暮色の灯 (十参)




従三位上林元篤の山荘は、東山の麓、清水寺へと続く上り坂を途中で右に折れ、今はすっかり葉を落としているが、季節の頃にはさぞ鬱蒼としているだろうと思わせる木立の中を、暫し行った処にある。
公卿と括られる階級は、大臣、大納言、中納言、参議、或いは三位以上の位を持つ者からなり、所謂上級貴族の事を云う。
元々上林家は帝に見(まみ)える事を許された殿上人ではあったが、公卿ではなかった。
ところが武士の台頭と共に、貧困に喘ぎ零落し行く一方を辿った公家達の中で、上林家だけは、先見の明があったのか或いは其れが資質だったのか、代がかわる事に朝廷きっての裕福な貴族となっていった。
そしてその財力を後ろ盾に、次第に内裏に置いての発言力を強め、遂に先々代に於いては四位で参議にまで昇り詰め、公卿の末席に名を連ねるに出世した。
その後今の元篤の代になり、更にひとつ位を高くし三位となった。
上林家にはそんな経緯がある。

この山荘も一見渋好みの体に造られてはいるが、良く見れば鴨居の細工ひとつをとっても、恐ろしく贅を凝らしたものだと判別できる。
確かに、公卿商人との噂もあながち外れでもないらしいが、邸の意匠から察するに、元篤と云う人間はこれで案外に貴族らしからぬ大胆な気性の持ち主なのかもしれない。
そんな事を思いながら、視界に入るものを見るとも無しに眸に映している土方の、斜め前に控えている田坂の背に一瞬緊張が走った。


「我に目通しを願い出せしはそち等か」
ゆったりと座に着く衣擦れの音と共に、鷹揚な声が、下げている頭(こうべ)の上から掛かった。
「そのままでは話ができぬ、顔を見せよ」
公家言葉ではない、歯切れの良い物云いに視線を上げ、低い位置ではあるが正面に捉えた上林元篤は、歳のほどは五十手前、この類の人間には珍しく剛毅な面構えだった。
「右大臣二条様からの進言とあらば、会わぬ訳には参らぬの。田坂・・と云うは、どちらじゃ」
「私にて御座います」
「ほお、そちがあの田坂道元の子か」
「養子ではありますが」
「さても・・どればかり久しゅう前か。そちの父が処方した薬、よう効いた。その時我に、単なる暑気あたりなれば放っておいても治ると、此方は切のうて難儀しておるに、涼しい顔で申した。中々に面白い医師であった」
元篤の調子は、荒っぽい診立てを咎めているのではなく、むしろその時の道元とのやり取りを、懐かしい記憶として思い出している風だった。
「父は夏の盛りに慣れぬ盛装をさせられ、辟易しておりましたのでしょう」
だが少しも臆さず戻った辛辣ないらえに、一瞬元篤の視線が田坂に止まり、次には厚い、しかし引き締まった口元から堪えきれぬような笑い声が漏れた。
「面白き事を云う」
「親が親なれば」
「子も子と云うか」
愉快そうに、顔(かんばせ)は笑みの形を崩さぬとも、己の前に座す者を見る目には油断が無い。

「・・して田坂、そちの後ろにおりし者は誰(た)そ?」
田坂とのやりとりを楽しむ風を装いながら、元篤の視線は終始背後に控えている土方を探っていたが、漸く当初から問い質したかった事柄に触れた。
「新撰組副長、土方歳三にて御座います」
「これは異な事」
大仰に驚く声を発した元篤の双眸には、だがそれに動じる色は微塵も無い。
「二条右大臣様からは、田坂道元がかねてより我に香炉を献上したいと望んでいたが、その機会無く身罷った。それ故、今は遺言となってしまったその願いを、叶えてやってはくれまいかとの伺いであった。我も道元の心を哀しく思うて、このように目通りを許したが・・なに故、巷を騒がす無頼の徒までもが、我に用があろう?」
愚弄ともつかぬ遠慮の無い言葉は、これにより相手の面に浮かぶ感情の起伏を楽しもうとする、元篤の意図が読み取れた。
「上林卿に置かれましては、下々の事などご存知無い、やんごとなき御身上。ならば巷を騒がす無頼の徒が拝謁するも、叉徒然の一興かと存じました」
しかし怜悧な双眸は泰然と構え、眉ひとつ動かすでもなく、いらえは素っ気無い程即座に戻った。
「己で、目汚しというか」
下げぬ頭の主に向けられた高らかな笑い声が、隈なく室に響き宙に離散した。
「新撰組の土方は、思いもよらず気の利いた輩らしい」
「お褒め頂き恐悦」
「さても土方、亡き者の形見を届けたいなどと殊勝を申し、人の好い二条殿を欺き我に見(まみ)えたのは如何様な仕業か。・・・田坂、そちも同じ穴の狢(むじな)であろう」
相手を探る牽制の手間を省き、いきなり本題に斬りこんだのは、元篤の自信の顕れに相違なかった。
血色の良い顔に、品良く収まる双つの眸が僅かに細められ、似合わぬ鋭い光を放った。

「ならば率直に申します。卿が三木清隆から託され、この屋敷に匿われし植田末次、今すぐに御放免頂きたい」
「はて、植田・・・それもそちと同じような無頼の徒か?」
「いえ。卿と、ひとつ穴の狢でございます」
ゆっくりと応えた土方の視界の中で、それまで余裕を失わなかった元篤の顔に、一瞬険しいものが走った。
だがそれも見間違えかと思える素早さで消され、何事も無かったかの様に静かな視線が、再び土方を捉えた。
「我は狢か・・・」
低く重い笑い声が、言葉と共にくぐもり漏れた。
「三木清隆と手を結び、植田を匿われし限りは」
感情の動きをつぶさに読み取り、その上で相手の怒りを誘う挑発が、時に冷たくさえ思える整った造りの唇から発せられた。
そして土方の体ひとつ前に座す田坂も叉、両者の遣り取りを、聡明な面差しに些かの変化も見せず聞いている。

昨日までとは打って変わった冬ざれの重い雲間から、不意に天道が覗いたのか――
まるでその瞬間を待っていたかの如く、今は覆う葉もない木立の隙を、明るい陽射しが一直線に貫き、きっちりと閉じられた障子の白を茜に染め替える。
暫し沈黙に身を潜め、その彩の妙を見ていた元篤だったが、冷気を伝い四方(よも)に棚引く鹿威しの音の、それが合図のように、土方に視線を動かした。


「・・・三木清隆は香を扱う家の者ゆえ、当家との付き合いもある。が、三木は商人。さすれば、我にものを売り利を得、そして我は三木より品を得る。どちらも損はせん。・・・確かにそちの推量どおり、三木から託され預かりしものが、この屋敷にはある。だがこれもそれも、互いに利があっての約束こと。土方とやら・・」
元篤は其処で一度言葉を切り、今度は真っ向から相手を見据えた。
「我の風評を、そちは疾うに耳にしている筈」
戻るべき言葉を予測し、だが果たしてそれを口にできるのか・・・問うた主の興は、唯一其処に在るらしかった。
「公卿商人と、聞いております」
だが遠慮の無いいらえは、間髪を置かなかった。
「ほお、よくぞ申した。ならばそちは我にどのような利を持ってきた?」
元篤に浮かんだ笑みは、皮肉でも嫌悪でもなかった。
だがその応えによっては、この男は今まで容赦無い言葉で攻撃し続けてきた無礼者達を、一刀の元に斬り捨てるだろう。
上林元篤にとって、新撰組副長の粛清などものの数では無い筈だ。
が、利は自分にある。
それは土方の確信だった。
元篤は先程から何気無い所作で外を探り、屋敷を囲んでいる新撰組に気付いている。
そして何よりも、自分と田坂が己の前に堂々と現われた事に、既に三木清隆の敗北を悟った。
だからこそ、こうして駆け引きの算段を持ちかけて来ている。

「卿の利は、何も知らなかった事でございましょう」
低い声が、矢を射る鋭さをもって元篤に向けられた。
「知らなかったとは・・・如何に?」
訝しげな問いが、それに対し即座に返された。
「三木清隆は幕府の転覆を企てし首謀者。そしてその足がかりに、新撰組幹部の殺害を計り、手の者を侵入させ毒を盛らせしが失敗」
「三木がやったと云う証拠は?」
「謀(はかりごと)を実行に移した者を、捕らえております」
「生き証人か」
「未だ息をしております。此処におります田坂医師が、手厚く治療に当たってくれました故」
それまで元篤に向けていた視線を、ちらりと前の田坂に流して語る土方の声は、感情と云うものが欠落しているように抑揚が無い。
「死なぬ程度に生かせよと、難しい事を云われましたが、今のところはどうにか・・」
だがそれに応じる田坂の調子も淡々淀み無く、だからこそ掴み所も無い。

「三木は幕府に仇為す謀反人。その三木と手を組み、ひとつ事を成就させようとするならば、既に卿におかれましても、かの疑いは免れようもございません。右大臣二条様は幕府と朝廷との摩擦を避け、和睦への道を探っておられる御方。此度の件、もしも耳にされたならば、卿の立場も・・いや上林家そのものも、このままと云う訳には行きますまい」
「それは脅しか?」
「いえ、かような事一切を、卿は知らなかったのです」
「知らなかった、が我の利か」
「左様、知らなかったのです。三木清隆の事も、その預かり者の事も。そして・・」
まだ余裕の態を崩さない元篤に、最後の打撃を与える時を得て、土方の眸が細められた。
「岩村藩が幕府に内密で、蝦夷の地より異国へ陶器を売り捌き、利を得ていたなどと云う事も・・」
元篤の顔(かんばせ)から浮かべていた笑みが消え、土方に向けられた視線が俄かに険しさを増した。
「信義な藩とは云え、岩村藩も貧窮には勝てず、法度を破り密貿易に手を染めた。幕府に知られればお家断絶、藩の取り潰しは必須。その証を植田に盗み出させ手に入れ、現在の岩村藩の実力者達を一掃し、尊王倒幕に藩の思想を塗り替えんと企んだのが、三木清隆。そして三木は、京での活動に於ける更なる後ろ盾を卿に約束させ、その見返りとして密貿易の利を譲ると確約した。・・・それら一切を、卿はご存じない。否、全ては無かった」

息継ぐ間もなく一気に語り終えた後の閑寂は、聞かせた相手に、より強く是といらえを求め促す。
外と内とを隔てる白い紙を透かせ、井草の青が匂い立つような畳に零れ落ちる陽が、相対して座す者達の間に、細く長い筋を一条だけ伸ばす。


「・・美濃に、美しい焼物を作る地があると、かつて聞いた事がある」
元篤は暫し戯れの光に目を細めていたが、視線は其処に止めたままに漏れた声は、独り語りの呟きにも似て、誰にとも無く向けられた。
「北の果ての海からそれは異国に渡り、美しい姿が大層異人に持てはやされていたのだそうだ。が、それも昔人が作った頑是無い伽話であろう。・・・土方、」
ゆっくりと上げられた目線が、先ほどからひとつの感情の綾も見せぬ、怜悧な顔(かんばせ)を捉えた。
「手の内、全て読まれしは三木の負け。さすれば最早我に利もあらん。・・・公卿商人ならば、今利のある方に乗り換えるは当たり前の事か?」
「卿は何もご存知なかったのです。それが卿の利、そうお刻みくださいますよう」
苦く笑って向けられた問い掛けに、動ずる風も無く、いらえは低く平坦な声で戻った。
「寝て覚めれば全て夢幻か・・・。が、現にあらば、又面白き夢も見られよう」
少々大仰な溜息をつきながら、元篤は脇にあった鈴を持ち上げると、二度だけ其れを鳴らした。
控えていたのは隣の間だったのか、鈴の音の余韻が気に呑まれ消えてしまわぬ内に、障子の向こうに人影が現れた。
「我が屋敷の中に知らぬ者がおれば、疾く追い出すがよい」
影の主は、一度も声を発する事無く頷く仕草だけを見せると、音も立てずに何処へと消えた。
「後は、無頼の輩どもが好きにせよ」
物憂そうな声に、元篤の前に座していた二人が、低く頭(こうべ)を垂れた。


「忘れものぞ」
出て行く者達へ向けた気の無い呼び止めに、今度は土方の後ろになった田坂だけが振り返った。
「本日はお伺いしは、香を嗜まれる卿へ、亡き父が生前是非とも差し上げたいと願っていた形見の品をお納め頂くが為の拝謁」
「では此れは、真実、道元から我への献上の品か?」
置き忘れられたようにぽつんとある木箱を、視線だけで指しながら元篤は問うた。
「美濃焼きの、香炉でございます」
虚を突かれたように黙し、唖然と顔を上げた其処に、田坂俊介の鮮やかな笑い顔があった。
だがすぐさま踵は返され、風を切るように先を行く広い背は、瞬く間もなく元篤の視界の中から消えた。



暫し――
視線の先の木箱を、元篤は見るとも無しに見ていたが、やがてゆっくりと手を伸ばし、掛けてあった紫の房を紐解いた。
桐の蓋を外すと、中には柔らかな曲線を描く、白い色合いの香炉がひとつ。

「三木」
両の手で取り出した其れを、元篤は目の高さまで持ってきて、興味深そうに眺めていていたが、その内に見るばかりにも飽きたのか、香炉に視線を止めながら人の名を呼んだ。
「これはまこと、美濃焼きか?」
襖を開け後ろにやって来た人間を確かめるでもなく、元篤は香炉から目を離さない。
「私には分りませぬ」
「怒っておるのか?」
漸く振り向いた顔が、其処に座している者のいらえの素っ気無さを笑っていた。
三木清隆は細い眉を上げ、露わな怒りを隠さず無言でいる。
「仕様があるまい、我とて身が可愛い。堕ちると分る先の道は選べぬ」
「堕ちる?」
いかにも学者肌の神経質そうな面に、皮肉な笑みが浮かんだ。
「さて、堕ちるのはどちらか・・・。この三木、未だ新選組ごときに負けたとは、露程も思ってはおりませぬ」
「強気の裏には切り札があるのか?だが植田はあの土方にくれてやった」
元篤の目に、好奇な色が走った。
だがそれは、三木への揶揄であり真の興味では無い。

味方と思っていた人間の裏切りに憤り詰る三木は、焦りを隠せず、既にこの時点で土方に負けている。
人を見る目は時勢を見る目でもある。
元篤は己の眼力を自負している。

「植田からは、例の証を隠した在りかを示したものを、入手しております」
「ほぉ。では形勢はやはり三木が有利か?」
驚いた風に相槌を打ちながら、しかし元篤にとって三木の強気は、土方の勝利を更に確かにするものにしか映らない。
「次にお目にかかる時は、再び私と手を組む事を、卿はお望みになる筈。いえ、卿から懇願されるが必定」
「それは楽しみな事、我も利は沢山が良い」
「必ずや」
一度頭を低くし、微かな衣擦れの音だけで立ち上がると、三木清隆は一瞬の間も惜しむように細身の長身を翻した。


「植田は出て行ったか?」
その姿がすっかり見えなくなり暫くしても、元篤は香炉を手に遊ばせていたが、しじまを破る鹿威しの音の幾つ目かに、漸く襖の向こうに問うた。
「今頃は新撰組に囲まれている筈でございます」
くぐもってはいるが、いらえの声は良く通った。
「屋敷の周りを煩さくして欲しゅうは無いが・・・致し方あるまい」
「三木のその後を追いますか?」
「いや、もう良い。三木はあれで終わりじゃ。・・・にしても・・」
途切れた言葉のその先を、影は気配すら潜めて待っている。
「あの土方と、道元の子と云う輩。滅び行く屋台骨に、いつまでもしがみ付いておっても仕方あるまいに。・・・ちと勿体無い気もするが、これも仕方の無いことかの」

遂には香炉を手の平の上に乗せ、もう片方の手の指の先で滑らかな曲線を撫でる元篤の独り語りだけが、射し込む陽に金色(こんじき)が混じるようになった室に、静かに響いた。




足音を忍ばせて歩み寄る主は、室のすぐ手前まで来て立ち止まり動かず、暫しそうしていて、やがて諦めたように帰ってゆく。
それをこの小半刻、幾度繰り返した事か。
今も廊下の少し離れた先で中の様子を伺いながら、又も室に入って来るまでには至らず、気落ちして去って行くキヨの気配に、八郎は、薄い背を見せたままの者に向かい大仰な溜息をついた。
「いい加減に機嫌を直せ、キヨさんが心配しているぞ」
後ろで結わえられた戒めは、未だ解かれてはいないが、身体を起して此方を向く事は十分可能だった。
それをしないのは、矜持を傷つけられた総司の意地なのだろう。

あの時どうしても止めなければならなかったとは云え、ここまで強引な無体をする必要があったのかと問われれば、果たして八郎にも明確に応える術は無い。
ただひとつ覚えているのは、尾高の為に、自分の手を振り解こうとした総司の瞳にある強い色を見た時、我知らず体は動き、気がついた時には蒼い頬を張り、両の手首を戒めていた。
これを嫉妬と云わずして何と云うのか、八郎は知らない。
今胸に交互に渦を巻くのは、まだ燻りを消すことの出来ない熱く激しい余韻と、その裏返しにある自嘲だった。
力は加減したつもりだが、それでも容易に解けぬように縛れば、擦れた皮膚は紐の幅よりも広く腫れあがる。
否応無しに視界に入るそれが、どうにも痛ましい。
そろそろ結わえを解いてやらねば、根を上げるのは此方の方かもしれない。
想う相手に負けるより、折れる事を端から諦めている己の不甲斐なさを、八郎は心裡で苦く笑った。

「総司」
その忌々しさを八つ当たりに摩り替えて、頑なに沈黙から抜け出ない背の主を、些か乱暴に呼んでも、やはりいらえは戻らない。
「尾高は大丈夫だ。少なくとも本人だけは無事だ」
先ほどよりも余程に深く観念の息を吐きながら、戒めの紐に手を掛けた瞬間、微かに総司が身じろいだ。
「それが俺と土方さんとの取引だ」
幾重かに巻かれた紐の最後の端を抜き取ると、やはり思った通り、圧迫された力に負けた薄い皮膚に、所々鬱血の斑点を留めて紅い痕が残っている。
「・・・取引?」
だがそれを見て思わず眉根を寄せた八郎を知らず、初めて総司が声を出し呟いた。

「八郎さん、取引って・・・」
「土方さんとしたのさ」
身体を起そうと着いた手首に痛みが走ったのか、一瞬動きを止めた背に手を添え支えてやりながら、もう隠す必要も無いと、時を見計らった八郎は淡々と語る。
「今あの人と田坂さんは、公卿上林元篤の山荘に行っている」
「・・・かんばやし?」
初めて聞く名に、向けられている瞳が怪訝そうな色を宿した。
「従三位上林元篤。今植田を匿っている公卿だ。東山の麓に山荘があり、植田は其処にいる」
「どうしてそんな処に・・」
驚くよりも先に、総司にとってはあまりに突然の話の飛躍に、思考の方がついて行けないようだった。
「植田が尾高の兄を殺したのは、岩村藩を根底から揺さぶる藩の機密を盗み出す為だった。が、植田独りの知恵ではない。話を聞く限り、それ程頭の回る奴でもなさそうだからな」
植田を語る辛らつな言葉の行き先には、この事件を引き起こす切欠を作った者への、八郎の憤りがある。
「では植田末次には他に仲間がいると?」
だが何もかもが初めて聞かされる事ばかりの総司は、核心だけを突く事で、話の混乱を避けようとしているようだった。
深い色の瞳が、次なる八郎のいらえを待って瞬きもしない。

「全ての指示を出している黒幕の名は三木清隆。元は岩村藩藩士で尊王倒幕思想の持ち主だが、あまりに急進すぎたが故に、それを恐れた藩の重鎮達の糾弾の的になり、京に逃げ延びた。奴は今、宇治で香を扱う店の婿となっている。上林家に植田隠匿を頼み込んだのは、その三木だ」
「・・・宇治の香の店。・・もしかしたら」
「そうだ、お前が土方さんの命で、去年の暮れに探索に行った店の主だ」
真っ先に其処に思い当たり、驚きに見張られた瞳に向かって八郎が頷いた。
「けれどあの時、土方さんはそんな事は一言も・・」
「その時点ではまだあの人も、三木と植田のつながりに確信が掴めなかった。そこで三木の屋敷に匿われているのなら、元一番隊隊士だった植田にお前の顔を見せる事で、揺さぶりを掛けようと計った。が、その挑発が裏目に出た」
「裏目?」
「植田の件から新撰組は手を引けと、さもなくばお前を狙うと。・・・お前に毒を盛ったのは三木清隆の手の者だ。そして三木は同時に、植田に盗まれた藩の機密を取り返す為に差し向かわされた、尾高周蔵をも狙った」
「ではやはり私が毒を盛られたのと、尾高さんが狙われたのは同じ意図だった・・・だとしたら、尾高さんは今ひとりで、藩の機密を取り返そうとしているのだろうか?」
次々に知らされる真実の中で、自分を亡き者にしようとした人間の正体を知り、本来ならば尤も心に止め憤るべき事実を、しかし総司は一番冷静に受け止めたようだった。
そして直ぐに其れは、八郎の思った通り、尾高の身の危惧へと繋がった。

「お前は殺されかけたのだぞ」
「分っている、けれど尾高さんはもっと危険だ。植田末次が盗み出したものが、三木と云う人間の元に渡っているのだとしたら、ひとりでは無謀すぎる」
「証拠の品は、まだ植田が握っているだろうよ。三木には渡っていない。それを切り札にしている限りは安泰と、植田も自分の身を庇う術は熟知しているらしい。それ故その植田の身を引き渡せと、今土方さんと田坂さんが、上林元篤の元へ行っている」
必死に食い下がる想い人の瞳に映るのは、もう尾高周蔵の姿しかないのか・・・
こんな際にも苛立つ心を、面倒くさげな物言いに誤魔化して、八郎は此方を凝視して動かない主に諭す。
「でもそうしたら、尾高さんの仇討ちと、受けたと云う藩命が・・」
「京都所司代禁裏附の栗林静兵殿をして右大臣二条実継殿を動かし、上林元篤との対面を段取りさせる。其処までが俺の引き分。そして植田を捕縛した折には、奴が握っている岩村藩の機密に新撰組は目を瞑り、その証を尾高に渡す、これが取り分だ。・・・俺と土方さんの取引はそう云う事だ」
呆然と見つめる総司に、最後は物憂そうな八郎の声だった。

――京都所司代には禁裏附と云う役務を専らとする者がいる。
現在京での奥詰めの宿舎が、所司代屋敷馬廻り役鈴木重兵衛宅である関係上、その縁で知り得た栗林静兵に、朝廷内で幕府擁護の立場を取る右大臣二条実継を通し、上林元篤に拝謁の機会の労を取らせるのは、そう難しい事ではなかった。
だが会いたいと所望している人間が、新撰組副長だとは流石に知らせる訳には行かず、嘗て拝謁した機会のある田坂の養父が、生前香を嗜む元篤に手持ちの香炉を献上したいと願っていたその志を、子が果たしたがっていると、殊勝な作り話を栗林に語って聞かせる自分が、思い起こしただけで八郎には面映い。

「では尾高さんは、その山荘に行ったのだろうか」
そんな八郎の憂鬱など斟酌する余裕などあろう筈も無く、総司の懸念はひたすら尾高に向けられている。
「植田が其処に匿われているのは、あの人も承知していた。先日狙われた時も屋敷の様子を探りに行った帰りだ。行き先に間違いは無い」
「・・・それなら、八郎さんがあそこに居たのも」
「偶然などとは、まさかお前も思ってはいないだろう」
ここまで尾高への執着を見せ付けられれば、どうにも諦める他は無いのだと、己に言い聞かせてのいらえには苦い笑いが籠もる。
「坪内さんの頼みを承知し、尾高を探しあてたその時から動きを見張っていた。だから必然的にあの場にも居合わせた」

総司に語りながら、八郎の脳裏に、冬枯れの木立の中、何とか中の様子を探ろうと、広大な屋敷を取り囲む土塀を凝視していた厳しい横顔が蘇る。
尾高は今、やはり同じように其処に立ち尽くしているのだろうか、それとも不自由な足で、未だ辿り着く事敵わずにいるのだろうか。
一瞬過ぎった感傷を、だが八郎はすぐさま切り捨てた。
もしも・・
もしもこの場で、自分が土方に提示した条件と同じものを差し出したのならば、尾高はきっと受け容れる筈だった。
それは武士(もののふ)としての矜持になぞらえる表の事情を全て廃しても、尾高自身が選び取らなければならない結果だからだ。
藩に人質として捕らわれている己の妻子の為に、どんな手段を使っても、尾高は植田の持つ証を取り返さねばならない。
我が身よりも大切な者を持つからこそ知り得る、八郎の、尾高周蔵の心裡だった。

「じき伝吉から知らせが来るだろう」
再び己の胸にある感情に封をし、茜に染まりつつある障子に視線を遣って呟く八郎の双眸が、恋敵達の勝利を確信し、更にその先に居る、真の標的三木清隆を捉えて険しく細められた。




一時の気紛れかと思われた好天への兆しは、意外に力強く暗雲を押し広げ、年を越して勢いの伸びた日を、裸の枝の隙から直截に地に落す。
その光が、土色とは異な紅の溜りに戯れ、金色の彩りに煌めかせる。
横たわる者の眸は宙を睨み、半ば開いた口はもうこの世に言葉を残す事はしない。
骸(むくろ)となった植田末次に、冷ややかな一瞥をくれた伊東甲子太郎の双眸が、ゆっくりと土方を見遣った。
と同時に、刀を拭った懐紙を無造作に指から離し、風に乗った其れは、白い香華となって植田の亡骸の上へと舞い落ちた。

「漸く不届き者を断罪する事が出来た」
うっすらと唇の端だけに浮かべた笑みが、もの言わずきつく口を閉ざし、射るばかりの鋭い視線で自分を見据えている土方に向けられた。
「これで夏の失態を取り戻し、副長殿にも顔向けが出来ると云うもの」
「何故斬った」
一種凄味さえも感じさせる冷厳さが、問う土方の顔にあった。
「立ち向かって来た故、斬り捨てたまで。副長殿にはお気に召されぬだろうが、御覧の通り致し方が無い状況だった。が、どのみち処罰せねばならぬ者。それが少し早くなっただけの事であろう。文句を云われる筋合いは無いと思うが・・・・。それと、其処の浪人。植田を召し取ろうとした私の邪魔をした」
云いながら、伊東は視線を、服部武雄、篠原泰之進の二人に動きを捉えられている尾高周蔵へと流した。
「植田の仲間であるに間違いは無い。奴を庇おうとした様を、貴方もその目で確かめた筈だ」
それが勝利の証のように、隈無い笑みが端正な白皙に広がった。

――何処までも続くと思われる長い土塀の、ふと狭間のような潜り戸から押し出されて外の地を踏んだ植田末次は、自分を取り巻く多勢を目にするや恐怖で色を無くし、暫し塀を唯一の支えにしてへばりついていたが、やがてその後ろから突然掛かった声に、一条の光を見出したかの如く駆け出した。
伊東と、それを取り巻く面々の出現はあまりに予期せぬ事で、一瞬出遅れた動きを嘲笑うかのように、次に土方の眸に映し出されたのは、一言も発する事無く、地にもんどり打って倒れる植田の姿だった。
植田は追い詰められた崖淵で、仲間と信じた伊東を見つけ、これで救われると突進した筈だった。
それを待っていたかのように、伊東は真正面から太刀を振り下ろした。
植田は己の身に何が起こったのか知らぬ間に、息絶えただろう。
それ程に見事な太刀筋だった。
そして同時に、その伊東を止めようと踊り出た尾高を、服部と篠原の二人が阻んだ。
服部は総司と並ぶ剣客、尾高とは互角であろうが、脚の傷が僅かに後者に不利益をもたらした。
全ては・・
天から零れる陽が地に落ちるまでの如き、瞬く間の出来事だった。


「植田の為した数々の不祥事、あの者も係っているに相違無い。この伊東、役立たずの汚名挽回の為にも、きっと口を割らせてみせる」
今一度土方を見て声高に言い放ち、侮蔑にも似た皮肉な笑みを投げかけた主は、ゆっくりと踵を返した。

去って行く後姿を、憎悪の焔(ほむら)を宿した双眸に焼き付けるように、土方は凝視していた。











事件簿の部屋  暮色の灯(十四)