暮色の灯 (十四) 日が落ち、やがて全てが闇に包まれるまでは、時に計れば僅かなものだが、天道と月とが入れ替わる狭間は、照らす明光が影をひそめる為か、妙に人の胸の裡をざわめかせる。 捕物を終え戻って来た隊士達の高揚がそれに拍車をかけ、今屯所の中を更に落ち着かないものにさせていた。 「島田さん、あの・・土方さんは?」 遠慮がちにかかった声に、一際大きな背の主と、その横に並んで話し込んでいた永倉新八が、同時に総司を振り向いた。 出動したのは、どうやら二番隊らしかった。 その長である永倉は未だ隊服を着用したままで、胸の袷から覗く鎖帷子の重装が、今回の捕物の大きさを物語っていた。 「なんだお前、此処が恋しくて、もう戻ってきちまったのか?」 だがそんな殺伐とした名残など微塵も感じさせず、永倉の物云いには、相変わらずこの男特有の洒脱さがあった。 「沖田さん、無理をなさってはいけません」 それとは逆に、島田の方は真摯に総司の身を案じる様を隠さず、大造りの顔をすぐさま曇らせた。 「無理などしてはいません、田坂さんも八郎さんも一緒です」 二人の名を出す事で、自分が屯所に戻ってきたのは、土方を含めこの一件に係る誰もが承知しているのだと、総司は暗に島田に伝えた。 それが本当か否か確かめる間もなく、暗い廊下の向こうから長身がふたつ、廊下を軋ませる音を憚る風も無く此方にやって来る。 「どうせ不機嫌の仏頂面しているんだろ?」 「そうでも無いぜ、相変わらずの顔さ」 まだ近いとは云えない距離から掛かった声に、誰の事を云っているのか即座に察した永倉が、面白そうに応えて薄闇の向こうを見遣った。 「ならば余計に見ずに仕舞いにしたいものさ」 言葉の最後は直前まで来て立ち止まり、心底鬱陶しげに八郎の口から零れた。 ――田坂と伝吉が診療所へ戻ってきたのは、すでに日も沈もうとしている頃合だった。 八郎と総司の前に現われた田坂は、伊東による植田殺害から尾高捕縛までの一連の出来事を、そうする事でより的確に相手に伝えんが為に、一切の感情を排し、常よりも早い口調で告げた。 語られる一言一句も聞き逃すまいと、蒼い面輪を堅く強張らせ田坂を凝視していた総司と、組んだ腕よりも視線を下に置き、何かを思案するように黙していた八郎が、全てを知り終えた時、脇にあった大刀を掴むいとまももどかしげに立ち上がった華奢な身を、もう止める者はいなかった。 そしてその動きを端から承知していたように、少しの遅れもとらず、八郎も田坂も室を飛び出した総司の後に続いた。 先を走る薄い背を見ながら、こうなれば止めても聞かぬ想い人の直情には、とことん付き合う他己の満足も無いのだと八郎は腹を括り、田坂も又、少々の複雑さと、それすら諦めねばならぬ遣る瀬無さを胸に、恋敵の横に並び歩を急がせた。 「土方さんなら副長室にいる筈だぜ。今しがたこの島田さんと、植田の検分を終えたばかりだ」 永倉の云い回しが、改めて植田はもうこの世の人ではないのだと告げていた。 「二人だけでか?」 「死んだ人間は口は聞かないからな、見るだけなら一人でも十分だろうさ。まぁ、あの人が自ら検分するって云うのも確かに珍しいが・・・それだけ植田に煮え湯を呑まされていたって事だろうさ」 何気なさを装って探りを入れる八郎の問いを、さして気に止める風でもなく、少々の己の観測を込めて、永倉のいらえは返った。 「・・申し訳ありませんが、私はこれで」 それまで一言も口を挟む事の無かった島田が、その時を見計らっていたのか、話の切れ間の隙を突いて己の退け時を告げ、いつもどおりの律儀な礼を二人に向けた。 「すっかり足止めさせちまって、すまなかったな」 気の良さが滲み出ている永倉の詫び言葉に今一度頭(こうべ)を垂れると、総司や田坂にも目だけで会釈し、大柄な体躯に似つかわぬ俊敏さで、島田は踵を返した。 常ならばこんな時にあっても穏やかな笑みを向けてくれる島田が、終始硬い表情で無言に徹していたのは、伊東への疑惑が今回の件で確信に変わったのにも係わらず、結局敗北を期すだけで終わった悔しさのさせる業に違いなかった。 それをそのまま土方の胸の裡と重ね合わせ、総司は遠くなる後姿を複雑な思いで見ていた。 だが今は何よりも、一刻も早くに尾高周蔵の事を知りたい。 急(せ)く心は総司の足を、今見送ったばかりの島田とは逆の方角へと踏み出させた。 「検分をして、何を見つけたんだえ?」 「早かったな」 応えはしたものの、開いた障子からどの顔が覗くのか、そんな事はとっくに承知していたように土方は後ろを向け、腕を組んで座したまま振り返らず、目の前に置いた何かを一心に見据えている。 だが最後に室に入り、障子の桟を合わせた薄い背に、一瞬にも満たない刹那さで、僅かに視線だけを動かした。 「土方さん、尾高さんは・・・」 「座れ」 腰を下ろす間も惜しむような早急さで立ったまま問う面輪の主を、低い声が窘め促した。 「尾高は伊東の監視下だ。が、近藤さんが先に面通しをする」 「面通し?でも近藤先生は尾高さんとは・・」 怪訝に繰り返された呟きに、漸く土方の視線が据えていた紙から離れ、此方を凝視している総司へと移された。 「尾高周蔵は昨年暮れ、近藤さんとお前を襲った人間と、姿形が似ていると伝吉が証言した。それ故、その時の人相を判別できる近藤さんが検(あらた)めるまで、誰も手出しは出来ない」 何でも無い事のように語る土方に、向けられていた瞳が大きく見開かれた。 「その狂言回しを、伊東の奴は信じたのかえ?」 言葉の出ない総司に代わって、面白そうに横槍を入れたのは八郎だった。 「信じる、信じまいは勝手だ。が、事実は曲げ様が無い」 「事実ねぇ」 どうでも良さそうに漏らしながらも、八郎の目は、先程から土方の見ていた紙片を捉えている。 「此れは・・質札のようだが」 その八郎よりも先に疑問を口にしたのは、やはり同じように、其れに視線を落としていた田坂だった。 黄ばんだ紙には、元の持ち主の血潮が褐色の飛沫となって凄惨の名残を留め、それだけ見れば禍々しさすら覚えさせるが、その真中には確かに『質』と云う一文字が記されている。 「検分の結果が、質札か?新撰組も当節せちがらいねぇ」 手を伸ばし、指でつまみ目の高さまで持ってきて、それで灯りを透かせるようにして、八郎は小さな紙片を改めて見た。 「植田が持っていたが、半分だ」 半ば面倒くさげに無愛想な説明が無くとも、紙の上部は無理矢理引き千切られたように斜めに裂け、紙の繊維がささくれている。 「身の危機を感じて咄嗟に破り、その半分だけを奪われたか、或いは隠したのか・・いずれにせよ、そのどちらかだろう。だが奪われたとしたら、三木の手に残りの半分がある」 土方の憶測は、限られた時を意識し要所だけを端的に突いてくる。 「植田は証拠の品を質草にしちまったのか。気の利いた事をやってくれたものだが・・・京中の質屋を探し出すのは難儀だな」 辛辣な誉め言葉は、しかし先を思う難しさと相まって、憂鬱そうに八郎の口から零れた。 「が、この札の店(たな)にある質蔵が、尾高周蔵、・・いや岩村藩、そして三木清隆が求めているものの在処だ」 一瞬細めた土方の双眸が、八郎の手にある紙片に鋭く向けられた。 「残りの半分に、もしも店の名前が書いてあったら・・」 それまでただ三人の会話を聞くに終始していた総司が、躊躇いがちに土方に問うた。 「それは無い。今在るものから察するに、元々の札にはこの質と云う一文字と、屋号を染め抜いたと思しき印しか記されていなかった筈だ。それにこの断片の大きさからして、三木の手にあるのは、僅かに印が判別できる部分に過ぎない」 植田の息の緒を止め、唯一の手がかりである証を血で染めた伊東の斬り口は鮮やかなものだった。 それを脳裏に思い浮かべて語る土方の口調は、その時の憤怒を逆襲の糧と決め僅かにも淀みない。 「三木は、今頃必死だろうな」 それぞれが沈黙に籠もり、暫しの静寂に室が浸る中、誰に告げるでも無しに漏れた田坂の呟きは、しかし此処に居る者全てが胸に思う懸念だった。 上林元篤と云う巨大な後ろ盾を失い、尚且つ伊東も手を引くであろう状況下にあって、今の三木は、崖淵まで追い詰められた手負いの獅子にも似ている。 が、後が無い者が、最後に牙剥く瞬間こそが一番強い。 「・・・土方さん」 「どうした」 不意に呼ばれて其方を見るや否や思わず語尾が強い調子になったのは、向けた視線の先にある面輪が、酷く蒼ざめていたからだった。 思えば総司はつい先程まで臥していた病人だった。 それが帰って来て早々、横になる事もせず話に加わっていたのだ。 疲労の限界は疾うに超えている筈だった。 「辛いのなら早くそう云え」 労わる筈の言葉が険しいのは、それに気付かなかった、土方の自分自身への苛立ちだった。 「違うのです。・・あの、尾高さんは今牢なのでしょうか?」 「お前が心配をせずとも、尾高周蔵の事は大丈夫だ。それよりもお前はもう休め」 「でもっ」 「副長命令だ。話は後で教えてやる」 勝ち気な抗いと、だがそう云われれば拒む事の出来ない自分へのもどかしさと、一瞬浮かんだ相反するふたつの感情が、土方を凝視したまま総司を暫し沈黙に沈めていたが、やがて向けられている強い眼差しに屈するように瞳は伏せられ、頼りない痩躯がゆっくりと立ち上がった。 「あんたも意地が悪いねぇ」 障子の桟に手を触れる直前動きを止め、今一度後ろを見た総司に一瞥もくれず、ただ紙片だけに厳しい視線を据えていた土方に、去って行く気配がすっかり消え去るまで黙していた八郎が揶揄するように告げた。 それに応えないのが、切ない胸の裡を隠すこの男の強がりと知りつつ、振り返った瞳の唯一捉えたのが恋敵の姿であったのを思い起こせば、やはり胸に波立つものを止められない。 すらりと立ち上がった横の影を、土方が胡散臭そうに見上げた。 「話は後で教えてくれろ」 総司の後を追いかけるのだと、笑いを含んだ挑発に、端正な造りがたちまち仏頂面にしかめられた。 その口が何かを発する前に、気負う風も無い後ろ姿が、ぴしゃりと音立て障子を閉じた。 隊規を犯した者、若しくは捕らえた者を置き留める牢は、屯所の母屋の裏手にあり、元は西本願寺の土蔵を改築した建物だった。 土を固めて出来た重い扉は少しだけ開かれ、その向こうには二重に格子が嵌り、入口の左右に置かれた松明の灯りを頼りにしても、尾高らしき姿は判別出来ない。 普段ならば一人、居てもせいぜい二人の見張りが、今宵に限ってはその倍の数であるのは、土方を疎む伊東の警戒の表れなのだろう。 「尾高周蔵はこの中ですか?」 幾ら近くに火を掲げているとは云え、寒風の夜に長くあれば自ずと士気も弛むらしく、気配もさせずに直ぐ近くで掛けられた声に、見張りのひとりが驚きに身を竦めて総司を振り向いた。 「・・はい、ですが、あのっ」 最後まで応えを聞かず入口に向かう若い幹部を、横に幅広い体つきの男が慌てて止めた。 「此処には誰も近づけてはならないと、伊東先生からのお達しです」 「私は近藤先生から、尾高周蔵の面通しをして来るようにとの命を受けて来ました」 組織の筆頭の名を出された途端、其処に居た者達にあからさまな動揺が走り、俄かに浮き足立つ様が手に取るよう分る。 中にはひとりも知った者は無く、つい最近伊東が入れたと云う内の何人かなのだろう。 「鍵を貸して下さい」 そんな風に探りながら手を差し出し促す声は、洛中に名を知られた剣客と噂に聞けど、容易には信じ難い見た目だけで侮っていた面々を怯ませるに十分な厳しさを帯び、凛と一筋の糸を張るように冷気の中を響き渡った。 まるで操りにあったかのように緩慢な動作の相手から渡された鍵は、牢に掛かっている南京錠の頑健さに見合う大きなもので、乗せた手の平が沈む程に重さがある。 「灯は要りません」 だがそれをすぐさま右手に持ち替えると、別のひとりが慌てて持って来た蜀台を拒み、総司は蔵の入口へと歩み寄った。 機敏な動きで鍵穴に鍵を差し込む薄い背を、周りを取り巻く者達は止める事出来ず、ただひたすらに困惑を持って見守る他無かった。 「尾高さん・・」 俄かに騒がしくなった気配で人の来るのは察していたらしいが、それが聞きなれた者の声であった事が尾高を驚かせたらしい。 「沖田さんっ」 「静かに」 暗がりに目を凝らし、その相手を判別すべく名を呼んだ尾高の視界を、素早く前に回りこんだ華奢な影が覆った。 「此方へ」 更に聞えるか聞えぬかの小さな声だけで、総司は闇を濃くしている一隅へといざなった。 尾高は後ろに手を縛られてはいたが、幸いな事に拘束されているのは其処だけで、脚の自由は利いた。 自分よりも遥かに大きな体を庇いながら、総司は見張りの様子を伺うように一度だけ視線を移したが、外からはこの場が死角になると判じるや、素早く腰から抜いた小刀を逆手に持ち、そのままの一連の所作で、頑健な腕と胸に巻きついていた荒縄を一気に断ち切った。 きつい戒めから不意に解き放たれた感覚に、一瞬何が起こったのか分らず驚き瞠られた尾高の目が次に映し出したのは、鈍い銀の波光を舞わせた刃が、夜目にも白い喉元に宛がわれた瞬間だった。 声を発する間も無く、それは皮膚と平行に移動し、後を追うように一筋引かれた線から朱(あけ)の色が滴った。 「何をっ」 「しっ」 自由になった体全部で詰め寄ろうとした尾高を、鋭い声が制した。 「私を人質にして此処から出るのです」 「人質?しかしそれでは沖田さんが・・」 「時が無いのです。三木清隆は、尾高さんが見つけなければならないものの在処を記した手がかりを半分掴んでいる。だから一刻も早く此処を出なければ、全ては敵の手に渡ってしまう。迷っているいとまなど無い筈です」 息継ぐしまも無く語る言葉の強さは、尾高が初めて知る総司の激しさだった。 「早くっ」 だが性急な催促にも躊躇の域を出かねて難しい顔を崩さぬ主に、更に逼迫した声が掛かる。 「・・・それを取り返せねば、大事な方の命が危ういのではないのですか?」 不意を突かれたように上げた視線の先に、真摯を過ぎて硬質な蒼い面輪があった。 「その方を、尾高さんは護らねばならない筈です。だから早くっ」 手の平に押し付けられた小刀を、それでも尾高は暫し凝視していたが、やがてひとつ意志を貫くと決めたように、開いていた無骨な指を柄に絡ませ強く握り直すと、瞬きもせずに見つめる瞳に向かい頷いた。 それまでゆったりと歩を刻んでいた伊東の足が、蔵の前の異様なざわめきと緊迫感を感じるや否や、俄かに強く地を蹴った。 「何事だっ」 視界を遮っていた隊士の肩を乱暴に掴んで振り向かせると、いらえを待つまでも無く、目前に開かれた光景に、知性が勝りすぎるが故に非情とも思える冷徹な面がみるみる強張った。 「其処を退いて頂く」 総司の喉元へ鋭い刃を当てながら、尾高周蔵は左足を少し引き摺るようにして進み出でる。 「退かねば、この喉掻っ捌くが宜しいか」 照らす焔が映し出す首筋には、朱く滲む線が一筋。 明らかに刃が傷つけたと分るそれは、尾高の本気を知らしめ、同時に取り囲む者達を怯ませる。 「馬を用意しろ」 低い声で命じ、じりじりと前に出る分だけ、行く手を遮るように立ちはだかっていた二人が後ずさりする。 「馬鹿者どもがっ、何をしているっ」 だが篝火に弾ける木の音だけが全ての異常な緊張の中、不意に踊り出た影が、張り詰めていた均衡を乱暴に蹴破った。 「狂人のほざき如きに聞く耳持つなっ」 叫んだのは、唇の端に笑みさえ浮かべ、尾高と総司に向けて鯉口を切った伊東だった。 「ご乱心なされたかっ」 が、柄に掛けた右手は、突然の怒号と共に、一瞬早く後ろに回り込んだ島田によって高くねじ上げられた。 「何をするっ」 「伊東先生こそ、沖田さんを殺すおつもりかっ」 辺りに響き渡る大音声に、伊東の出現で一時は鼓舞された隊士達が再び浮き足立つ。 「新撰組は幹部同士で仲間割れをしているのかっ、ならば伊庭八郎がこの終始見届けるっ」 更に極限まで引いた弦から放たれた矢の如き鋭い声が、一瞬の内にその場にあった全ての動きを止める厳しさを持って、背後から発せられた。 島田に自由を拘束され、漸く動かせる目線だけで捉えた伊東の視界の中で、闇を押し退けるようにして歩を進める八郎の硬い面差しが近づく。 「左様な事はありませぬっ。伊東先生はあまりの動転に、錯乱されているまでっ」 島田の朗々としたいらえに、伊東の顔が憎々しげに歪む。 「ならば人質の身が一番と判じるが、違うかっ」 「仰る通りっ」 太い叫び声に呼応し大きく頷いた八郎が、其処に立ち竦む者達を一瞥し、おもむろに口を開いた。 「前を開けろっ」 松明の焔よりも強く激しく喝破する声が、遂に尾高と総司の前に道を開いた。 ――馬と云うものは、人の目よりも遥かに闇夜を見澄ませる力を持っている。 それ故手綱捌きさえ違える事無く走らせてやれば、これ程従順に主の意向を聞いてくれる動物はいない。 前に乗せた総司を庇うように身を低くし、馬手で操り弓手で鞭打つ尾高の姿が、人の気配が僅かにも無い大路を疾風にも似て駆け抜ける。 「・・尾高さんっ・・」 髪も纏うものも全てを後ろへ押し遣る真っ向からの風に、前を見定める目を開ける事すら侭なら無い中、それまで馬の背に伏せるようにしていた総司が、視界に飛び込んで来る周りの情景に何か気付いたようで、突然身を起こして尾高を呼んだが、その途端に冷気を吸い込み激しく咳き込んだ。 「大丈夫かっ」 急に手綱を引かれた馬は驚き前足を上げて抗ったが、それを尾高は片手で握った綱を操るだけで静めた。 「川の・・ひとつ手前の辻を左に・・・突き当たりに寺があります・・其処にっ」 咳き込む背を擦ろうとした手を遮り、後ろを振り返って告げた顔が酷く蒼い。 「早くっ」 だが走り出す事を躊躇し動きを止めている様を責めるように、総司は強く促す。 相手に逡巡を許さぬ烈しい声に、尾高は一度頷くと、大きく波打つ背を更に抱え込むようにして、再び馬の腹を蹴った。 「無茶も大概にしなはれ」 夜更けて、突然馬の嘶きが聞えるや否や、見知らぬ顔の男に支えられ遣って来た客は、初め酷い咳に言葉も交わせぬ有様だったが、それもどうにか治まりつつあるのを見て、称全和尚にも漸く叱る余裕が戻ったようだった。 「こないな聞かん気のお弟子はんやったら、ほんま、近藤はんが難儀しはるのがよう分かるわ」 少しでも早く室に暖が回るよう、火箸を手繰り炭に向かって息を吹きかけながらの声は、僧侶らしからぬ豪勇な気骨そのものを現したようにしゃがれ、決して優しいとは云い難いものの、耳にすれば不思議と安堵するものがる。 「・・すみません」 掛けた迷惑を詫びる面輪には、相変わらず色と云うものは無いが、親しげな笑みが浮かんでいる。 「温いぶうでも持って来るよって、それまで大人しゅうしてなはれ」 言い置いて隙無く立ち上がった姿は、やはり仏に仕える者と云うよりは、古武者のような風格さえがある。 「ご厄介をかけ、かたじけない」 出て行こうとした背に、総司の隣に座していた尾高が、深く頭を下げた。 「うちとこに気遣いはいらへん。そないに畏まられたら返って困るわ。・・・それより」 一度言葉を切り、視線を尾高から総司に移した和尚の目が、愉快そうに笑っていた。 「このお人はな、こないに優しい形してはるんやけど、これで中々。あんたはんも振り回されて難儀なこっちゃな」 「そんな・・・」 「ほんまの事やろ。それから伝吉はんに、沖田はんを此処から出さんでくれ云うて頼まれたわ。じき皆来るよって、今晩は賑やこうなるなぁ」 不満の声をやんわりとかわし、快活な笑い声と共に障子が閉められる様を、尾高は返すべき言葉を探しあぐねて見送った。 「和尚さん、いつもあんな調子なのです」 少々面食らっている風の尾高に、総司の方が楽しげに声を掛けた。 「伝吉・・さんとは、あの伝吉さんの事なのだろうか」 「私達を追って来ていたのは、気付いていられたのでしょう?」 「確かに追手があるのは知っていたが・・・」 「それが伝吉さんだったのです。私達の行く先を見極めて、今頃は屯所の土方さんに連絡している筈です」 「ではあの時、私を捕らえた伊東と云う人間を、島田さんや伊庭さんが止めたのは・・」 「ああでもしなければ、伊東さんから尾高さんを逃す手立てが無かったから」 「企んだのか」 「八郎さんと島田さんはそれに気付いて助けてくれたのです。・・・けれど勝手にやってしまった事だから、きっと後で大目玉だ」 思い出して可笑しそうに笑っている、目の前の若者の見かけによらない大胆さに、こればかりは呆れる他無いと観念したのか、小さな笑い声が仕舞いになるのを尾高も暫し所在無さげに待っていた。 だがその総司が不意に身体を折り、咄嗟に手で隠した唇から、ふたつみっつ乾いた咳が零れ落ちた。 「大丈夫か?」 咄嗟ににじり寄って掛けた声に、言葉にしては伝えられないが、案ずるなと云わんばかりに潤んだ瞳が向けられた。 「無理をさせてしまった」 「・・・何とも無いのです。・・これがあるから・・」 薄い背を擦り詫びる声に、まだ息を整えられず途切れ途切れに応えながら、総司が胸の袷から取り出し覚束ない指で開いた紙の包みの中に、幾つか小さな実が納まっている。 が、それを捉えた尾高の双眸が、一瞬其処に釘付けられたように動かなくなった。 「尾高さんに貰った、花梨の実です」 見上げた面輪が、すぐさま悪戯そうな笑みを浮かべた。 「そんなものを持っていたのか・・」 「尾高さんにとっても、大切なものの筈です」 柔らかな中にも否と言わせぬ強さを秘めた総司の言葉に、花梨の実に視線を留めたまま、尾高は無言でいる。 「此れは、尾高さんにとって義姉上さま・・・いえ、田鶴さんそのものなのでしょう?」 田鶴と名を指して告げた途端、尾高の精悍な面に、初めて驚きとも狼狽ともつかぬ衝撃が走った。 その感情の起伏ひとつも見逃すまいと、深い色の瞳は瞬きもしない。 やがて凝視していた黄色の粒から逸らした尾高の視線が自分に向けられた時、総司の形の良い唇が嬉しげに綻んだ。 「当たりだ」 「意地の悪い事を聞く」 苦笑交じりのいらえには、胸の裡の秘め事を言い当てられた事への諦めと、これから語らねばならない尾高の覚悟があった。 「・・・貴方は、もう何処まで察しているのだろうな」 火鉢から、徐々に室に籠もりゆく暖気にも似て、ゆっくりと問う尾高の声は穏やかに静かだった。 「田鶴さんが、尾高さんの唯一想う人だと云う事しか」 「隠しようの無い真実だ」 頷いた途端、どちらかと云えば厳格な印象を与える顔が、人懐こい笑みを湛えた。 「私と田鶴が幼馴染であったと云うのは話した事だが・・。田鶴の兄、徳左と私達は丁度三人兄妹のようにして育った。それが何時の間に恋に変わったのか・・・時の流れと共に、なるべくしてなったのだと云われればそうだと頷き、互いの想いが一瞬にして激しい恋情へと変わったのだと云われれば、然もありなんと思い・・・こればかりは私にも分からない。ただひとつ、気付いた時には、田鶴は私にとって唯一の人間になっていた」 「・・・気付いた時には?」 「そう、何時の間にそうなったのだろうな」 応える目は総司を見ているようで、だが遥かその先を見つめている。 今尾高は、遠い過去に立ち返り、慈しみ慕う思いが恋情へと変わったその瞬間を探っているようでもあった。 そしてそれは総司にとっても、我が事として重ね合わせるべき心情だった。 ――いつの間に。 いつの間に、自分は土方への思慕を、焦がれるような業火へと変えてしまったのか。 想いの届かない日々にいた時は、ただ苦しさに負け、其処に立ち返り、熾る焔を消してしまいたいと願った。 だがもしも時を溯り、望むようにしろと云われても、果たしてこの恋情の熾火を自分は消そうとしただろうか・・・ 否、出来る筈が無い。 選んだものは、土方ひとりを想う道だった。 「その内に両親を相次いで亡くした私は、遠い親戚筋の尾高家に養子に貰われたが、少年の頃からの田鶴への想いはそのままに、生まれた村に帰るのが唯一の楽しみだった」 暫し己の来し方に思いを馳せていた総司を、尾高の声が現に戻した。 「やがて長ずれど行く末は見えず、私は若さ故に苛立ちの毎日を送るようになっていた。丁度その頃だった。たまたま岩村藩に来られた坪内先生に、江戸の道場に来ないかと声を掛けて頂いたのは・・」 尾高の目が、目映い過去を見るように、眩しげに細められた。 「修行し、皆伝を貰う事が出来れば、国元に道場を開く事も出来る。そうすれば田鶴とも所帯を持てる・・・若い心は逸り、同じ想いだと応えてくれた田鶴に三年待てと約束して、私は江戸に向かった。だが何もかもが光りある先へと続くのだと信じていたある日、異変は何の前触れも無く起こった。・・・藩の命で陶器を焼いていた徳左が、突然に幽閉されたのだ」 「幽閉?」 「そう、幽閉だ」 訝しげな声に頷く顔が、俄かに厳しく硬いものになった。 「理由は、城の内部を陶器の図柄にした事の咎を受けての断罪だったが、実情は幽閉だった」 「何故そんな事を・・」 「全ては後で知った事だが。・・その頃岩村藩では、蝦夷の松前の港に集う異国船に、大量の美濃焼きを売っていた」 「異国船って・・では、岩村藩は・・」 「幕府にはその旨を願い出ていたが、許される筈が無かった。一旦は諦めかけた取引は、しかし異国の強い要望によって、最初の申し出の時の何倍もの金額で、密かに行われるようになったのだ。そしてそれが逼迫した藩を支える、唯一の財源になって行った。・・・始めは岩村から幾人かの焼物師が松前に渡り、陶器を作りそれを売っていたが、松前の土は焼物に適さなかった。そこで今度は国元で作ったものを、富山の港から松前に送るようになった。中でも、田鶴の兄、徳左の作ったものは殊の他高値がついたらしい」 「だったら何故、岩村藩はその徳左さんを幽閉など」 「押し付けられた絵柄ばかりを焼く事を、徳左はその内に嫌がるようになった。徳左には焼物師として作りたいものがあったのだ。それが高じたある日、徳左は美濃を出ることを計った。だがすぐさま捕らえられ、それから後、徳左に自由は無い。そして同時に、藩は妹の田鶴を、徳左を逃さぬ為の人質にとった」 「・・人質」 まだ色の戻らぬ面輪が、小さな呟きと共に更に強張り蒼ざめた。 「植田末次に殺された私の義理の兄、尾高助左衛門は藩の勘定方の人間だったが、それは表向きの事で、本来の役目は異国との密貿易で得た金銭の出納を管理し、記録する事だった。藩は田鶴を義兄に嫁がせ見張らせる事で人質とし、妹を大事にしていた徳左に焼物を作らせようと計った」 「そんなっ」 淡々と語り続ける尾高の耳に、まるで己の心の代わりのように、細い叫び声が聞えた。 |