暮色の灯 (十弐)




「誰とは断言しないが、そう云う不埒な輩が確かに居たと云うことだ。それについては目下探索中だ。嫌が応うでもその内分るさ」
抑揚の無い土方の声が、不自然に緊張を強いられている室に淡々と響いた。
「だが漏らされた情報を、植田に伝えていた奴等の事は調べがついた」
「それはお手柄だった」
物言いに、皮肉の限りを籠めたあからさまなその吐露こそが、既に土方の術策に嵌った証なのだと、まだ伊東自身気付いていない。
「伊東さんに褒められたとあらば、島田も喜ぶだろう」
片頬だけに浮かべられた笑みが、整いすぎた眉目だけに、見る者には酷く冷たく、場合によってはまるで見下されたような錯覚さえ呼び起こす。
この時の伊東がそうだった。
土方の笑いを、自分への嗤笑(ししょう)と受け止めた。
「近藤さん、どうやら土方君は私を疑っているらしい」
矛先を近藤に向けた顔が、苦笑している風を装いながら硬かった。
「土方君、少し言葉を慎みたまえ」
見かねた近藤の嗜めに、土方は眉ひとつ動かすでもない。
「疑っているなどとは、一言も云ってはいない。ただ味方に間者が居たと云う事実を話しただけだ。それとも伊東さんには何か心当たりでも?」
「歳っ」
二度目の叱責が、流石にそれ以上の非礼を禁じた。
「良いのです、近藤さん。どうあっても私は土方君には嫌われ者らしい。そんな事よりも、その情報を受け取り植田を匿っていた輩・・・もしやそれも新撰組内部の人間と云うのではあるまいな」
冷然と湛える笑みの下、土方を見る伊東の眸は積怒の許容を疾うに超え、今は守りから攻撃へと転じる僅かな隙を狙って油断無い。
「幸いな事に外部の人間だった。植田を匿っていたのは岩村藩内部の人間だったが、直接に指図を出し事を動かしていたのは、京に在留の三木清隆と云う元岩村藩藩士だ。その三木清隆だが、・・伊東さん、あんたとは懇意だと聞いている」
手元の書状を読むに終始していた平坦な声が、三木と名を告げたそのほんの一瞬だけ低くなり、それまで感情と云うものを決して表に出さなかった土方の顔(かんばせ)が、伊東を捉えて初めて厳しいものになった。

「三木殿の事は存じている。確かに元は武士と云っていた。・・が、それが美濃岩村藩だったとは今聞いた事だ。私の知る三木殿は、宇治で香を扱う家の主人。私も時折香を焚くその縁で、知人から良い品を扱う店があると聞き、三木殿と縁を結んだまで。だがまさかあの主が・・・」
俄かには信じ難いと首を振る伊東に、土方はそれ以上の追及はせず、再び無言で白い紙に目を落とした。
「あんたと三木との関係が、客と店の主であると云うならばそれでいい。だが三木は過激な倒幕思想の推進派であり、岩村藩の江戸家老沢井市郎兵衛殿は、三木の逆を行く思想の持ち主。尚且つ藩を牛耳る実力派でもある。五年前、三木は沢井殿の糾弾をかわし、京へと逃れてきた。その三木が、何の係わりも無かった植田を、どう云う経緯で知ったのか。しかも三木は公卿上林元篤にまで手を回し、植田を上林家の山荘に匿わさせている。何故奴が其処までして植田に執着するのか・・不思議な事だとは思わないか?」
「さて、私にはとんと検討がつかないが」
強く投げかけた視線を真っ向から受けて逸らさず、応える伊東は少しも動じる風が無い。
「しかも三木は植田探索を打ち切れと、新撰組に堂々と脅しまでかけて来た」
「それに屈する君でもあるまい」
「生憎とな」
皮肉に漏れた笑いに応えた土方の声も、負けず劣らぬ愚弄めいた響きを孕んで容赦ない。
「続ける」
だがそれも一瞬の事で、話はすぐさま切り返えされた。

「美濃岩村藩を調べていく内に、少し面白い事が分かった。あの藩は十年程前に、蝦夷の松前藩と焼物を通して交流があったそうだ」
「他藩同士の交流など、珍しい事でもあるまい。それが一体植田とどんな関係があるのか・・・。副長殿は焦らすのがお好きらしい」
「焦らすつもりは無い。調べ自体が此処までと云うことだ」
「これは驚いた。十年前に小藩同士が親睦を深めた事実があったと、ただそれだけを私に教えたかったのか。ならば私もみくびられたもの」
「何とでも思って頂いて結構。が、この親睦、今でも続いているとしたらどう云うものか・・いや、親睦などと云う有態のものではなく、松前の港に停泊中の異国船に、岩村藩が密かにに陶器を売り捌いているとしたら・・・話はもっと面白いものになって来る」
土方の双眸が、相手の面に浮かぶ変化のひとつも見逃さぬ鋭さを秘めて、伊東に向けられた。
「・・・面白い話だが。それでは岩村藩は幕府に楯突き、法度を犯している事になる。其処まで云うには確かな証があるのでしょうな」
「無い」
「無い?これは叉大した自信だ。先刻の話の中で出て来た、岩村藩御家老沢井殿が聞けば、憤慨するどころでは収まらないだろう」
乾いた声をたてて笑う伊東を、だが土方は据えた視線はそのままに黙して見ている。
「何処から出てきたのか知らないが、其処まで行けば立派な狂想だ」
「狂想かどうかは、植田を捕まえれば分かる事さ」
「ではその時を楽しみにさせて頂く事にしよう。役立たずは早々に退散するのが、せめて副長殿の迷惑にならぬと云うものらしい」
笑いの残る顔を土方から逸らし、近藤だけに一礼をすると、形を崩さぬ速やかな所作で伊東は立ち上がった。

「伊東さん」
そのまま脇を通り過ぎようとした背を、静かな声が呼び止めた。
「上林元篤は、植田の件から手を引く」
振り返った伊東を、ひと呼吸遅れて、土方がゆっくりと見上げた。
「それが?」
「副長として、参謀殿に報告したまで」
「痛み入る」
感情と云うものが欠落した声で作られた言葉は、返した踵と共に発せられ、土方も又出てゆく姿を見送る意志なく視線を戻し、ぴしゃりと合わされた桟の音を背中で聞いた。



「・・歳」
太い声に、それまで去って行く伊東の気配だけに神経を集めていた土方が、漸く近藤に視線を向けた。
「今の事だが・・」
「はったりだ」
顔を険しくしている近藤に、事も無げに言い切る調子は、何ら気負う風も無い。
だがそれこそが、この男の揺るがぬ自信なのだと近藤は即座に承知した。
「それにしても、大きくはったものだな」
「半分は本当だ。が、直ぐに全部が本当なる」
そうと知れば苦笑せざるを得ない近藤に、土方の物言いは相変わらず淡々と素っ気無い。
「島田と伝吉がこの二日の間で調べ抜いた事によれば、十年程前から数年間、岩村藩では毎年何人かの陶工が消えていた。しかも近年では頻繁に、越前の港から蝦夷の松前に向け、荷を出している。一旦は幕府に廃止届けを出した陶器を通じての交流は、まだ終わってはいないと見て何等不思議は無い。いや、相手は松前藩では無く、其処に停泊中の異国船だと思う方が余程に自然だ。・・そしてもうひとつ。尾高周蔵は昨年秋、坪内道場で修業をしていた際、既に脱藩し縁の無い筈の、江戸家老沢井市郎兵衛の邸へ出入りしていた。藩邸ではなく、沢井の屋敷へだ」
「どう云う事だ」
「公には出来ぬ、だが必ずやり遂げなければならない密命が、尾高に与えられたと云う事だろう」
「・・密命か」
「そして尾高は、植田を討つ・・、いや、植田に握られている、藩の命取りになるような何かを取り返す、その役目を引き受けた。仇討ちと云う蓑に隠れさせてな。だから三木に襲われた」
「そして三木は、新撰組にも牙を向けた訳か」
「そう云う事だ。だが今の俺とのやり取りで、伊東は焦り、三木清隆から手を引く。伊東にとって新撰組は、未だ離れるには惜しい存在だ。奴は三木よりも新選組に留まる事を選ぶ。そして上林には、植田の件から手を引かざるを得なくなるよう、圧力を掛ける。そうなれば三木は孤立する、其処を狙う」
「公卿が、新撰組の脅しに屈するのか?」
問う声が、事の成り行きを面白そうに笑っていた。
「させるさ、誰であろうが必ずな」
両手を違う袖の中に入れて腕組みをし、視線だけを宙に据えて語る土方の口調は、微かにも淀み無い。
それは即ちこの男の脳裏には、全ての糸と筋書きが整然と繋がっているのだと云う、紛れも無い証だった。
尚且つ、今は推測の域に留まっている確信を、揺ぎ無い事実とする為に動き始めたその手始めが、先程の伊東への挑発だった。
長い歳月の付き合いで十分に知り尽くしていた筈だったが、土方歳三と云う男の、宰相としての驚嘆すべき殊能を、近藤は改めて垣間見る思いだった。

「が、しかし、あんたは道中色々と煩くやられるだろうな」
突然、それまでとは違えた土方の調子が、自分と伊東との間で更に深まった確執の煽りを、長州への同道を控えている近藤が受けるだろう事を懸念していた。
「征西は俺が決めた事だ、この件とは関係が無い。何より、植田を捕縛する事は新撰組にとってやらねばならない事だ」
その土方に向かい、強い口調で断言する近藤の脳裏に、毒を盛られ苦悶に歪められた蒼白な面輪が思い起こされる。

――何も出来ずにただ見守るしか無かった荒療治から総司が解放され、田坂の手に委ねられた時、安堵の吐息が漏れるのと同時に、爪が食い込む程に強く拳を握り締めていた己を、近藤は漸く知った。
為す術も無く、大切な者を目の前で失うかもしれぬと云う、初めてと云って良い戦慄が過ぎ去った後、全身の熱が逆流するように滾った憤怒は、今も膚を粟立てる感覚と共に蘇る。
その時、どんな事をしても、否、何を蹴散らしても、この顛末を勝利として納めると決めた、それが近藤の譲れぬ覚悟だった。

「時に総司の具合はどんなものか。見舞いに行ってやりたいが」
「昨夜はずいぶんと良くなっていたが・・・」
語尾を曖昧に濁したその様が、土方には滅多に無い事で、近藤も不審に顔を向ければ、当の主は苦りきった渋面を、昔馴染みに隠しもしない。

想い人は、云って含めたとて大人しく聞き分ける気質では無い。
ひとつ己の胸の裡に疑惑が湧けば、増してそれがあの尾高周蔵の危険と係わりがあると知れば、我が身など顧みず走り出そうとするだろう。
それをどう押さえ込むか・・・
「こっちが片付くまで、もう暫く我慢させるさ」
溜息まじりの呟きは、これが先程の強気の主の口から漏れたとは思えぬ、憂鬱げなものだった。
だがその土方が、言葉の余韻を自ら払拭するように、突然立ち上がった。

「田坂さんがお見えです」
障子の向こうの大きな影が、膝をついて告げるや否や歩き出した土方の目は、既に前にはだかる敵しか捉えてはいない。
だがその足が、忘れていた事を思い出したようにふと止まり、首だけが後ろに回され近藤を見た。
「上林を脅してくる」
見上げた厳しい顔(かんばせ)に言い切る声は、ほんの一瞬前に遣る瀬無い溜息をついた時のそれでは無い。
非情。
そう表現して良い怜悧な面差しを、近藤は黙って頷くことで見送った。




「何だ、叉貰ったのか?」
紙の砦に堰き止められていた冷気と共に入ってきた八郎の、呆れたような声に、端座して振り仰いだ面輪が笑っていた。
八郎の視線は、夜具の脇に置かれた枕盆の上にある懐紙に止められている。
「あの人もお前と出会ってとんだ災難だな」
「そうかな」
物憂げな皮肉にも然程堪える風も無く、総司は浮かべた笑みを消さない。
「そうさ。・・が、これは堅いな」
「口の中に入れていると、甘くて丁度飴のように溶けてくるのです。でも最後は渋みが残って少し苦い」
懐紙の中の黄色い粒に手を伸ばし、指でそのひとつを摘まみながら述べた感想に、丁寧な説明が戻ってきた。

「花梨の実ならば、堅くて当たりまえか・・」
「それを作るのは女の人の仕事なのだけれど、成った実を小さく切るのは、力が要ってとても大変なのだと云っていた」
「尾高さんがか?」
頷いてそうだと告げた途端、掛けていただけの羽織が、薄い肩から滑り落ちそうになった。
「しっかり袖を通しておけ」
「今床を上げようと思っていた処だった」
似合わぬ世話焼きと胸の裡で苦笑した時、案の定、頑固ないらえが形の良い唇を突いて出た。
「田坂さんが怒るぞ」
「さっき往診に出かけた」
脅し文句の割には勢いの無いそれに、寸暇を置かず嬉しそうないらえが返った。
「そう云う勘だけは、働くようだな」
うんざりとした物云いには、返事の代わりの小さな笑い声が漏れ、それが火鉢にある鉄瓶の口から上がる白い霧と相まって、殊更室に温もりを感じさせる。
邪気無く向けられている笑い顔に視線を留めながら、しかし八郎は更にその先に、二人の男達の運の行く末を見ている。

――往診に出かけたと総司が云った田坂は、土方と共に、今植田を匿っている上林元篤の屋敷に向かっている。
その結果が、吉と出るか凶と出るか。
吉と出れば、屋敷を取り巻いている新撰組が、其処を追放される植田を、即座に捕縛する手筈になっている。
更に間を置かず、三木清隆をも追い詰める。
が、同時にそれは、尾高周蔵の仇討ち、ひいては帯びている密命の成就を阻む事にもなる。
早飛脚で自分に文を託した坪内主馬は、仇討ちの陰に隠された真実までは知らず、ただひたすらに、本懐を遂げなければならない弟子の身を案じていた筈だ。
その主馬の心を思えば、土方に力を貸し、尾高の仇討ちよりも新撰組に植田を捕らえさせる事を選んだ己は、人としては最低の類なのだろう。
だが我が身への侮りはあっても、後悔は微塵も無い。
もしも土方に、今やっていることは新撰組副長としての務めかと問えば、即座に土方歳三としての復讐と応えるだろう。
土方にとってこの事件の本当の終結は、総司に毒を盛り殺害を謀った三木と、それに手を貸した伊東への報復にある。
そして自分も叉、何の躊躇いも無く、義よりも己の想いを貫く道を取った。
総司に牙向けた者の息の緒は、この手で止める。
狂人と嘲れられればそれで良し、想う人間への恋情の焔に焼き尽くされる生涯と決めた身は、もう常軌など疾うに逸している。
八郎の胸に逆巻くのは、まだ見ぬ三木清隆への激しい憎悪だけだった。


「そんなに気になるのならば、八郎さんにもひとつ上げます」
その胸の裡を知らずして、放っておけばいつまでも手にした花梨の実を見ている風な八郎に、柔らかな声が掛かった。
「ご大層だな」
「もう此れだけしか無いのだと、尾高さんがそう言っていたから」
だから大事にしているのだと云わんばかりに告げる真顔を見れば、少しばかり面白く無いものが八郎の裡に不快な棘をつき立てる。
「では食わせて頂くさ」
大仰に断りを入れ、口の中に放り投げた所作の乱暴さに隠したものは、この実の持ち主への嫉妬と承知していても、生憎それを堪える術までは持ち併せていない。
「甘いな」
更に顔を顰めての文句は、目の前の想い人への当てつけに他ならない。
どうにも聞き分けの無い己を自嘲しつつ、口にしてしまった実の甘さが、まだ暫らくは続きそうな様子に、八郎は憂鬱そうに眉をひそめた。
「だから初めに甘いと言ったのに、八郎さんが・・」
不満を露わにした総司の言葉が、不意に途中で止まり、視線は八郎を通り越して白い障子へと向けられた。
確かに近づいて来る気配はあるが、それが誰のものかとは分っているから、敢えて八郎も振り向く事はしない。

「すんません、こっちに尾高はん来てまへんやろか?」
だが総司は律儀に立ち上がり、敷居の際で木の桟に手を掛けたそれを見透かしたように、少し高めの丸い声が、いつもよりも早口で掛かった。
「尾高さんが、どうかしたのでしょうか?」
応えた時には、総司はキヨと自分を隔だている障子を、内から開けていた。
どうやら廊下を小走りに来たらしく、キヨは息を切らし、それがこの婦人を余程に慌てさせる出来事が起こったのだと教えている。
「もしかしたら、尾高さんが居なくなったのですか?」
すぐに其処へと思い当たり、総司の声が緊張を帯びた。
ところが言い当てられた途端、今度はいらえを返すのに戸惑うように、キヨは口ごもってしまった。
「キヨさんっ」
そのキヨの逡巡を許さぬ激しさで、総司は促す。
「居なくなった・・・、云うんはまだ分らへんのですわ。せやけど伝吉はんが、今しがたうちのとこ来て、尾高はんを知りまへんかて聞かはるから、お部屋に居るはずですけどって云うたんですわ。そしたら伝吉はん、えらい勢いで走って出てかれはったんです。そんでうちも慌ててお部屋を見に行ったら、やっぱり尾高はんのお姿が見えまへんのや。あの足でそないに歩ける筈ないやろし・・・そう思うたら何とのう胸が騒いで・・・」
尾高がいなくなったのが、まるで自分の所為であるかのように、キヨは落ち着かない様子だった。

「最後に尾高さんを見たのはどの位前だったか、それを覚えているかい?」
いつの間にか総司の横に来ていた八郎が、不安顔のキヨを見下ろし、柔らかな物言いで尋ねた。
「小半刻程前の事ですわ」
「その後、キヨさんは何をしていたのだえ?」
「へぇ、薬の実を粉に挽いてたんですわ」
「ではその間に尾高さんは出て行ったと云う事か・・・だがあの足だ、一度位何処かで音を立てたかもしれないが・・そんな物音を、キヨさんは聞いた覚えは無いか?」
見上げるキヨに、八郎はゆっくりとした口調で、記憶の淵を探らせる。
「物音・・・」
ふっくらとした手を、これまた豊かな頬に当て考え込むキヨは、八郎の問いに、自分の覚えている限りを手繰ろうと必死のようだった。

「ああっ」
「思い出したかえ?」
「うちが薬の実を砕いて挽いている時に、八ツの鐘がなりましたのや。裏のお寺はんが最近鐘を変えはったんどすけど、今日みたいにお天道はんも出ん空とは釣り合いのとれん、えらい軽い響きやなぁ、そないに思うて聞いていたんですわ。そん時になんやカタン云う、木の上に物が落ちるような乾いた音がしましたのや。何やろ思うたんやけど、丁度鐘の音が重なって、そのまま忘れていたんやった」
その音を作った主が尾高である事に間違いは無いとは、八郎も総司も、そしてキヨにも、言葉で確かめずとも互いの裡に確信として刻み込まれた。
「伝吉さんが此処を出て行ったのは、つい今しがたの事かえ?」
「へぇ、そうです。えらい血相変えて走って行かはって・・。あないな伝吉はん初めて見ましたわ。そんでうちはその足で此処へ・・・」

キヨの全部が終わらない内に、総司は室の隅にあった乱れ箱まで足早に歩み寄ると、夜着を脱ぐの間も厭うようにその上から着物を纏い、前を合わせながら更に袴へと手を伸ばした。
「お前は駄目だ」
それを鋭い声で制したのは、八郎だった。
「総司っ」
無言のまま振り向きもせず、袴の紐を結び始めた総司の後ろに立ち、骨の浮き出た白い手を掴んで、八郎は強引に動きを止めさせた。
蒼白な面輪が漸く八郎を見上げ、その戒めに抗議の強い眼差しを向けた。
「尾高さんは植田の居場所を知っている。そしてもう二度と戻らない覚悟で出て行った」
「何故分かる」
尾高周蔵の行き先は、植田末次の潜伏している上林家の山荘と云う事は紛れも無い。
だが総司は、尾高が最後の決起を決めたのだと云う意味を、今言外に籠めた。
其処まで云うには、そう信じるに足る何かがある筈だった。
それを八郎は問うた。
「勘です」
「勘?」
訝しげに聞き返す声に、総司は視線を逸らさず頷くだけで是と応えた。
「朝、尾高さんが花梨の実を持ってきてくれた時に、これが全部だと言っていた。・・まだ仇を追い続けなければならない人が、この先必要になるかもしれないものを、残さず他人に寄越す筈が無い。だからこれを要らないと云う事は、尾高さんはもう此処には戻らない覚悟だと云う事なのです」
八郎に訴えながら、総司にはもうひとつ、尾高周蔵は決死の思いで植田を追ったのだと云う確信があった。
だがそれは自分の胸の裡だけの秘め事とし、他の人間に知られてはならないものだった。

――昨夜尾高は、花梨の実は幼馴染の兄嫁が作って持たせてくれたのだと云った。
二人の間柄を語りながら、口調は終始穏やかで静かだった。
だがその田鶴と云う名を初めて言葉にした一瞬だけ、憂いにも似た、それでいて酷く苦しげな色が、尾高の眸に走ったのを総司は見逃さなかった。
尾高が義姉に向ける思いは、或いは肉親以上のものではないのかと、それが総司の裡に芽生えた疑惑だった。

幾度も幾度も砂糖に浸す事で、芯まで甘味を染み込ませたそれは、最後の核(さね)の苦さすら柔らかく、大切な者が知らぬ土地で難儀せぬようにとの、作った人間の願いが込められているような気がした。
口に含んだ時に、そんな思いに捉われる優しさがあった。
誰かに聞かせれば、きっとつまらぬ感傷だと笑われるだろう。
だが尾高と出会った極寒の夜、身を苛まれる辛さと、遣り切れなく沈んで行く心を、あの小さな実ひとつで自分は救われた。
それが総司を、尾高への敬慕と、ひいては尾高自身を救いたいとの思いに走らせる。
国元から江戸へ、そして京へ――
尾高も道中、この実を幾つか口にしたのかもしれない。
そして甘さとほろ苦さを口腔に広げながら、想う人への恋情をつのらせた筈だ。
その尾高が、これが全部だと花梨の実をくれた。
それでは困るだろうと案じると、甘いものなど苦手な自分には必要が無いものだと白い歯を見せて笑ったが、これは尾高にとって田鶴と云う女性そのものの筈だ。
それを敢えて我が身から遠ざけて、植田を追った。
何を語らずともこの事実こそが、尾高の堅い覚悟を物語っていた。


「早くっ、早く尾高さんを追わなくてはっ」
掴まれている腕を振り解こうと抗いながら、空いている左手で八郎の襟元を掴んでの懇願は、今にも砕けんばかりの硬質な叫びだった。
憔悴の名残の深い翳を、蒼い頬に深く刻んで、総司は動かぬ八郎を凝視している。
「では聞く。お前はその尾高が向かった場所を知っているのか?」
「伝吉さんは尾高さんが行った場所を知っているからこそ、咄嗟に飛び出して行った。ならば土方さんも知っている、土方さんに聞けば分かる」
「あの人の邪魔をする為に、尾高の居場所を聞き出すのか?」
「・・・邪魔?」
「植田末次を仇と狙う尾高周蔵に手を貸すと云う事は、お前は新撰組と土方さんを裏切る事になるのだぞ」
虚を突かれたように凍りついた瞳が、あまりに当然すぎる事すら失念していた総司の狼狽を、隠す事無く八郎に曝け出す。
だがそれは総司の必死をも物語り、八郎の胸の裡を大きく波立たせる。
「けれどっ・・・」
それでも、総司は更に食い下がる。
「けれど、尾高さんには二度も助けられた」
「だから新撰組を裏切ると云うのか?」
「違うっ」
「だったら何だっ」
思わず声を荒げさせたのが、聞かぬ者への怒りでは無く、明らかに嫉妬と云う厄介なものだと十分に承知し、しかし八郎はそれを堪える事が出来なかった。
唇を噛み締め、無言で見上げている勝ち気な瞳にも叉、自由を封じ戒め拘束を解かない相手への憤りよりも、どうにも出来ない状況下で煩悶するしか出来ない、総司の自分自身への苛立ちがあった。

「それでも行くっ」
「総司っ」
そのまま力の限りで翻そうとした身を、掴んでいた八郎の腕が軸のように回転させた。
「いい加減にしろっ」
「伊庭はんっ」
唸るような怒声と、キヨの悲鳴にも似た叫び声と、頬を張る乾いた音とが一緒になって室に響き、それと同時に、未だ力の戻らぬ身体は、受けた衝撃と共に他愛なく夜具の上に投げ出された。
「何しますのやっ」
だがキヨが止める間もなく、八郎はすぐさまその脇に屈みこむと、近くにあった紐で総司の手を後ろで縛り上げた。
「キヨさん、其処を閉めて欲しい」
一度目線で障子を指し、それからキヨに顔を向けての静かな声は、しかし有無を言わせぬ厳しいものだった。
「それから田坂さんが戻ったら知らせてくれ」
「せやけどっ・・」
薄い背に目を止め、うろたえるキヨの口調には、明らかに無体な仕打ちへの非難がある。
「今のこいつには荒療治が必要らしい」
物云いは、既にいつものそれに戻ってはいるが、整った横顔には、凛として譲れぬ意志の強靭さがあった。
嘗て見たことの無い、八郎の苛烈とも思える相貌に促され、漸くキヨも頷いて立ち上がったものの、進める歩は後ろに躊躇いを残して重く、とうとう敷居を跨ぐ手前で足は止まり、今一度総司を振り返った。

今出来る精一杯の抗いなのだろうか、総司は身を横たえたまま、顔を伏せるようにして此方を向こうとはしない。
それを見る、八郎の眼差しも険しい。
だがその姿が、どうにもキヨの胸の奥を熱くする。

もしかしたら動かぬ背の主を見守る八郎の方が、今は遥かに辛いのかもしれない・・・
そんな事を思って戻した視線の先で、ほんの僅か、分るか分らぬかの微かさで、総司の肩が一度だけ震えた。











事件簿の部屋  暮色の灯(十参)