暮色の灯 (十五) 極寒の季節の夜は、人々が暮らしを仕舞うのも早い。 まだ家の中では行灯の灯りを頼りに、無事一日を終えた安堵に浸る頃合でもあろうが、寺の広い境内に吹きすさぶ風は荒涼と音を鳴らし、それが此処だけが、そうした温もりとかけ離れているような寂寥感を思わせる。 「坪内先生の道場で修行をしていた私の元へ、岩村藩江戸家老沢井様からの呼び出しがあったのは、まだ江戸での生活も慣れぬ内だった」 隙間風が、行灯の中のともし油に熾る焔を弄る度に、畳に伸びたふたつの影も揺れる。 「それは徳左さんの事と、何か関係があったからなのでしょうか?」 急(せ)いて問う総司に、尾高がゆっくりと頷いた。 「初めて見(まみ)えた御家老は、藩の実情をあからさまに語り、その上で徳左の腕が無ければ岩村藩はたちまち窮地に陥る事。そしてその徳左を逃さぬ為に、田鶴を義兄(あに)助左衛門に嫁がせると私に告げた」 「けれど田鶴さんは・・・」 「御家老は私と田鶴が恋仲である事も調べさせていた。そして私に、田鶴の命の保証と引き換えに、徳左の生涯に渡る目付けを言い渡した。引き千切る事の敵わぬ縄手で互いを縛りつける事で、藩は私達を監視下に置いたのだ。・・・己の力ではどうにも出来ない定めと云うものを、必ず負うて人は生まれてくるのだと、私はこの時初めて知った」 大きく瞳を見開いたままの主に、慰撫するような柔らかな笑みを向けた尾高の鼻梁の向こうに、深い影が出来た。 「・・それで、尾高さんは坪内道場を?」 「去った。恩を仇で返してな。・・・山間の道を夜を徹して歩き続け、国元へ着いたのは田鶴の婚礼の五日前の晩だった。そしてその夜、私は田鶴を抱いた」 総司の唇が僅かに動き、何かが発せられかけたが、しかしそれは、まるで禁忌を淵底へと封じるかのように、声になる事は無かった。 「もう大方気付いてはいるだろうが、田鶴の子修平は、私の子だ。義兄の助左衛門も、その事は分かっていた筈だ。修平が長ずるに従い、それは違える事の出来ない事実となって行ったが、そうと知れど義兄は私と田鶴を責める事はせず、あくまで修平を我が子として育ててくれた。もしかしたら義兄は、我が身を、私と田鶴に重ね合わせていたのかもしれない。その時義兄には、既に末を誓った相手がいたのだ。・・・そうして皆が、己の先にある希(のぞみ)を断たねばならなかった」 尾高の語りはあくまでも淡々と紡がれ、残酷な過去に触れても微塵も乱れる事は無い。 それは諦めではなく、言葉にするには既に深すぎる怒りなのかもしれない。 ほんの些細な天の気紛れは、時折こうして人の世で結ばれるべき糸を悪戯に絡ませ、そして解きほぐす術を与えない。 尾高と田鶴と、そして亡き助左衛門とその想い人と・・・ 誰もが、行く手ある光りの目映さに目を細めていたその足元を、嘲笑うかのように掬ったのが定めと云うのなら、神仏は何と残酷なものなのか。 尾高の横顔を凝視する総司の裡に、何処にもぶつけようの無い憤りと遣る瀬無さが行き交う。 「岩村藩では家老職の沢井家が、代々藩の中枢を担い、藩政の重きを為してきた。そして今の江戸家老沢井市郎兵衛殿も、国家老中村重衛殿も強い幕府よりの思想を持っている」 少しの間も惜しむように、止める事無く語り続ける尾高の声が、総司を暫しの感傷から現へと戻した。 「だが藩が人材の育成に力を入れてきた藩校の教授陣は、皮肉なことに強い倒幕思想に染まって行った。それを上から抑えつけられる内は、まだ良かった。が、次第に勢いを増した急進派達は、やがて藩の思想の一掃を計ろうと目論むまでになった」 「三木清隆と云う人も、そのひとりなのでしょうか?」 「そうだ、三木はその先頭に立つ人間だった。しかしとうとう藩への不満が嵩じて起こした決起は、時期早尚で失敗に終わった。追われる身となった三木は、糾弾の手を逃れこの京に潜伏し、今度は国元で志を同じくする者達と密に連絡を取りながら、次なる機会を狙い始めた」 「けれど・・ならば植田末次は、一体何処でその三木清隆と接触を持ったのでしょうか?」 「しでかした不始末で逃亡中の、元新撰組隊士植田が逃げ込んだ先が、岩村城下だった。丁度その頃、京にいた三木と国元に残っていた中間達は、幕府に内密で行われていた藩の密貿易の件を、何らかの事情から嗅ぎつけていたらしい。その証拠を握り逆手に取って御家老を失脚させ、藩思想そのものを勤皇倒幕に塗り変えようと三木達は企てた。そして身を庇う事を条件に、植田を尾高家に侵入させ、兄が記していた異国との貿易の記録書を盗ませたのだ」 「ではその時に、尾高さんの義兄上は・・・」 「不審を抱きながらも、藩校時代の先達の頼みを断りきれず引き受けた兄は、植田の挙措に用心していたが、家人が留守の隙を突かれて記録書を奪われた。それに気付いて植田を追い、兄は斬られた」 尾高の抑揚の無い平坦な声音は、敢えてそうする事で、感情を昂ぶりを律しているようにも総司には聞こえる。 「すぐさま植田追討を願い出た私に、藩は一度江戸に行き、江戸家老沢井殿からの沙汰を待てと命じた。そしてその時、田鶴と修平の身を引き換えに取られた」 「そんな・・・」 「天の気紛れは、一度だけでは飽き足らなかったらしい」 瞬く事も忘れたように見つめる硬い面輪の主に向けた顔が、その采配に翻弄される己を自嘲するかのように笑いながら翳った。 「だが今回ばかりは、これも定めと諦め終わりにする訳には行かない」 しかしそれも一瞬の事で、そのまま続けられた言葉の調子は、総司にではなく、己自身に言い聞かせるように強いものだった。 「記録書を奪い返した後、私は藩を脅す」 意外な告白に、深い色の瞳が更に大きく瞠られた。 「それを盾に、田鶴と修平、そして徳左の拘束を解きこの手に取り戻すまでは、記録書を藩に渡すつもりはない。・・そう、これは取引だ。だから必ず記録書は奪い返す。私はもう天の下した定めに翻弄されるだけで、この生を終わらせるつもりは無い。例え敵わぬ事でも、足掻いて足掻いて、爪跡位は残してやるさ」 言葉の苛烈さとは裏腹に、あくまで静かな語り口で心中を吐露しながら、宙に視線を据えた尾高を、総司は物言えず凝視している。 今尾高の見ている先にあるものは、三木清隆と、そして岩村藩と云う厚い壁なのだろうか。 それとも身を呈して護ると決めた、愛しい者達の姿なのだろうか。 そしてその者達の為に、一度は諦めた行く末を、尾高は果敢に取り戻そうとしている。 天からこの世に生を受けた人が、その天の授けた定めに抗う事は、驕りと云うのかもしれない。 或いは狂気の沙汰と、嘲笑されるのかもしれない。 だが己の将来(さき)を、今己の手で掌中にしようとしている尾高を、一体誰が傲慢と侮る事ができるというのか―― 弱音の一切を封じるが如く堅く閉じた口元が、より厳しさを作る横顔を、総司は暫し無言で見つめていたが、やがてふと思いついたように、手の平にあった懐紙へと視線を落とした。 「・・・尾高さん」 小さく呼んだ声に向けられた尾高の視線を、総司は自分の手の平へ目線を持って行くことで、其処を見るようにと促した。 「尾高さんに貰ったものだけれど」 中に包まれていた黄色の粒のひとつを取り上げ差し出した顔が、悪戯そうな笑みを浮かべた。 「花梨か・・」 苦笑して受け取った実を、だが尾高は口にはせず眸を細めて見ている。 やがてその唇がゆっくりと開いた。 「・・ひとりならば、私の足枷になる命など疾うに投げ出し、逃げてくれと懇願するだろうが、自分には修平がいる。だからその無事を見届けるまでは死ねないのだと、許して欲しいと、此れを私に寄越しながら田鶴は泣いた。だがきっと戻って来る私の姿を、今一度眼(まなこ)に映すのだと、そうも云って笑った。・・・おなごと云うものは、もしかしたら男など太刀打ち出来ぬ程に、強いものなのかもしれぬな」 それをいとおしむかのような低い笑い声は、そう長くは続かず、尾高はやっと手にしていた実を口に含んだ。 「・・・甘いな」 少しだけ眉を顰める振りをしたのは、もしかしたらそうする事で、裡に滾る想いを誤魔化したのかもしれない。 口腔に広がる味覚に全ての神経を傾けているかのように、無言でいる尾高を見ながら、総司はそんな風に思った。 我が身とて人質と云う危険の中にありながら、独り敵地に赴く尾高に、田鶴はどのような思いでこの実を渡したのだろうか。 それが分かると云うのは、きっと思い上がりなのだろう。 総司は今一度、手の中に在る白い包みへと視線を逸らせた。 ――暫し。 口に含んだ実の所為ばかりでは無く、どちらともなく寡黙になり生まれた静寂(しじま)の中、不意に総司の顔が上げられ、やがて聞えてくる馬の嘶きをより近くで捉えるかのように、瞳が外へと向けられた。 「どうやら、追手に突き止められたらしい」 それにつられるように、行灯の灯りが橙の輪を作る障子を見遣って発した尾高の声が、笑いを含んで、室の隅に押しやられた薄闇へと消えた。 一番最初に玄関の敷居を跨いだ土方は、出迎えた総司の姿を見止めるなり大股に近づくと、二の腕を掴み身体ごと壁へと押し付けた。 衝動の侭の動きと見えたが、それでも力は加減されていたらしく、然程痛みは感じなかったが、頤に掛けられた指で強引に上向かせられ、露わになった首筋に残る傷に、土方の視線が止まったのを知るや、すぐさま総司の面輪に狼狽が走った。 「自分で切ったのです。こうでもしなければ、周りの人達は信用しない。だからっ・・」 其処から何処にも逸らす事を許さぬ厳しい双眸が、必死で繕う言い訳に揺れる瞳を、金縛るように捉えた。 「だから傷つけたのか?」 低いと云うよりは、常より太くゆっくりとした声は、土方の怒りの深さを物語る。 蒼いが勝る白い喉元には、真一文字に絹糸のような朱の線が走っている。 伊東を欺き尾高を逃す芝居を迫真のものとする為に、それは確かに総司が自らつけたものなのだろう。 だが勝手な行動をと、それを隠し蓑にぶつけている憤りは、実は己の内に滾る赤裸な嫉妬だと土方は承知している。 どうしてこの愛しい者は、捕まえたと思った瞬間に、するりと逃れてしまうのか。 後先見ずに走り出すその無鉄砲さが、常に土方を不安の淵から離さない。 「・・すみません」 重い沈黙に耐え切れなくなったのか、見上げていた総司の瞳が、怯えにも似た色を湛えて伏せられた。 この者に、云って聞かせる事は容易い。 だがそれを護らせる事は、零れる陽を掴むよりも難しい。 そしてこうして見つめられれば、常に折れるしか無い己の不甲斐なさが、土方には腹立たしい。 ――寺の入口が、俄かに騒がしくなった。 遅れて馬を走らせてきた、八郎と田坂が着いたのだろう。 「説教は、後でまとめてだ」 それがせめてもの鬱憤の当たり処のように、土方は少しばかり乱暴に、骨まで掴めるような細い右腕をつき離した。 「互いの握っている情報を、今更隠した処で仕方があるまい。植田末次の持っていた手がかりはこれだけだ」 全ての経緯を省き、土方が尾高に差し出したのは、錆色に変わった血痕が、処々に染みを作っている黄ばんだ紙片だった。 「植田は岩村藩から盗み出した代物を、何処かの質屋に預けたらしい。此れはその質札だ」 車座になった五人の真中にある紙は、唯一の手がかりと云うにはあまりに粗末すぎるが、それに向けられた視線は、其処から例え塵程の僅かでも、何かを掴み取ろうと皆一様に厳しい。 「この印の様なものは、質屋の屋号を記したものなのだろうか?」 初めて見る希(のぞみ)の糸の端を逃すまいと、殊更慎重に手繰るかの如く、尾高はゆっくりと確かめながら問うた。 「間違いは無いだろう」 それに応える土方の声音は淡々としているが、こうしている間にも焦りは増し、苛立ちが激しく渦を巻くのは否めない。 ――京市中に点在する質屋全てを、ひとつひとつ当たるいとまなど、どう譲った処で無い。 だが先手を取られて証拠の品を手に入れられれば、三木清隆は堂々生き延びる事が出来る。 それは土方にとって、あってはならない事だった。 何故三木をそこまで執拗に追うのだと問われれば、自分から唯一の者を奪い去ろうとした人間の存在を、消し去る為だけに動いているのだと、躊躇いも臆面も無く、即座に言い切る事が出来る。 岩村藩の事情など、どうでも良い。 己の胸の裡にあるものを突き詰めれば、ただひとつ三木清隆への復讐しか、今の土方には無かった。 「土方さん・・・」 その思いを知らずして、遠慮がちに掛けられた声は、我が手でこの世に命脈を繋ぎ止めた想い人のものだった。 「どうした?」 だが促されても言葉は途切れたまま続かず、暫し総司は紙片へ視線を留めていたが、やがて思い切ったように顔を上げた。 「植田末次は、京の地理には疎かったと思うのです。巡察の時に物珍しそうに辺りを見ていたのを覚えているのです。だから証拠を隠した場所も、自分が迷わない範囲に限られると思う」 「巡察の経路の内だと云うのかえ?」 自分の発言にそう自信があった訳では無いらしく、云い終えた途端、逆にそれが深まってしまったように、不安そうにいらえを待つ瞳の主に、土方に代わって八郎が問うた。 「それは十分に考えられるな」 「お前にしては上々だ」 同調する意見に、嬉しそうに頷いている様を視界の端で捉えながら、些か意地の悪い土方の誉め言葉は、八郎に先手を取られて面白く無い不機嫌が為せる業だった。 だがそうであっても、土方に向けられた総司の面輪には、正直に安堵の笑みが浮べられた。 「そうだとすれば・・・。更に場所を絞り込む事ができるだろう」 それまで話の成り行きを聞くに終始していた田坂が、此処にきて初めて口を開いた。 「植田は上林家の山荘に匿われていた。もしも俺が同じ立場ならば、命綱となる証の品はなるべく身近に置きたいと思う。確か沖田君の巡察の経路に、あの近くは含まれているだろう?」 「一部は所司代組の持ち場だけれど、ほとんどがそうです」 急(せ)いて応える声が、役に立った嬉しさを隠せず逸る。 「では目星は、五条坂下辺りが有力か。その近辺ならば、上林の山荘からは真っ直ぐに坂を下ればいい」 自分が生業(なりわい)を営む周辺の地理は、鮮明に脳裏に映し出されるようで、云い終えるや腕を組んだ田坂の思考は、既にその辺りの質屋を探し始めたようだった。 「田坂さんは質屋に縁無しか」 「今の処は、だがな」 それを察し、思い起すに難儀している風を揶揄する八郎の横槍に、苦笑がてらのいらえが戻った。 が、他愛も無いこの遣り取りも、範囲が狭まったからこそ生まれた余裕だとは、此処に座す誰もが承知の事だった。 「墨と筆をお借り出来ないか」 突然発せられた、今までの話の筋とは凡そかけ離れた所望に、一瞬全ての視線が尾高に向けられたが、それを怪訝と問い質す前に土方が素早く立ち上がった。 「借りてこよう」 例え遠く連脈無き事のように見えても、しかしそれが確かな近道に通じると判じた広い背が、音も無く開けた障子の向こうに消えた。 「尾高さんは、絵心があるのかえ?」 「絵心などとは到底云えぬが」 八郎の興味深げな視線と、これは又不思議そうに見ている総司の眼差しに合って、少々居心地が悪そうに、尾高は再び紙片に目を落とした。 「・・・この紙に描かれている、丸で囲まれた印だが、元は左右対象の形をしていたとも考えられる。だとしたらこれとそっくり相対するものを紙に描いて重ね合わせて見れば、例え途中が抜けていても、凡その形が分る筈だ」 「合わせ鏡のように、か」 「そうだ」 田坂の補足に、視線を千切れた文様に向けながら、尾高が頷いた。 「上手いものだな」 八郎の声に相槌を打つまでも無く、誰もが同じ思いで、尾高の操る筆の動きを、ある種の驚嘆を持って見つめていた。 ひとつの形を成すものとは到底云い難かった断片が、別の紙に左右そっくり対象に描かれ、更に欠けている部分を推量し少しずつ補い繋げて行くと、克明に元の姿を現し始める。 が、それとて尾高の技量が並外れているからこその結果だった。 「軟禁されていた徳左に、季節ごとに変わる外の様子を教えるのも私の仕事だった。それを徳左が図柄にする。その為にはどうしても言葉にして説明するだけでは足らず、自分も絵を描かねばならなかった。それが今こんな風に役に立つとは思いもよらなかったが・・・」 云いながら、漸く筆を止め体を起した尾高の声には、その皮肉を自嘲している響きがあった。 だが描き終わったそれは、多分そうであっただろう形を殆ど取り戻していた。 「丸に半・・・」 白い紙に新たに描かれた象形に、視線を止めて呟いた総司の思考を邪魔せぬように、物言う者はいない。 それはこの中で、総司の記憶が一番確かなものだと誰もが承知しているからだった。 常に其処にあるものも、気に留めなければ、見過ごして終わってしまう。 記憶と云うものは、意識して脳裏に刻み込み、初めてその名の通りのものとなる。 それ故界隈に居を構え日常の風景としている田坂よりも、仕事の範疇として観察している総司の方が、遥かに注意深く辺りを視野に入れている筈だった。 「この前・・・」 押し殺したような沈黙の中で、不意に形の良い唇が動いた。 「この前キヨさんと一緒に行った店の中から尾高さんを見つけて、その後を追って坂を上る途中に、確かこれを同じものを染め抜いた暖簾を掛けた店があった」 上げた深い色の瞳が、宿った光を逃すまいと瞬きもせず、周囲を見回した。 「五条の坂でか?」 「そうです。けれど坂に沿った並びではなくて、路地の奥の突き当たりだった」 問う八郎に、総司は応えながら言葉にする事で、記憶をより確かなものにしているようだった。 「いえ・・路地と云うよりも、建物の横にもうひとつ入り口があるような・・、それで変わった造りだと思って、覚えているのです」 「もうひとつの入口?」 怪訝に聞き返しながら、土方は漸く難しげに組んでいた腕を解いた。 「表通りは京焼きの器を扱う賑やかな店で、その建物の塀に沿って別の小さな入口があったのです。其処も何かを商っているのか暖簾が出ていたけれど、とてもひっそりとしていて・・・でもだからこそ、同じ人がやっているのだろうに、ひどく対照的だと思ったのです」 すっかり思い出したらしい総司の語りは、あまりに急(せ)く心に追いつかないのか、時折その勢いに邪魔されもどかしそうに止まる。 「五条坂の京焼きの店だな」 念押す言葉が終えられる前に、土方が立ち上がった。 「お前は駄目だ」 だが同時にその横に並び立った総司を、鋭い声が制した。 「説教は後でまとめてだと、さっき土方さんは言った」 見上げた瞳にある強い色が、諌める厳しい眼差しを跳ね返した。 暫し互いに視線を逸らさず、無言のまま睨み合うようにしていたが、こうなればもうどうにも聞かぬだろう者に、先に諦めの息をついたのは土方の方だった。 「其れを着て来いっ」 怒声のように荒く言い放ち指差した先に、脱ぎ捨てたままの羽織があった。 総司は一度それに視線を向けたが、慌てて戻した時には、もう広い背は廊下の角を曲がろうとし、少しの遅れもとらぬ勢いで八郎と田坂の長身が続き、更にまだ左脚を引きずりながらも俊敏な動きの尾高が、廊下に消えようとしている処だった。 急いで端を掴んで手繰り寄せると、ひんやりと冷たい板敷きを踏み、総司は中で身が浮く土方の羽織を纏いながら走り出した。 清水寺へと続く坂は中々に勾配がきつく、急げばそれなりに息が切れる。 「男ばかりで盗人って云うのは、どうにもいけ好かないねぇ」 だがすぐ後ろから聞えてくる声は、この無骨な道行を楽しんでいるように、悠長な構えを崩さない。 「江戸に帰る土産話になるぞ」 「土産は他に貰ってゆくさ」 それに返す皮肉の素っ気無さも、応えるいらえの辛辣さも、緊張を強いられるこの場にあって常と全く変わり無い。 坂の手前で馬を乗り捨てたのは、夜も更け深閑と静まり返るこの頃合では、地を蹴る蹄の音が四方(よも)に響き渡り、それが既に此処を突き止めているかもしれぬ三木清隆の一手に、自分たちの存在を知らしめる結果になるのを懸念したからだった。 それ故、五人の先を照らす灯も無い。 漏れる白い息だけが、唯一先行く道標だった。 ――どれ程無言の行脚が続いたのか。 雲間に月が入り込もうとし、不気味な静寂を作り出している闇の中、やがて辿り着いた目当ての建物は、漆黒の中に更にひとつ影を濃くして、その存在を誇示していた。 外の者達の事情など知る由も無く、板塀の内はひっそりと物音ひとつしない。 「勝手に探すから寝ていてくれと云う訳にも行かんのだろうな」 「寝ていたい奴は寝てるがいいさ」 まさかこれから叩き起こされる事など想像も出来ず夢寐にいる者達へ、些かの同情を込めて告げる田坂に、戸口に視線を据えてる土方のいらえは遠慮の欠片も無い。 「確かにあんたなら、それも出来るだろうよ。だがな、世の中って云うのは、あんたみたいな奴の方が珍しいのさ」 「ではその珍しい面(つら)、見てもらうさ」 うんざりとごちた八郎の呟きを背中であしらい、潜り戸の高さに合わせて少しだけ上体を屈めると、土方は悪戯に家人を警戒させぬよう、しかし家屋の奥にまでしかと聞えるように、握りこぶしの外側で木の戸を叩いた。 「・・・どなたはんですやろ」 思った通り何の反応も無かった一度目から、少々の間を置いて、今度は途切れる事無く叩き続けられる執拗さに、流石に敵わないと音を上げたのか、あからさまに迷惑そうな声が内から聞えた。 「新撰組副長、土方歳三である。夜中ではあるが改めたき儀があり、只今から当家を調べる。早々に開けられよ、拒むならばこの戸を壊し踏み込むまで」 凍てた冷気に響く低い峻厳な声は、切先鋭い刃にも似て板戸を貫き、相手を畏怖させるに十分な迫力を帯びていた。 云い終えた途端、中で戸を開けようとする気配が察せられたが、慌てているのか閂(かんぬき)が上手く抜けないようで、あちこちにぶつけ木を軋ませる音が聞える。 だがそれは同時に、この店にとって招かざる客の最初が自分達であり、未だ敵が此処を突き止めてはいないと云う証でもあった。 漸く僅かばかり開かれたその隙を、更に外から強い力で押し広げて、土方は素早く内に身を滑り込ませた。 それに尾高と総司が続き、見届けた八郎と田坂が、戸口を護るように背を向けた。 敵の動きを警戒し、防御する為であった。 「あの・・御用って、何ですやろ・・・」 不意に現われた闖入者に怯え、恰幅の良い主人らしき男が恐る恐る問うた。 「裏の商いの事だ」 「・・・うら?ああ、質屋の事ですやろか?」 それが単に裏にある店の事を指しているのだと気付いて、漸く合点がいったように男が頷いた。 「其処に客として行った者が預け置いた質草を探している」 「ほな質札もってますか?」 「無い」 「それやったらあきまへん。質草はお客はんからお預かりしている大切なもんどすさかい、ご当人であらへん方にはお渡しできまへん」 正体の分からぬ者への恐怖が去り、次第に落ち着きが戻りつつあれば、今度は店(たな)の主としての矜持が頭を持ち上げて来るのか、男の応えが幾分強いものになった。 「当人は今頃三途の川あたりで往生している筈だ。それ故代わりに受け取りに来た」 何でも無い事のように淡々と語る口調は、こうして会話が途切れれば恐ろしいまでの寂寞が辺りを覆う深夜であらばこそ、相手を再び畏怖させるには必要以上の効果をもたらせ、目を見開いた主の喉仏のあたりがごくりと上下した。 「もっとも律儀に義理立てし、いつまでも後生大事にしているならば、あんたもじき持ち主と会えるさ」 止めの文句は更に相手を追い詰めたようで、白髪の方が多い初老の男は後ろを見遣ると、柱の影から息を潜めて事の成り行きを見ていたもうひとりの男に、目線だけで何やら指示を与えた。 やがて待つほどもなく、それがこの店の手代なのか、此方もそう若くもない少し前かがみの姿勢の男が、母屋の方角から息を切らせて走り寄って来た。 「旦那様」 顰めた声に此方も目だけを合わせ無言で頷くと、主は差し出された手の平から、黒光りする何かを取り上げた。 「蔵の鍵ですわ」 云いながら土方の目線まで持ち上げたそれは、古いながらも所々摩滅し、使用する頻度の高さが夜目にも判じられた。 だがこの鋼の塊こそが、道を切り開く確かな導(しるべ)だった。 それを凝視する尾高の目が、俄かに細められた。 そしてその視線が真実捉えているものこそは、護り切らなければならない者達の姿なのだろうかと、総司は黙って精悍な横顔を見つめていた。 「うちとこは最初は質屋でしたのや。けど京には焼物を焼く窯が仰山おます。持ち込まれるもんに京焼きの器や皿がだんだんに多くなって、今では預かる質草の大半が、そないなもんになってしもうたんですわ。中には代々家に伝わる高価な焼物を、手離さなあかんようになってしもうた、お公家はんやお武家はんもおます。表の商売は、そないなお客はんの為の隠れ蓑ですのや」 「質屋の暖簾からは入りにくい、か・・」 「そうどす。せやし表向きは別の商売のように見せかけて、裏に目立たんように質屋の看板掛けてますのや。そんで表の店の客のように振舞ってもろうて、本当は裏の質屋通いが出来る仕組みになってますのや」 腹を括ってしまえば、この主の肝の在り処も変わっているらしい。 母屋を回り、更に中庭を突っ切り蔵へと案内しながら、見栄を張らねばならない客を扱うからくりを、布屋半兵衛と名乗った男は、先程から熱心に土方に語り聞かせている。 「あれですわ」 その半兵衛が、不意に足を止めるのと同じくして立ち止まり、先を見澄ませた三人の視界の中に、漆黒に土壁の白を溶けさせた蔵が青白く浮んだ。 「質札もあらんへん、質草も分からんでは、ひとつひとつご自分で調べて貰わなあかんのですが・・・」 「分っている」 「蔵にある預かりものは、半端な数ではおへんえ」 「それも承知している」 土方と半兵衛の交わす会話の横から、尾高がつと前に出た。 そのまま暫し頑健な造りの威容を見上げていたが、やがて振り返った双眸が、一瞬相手を竦ませる厳しさを持って、鍵を手にしている主へと向けられた。 「鍵をお借りしたい」 静かな、しかし拒む事を許さぬ低い声が、闇を震わせた。 |