暮色の灯 (十壱) 突然に人の気配が遠のいてしまった母屋の内は、つい先程までの賑やかさが嘘のように、ひっそりと静まり返っている。 行灯の油の足り具合を見に来てくれたキヨが、ひとしきり他愛の無いお喋りを聞かせ、早くに休むようにと言い置いて室を出て行ってから、もうかれこれ半刻は過ぎている。 あれから宴が仕舞いを見せ、暫くして島田が現われると、それを待っていたかのように皆が出かけてしまった。 土方はそのまま屯所に帰ると云っていたが、此処の主の田坂も、用心棒だと自負していた八郎も、その誰もがまだ戻らない。 何か大切な話があって場を変えたのだろうが、病人と云うただそれだけで、つんぼ桟敷に置かれてしまった寂しさは否めない。 遣る瀬無い溜息をひとつつくと、総司は眠れぬ身を厭うように大きく寝返りを打った。 が、その寸座、背中に走った鈍い痛みに、堪えるより先に小さな呻き声が唇から零れた。 不意に体勢を変えたことで、忘れていた傷が不満を訴えたのだとは分ったが、その場限りのものと侮った痛みは、次第に激しさを増し、暫くは伏さったままの姿勢で、それが過ぎ去るのをじっと耐える他無かった。 どの位そうして辛抱の時を経たのか―― どうにか動く事が出来るようになると、身体に籠められていた力が一気に抜け去り、それと共に漏れた細い息が、朧な貌を白く棚引かせて闇に消えた。 痛みの茨から解き放たれた安堵は一瞬現を忘れさせ、そのまま双つの瞳が、限られた視界の中にひとりの人の姿を見出そうと探る。 だがそれも叶わぬ希なのだと、寂と染み入る静けさが直ぐに教えてくれる。 痛いのだと、訴えて知って欲しい人が此処にいる筈もなく、総司は自分の愚かさを小さく笑って誤魔化した。 「・・・ばかだ」 独り呟いた声が、逢いたいと捏ねる駄々を、しじまの帳にひっそりと仕舞いこんだ。 それでも一度人恋しさに囚われてしまえば、もうどんな事をしても消しようが無く、総司は眠ることを諦めて、ゆっくりと夜具の上に身を起こした。 更に上に掛けていたものを剥いだ途端、狙いすましたように鼻腔から入り込んだ冷気が、あざとい咳を誘う。 身体を苛む辛さに耐える事には慣れているが、深閑の中に在る家屋の中では、乾いた咳のひとつが、眠りにいる人達を起すに容赦の無い大きさで響き渡る。 それを総司は案じた。 咄嗟に右の手の平で口元を覆うと、急いでもう片方の手で夜具を引き寄せ、その上に顔を伏せ音を出さぬように図ったが、返ってそれは息の道を塞ぐ事になり、思いの他長く咳を続けさせる結果になってしまった。 漸く治まりを見せ、止まりかけたと安堵すれば、又激しく咳き込む。 その繰り返しだった。 じっとりと冷たい汗が額に浮かび、少しづつ力が抜け、時折は意識すらも薄れゆく。 それを夜具の端をきつく握り締めて遣り過ごした幾度目かに、不意に中のものとは違う凍てた気が忍び込んできた。 誰かが襖を開けたのだと知っても、確かめる事も出来無い。 少し脚を引き摺るようにして入ってきた人影は、素早く行灯に灯を入れ、それからやおら総司へと体を向けた。 「伏せていては駄目だ」 静かな物言いと共に、肩を掴んだ手に身を起されようとするのを、総司は微かに首を振る事で拒んだ。 「それでは息を塞いでしまう」 だがそんな抗いなど斟酌しない声の主は、夜具に伏せていた顔を無理にも上げさせた。 覆いを解かれた唇は、今度は新しい冷気を吸い込み、一際激しい咳がおこる。 「少し辛抱がいるが、直ぐに治まる」 強く励まし、大きく震える背を擦ってくれる手は、待ち焦がれている人のそれではない。 だが衣一重を通して伝わる温もりだけが、目も開けられ無い苦しさにいる総司にとって、今唯一縋れるものだった。 「・・水を飲むか?」 鎮まりを見せたのを見計らって、覗き込んだ尾高の顔が厳しい。 その様は、労り力づける言葉を掛けながら、その実尾高自身も慣れぬ場面に遭遇し、狼狽をしているのだと総司に知らしめる。 「・・・大丈・・夫・・」 荒く吐く息と共に、やっとそれだけを告げて、総司は白いを通り越した色の無い面輪で尾高に笑いかけた。 「こんな事、・・・慣れている」 「ならば良いが」 更に強気に繋げられる言葉に、まだ疑いを消せぬ顔が曖昧に頷いた。 「さっき来た・・あれが島田さんなのだろうか?あの人を呼んで来よう」 支えてていた身体を夜具の上に仰臥させると、尾高は思い出したように腰を浮かせた。 その着物の裾を、咄嗟に総司は掴んで止めた。 「本当に大丈夫なのです、いつもの事だから」 「だが・・」 「もう何とも無い」 それでも尾高は動きを止める事を暫し躊躇していたが、拒むと云うよりも必死の表情の総司に、漸く立ち上がりかけていた体を元に戻した。 「私の事などよりも、尾高さんこそ、足・・・」 「どうにも恰好の悪い事だな」 傷に障りの無いよう左の膝を立てて座すには、大柄な体躯だけに場所をとる。 苦く笑った顔は、その行儀の悪さを自重しての事だった。 「・・すみません。起こしてしまった上に、無理までさせてしまいました」 枕の上から見上げる瞳が、心底申し訳なさそうに揺らいだ。 「いや、私も眠る事が出来ないでいた。それ故、屋敷の中の気配には過敏になっていただけだ」 眠れないでいたと云うのは本当らしく、薄闇で見る限りでも、就寝中を起されたと云う乱れは無い。 その尾高の面からも、総司の落ち着いた様子に安堵したのか、漸く硬さが解けた。 「皆まだ戻らないようだが・・・。本当に島田さんを呼んで来なくて良いのだろうか?」 「呼ばないで欲しいのです」 それまでとは違う、幾分強い口調での懇願が、総司の唇を突いて出た。 「それは私に気を遣っていてくれているのだろうか?」 言い当てられたと、すぐさま分るような狼狽を、隠せず浮かべている枕の上の面輪に、揶揄するような笑いが向けられた。 「そうではありません。けれど島田さんと尾高さんは・・」 「島田さんとは、確かに坪内先生の同門だが面識は無い。それから永倉新八殿の顔も存じ上げない」 更に加えて、永倉の名前まで出す事で、暗黙の了承事としてだった新撰組との係りを、尾高は自ら明白にした。 「こう云う風になって、今頃互いの立場を語るのは、些か気後れするものがあるが・・」 突然の展開に驚き、次に何を応えるべきか戸惑っている総司への語り口は、衒いも無く穏やかなものだった。 「もう知ってはいるだろうが、私は元新撰組隊士植田末次を兄の仇と追う者。そして新撰組はその不埒者を捕らえんとしている。私の仇討ちが先か、新撰組の捕縛が先か・・・それを思えば、共に本懐を遂げる為に、互いの存在は邪魔なもの」 身を起こしかけた総司を、片手でやんわりと制し、再び夜具の中に納めながら尾高は続ける。 「だが京に着くや否や奇遇な縁を結んだのが、その新撰組の局長と、巷に名を馳せていた剣客だったとは、流石に想像もつかなかった」 言ってから漏れた忍び笑いは、それからまだ幾つかの日を経たばかりだと云うのに、いつの間にか己の思惑を遠く越え、あまりにめまぐるしく展開して行く現を、半ば諦め、半ば面白がっている風でもあった。 「だが再び貴方と見(まみ)えた時には、あのような事態になってしまい・・」 次の邂逅に触れた時、それが痛恨なのだと云わんばかりに言葉は詰まり、尾高の顔に険しいものが走った。 「・・・尾高さんに貰った薬」 一瞬出来た重い沈黙を破ったのは、それまで聞くに徹して見上げていた、総司の明るい声だった。 「薬?」 「初めて会った時、助けてもらって・・・その時に貰った薬です」 細い顎を引いて頷いた顔が、記憶を辿る尾高を助けるように笑っている。 「・・薬」 暫時考え込んで宙に向けられた視線が、総司の云っているものに思い当たるや、直ぐに怪訝そうに戻された。 「それは、花梨の実の事だろうか?」 「そうです、花梨です。甘くて飴のようで直ぐに咳が鎮まった」 現に無くとも言葉にして伝えるだけで、苛むものから救ってくれただけでは無く、あの時頑なになっていた心をも溶かしてくれた、ほろ苦い、それでいて柔らな甘さが、総司の口腔一杯に味覚となって蘇る。 「薬と云う程のものでは無いにしろ、あんなものでも役に立ったのならば、幸いだったが・・」 だが感傷に浸った総司とは逆に、尾高は尾高で、己の抱いていた別の方向の懸念へと、思いを馳せたようだった。 「このような事を聞くのは失礼とは承知しているが、・・沖田さん、貴方の咳はいつもこんなに酷いものなのだろうか?」 他人の事情の奥深くまで踏み込む事を躊躇しながらも、括り枕の上の瞳を見て問う声は、それまでの穏やかな会話の流れを止める真摯さがあった。 「昨夜田坂さんが慌しく出かけた時には、まさか貴方の元へ駆けつけたのだとは思わなかった」 総司が此処に来たのは、咳の発作がぶり返した所為だと尾高は思っているらしく、更に続けられる調子には、身近になってしまった人間の身を案じて憂える響きがある。 毒を盛られた事は誰もが口を噤んでいる事だから、そう思うのが自然なのだろうが、それでも総司には、尾高にまで心配を掛けてしまった我が身の不甲斐なさが情無い。 「私が此処に来たのは、これでも尾高さんの用心棒のつもりなのです」 「それは心強い限りだが」 返さねばならない答えを外して笑う顔のぎこちなさから、尾高も叉自分の問い掛けが、この若者の触れられたくはない心の襞を直截に突いてしまったのだと察し、詮索を断ち切る代わりの相槌を打った。 「尾高さんのお国元では、花梨が沢山なるのですか?」 言葉の途絶えが気まずい沈黙を作り出す事を嫌い、総司は再び花梨へと話題を戻した。 「沢山・・・、と云えばそうなのだろうが、元々花梨は山の中では珍しい木では無い。だが私の国元の土壌は、米を作るに適しているとは云い難く、それ故自然になるものを如何に工夫して利用するかに、先達は知恵を絞ってきた。そう云うやむにやまれぬ事情から、花梨の実ひとつも粗末にはしない気風が出来上がったのだろう」 「砂糖に漬けて、薬にする事も?」 「砂糖は貴重だが、花梨の実だけでは苦くてとても食えたものでは無い。逆に具合が悪くなる」 まるでその苦さが口の中で再現されたように、語る顔が歪められた。 「尾高さんに貰ったものは、最後だけはほろ苦かったけれど、でもそんな事は少しも気にならなかった」 まだ顔を顰めている尾高の様子を、総司が楽しそうに見上げた。 確かに全てが甘いと云う訳ではなかった。 だがそれを差し引いても余りある程に、あの時の花梨の柔らかな甘味は、今思い起しても胸に染み入る優しさがあった。 「あれは私の義理の姉が作ったものだが、堅い実を小さく切り砂糖水に漬けて干し、乾いたあと叉漬けて干し・・・そうやって幾度も繰り返して出来ている」 「義理の姉上さま?」 「左様。兄の嫁だが、これが中々に芯が強いおなごで、植田を追う事になった時、印籠に入れる薬など要らぬと拒む私に、強引に持たせて寄越した」 苦笑交じりの告白は、それが尾高にとっては不快なものでは無いのだと、総司にも知らしめる。 否、今自分に据えられている眼差しは、その時の兄嫁との会話を、懐かしくいとおしんでいるようにも思えた。 「けれど兄上さまの妻女ならば・・・」 湧いた疑問が、何の衒いも無く口を突いて出てしまったような総司の言葉が、しかしその先を突然手折られたように止まった。 ――尾高の兄嫁とあらば、その連れ合いである夫は、植田の手に掛かって亡き者にされた筈だった。 それだからこそ、尾高が植田を仇と追っている。 思い出したくは無いだろう不幸に、触れる際まで気付かなかった自分の浅慮を悔やむ心が、総司に唇を閉ざさせていた。 「兄嫁は、今は寡婦となってしまったが・・・。沖田さん、女と云うのは如何に外見が儚くとも、これで恐ろしく強いものだと云うのを、貴方はご存知だろうか?私は今まで一度も兄嫁に勝てた例(ためし)がない」 禁忌のように口を噤み硬い表情で見上げている様子から、その大方までをも察したのか、向けられた尾高の物言いが、総司を慰撫するように、ずっと軽いものになった。 「そう云えば・・・私も姉達には、いつも叱られてばかりいる」 自分を気遣ってくれた情の機微を感じ取った総司の細い面輪にも、漸く屈託の無い笑みが広がった。 「沖田さんにも、そんなに怖い存在がいられたか」 「二人も・・。私は上の姉に育てられたのです」 「そうであったか。歳はひとつ下になるが、確かに私も兄嫁には意見ばかりをされている。特に子を持ってからが、女は一層強くなる」 「兄上さまの子なら、尾高さんには甥御になられるのでしょう?」 会話の、極自然な流れで問うたものだったが、しかし尾高の面にほんの一瞬だけ走った、それまであった表情とは異質なものを、総司は見逃さなかった。 酷く懐かしむような・・それとも叉足りない。 愛しいと言い切るには、何処か憂いがある。 それらの感情が幾重にも織り交じり綾なしているような、どんな言葉を以ってしても間に合わない、何とも形容のつかないものだった。 「そう、甥になる。生まれたばかりだと思っていたが、暫らく会わぬ内に驚く程背丈も伸び、一人前の口を利くようになっていた」 語る尾高の思考は、まだその少年の事に留められ、総司の抱いた不審には気付かないようだった。 だがそれこそが、鋭敏な神経を持ったこの人間の常からは不思議な事だった。 「歳は幾つになられるのですか?」 尾高程の男に、一瞬たりとも隙を作らせたその原因は何か・・・ それを知りたいと思う心が、珍しく総司を饒舌に駆り立てる。 「先日歳が明けて八つになった」 「八つ・・」 間髪を置かない正確ないらえが、尾高にとって、その少年の存在が如何に大切なものなのかを物語っていた。 「そう云えば、甥も良く母親が砂糖に漬けて作った花梨の実を、こっそりつまんで叱られていた。あれがそんなに旨いものとも思えないが・・・」 「尾高さんは、甘いものが好きそうでは無いから」 「幼い頃からどこの家にもあり、珍しくも無かったからな。もっともその家その家で作り方は微妙に違い、家によっては秘伝と大仰に云う者もいた」 苦笑しながらの言い訳には、もう先程の訝しさは無い。 が、だからこそ逆に、尾高自身が、敢えて話の筋を逸らせたと思わせる不自然ささえあった。 「では尾高さんの家でも母上さまが?」 「いや、母は病気がちで、私が物心つく頃にはもう臥したきりだった。尤も私は元々尾高家の人間では無いから、今のは実母の事だが」 「えっ?」 「私の生まれた家は、岩村の郷士だった。母が亡くなった同じ年、あっと云う間に父も流行病で逝き、私は遠縁の尾高家に貰われていったのだ。丁度十四の頃だったか・・・。兄嫁は田鶴と云うが、やはり同じ村の郷士の家の者で、有態に言えば私達は幼馴染になる。母がそんな具合だった所為で、田鶴の母親が私の面倒を見てくれていた。それ故秘伝と云われれば、田鶴の作ったこの花梨の味が、そのまま私のそれになるのだろう」 何事でもないように淡々と語る尾高を、総司は言葉を呑んで凝視している。 「それほど驚く事でもあるまい」 笑って見下ろす顔には、感傷の欠片も無い。 「それでは・・・尾高さんは義理の姉上さまとは最初から知り合いで、更に一度入られたご養子先を、叉焼き物をする為に出られたのですか?」 聞き難い事を口にするには、奮い立たせねばならぬ勇気が要る。 一瞬言葉に詰まったが、だが総司は臆する自分を励ましながら、敢えて其処に宿る不審を問うた。 ――その才を認められて江戸に招かれたにも係らず、尾高は焼き物の道を選び、剣を捨てて師の坪内主馬の元を去ったのだと八郎は云っていた。 だが今の話を繋げれば、折角養子に迎えてくれた尾高家へも、恩を仇で返した事になる。 短い間で知った、尾高周蔵と云う人間の気質を考えれば、それは到底あらざることだった。 尾高を不義理へと走らせたもの、それは一体何であったのか。 一度芽生えた疑惑は、最早止める事が出来ない急速さで、総司の内に大きく膨らんで行く。 「・・・岩村の焼物は、数ある美濃焼きの中でも、優美を持って知られる。私の国元の郷士には、窯元を生業にしている家も多い。そのひとつが私の生まれた家であり、田鶴の家でもあった。物心ついた時から素焼きの後の上薬の匂いの中で育った私には、武士よりも土を捏ねる方が自分の気性に合っていた。それに尾高の家には、歴とした嫡子である兄がいたから、家を出ることには何の問題も無かった」 疑問に応えて語り出した尾高の最初が、分るか分らない程度の微かさで揺らいだ。 それを鋭く聞きとめて、今の問いは、尾高にとって知られるのを避けたい部分に触れたのだと総司は瞬時に判じた。 だがその後の調子にはもう何の変化も見られず、言葉は一度も淀みなく繋がれた。 「でもっ・・」 他人の心情を斟酌せず、更に追い討ちを掛けるような行為を心裡で詫びながらも、総司は更に其処から何かを掴もうと、必死に食い下がる。 「今でも坪内さまは、尾高さんの事を・・・」 「しっ」 突然の短い制止が、闇に緊張を走らせた。 「帰ってきたようだ」 いつの間にか夜具から半身を乗り出しかけていた総司に、声を潜めた尾高が、出て行った者達の帰宅を告げた。 教えられれば、確かに複数の人の気配が遠くにある。 勘は鋭いと思っていただけに、言われるまで気付かなかった事が、総司にとっては衝撃だった。 だがすぐにその中に、いる筈の無い人間の気配を探ろうとしている自分には、更に愕然とした。 戻ってきたのは田坂と八郎、そして伝吉だろう。 土方が、いる訳が無かった。 「どうされた?」 障子に瞳を向けたまま動かない総司に、尾高の怪訝な声が掛かった。 「・・すみません、何でもないのです」 慌てて返したいらえは、うろたえる心を隠し切れず、語尾が気弱に小さくなった。 「ならば良いが。・・では私も失礼をする。夜更けて忍び込むのは女性(にょしょう)の元ならば艶なものだと、粋な噂のひとつにもなろうが、此処では狼藉か物取りか・・、大方そんな処で疑いを持たれよう」 尾高もそれ以上拘る気は無かったらしく、声を漏らさず愉快そうに笑った。 その様子に、心裡に秘めるものを悟られ無かった事を安堵しながら、総司もつられて浮かべた笑みをそのままに頷いた。 「灯は?」 「自分で消します」 それを聞くと、尾高は音をさせるのを憚るように、左の脚を庇いながらゆっくりと立ち上がった。 「・・尾高さん」 だが障子の桟に手を掛けた大きな背を、躊躇いがちな声が呼び止めた。 「あの・・・、花梨の実。叉頂けるでしょうか?」 無言で振り返った尾高だったが、思いも寄らない総司の願いに、流石に訝しげな視線を投げかけた。 「薬は苦手なのです」 咄嗟の言い繕いは、しかし尾高には頑是無い駄々と伝わったらしく、剛毅な体躯の主は白い歯を見せて破顔した。 「あんなもので良ければいつでも差し上げよう。私などが持っているよりも、それを旨いと云ってくれる貴方に上げた方が、きっと田鶴も喜ぶ。だが・・・、それでは田坂さんに叱られはしまいか?」 「大丈夫です、田坂さんの薬はいつも分からないように・・」 捨てているからと言いかけて気付いた失言に、慌てて噤まれた唇だけでは事足りず、瞳までもが伏せられた。 「では田坂さんには分からぬよう、夜が明けたら持って来よう」 遂に堪えきれず、尾高の口から低い笑い声が漏れた。 戻ってきた者達も、家人の眠りを妨げないように早々に室に引き上げたのか、それともまだ密かに談ずる事があり籠もってしまったのか・・・ 尾高が去って小半刻が経とうとしていたが、建物はひっそりと闇に沈められたまま、人の気配はことりともしない。 もしかしたら来るかと思っていた八郎も姿を現さず、それまでどんな物音ひとつとて聞き逃さぬよう張り澄ませていた神経を、漸く諦め半分に総司は解いた。 ――先程。 尾高が居なくなって直ぐ、音を殺して隣室から出て行く影を、総司は知らぬ振りをして遣り過ごした。 だが次の間に控えていた島田の存在を、尾高も確かに気付いていた筈だった。 そして島田も、尾高と自分に気付かれていた事を承知していた。 それを暗黙の了承の内に収めてしまったのは、まだ存在を露わにするには早いとの、尾高と島田、両者の判断からだったのだろうか。 土方も島田も何かを知っている。 そして八郎も田坂も・・ だが未だ自分には何も見えてこない光に、遣る瀬無さと苛立ちが混じった息をひとつつき、仰臥していた体勢を変えたその寸座、ふと脳裏を過ぎるものがあった。 もしも毒を盛られた事が、尾高が狙われた事と通じるのであれば―― 「・・まさか」 あまりの突飛のなさに、自分自身ですら呆れて呟き、つまらない事をと断ち切るように夜具に潜っても、一度捉われた疑惑は総司の脳裏を冴え冴えと覚醒させ始める。 何処をどうとっても、尾高と自分の事ではあまりに掛け離れすぎている。 けれど、たったひとつだけ共通点がある。 新撰組は植田末次を追い、尾高も叉植田を追っている。 尾高も自分も、その植田の係る事で狙われたのだとしたら・・ だが今までの経緯を思えば、あの狡猾なずるがしこい目をした人間ひとりが為し得る所業とはとても思えない。 だとしたら植田の後ろには、それを企て実行に移せるような、何か大きな存在がいるのだろうか。 確かな真実を探るように、総司は何も見えない闇の向こうに、視線を据え瞳を細めた。 それまでの小春日和の麗らかさから手の平を返したように、天はどんよりと厚い雪雲を侍らせ、吹き荒ぶ風が膚を嬲る。 だがこの厳しさこそが、季節の本当の貌なのだ。 目当ての室まで辿り着くまでに凍てついてしまいそうな冷気の中、しかし土方は些かの怯みも見せず、行く手だけに目を据え歩を進める。 「遅かったではないか」 襖を開けた途端に掛かった声は、この室に居る、もう一人の人間との会話に間を持て余していたのか、少しばかり責めるように急(せ)いていた。 「調べものに手間がかかった」 その近藤にいらえを返しながら、土方は脇の伊東甲子太郎には、ちらりと視線を流しただけに止めた。 「副長殿は相変わらずお忙しい。だがあまり過信をなさってはいけない。例え鬼と噂されようと、所詮は生身の人に過ぎないのですからな」 「生憎と、体だけは嫌がられる程頑丈に出来ている」 伊東の真向いに座し、応えた声が凡そ素っ気無い。 「ならば私が口を挟む事でもなさそうですな。・・・が、時に沖田君はどんな具合なのだろうか?一時はあれ程元気になり私も安堵していたが、又寝込んでしまわれたとか。この際思い切って長い休暇を取らせては如何か」 眉根を寄せての労りに、土方の方頬が皮肉に歪められた。 「それこそ、伊東さんにご心配して頂く筋では無い」 「歳っ」 にべも無いいらえに、伊東の顔(かんばせ)が憤りに変わるその前に、近藤の鋭い声が土方を制した。 「伊東さん、申し訳がない。これは昔から総司の事となると、この私にも容赦が無くなる奴で・・」 「いえ局長、どうかご懸念無く。土方君は、私が新撰組の人事をとやかく云うのがお気に召されないらしい」 詫びる近藤に苦笑しながら応じ、そのまま土方に向けた双眸が一瞬苛烈な光を放った。 だがそれは隠すつもりのものでは無く、相手が捉えたと承知した瞬間に消された。 伊東の、紛れも無い土方への挑発だった。 「・・して、その副長殿が私に話とは、一体どのような風向きで?」 僅か前のそんな素振りなど露程も見せず、穏やかな語り口は、もういつもの伊東のそれに戻っていた。 「吹く風向きも、これから聞くことも伊東さんには気に入らないだろうが・・・。其処の処は仕事と割り切り、辛抱してほしい」 端整に造作された顔立ちの、唇の端だけに笑いが浮かべられた。 「何なりと。やましいことも無い身故」 切り返す白皙もにも又、うっすらと笑みが張られた。 「・・・昨年、植田末次の探索が失敗に終わった件だが」 失敗とあからさまに言い切り、相手の不首尾を言葉で責めながら、土方は伊東を一瞥もせずに、脇に置いてあった書状を取り上げた。 「実はあの時、伊東さんと別れて中仙道に植田を追った島田が、その後も独自に探索を続けていた。見つけられず捕縛できなかったのが、余程に悔しかったらしい。それがどうにか功を結び、昨年暮れ、今一度木曾まで出向し調べを尽くした折に、最初の探索の時点で、植田は美濃岩村藩に潜伏していたのだとまで分った。これはその調べ書きだ」 落とした分厚い巻紙の端が、畳の上を滑り流れるのに、一度だけ視線を動かすと、後は手元の紙に目を落とし土方は淡々と語る。 「美濃岩村・・又何故そんな処に?」 「伝手があったのだろうな」 大仰に問う声に、応える土方は顔も上げない。 「伝手とは?」 「誰かが手引きし、匿ったと云う事だ。だがその直前に、植田は岩村藩内で刃傷沙汰を起し、藩士一人を殺害している」 「ならば街道を行過ぎる時に、噂くらいは耳にできそうなものだ。それを逃したのが、植田を捕らえる事の出来なかった原因なのではないか」 明らかに島田側の探索の手落ちだと突いて、伊東の口調は容赦無い。 「島田に落ち度は無かった」 「ほう・・・副長殿はご自分の部下は、余程に可愛いと見える」 「岩村藩が藩ぐるみで隠す必死を、島田が見逃したとしても不思議はあるまい。それよりも・・・」 ここぞとばかりの攻め手を事も無げに遮って、土方は初めて正面から伊東を見据えた。 「植田には追う島田側の情報が、逐一漏れていた。それ故、奴はしらみつぶしの探索の網にも、引っかかる事はなかった」 「漏れていた?」 「暢気に街道筋を調べる振りをして、その実味方の情報を漏らしていた奴がいたと云うことさ」 「それは誰の事を言っているのかね」 「さて、誰の事か」 伊東の怜悧な面が薄い笑いに歪み、それを見る土方の双眸にも、更に冷ややかな色が浮かんだ。 |