暮色の灯 (十)




賑やかとまでは行かないが、男ばかりで囲む膳でも、数が集まればそれなりに湧くようで、本来は寡黙な質であるのだろう尾高も、坪内主馬を種にしての八郎との閑談には打ち解けたものがあり、室の中で話の途切れる事はない。

結局まだ力の戻りきらない身を考慮した田坂の判断で、総司の病室に席を設けると云う事になったが、足に傷を負っている尾高を難儀させる訳には行かないと、本人は頑なに首を振った。
それを事も無げに退け黙らせたのは、尾高の室では良い体躯の男達が集まるには狭くて鬱陶しいと、眉根を寄せたキヨの一言だった。
それでも総司にしては珍しく執拗に食い下がりを見せ、せめて敷いてある夜具だけは片付けて欲しいと、キヨにも懇願の目を向けた。
最初の出会いから、尾高には不甲斐ない自分を見せるに終始している事への、それが総司の拘りと矜持なのだと知れば、その稚気を胸中で苦笑しながらも満更分からぬ訳でもなく、田坂もしぶしぶを装って頷く他なかった。


「美濃岩村藩と云うのは、急峻な山の上に城があるのだと聞いた事がある」
「藩自体もずいぶんな山の中にあるから、他所から来る人間には、一体此処には平らな処はあるのかと不思議がられる」
八郎の問いに応える尾高の声に、それを懐かしむ風な笑いが混じる。
総司の身体と、足の傷にまだ障りがある尾高を遠慮しての酒の無い膳はどうにも勝手が違い、男達は初め箸の行方を持て余していたが、それも次第に慣れて来れば、今度は知らぬ土地への興味が働くようになったらしい。
「急な斜面に立つ城か・・さながら要塞の体だな」
呟く田坂の脳裏には、未だ見ぬ地の情景が描かれているのか、視線は尾高に止められはしていたが、その実其処には無い、もっと遠い先を捉えているようだった。

「そう言えば・・」
それまでひたすら聞くに徹していた総司の唇から、遠慮がちな声が漏れた。
「何か?」
自分に向けられたものだと察し尾高が先を促したが、逆に総司は、言ってしまってから改めて躊躇いが生じたように口籠もってしまった。
「いえ・・・大した事ではないのです」
しかも暫らく置いて漸く繋げられた言葉は、それ以上の続きを自ら断つものだった。
「中途で止められれば、余計に聞きたくなるねぇ」
こう云う時ですら、自分を主張する術を知らない想い人の不器用さを目の当たりにすれば、八郎の物云いにももどかしさが先立つ。
それでも総司はまだどうしようか迷っているようだったが、其処にいる誰もが自分に視線を向け次を待っている気配に押され、意を決したように伝吉を見た。
「伝吉さんも、美濃が国元だと聞いた事があったから・・・」
総司の憂慮は、伝吉に遠慮してのものだったらしい。
意外な方面から話題を振られて、影のように存在を消していた人間に、初めて注目が集まった。
この口の重い男は、共に膳を囲む事を頑なに拒んだが、こればかりは総司も譲らず、結局最後は根負けした形で座敷に席を連ねていた。

「伝吉さんは大垣じゃなかったのかえ?島田さんと同郷で、確かそれが縁であの人の手助けをしていると聞いた事があるが」
朧な記憶の糸を言葉でなぞる事で手繰り、更にそれにいらえを求めて確かなものにするように、八郎が伝吉を見遣った。
「島田の旦那は大垣藩に籍がありやしたが、元は美濃の雄総と云う村のご出身。あっしは其処からずっと木曽川を上った処で生まれやした」
隠す必要も無いと思ったからなのだろうが、それでも伝吉がこう云う風に自分を語るのは滅多に無い事だった。
「同じ美濃でも広いものなのだな」
「美濃には九つの藩がある」
感心したように云う田坂に、尾高が笑いながら付け足した。
「伝吉殿の云われた大垣藩は、その中でも飛びぬけて大きな十万石、比べて我が藩は駿河にある飛び領を入れても僅か三万石。・・・それも山の中の痩せた土では、米も満足に出来ない貧しい藩です」
そう語る口調には、しかし暗さの微塵も無く、むしろその故郷を懐かしむような眼差しを、尾高は誰にともなく向けていた。

「だがその痩せた土、焼物には適していると見たが」
突然の問いは、一瞬郷愁に浸かりかけた尾高を、その際で現に戻したようだった。
八郎に戻した目が、俄かに鋭い光を帯びていた。
「左様、焼物には適している。美濃焼きと呼ばれるのは岩村藩だけの窯では無いが、それでも当地の焼物は、疲弊する一方の藩財政を唯一助けるまでに到る物だ」
応える口調が堅いものになったのは、それはこの男の中で真摯に語らねばならぬ事情に触れたからなのだろうと、八郎の思考は判じた。
「尾高さん、あんた主馬さんよりもその焼物の方が気に入って、あの人を袖にしたんだって?主馬さんが文の中で嘆いていたよ」
面白そうに問う声の裡には、そう装う事で相手の気を解し、話の端から真実を探ろうとする八郎の意図がある。
「坪内先生がそのような事を」
だがそれを受けて笑った顔には、先程ふと垣間見せた、心の動きを悟らせるような隙はもう何処にも無い。

「・・・岩村には」
その二人の会話に不意に挟まれた声は、其処にほんの僅かの間作られた緊張の糸を、断ち切る強さはまでは持ち合わせてはいなかったが、発した当人を見て誰もが驚いた。
「確か徳左と云う、腕の良い焼物師が居た筈ですが」
が、伝吉は自分に向けられた幾多の視線に臆する事無く、尾高だけを見て淡々と言葉を繋げた。
「とくざ・・?伝吉さんはその人の事を知っているのですか?」
一瞬言葉の出ない風な尾高に代わって、伝吉に問うたのは総司だった。
「いえ、耳にした事があるだけで」
総司へのいらえは短いものだったが、すぐに叉伝吉の視線は尾高に向けられた。
それは見様によっては、この問いに拠る尾高の反応を試している風にも受け取れた。
「徳左と云うのは確かに岩村の人間で、何処に出しても遜色の無い良いものを焼いていた。だがもう八年も前に死んでいる」
静かな語り口には淀みが無く、それが偽りとは思えない。
「そうですかい、つまらねぇ事を聞きました」
「いや、懐かしい名前を他所の土地の方の口から聞き、私も嬉しかった」
心底そう思っているらしく、尾高の調子は穏やかなものだった。
伝吉もそれ以上は問わず、すぐに叉いつもと変わらぬ寡黙に戻り、音もさせずに膳の上に置いてあった箸を取り上げた。
だがこの男がこうして自分から話に入り込む事自体が、何かを探る上での事だとは、尾高を除く誰もが胸に抱えた事実だった。

「土方はんが、見えはりましたわ」
不意に途切れた会話が作り出した、気まずい沈黙を救ったのは、外から掛かったキヨの張りのある声だった。
「あの人も、あちこちへと忙しいことだねぇ」
ちらりと見た隣の主の横顔が、聞いた途端落ち着かない心裡を隠しもせず、障子の向こうを凝視している様を見れば、云わずとも良い皮肉のひとつも漏れる。
その己の稚気を自嘲しながら、いっそ酔奴になるをも許さぬつれない膳に、八郎は遣る瀬無い視線を落とした。




土方の来訪を切欠に、着けばまだ痛むらしい足を、八郎に助けられながら尾高が室に戻る姿を見送ると、丁度時を同じくして田坂にも急患の声が掛かり、無骨な宴は一応の仕舞いを見せた。

「土方さん・・」
廊下で伝吉に何事か指示し終えて現われた土方に、それを待っていたかのように、総司が夜具から身を乗り出し声を掛けた。
「近藤先生はどうされているのでしょうか?」
二人になるや否や、想い人の唇からついて出た言葉に、後ろ手で障子を閉めた土方の顔があからさまに歪められた。
それを不機嫌の証と察しはすれ、総司には何がそうさせたのかが分からないようで、いらえの返る間を持て余した瞳が困惑げに見上げている。
借りた羽織が大きいのか、中で浮いた身体が常にも増して酷く頼りなく見える主の、すぐ脇に腰を下ろしながら、土方はやはり無言を決め込んでいる。
「心配を掛けたままで来てしまったから、きっと・・・」
その様に怯む心を励まし、再び唇を開いての熱心な訴えの途中で、突然二の腕を掴んだ土方の挙措に、総司の瞳が驚きに見開かれた。

物言わぬ自分に臆し、深い色の瞳が揺れ動くのを視界に捉えながら、しかし土方は、どうにも抑える事の出来ない憤りの中にいる。
問えば容易に正体を見出せるそれは、違え様も無く嫉妬と云う名の代物だった。

昼間、声を出す事すら敵わない状態のまま置いて行く事に、身を千切られる思いで此処を辞した、その自分の心など知らぬように、相変わらず血の色の失せた面輪で、総司は今近藤の心配をしている。
それが土方には許せない。
遂に近藤にまで矛先を向けた、この厄介な感情には、呆れ果てて自嘲する気も起こらない。
それでもこうして真摯に案じる様を見せ付けられれば、やはり胸にある苛立ちは、堪え処の際を外れ激しく逆巻く。

だが総司は総司で、何が悪かったのか、どうして土方が怒っているのか、その心が掴めない。
掴めずとも、この沈黙だけは耐え難い。
「土方さん・・」
無言の戒めに、堪えきれない心が先に音を上げ名を呼んだ。
「お前は他人の心配ばかりだな」
言葉の意味を判じかね、総司の瞳が再び揺らめいた。
「・・・他人・・って」
反復するように呟いた途端、捉われていた腕が強い力で引かれ、視界の中の光景が、見止めるも難しい瞬く早さで流れ行き、思わず声を発しようとした寸座、その唇が冷たい何かで塞がれた。

口を吸われているのだと――
そう気付いた時にはもう解放されていた束の間の抱擁は、それがあまりに呆気なく終わりを見せたが故に、現の出来事とは思えず、暫し総司を混乱の呆気に陥としめる。
だが次の瞬間には、訳の分からぬ感情がたちまち胸の裡に膨れ上がる。
「・・・どうして」
何故突然こんな事をするのだと、責める筈の言葉は最後まで続かず、自分でもどうにもならない滴がひとつ頬を伝わった。
それを乱暴に手の甲で拭い下を向いてしまったのは、主の云う事など端から聞かず、次々に零れ落ちて来るものを必死に隠そうとする、ぎりぎりに残された総司の矜持だった。

自分は怒っているのだと、いつもいつも気紛れのように翻弄して、まるで何事も無かったかのように知らぬ顔の出来る土方に怒っているのだと、そう伝えたいのに上手く言葉が出てこない。
否、そんな事は自分を騙す偽りにも過ぎない。
唇に触れた土方のそれが離れ行くのを、責めるよりも寂しいと勝る心は追っていた。
そして何よりも、次にその隙から忍び込む熱い予感に震えた自分を知っている。
だがそれを知られる位ならば、羞恥の斧でこのまま身を粉々に砕いてしまいたい。
こんな事で水面の浮き草のように揺れ動く心の不甲斐なさに、総司は俯いたまま唇を噛み締めた。


「来い」
沈黙の中に閉じ籠もってしまった様に業を煮やし、再び胸の内に浚っても、それが唯一抗いの砦のように、伏せた面は頑なに上げられない。
「お前が他の奴ばかりを案じているから妬いた」
耳朶に触れての囁きに、少しだけ上向いた視線が驚いたように声の先を辿った。
「妬いた」
見開かれた瞳に真正面から見つめられれば、こうして訳無く本音を晒さざるを得ない己の他愛の無さを、土方は苦く笑う事で自分自身にも誤魔化した。
「・・土方さんは、嘘ばかりを云う」
咎める言葉は、精一杯の強気を装っても、濡れた瞳と震える語尾が、意地悪く勢いを削ぐ。
「いつもそうだ・・・」
それが悔しいのか、土方の余裕が恨めしいのか、止んだ筈の露が再び視界を覆う。
慌てて伏せられた顔が、再び自分との距離を作るのを厭うように、土方の手が骨ばった背に回された時、一瞬だけ総司が身じろいだ。
「どうした?」
それが想い人の身体に起こった異な兆候と、すぐさま察した声が鋭くなった。
「痛い・・」
応えにならないいらえを返しながら、総司は俯いたままの守りを崩そうとはしない。
が、その一言で、昨日負った背中の打ち身に障ったのだと気付くに時は要らなかった。
すっかり失念していたが、あの傷とて治りきっている訳ではないのだ。
「すまなかった」
抱く力を少しだけ緩めると、だがそれの代わりのように伸びた細い腕が、土方の首筋に回された。
「・・・痛い」
痛いのは恋しい胸の裡だと、焦がれて焦がれて息する事すら苦しい土方への想いなのだと、そう素直に伝えられない自分の意固地さを、せめて他の言葉に置き換えて、総司は広い肩口に押し付けるようにして隠した顔を上げない。

しゃくり上げる度に波打つ薄い背だけが、痛いと責める言葉は、本当に伝えたい心ではないのだと土方に訴える。
しかしそれでは真実は何なのだと問い質せば、今度こそ総司の心は悲鳴を上げてしまうだろう。
いっそそうしてしまいたい想いを漸く抑え、胸にある黒髪に頬を寄せれば、縋りつく身が少しだけ硬くなる。
「堪忍しろ」
結局この者には常に完敗しかないのだと諦め、傷に触れてしまった失態を詫びる声が柔らかい。
「・・悪かった」
今一度、傷ついた背に回した腕に力を籠めても、もう総司は痛いとは云わない。
「もう顔を上げろ」
命じる言葉すらどうにも弱気に傾く様に苦笑しながら、土方は聞かぬ者の駄々を叱った。





診療所からそう離れない距離で、尚且つ信用のおけて勝手の効く処。
そう出した土方の条件に、田坂は迷う事無く、五条の橋から加茂川沿いに少し上った、こじんまりと商うこの店に連れてきた。
料亭と云う仰々しさは無いが、触れるに躊躇う程、磨きこまれた艶が黒光る格子のひとつに、客をもてなす主の心意気そのものを映したような店だった。

「酒は呼ぶまでいい」
地味目の紬が、返ってこの人間の控えめな品格を浮き立たせている女将は、敷居の際まで来て告げる馴染みの言葉に、絶やさぬ笑みで心得た風に頷くと、中の客達の会話を邪魔せぬよう静かに襖を閉めた。
「良い店を知っているな」
漸く腰を下ろした田坂に、知り人の意外な一面を揶揄して、八郎が面白げに声を掛けた。
「大分ご無沙汰だったがな」
それに応えた田坂も叉、突かれて痛い己の昔を思い出したのか、方頬だけを歪め、自嘲するような笑いを見せた。

――総司の室から出てくるのを待っていたように、伝吉が腑に落ちない事があると伝えた時、土方は八郎と田坂にも聞かせるよう算段した。
それはこの二人の力無くしては、既に事の解決を図るに難しいとの、躊躇いの無い判断からだった。
一歩一歩。
未だ確かなものは何ひとつ見えないまでも、核心には少しずつ近づいている。
どうしてそれ程までに、敵となる人間達が、植田末次の身を匿う必要があるのか。
否、植田自身よりも、植田が掴んでいる筈の何かが、上林元篤を動かし、三木清隆に総司の命を狙う事で新撰組の捜索を断ち切ろうと謀らせ、尚且つ伊東甲子太郎に、裏切りの発覚の危険を超えてまで手を貸す事を選び取らせた。
毒を盛った犯人を生き証人として捕らえている事は、疾うに伊東から三木へと伝わっている筈だった。
程無く敵は、新撰組は植田だけではなく、その背後にあるものに気付き始めたと察するだろう。
そうなれば間を置かず次なる手段を打って来る。
ならばその前に此方から仕掛ける、それが土方の出した結論だった。

襖で外を遮断すると、四人の男達の心裡に添うように、張りを持った静けさが室を支配した。


「まずは伝吉、お前の腑に落ちないと云う話しを聞こう」
向けられた視線に僅かに頷くと、鋭い目つきの男は重い口を開いた。
「さっきあっしが聞いた徳左と云う人間は、美濃で一、二を争う腕の焼き物職人でした」
「そいつはもう死んじまったんだろう?尾高も確かにそう応えていた」
その時の情景は、八郎の脳裏にもまだ新しいらしく、即座に打った相槌は、己の記憶に違いは無いと断言するように強いものだった。
「へえ、確かにあの時尾高は八年前に死んだと、そう云いやした。が、それは嘘です」
「嘘?」
今の伝吉と八郎の短いやりとりの中で、その時の会話が、不審の中で交わされたものであった事を、即座に感じ取った土方が繰り返した。
「美濃岩村の徳左の作った陶器が世に出たのは、ほんの五年ばかりの間でやした。ですがその短い時だからこそ、もう手に入れられないと知るや、人って云う奴は欲が出るようで、いっとき奴の作った茶碗や皿が、信じられない高値で取引されやした。ま、丁度その頃、美濃近在の陶工達がこぞって蝦夷に送り出されて、こっちの窯が手薄になっていたって事情もあったんですが・・」
「伝吉さん、あんたやけに詳しいが、もしかしてその陶器を欲しがった口かい?」
この寡黙な男とは、凡そ結びつか無い事情を笑いながら、八郎がその先を促した。
「いや、あっしなぞはそっちの方面にはとんと縁がありません。が、一度賭場で、その徳左の作った皿を形に博打を打った奴がいたんで」
「皿を形にか?」
呆れたような調子の八郎のいらえにも、流石に驚きの色が見え隠れする。
だが堅気で無い損得だけが支配する世界で、それを良しとまかり通った事を思えば、徳左の皿は金に代えて十分利があると、役座者にも判じられる程に貴重なものだったのだろう。
「その時に、岩村の徳左はまだ生きて器を焼いていると、そう口走りやがったんです」
「そいつは信用のおける奴だったのかえ?」
伝吉の話は、相変わらず八郎が引き受けている。
組んだ両腕を解かず、厳しい面差しを崩さない土方よりは、確かに八郎の方が相手の意図する処を上手に引き出して先を促すには適している。
「いえ、あっしらも端から信じちゃいやせんでした。が、皿は確かに徳左のものでした。・・・徳左の焼いたものには他に真似の出来ない、絵柄に工夫があるんですぐに分りやす」
「絵柄?」
「へえ、山とか川とか・・・そう云う風景を、まるで其処にそっくり写したように上手いこと描くんで」
「珍しいものだな」
名工の作品に興が湧いたのは八郎の方らしく、返した調子がそれまでとは少しだけ違っていた。
「ですがあっしらには徳左が生きていようがいまいが、そんな事は関係が無いと思っていた次の朝、そいつが土左衛門になって川に浮いたんで」
「殺されたのか」
漸く土方が低く声を発した。
「真正面から袈裟懸けに一太刀。奴はてめぇに何が起こったのか知る間も無く、あの世に渡った筈です。結局下手人は上がらずじまいで終わっちまったが、その時あっしは顔を拝みたいと思った位に、斬った奴は凄まじい腕の持ち主だった・・・」
それまで淡々と言葉を続けていた伝吉の顔に、僅かに緊張の色が走った。
「そしてそいつが殺されて初めて、あっしは殺された奴が、徳左が生きていると云っていた事に気が動いたんで・・」
「どう云う事だえ?」
「博打の形になった皿に描かれていた絵が、良く考えてみれば、徳左の死んだ後の景色だったんです」
「死んだ後の?」
問うた土方の眉根も怪訝に寄せられた。
「美濃と云っても確かに広い、ですがあっしら博打打ちには所詮狭い世間です。例えそれが大垣の賭場であっても、岩村の城で何か普請があった事は、一日も経てばすぐさま耳に入りやす。絵は城の新しい黒門と、その横の満開の桜を図柄としたもんでした。・・・死んだと聞かされて三年も経た奴に描ける筈がありませんや。しかも皿は、形に取った筈の賭場主の元からも盗まれやした」
伝吉の語りが終わり、暫し室に蔓延る静寂の中、土方を除く三人の脳裏に、徳左は死んだのだと言い切った時の、尾高の精悍な顔(かんばせ)が蘇る。

「・・その輩、斬ったのは尾高周蔵か」
八郎の不意の呟きは、誰に向けるとも無いものだったらしい。
それが証拠に、視線は見えぬ何かを探るように、宙に据えられていた。
「伝吉さんの云う程の腕の持ち主ならば、下手人の目星くらいは簡単につくだろう。剣客の世間も意外に狭い。それが斬った奴が見つからなかった処を見れば、そいつは道場などにはおらず、さりとてどこぞの藩士でも無かったと考えられる。それならば直ぐに疑いを持たれる筈だからな」
ゆっくりとした語り口で、田坂は丹念に疑惑を紐解いて行く。
「尾高周蔵は、坪内主馬が後継者と目した技量の持ち主ながら、あっさり剣も武士も捨てて焼き物の道に走った。・・・・だが幾ら冷や飯食いの次男だとは云え、藩を脱した人間が同じ土地でのうのう別の道を歩めると云うのも、叉不思議な話さ」
その推測を補うように、八郎も裡にある疑惑を隠さない。

「徳左は美濃の郷士の倅ですが、家は焼物の窯元でもありやした。尾高も元は同じ村の郷士の生まれ。元服前に両親を一遍に亡くして、遠縁の尾高家に引き取られたとまでは調べがついておりやす。それと・・その徳左には妹がいて、今は尾高助左衛門の妻女だと、そう聞いていやす」
「尾高助左衛門・・・」
「尾高周蔵の、殺された兄だ」
伝吉を見て繰り返した田坂に、応えた土方の視線が流れた。
「それでは徳左と尾高の兄嫁とは兄妹なのか。・・・しかも同郷の出身ならば、余計にその縁故に繋がる者の生死を誤る筈もないな」
八郎の声にも、核心に近づいている事への自信と力強さが籠もる。
「まだ憶測の域を出ないが・・・。尾高が剣を捨て焼物の道を選んだ事と、死んだと世間に認められている徳左と云う人間が生きている事、それを尾高が隠している事実、更に徳左の生存を知り、その証となるような皿を持っていた輩が斬られた件。これら全てはひとつに繋がるのだろうな」
それぞれが胸の裡で確信と刻まれた筈の事柄を、田坂が今一度念押しするように言葉に変えた。

「・・島田の調べによれば、尾高の兄は藩では勘定方に属し、目立たぬ存在ながらも几帳面な性格だったらしい。むろん植田末次とは縁もゆかりも無い。奴を自分の家に泊めたのは、藩校時代の友人からの断れぬ頼みだったと云う。そしてその晩、植田は尾高助左衛門を殺害し、何かを手に入れた。それが上林、三木、伊東、そして岩村藩が必死に追う代物だ。尾高周蔵は兄の仇討ちと共に、藩からその奪取をも命ぜられた。・・・尚且つ、今までの話の経由を辿れば、多分それは、徳左と云う男に係るものだ」
ばらばらに存在していたものを、ひとつの線の上に置けば、全ては繋がらずとも朧な形だけは見えてくる。
それを更に己の内で鮮明なものにしようと、土方の双眸が細められた。

「尾高に植田を託した奴は、どうして自分の処には止めなかったんだえ?」
話の中に埋もれた、合わぬ辻褄の綻びを逃さず、八郎の視線が土方に向けられた。
「頼んだ奴は、初めから盗みを働かせる為に植田を送り込んだ。助左衛門の友と云うそいつは、三木清隆と行き来を持つ、同じ思想の持ち主だ」
それまで心の動きの欠片も見せず、淡々と語っていた怜悧な横顔が、三木清隆と名を告げた寸座、見間違いかと思える程の一瞬憎悪に歪められた。
「それは勘か」
「そうだ勘だ。だが違いも無い」
八郎に返したいらえの素早さが、土方の揺るがぬ信念を物語っていた。
「渦中の全てに徳左が係って来ていると、もう考えてもおかしくは無いな。そうなれば件(くだん)の殺傷絡みから推し量るに、尾高は岩村藩の命を受けた、徳左の目付けだったとも考えられる」
「あり得る話だな。あの人の竹刀だこは長年に渡り作られたものだ。そして常に弛まぬ鍛錬を、あの体は積んでいる」
八郎の後を受けて、尾高と云う人間の細部を解き明かして行く田坂の言葉だった。
医師としての鋭敏な目は、僅かな係りで相手の来し方、生活までをも見透かすらしい。

「伝吉」
二人の話を耳に入れながら、ふと思い出した風に、今は沈黙を守る横の男に土方が視線を移した。
「尾高の兄と妻女との間に、子はいるのか?」
「へえ、男の子がひとり。確か今年八つかそこらだったと・・島田の旦那と二度目の探索でその事件を知った時に耳にしやした」
「それならば親の仇討ちは無理だろうよ」
「今年八っつ。・・・尾高が坪内主馬の道場から姿を消したのが、やはり八年前」
八郎の横槍に応えず、土方の思考は既に何かに捉らわれているようだった。
「その子が尾高の子だって云うのかえ?あんたの頭ってのは、一体どう云う方向に回っているのかね」
呆れた声の裏側には、だが今の言葉によって、八郎自身の裡にも閃くものがあったようで、土方に向けた視線は油断無い。
「いや、今の符合は偶然だ。俺とて知らぬ女の不貞を決め付ける程、わきまえの無い人間ではない」
「さてどんなものだか」
「どうとでも思え」
満更冗談とも思っていない風な八郎に、苦々しげな視線がちらりと動いた。

「だがもしもその当てずっぽうが本当ならば、国元に居る助左衛門の妻子は、即ち尾高の妻子と云う事になる。・・・だとしたら、藩は尾高の急所を人質にとっている訳か。それ程、岩村藩は尾高をしてどうしても植田を討つ・・いや、植田の手にある物、これは尾高助左衛門の元から盗み出したものだろうが、そいつを奪い返すのに必死だと云う事か」
田坂の語りは、靄(もや)の掛かった向こうに濃い影を落としているものの形を、叉ひとつくっきりと露わにしてゆく。
「が、その何かを、植田はまだ三木にも渡してはいない筈だ」
「それが己の身を護る切り札だからな」
土方の後を継いだ八郎の声から、柔らかさが消えていた。

植田が切り札を渡していれば、とっくにその存在はこの世には無いだろう。
匿いながらも、植田を陥落できず代物を手に入れられないからこそ、三木清隆は総司の命を危機に晒し、新撰組に追う手を止めろと脅しを掛けてきた。

「伝吉」
呼ばれた男の鋭い目が、新たな指示を待って土方に向けら得た。
「お前はさっき美濃の陶工が、一時蝦夷に送り出されたと云っていたが、それはどう云う訳だ」
「へえ、何でも蝦夷の松前って処で陶器を作る事になって、その手助けに狩り出されたらしいですが、其処の土が焼き物には向いていないとかで、結局皆三年程で引き上げてきたんで。・・中には道中で命を落とした奴もいやしたが、蝦夷行きは、それ一度で終わっちまったようです」
「・・松前」
繰り返した土方が、又も不審げに眸を細めた。
「突飛でも無い方向に走るのは、あんたに任せるよ」
その土方を見遣り、面倒くさそうなうそぶきは、しかし確かにそれもひとつの線上にあると判じた、八郎の憂鬱だった。
「走れない奴は黙っていろ」
「褒めているんだぜ」
「褒め言葉なら間に合っている、・・伝吉、尾高助左衛門の妻子の件と、岩村藩が蝦夷に陶工を送り込んだその辺りを、もう一度探ってくれ」
皮肉な揶揄を素気無く交わし、今宵二度目の無骨な宴に幕を下ろす土方の声が、既に腰を浮かせ、飛び出す姿勢で脇に控えている男に掛かった。


――伝吉の気配が、ひとつの音も立てず、風神の如き素早さで遠ざかり、その代わりに、つい先程まで活気を呈して会話が為されていたのが嘘のような、重いしじまが室を覆う。
だがこの無言の帳こそ、男達の裡に有する攻撃の牙が、漸く朧な影を見せ始めた敵へと狙いを澄まし、鋭い切っ先を研ぎ始めた証だった。











事件簿の部屋  暮色の灯(十壱)