩に殺されたのだ。例え行ったのが事件の後だとは云え、丹念な探索をしながらの街道筋で、あの島田さんが噂ひとつでも聞き逃す筈が無い。違いがあるか?」 念押しする双眸から視線を逸らせず、総司が無言のまま深く頷いた。 「では尾高さんのお兄さんの事は、藩が外に漏れないようにしたのだろうか」 「だろうな、そうと考えるのが自然だろう」 「でも・・・」 其処までは納得したものの、すぐさま新たな疑問が湧きあがったようで、黒曜石の深い色に似た瞳が再び八郎を捉えた。 「岩村藩は尾高さんに仇討ちを許した。・・・けれどそれならば、尾高さんのお兄さんが殺された事を隠すのとは、矛盾する事にはならないだろうか?仇討ちと名打つからには、いずれその事は世に知れてしまう・・」 僅かながらに色が戻ってきた形の良い唇から、ひとつひとつを整理するように、言葉はゆっくりと紡がれた。 「お前もいつもその位考えて動いてくれれば、周りは助かるのだがな」 笑う八郎の声に、細い面輪に勝気な色が浮かんだ。 「確かに何かがあるのだろうな。流石の土方さんも、其れが何かまではまだ掴んではいないようだ。・・・が、ともあれ、俺は尾高周蔵に見事本懐を遂げさせれば、それで役目は終わる」 総司の不満の矛先など、端から気に留める風も無く、しかしこの想い人が既に事件に深く心奪われてしまっている状況を考えれば、自分とて到底それで終われる筈も無い先を見越し、八郎は憂鬱の息を吐いた。 その八郎を、まだ文句を云いたそうに見ていた総司の視線がつと逸らされた。 「入ってもええですやろか?」 柔らかな声に、それまで八郎のからかいに慍色を留めていた総司の面輪に狼狽が走った。 その慌てた様子を、胡坐をかいた膝に片肘を置き行儀悪く頬杖にしていた八郎が、面白そうに見遣った。 返事の無いのが是と受け止めたのか、キヨは静かに開けた隙から身を入れると、冷たい外の風が入り込むのを極力避けるように、素早く障子を締め切った。 「えろうたんと残ってますなぁ」 八郎の横に座り込み、総司が何をか云う前に膳の中を覗き込んでのキヨの溜息は、これみよがしに大きい。 残すどころか粥は箸もつけられず、運んできたそのままになっている。 「・・・あの、今八郎さんと話こんでしまっていて・・」 「いや、それはお話の途中で堪忍しとくれやす」 「いえ、話はとっくに終わっている故、ご懸念無く」 とってつけた言い訳に助けを求めても、床の間にある陶器を見ている風に逸らせていた視線をキヨに向けての八郎のいらえはすげない。 「ほなもうあんじょうお粥さん食べられますなぁ」 満足そうに頷くキヨには、総司もそれ以上抗え無い。 「けど・・」 漸く箸をとった総司の手元を見て、不意にキヨが呟いた。 まだ何かあるのかと様子を伺いながら躊躇いがちに上げた瞳に、キヨの不満そうな顔が映った。 「あの・・・」 「お粥さん、すっかり冷たくなってしもうたわ」 総司の言葉など届かぬように、キヨは茶碗の中を凝視している。 どうやら機嫌の悪いのは、運んできた時には白い湯気が立っていた粥が、今では透いた膜がその上を覆う程にすっかり冷め切ってしまっている事にあるようだった。 「・・・すみません、直ぐに食べますから」 「あきまへん」 慌てて茶碗を持った総司を、今度は断固とした声が止めた。 食べないと叱り、だが今度は食べるなと叱るキヨの意図がどうにも分らず、総司は戸惑って困惑を誘う主を見た。 「こないに冷たいもんお腹に入れたら芯から冷えてしまいます」 「でも・・・」 「ちょっと待ってておくれやす、すぐに温くとめてきますよって」 キヨにはキヨの矜持があるらしい。 云うが早いか、恰幅の良い体は膳を持って立ち上がっていた。 「キヨさん、それでいいです、それを食べます」 見上げて慌てて止めながら、少しでも力がつけばと、そう願いながら粥を作り温かいうちに運んでくれたキヨの心を失念していた自分を総司は恥じていた。 「あきまへん」 「大丈夫です」 「あ、そうや。ええ事思いついたわ」 必死の声は、又してもキヨの頭を過ぎった閃きには敵わないようだった。 何をか思いついた顔が、みるみる晴れ晴れとしたものに変わって行く。 「尾高はん。あのお人も一緒にお膳囲んだらどうですやろ。じきお夕飯やし・・・」 「尾高さん?」 この問答には立ち入り無用とばかりに傍観を決め込んでいた八郎も、流石にキヨを見上げたが、総司にとってその提案は願っても無い事だったらしく、繰り返して問う声が明るいものになった。 「へぇ、そうですわ。尾高はんも一日ひとりではつまらんですやろ。せやさかい、尾高はんも伊庭はんも、そんで若せんせいも・・・せや、伝吉はんかて一緒に皆でお膳囲みはったら、きっと沖田はんもお粥さんを仰山食べはる事が出来ますわ」 「キヨさん、私も尾高さんとご一緒したい」 間髪を置かず同意する声に、キヨのふくよかな顔満面に満足げな笑みが浮かんだ。 「そうですやろ?その方がよっぽども美味しゅう食べられるに決まってますわ」 キヨは自分のこの思いつきが余程に気に入ったようで、既にそうすると決めてひとり大きく頷いた。 「ほな急いでご飯つくらんと」 もう其処に居る者など眼中に無いらしく、運んで来た時そのままの膳を手に出て行く足取りが、急に忙しくなった自分を楽しむかのように弾んでいた。 「してやったな」 そのキヨを見送る嬉しそうな横顔に、八郎の物憂そうな声が届いた。 |