暮色の灯 (十六)




土で出来た壁は、外に在る湿り気を含み上げ、ひんやりと黴(かび)た匂いを蔵の中に籠もらせてしまう。
胸に巣食う病を思えば、こう云う気からは殊更遠ざけねばならない主は、入り口で見張りに立てと叱り命じる言葉に頑なに首を振り、今尾高と共に、無数の質草を改めている。

三木清隆は必ず今宵の内に、この店を突き止める筈だった。
伊東による植田殺害一件後も、引き続き上林の山荘を見張り、やがて予測に違わず其処から出てきた三木を追った伝吉によれば、相手はやはり手がかりの半分を入手しており、血まなこになって記録書の在り処を探しているとの事だった。
京で古くから商いをする家に婿に入っているだけに、例え扱うものは違えど、情報の数と地の利を生かした有利は敵にある。
それを考えれば、先に此処を見つけられたのが、僥倖だったと云わざるを得ない。
だがそれもごく限られた短いものだと、土方は踏んでいる。
質屋株を持つ者に問えば、例え切れ端でも、質札に描かれていた屋号を判じるのは容易い。
だとしたら、夕刻に上林家を出た三木が此処に辿り着くのも、早時を数える間もないか・・否、そろそろ外が騒がしくなる頃か。
伝吉と島田が護る裏木戸に、一旦視線を投げかけたがそれを途中で止めると、雲が月輪の全てを隠してしまった天を、土方は鬱陶しげに仰いだ。



この店の主が云った事は大げさではなく、掌に包み込む事が出来るような小さなものまで含めると、蔵の中の質草は膨大な数にのぼった。
更にそれらは紙や布でくるまれていたり、或いは箱に入っていたりするから、ひとつひとつを解いて改めるには、気の遠くなるような時を要する。
質札には、質草に貼ってある紙に書かれた数と合致する符号が記されてあった筈だが、その部分は、植田自身の血痕で消えていた。
それ故やはり近道は無く、個々に当たって行くしか手は無い。

「縦横はそう大きくは無いだろうが、十年近くの記録が記してあるものだ。・・厚さはかなりある」
蜀台の灯を頼りに、棚の奥を探る尾高の声にも焦燥は隠せない。
互いに背中合わせの恰好で棚を調べているから、仕草だけでは相手に承知したとは伝わらないが、声を発するその間すら惜しい総司は、頷くだけで是と応えた。

――尾高には、荒む心と、命そのものを救って貰った。
その感謝の念は、どのような形にも変えられぬ程に、総司の心に強い。
だが今はそれすら凌駕して、ただひたすらに尾高の本懐を成就させたいとの思いの激しさが、総司を突き動かしている。
十年近く。
尾高は先ほど、刻まれた歳月をそう云った。
かの記録書の中に、尾高と田鶴と徳左と、そして亡き義兄助左衛門とその想い人と・・幾多の人間の、歪められた来し方が閉じ籠められている。
そして天のあざとい戯れに翻弄され続けた人々の定めを、尾高はその紙の綴りひとつに賭けて奪い返そうとしている。
それを必ずや成し遂げさせたいと欲する切望は、或いは、病に負ける生を受け止められず、懊悩の淵で呻吟しながら先への光を見出そうとしている、自分の心そのものなのかもしれない。
天が人に授けたものを、人は己でその容を変える事が出来るのだろうか。
とことん抗い、いつか打ち砕く事が出来るのだろうか。
否、きっとそうであってほしいと・・・
尾高が己の手で己の行く末を変え行く様に、いつの間にか自分自身を重ね合わせているのを、総司はもう見ぬ振りをする事は出来なかった。




「来たようだな」
独り語りとも思える衒いの無い呟きが、白い息と共に、八郎の唇から漏れた。
「思ったよりも集めたな」
それにいらえを返した田坂の目が、隠れた月で一層深くなった闇の先を見澄ますように細められた。
「そりゃ、必死だろうさ」
云いながら、羽織を脱ぎ捨てた八郎の両袖は、襷で括られ肩に纏められている。
「大層な支度だな」
「仇討ちの助っ人って奴は初めてだからねぇ。せいぜい楽しませて貰うさ」
「仇はもういないぜ」
「だから勝手に討ってくれた礼を、しなけりゃならないだろう?」
軽口の最後と同時に鯉口を切る音が、冴え冴えと凍てた冷気の中、然程不釣合いでも無く、一瞬だけ響いた。

何の為の仇討ちか――
問えば寸暇も置かず明快に返るだろう八郎のいらえを、田坂は己のものとして承知している。
ありとあらゆる手を尽くしてもまだ足りず、繋ぎとめられるものならば、人としての道など惜しげもなく捨て去る事の出来る唯一の命脈を、いとも容易く自分の目の前で手折ろうとした人間の存在を、田坂の身魂は、決して許すまいと刻んでいる。
人の命数を全うさせるに力の限りを尽くしている筈の己が、今ひとりの人間の息の緒を止めようとしている矛盾を、煩悶し躊躇する暇(いとま)すら疾うに無く、田坂の裡に確固として存在するのは、三木清隆への報復だけだった。

「三木清隆は、俺が斬る」
その心裡をつぶさに読み取ったかのように、八郎の足が、不意に先駆けて地を蹴った。
だが一瞬の遅れも取ること無く、同時に田坂の鞘からも、鈍い銀(しろがね)の閃光が弧を描いて放たれた。
「これより先、何人たりとも通さんっ」
風上から風下へ――
八郎の太い声が、坂を上り来る幾多の不規則な足音を、一瞬にして止めた。


「島田っ、伝吉っ」
俄かに殺気立った表の気配を察した土方の、低い、だが猛々しい声が静寂を劈いた。
「此処を代われっ」
更にいらえを待てない性急な叫びが、裏口に向け発せられた。
敵が姿を見せた事実が、土方を焦らせる。
三木清隆を斬るのは、必ずや自分でなければならなかった。
「副長っ」
「代われっ」
走り来る二つの影が、更に何かを応えるよりも早く、風ひとつを置き土産にして、土方はその横を駆け抜けた。




質草の置かれた棚は、何かの規則にのっとって整理されているのであろうが、ものの重さ大きさによっては、直接床に置かねばならないものもあるから、基本的には質札の番号だけが頼りになる。
それを欠いていては、やはり時を要するのは否めない。
だが今聞こえた土方の声は、遂に敵が此処を突き止めたと知らせるものだった。
余裕は、最早寸分たりとも無い。
その焦る心が、棚の奥に伸ばそうとした総司の指先を狂わせ、目的とは違う横の箱に触れた寸座、揺らいだ其れは、置き方に余程安定を欠いていたのか、声を上げる間もなく床に落ちた。
鈍い音はしたが、幸な事に大きな破損は無かったようで、衝撃で蓋が外れて転がり出た中身を拾い上げようと、慌てて床に屈み木の箱に手を触れたその瞬間、総司の瞳が何かを見極めるように細められた。

「尾高さんっ」
鋭い叫び声に振り向いた尾高の視界に、細長い箱の奥を探っている薄い背が飛び込んできた。
「徳左の皿だっ」
初め尾高の視線は、箱から出て床に転がっている皿に釘づけられた。
「底に、まだ何かある」
見上げて訴え、やがて急(せ)く手で取り出されたのは、端の何箇所かを紐で括られた紙の束だった。
縦横よりも厚みの方が余程に幅があるそれは、ずっしりと重く、下の方の紙が黄色く変色しているのが、決して十分とは云えない灯りの中でも分る。

「・・・義兄の綴った記録書だ」
――暫し。
総司の差し出している灯の下で、その一枚一枚を捲り確かめていた尾高が、低く呟いた。
蝋燭の焔が風で揺らめくたびに、尾高の高い鼻梁の向こうに出来た翳も揺れる。
開くべき道の標点へは、徳左自身が導いてくれた。
奇跡とは、類稀な偶然の僥倖ではなく、人の強い思いが業為すものなのだろうか――
否、きっとそうなのだと、そう信じたいのだと、懇願にも似た思いを込めて、険しい横顔の主の手にある紙の綴りを、総司も又息を呑んで見つめていた。




「伊庭っ」
真っ向から袈裟懸けに斬り捨てた相手が、もんどり打って地に叩きつけられる様などもう視野の端にも入れず、土方は闇の先で激しさを増す刃金の音に向かい、唸るように叫んだ。
「邪魔だっ」
すぐさま返ったいらえも又怒号だったが、同時に八郎は、対峙していた敵を一刀の下に倒し、次の瞬間には二人目に切っ先を向けていた。
その僅か先では田坂が、やはり上段から振りかざしてきた相手の腹を、錯覚と見まがう素早さで身を沈めるや否や横に薙ぎり、血飛沫を上げる仲間を目の当たりにして怯んだ敵陣との間を、確実に詰めている。
囲いを破れば、一気に乱闘になだれ込むだろう。
そうなれば三木清隆を見つけ出す事が難しくなる。
八郎と田坂は、三木の顔を知らない。
だからこそ、こうして時を稼いで三木を探していたが、唯一それを判別出来る土方の出現は、この二人にとっては己の行く手を邪魔する以外の何者でも無い。
「引っ込んでいろっ」
更に唸りを上げて突進して来た者の刃を左斜めで受け止め、そのまま返す手で相手の額を叩き割った八郎の、苛立ちが飛んだ。
「貴様こそ其処を退けっ」
いつの間にかすぐ横に来た土方の罵声を浴びながら、だが八郎の目が一瞬細められた。
刃を振るった後、土方は必ずある一点へと視線を戻す。
敵の照らす松明の灯りが、其処に動かぬ影を浮かび上がらせている。
構えを見せている者達の中で、ひとり抜刀せず此方を険しく凝視している様は、それがこの集団の統率者であり、指揮官であると一見して判じられた。

「・・あれが、三木か」
背後で呟く低い声に、己の失態を悟った土方の顔(かんばせ)が、苦々しげに歪められた。
振り向き確かめる事は出来ないが、八郎の双眸は、今探し求めていた獲物を見つけて牙研ぐ獣のそれにも似て、凶々と鋭い光を放っているに相違無い。
それが土方を焦らせる。
更に田坂も、同様に三木の存在を察したらしく、立ちはだかり其処へと辿り着くのを邪魔する敵に、逡巡の無い一刀を振るっていた。
「どけっ」
怒鳴り声と共に、遅れを取った田坂に向い走り出した土方と八郎に、襲い掛かられたと錯覚した前面の男が、力任せに刀を振り回わして己の防御に入った。
然したる腕でもないだけに、もうこうなれば技も何も無い。
だがこう云う手合こそ、死にも狂いだけに手を焼く。
最初に振り被られた一太刀だけは、邪魔と撥ね退けた八郎が、勢い余ってたたらを踏んだ男を、脇の土方へと流した。
「任せた」
「貴様っ」
それに足止めを余儀なくされた土方が、男が頭を上げる暇(いとま)も与えず脳天を割り道を開きながら、既に一歩先駆けられた八郎に向かい、あらん限りの大音声で激昂を放った。
だが些かも動じる事無く振り向かぬ背は、次々と前から横から繰り出される凶器を、流れるような銀の曲線を描いて交わし、確実に三木との距離を狭めている。
少し離れた先で敵を退けている田坂と同じく、威嚇する最初の一撃だけで、後は刃を返してあるらしいが、しかしその瞬間発する、骨をも砕かんばかりの鈍い音は、相手にどれ程の損傷を与えているのを十分に知らしめる。
人の肉を断てば、脂が捲いて刀が斬れなくなる。
故にそれが、唯一狙った者の為に振るう最後の一太刀に万全を期しての構えとは、容易に察する事が出来た。
そしてその獲物を、遂に二人は標中に捉えた。
しかも敵方の陣営は、もう囲いと云う体制を疾うに崩している。
一部を除き、元々が数を頼んでの集団だっただけに、情勢が自分たちに不利だと知れば逃げ出す者が大半だった。
三木の周りも、次第に無防備に近い状態になりつつある。
今踏ん張りを見せているのは、最初から手の内の者なのか、果敢に仕掛けてくる相手に、思うように前に進め無い焦りに苛立つ土方の目が、一瞬険しく細められた。
三木清隆が、纏っていた羽織を脱ぎ捨て、遂に刀の柄に手を掛けたのだ。
その目が捕らえているのは、果たして伊庭か田坂か・・・
だが自分以外の者が、三木を倒す事は決して許しはしない。
焦燥が、土方の形相を憤怒と化し、勢いたった足が地を蹴ったその時――
「三木っ」
叫んだ筈の己の声が、背後からの更に激しい怒号に、瞬く間に呑み込まれた。


「現れたか・・」
初めて発せられた三木の一声は、正面の八郎でも田坂でも、そして土方にでも無く、遥か後ろに立つ者に向けられた。
「三木、お前の負けだ」
「私が、負けたと?」
近づいてくる尾高周蔵を見る三木の双眸には、もうかの人間しか映っていないのか、その像だけを捉え、薄い唇がゆっくりと動いた。
「記録書は取り戻した」
「だからどうした」
「植田末次を使い、義兄を殺し記録書を奪い、藩に混乱を期させ藩政を転覆させようと目論んだ、貴様の企みも終わった」
「尾高、私は負けた訳では無い。例え私が此処で倒れようとも、同じ思想を持ち、それを現実たるものに成さんとする人間は、この先次々に出てくる。今の世に、幕府などと言う旧弊はいらぬ。それが分らぬ岩村藩にも先は無い」
明晰な頭脳を、そのまま顔の造作に映し出したような白皙は、この追い詰められた場にあって、尚冷然と笑みすら浮かべて説く。
「私には、藩も思想もどうでも良い。欲しいのは・・いや、取り戻すべくは、己自身の行く末と、護るべき者達だけだ」
静かに、しかし言い切るに微塵も動ぜぬ強かな口調に、三木清隆の目が細められ、尾高を捉えている眸に鈍い光が宿った。
「・・・成るほど。私の唯一の誤算は、どうやら貴様の信念が読み取れなかった事らしい。が、今は大馬鹿者どもに牛耳られている藩も、すぐに誤った道を選んだ事に気付く。それは其処にいる幕府の犬どもとて同じこと。尤も・・、大事な幹部をひとり消す事ができなかったのは、至極残念だったがな」
新撰組副長と意識して、初めて土方に視線を流した三木が、憎悪の限りで自分を見据えている冷酷な双眸に向けて、嘲笑の乾いた笑い声を上げた。
やがてだらりと右手に下げていた太刀を、三木は無造作に持ち上げると、今一度尾高に視線を戻した。
「せいぜい・・」
そのまま構えると思った刃は、しかし言葉が止められた途端に、踏み込む余地を与えない素早さで逆手に持ち変えられた。
「慌てふためく貴様らをっ、冥土で笑って見てやるっ」
叫び声と同時に、鋭い切っ先が、まるで木を挽くように三木自身の首筋を切り裂いた。
次の瞬間、ゆらりと傾いだ体から刃が離れると同時に、紅い飛沫が、栓を抜かれたように宙高く放たれ、地に伏す主の背に数多(あまた)の雫となって舞い降りた。

一番後ろに位置する総司の瞳が、全ての顛末を微動だにせず眼(まなこ)に刻み込んでいる、尾高の後姿を映し出す。
広い背は、ひとつ壁を乗り越えても、極限まで張った精神の弦を決してを弛ませようとはしない。
それは尾高にとって、本当の戦いが、今から始まった事を物語っていた。

切れ始めた厚い雲間から、月輪が朧なあかりを投じ始めた中、生無き屍となって動かぬ三木を、それぞれの裡に逆巻くものを胸に秘めながら、しかし誰もが無言で見ていた。




「お前はどうしても俺を怒らせたいらしいな」
襖を開けるや否や、夜具の上に端座していた腰を浮かし、此方を見上げた面輪に向ける土方の双眸にあるものは厳しい。
「土方さん、尾高さんは・・」
「寝ていろと、そう言った筈だ」
「でもっ」
「言う事を聞かない奴に話す必要もない」
急(せ)いて問う声を鋭く制して、土方は容赦無い。
「聞いたら寝る、だから・・」
それでも必死に食い下がる総司を、土方は暫し無言で睨みつけていたが、やがて欲するいらえが戻るまでは、何を言っても聞く耳など持たないだろう意志の強靭さを宿した瞳の前に、怒気を諦めに変えた忌々しげな息をついた。

――尾高が記録書を取り返し、三木清隆との戦いがあのような形で幕を下ろしてから、既にふた刻の余が経ていた。
まだ記録書は尾高の手に有り、岩村藩に戻されてはいない。
新撰組が表立って係れば、事の全てが露見し、幕府からの咎めは免れず、岩村藩はその骨格から藩体制を揺るがされる結果に陥るだろう。
仮に取り潰しを免れても、今の幕府寄りの勢力は根こそぎ瓦解する。
そうして代わり台頭した倒幕思想の者達が藩政を牛耳るようになれば、それこそ三木の思うつぼだった。
冥土にいる人間に高笑いを許す事は出来ない、さりとてあれだけの立ち回りを、流石に所司代にも報告せず終わらせる訳には行かない。
これら全ての顛末をどうすべきか土方は模索していたが、結局核心の部分は闇に葬る事に決め、今回の件は、不逞の輩による金策目当ての町屋襲撃の場に、たまたま新撰組が通り掛かり出くわした偶然と、少々強引な理由付けで終結させた。

尾高の妻子とその兄を救い出す事は、結果的に、岩村藩の急所を新撰組が掴む事に繋がる。
新撰組の背後には会津藩と云う大藩が構えているが、それはあくまでも預かりと云う主従の関係の上に成り立っており、断ち切られればそれまでのものだった。
忠誠と云う精神で結ばれた、抽象的な縦の絆の関係は、今のような混沌とした世の情勢では、その脆さが命取りになる。
だが力関係で均等を保つ横の絆は、互いの利害の一致を見る限り断たれる事は無い。
新撰組が幕閣の中で確たる発言力を持つ組織にまで昇り詰めるには、後ろ盾はひとつでも多い方が良い。
黙認することで恩を売りつつ、その実岩村藩にとって、新撰組を何よりも畏怖となる存在にさせる、それが土方がはじき出した結論だった。


「土方さんっ」
夜具の際に行儀悪く胡坐をかき、不機嫌を隠しもしない主に怯むことなく、総司は執拗にいらえを求める。
勢いあまって土方の腕に触れた指が、血も通わぬかと思える程に冷たい。
毒を盛られて後、消耗しきった体力も戻らぬ内に、一連の出来事に翻弄された身体は、やがて律儀に熱を持ち始めるのだろう。
だが今の総司には、我が身を顧みる余裕などある筈も無い。
それが土方を、不安を凌駕して怒りにまでかき立てる。
「まず、横になれ」
命じる声のあまりの強さに、流石に次の言葉を飲み込み、総司は暫し端正な面差しを見つめていたが、やがてこれ以上はどんなに懇願しても無理と諦めたのか、戸惑いながらも顔だけは土方に向けて、身を横たえた。
床はすっかり冷え切り、触れた瞬間竦むような震えが走る。
だが硬くした身体は、凍てた外気から庇うように、すぐさま土方の手が夜具で覆った。

「尾高周蔵の身は案ずるな」
それに大人しく包まれる様を見届けると、漸く土方の唇が動いた。
「先程伊庭と島田、そして伝吉が護衛について、尾高は屯所を出た。暫らくは誓願寺で預かって貰う事にした」
意外な言葉に、総司の瞳が土方を捉えて凝視した。
「尾高が此処に居る事が知れれば、伊東の手前、今回の事件の真相を公にせざるを得ない。そうなれば岩村藩が行っていた、異国との密貿易の実情も暴かれ、事は藩の取り潰しに至るまでに大きくなる。だがそれでは記録書を盾に藩を脅し、人質に取られている妻子を取り戻すと云う、尾高の本当の目的を果たす事が出来ない。それ故、全てが解決を見るまでは、尾高を伊東の目の届かぬ処に置く」
要所要所をかいつまんで淡々と語る主を、総司は呆然と見上げている。
「どうした?」
瞬きもしない瞳に気づき、それを怪訝とする声が向けられた。
「・・・土方さんは」
「俺は?」
一言紡いだきり、噤まれてしまった唇が再び動き出すのを、敢えてそれ以上促す事はせず土方は待っている。
「尾高さんを・・・助けてくれるのですか・・?」
やがて戸惑いから抜け出て漸く問うた声が、くぐもり掠れた。
「尾高周蔵の本懐成就を助けるのは、そのまま岩村藩の急所を掴み、力関係で捻じ伏せる事の出来る大名をひとつ作ると云う事だ。新撰組の役に立つ相手は多いほうが良い。ただそれだけだ」
常と変わらぬ仏頂面を、更に不機嫌に歪めて告げる土方に、おずおずと骨ばった手が伸ばされ、組んでいた腕に冷たい指先が触れた。
何をしたいのか、土方にはその意図する処が分からず、暫しされるがままになっていると、総司は今度は肱を立て、それを支えに夜具を剥いで身を起こそうとした。
「叉俺を怒らせるのか?」
「違う」
すっかり身体を縦にし、正面から向き合って見つめる面輪が、即座にいらえを返した。
「何処が違う、お前は・・」
叱咤する言葉は、しかしすぐさま覆い被さるように縋り付いて来た身を受け止める為に、全部を云い終える事敵わず途切れた。

「尾高を助けるのではないぞ」
肩口に顔を伏せてしまった総司の骨ばった背に、ゆっくりと腕を回して告げる調子には、どうにも遣る瀬無さが先立つ。
こうして愛しい者の温もりを抱けば、説教はまとめてと云い置いた脅かしも、既にこの場で己の負けと認めざるを得ない。
それでも惚れたつけと、ひと括りにして仕舞いにしてしまうのが、土方には口惜しい。
「返事をしろ」
その八つ当たりのように、少々乱暴な物言いが、いつまで経っても応えぬ主を促した。

「・・・尾高さんが」
漸く右の耳元近くでした声は、腕に捕らえている身と似て酷く頼りない。
「尾高がどうした?」
こうして言葉を引き取ってやらねば繋がらない会話に、結局付き合っている己の辛抱の良さを、土方は唇の端だけを緩めて苦笑した。
「・・尾高さんは、自分のさだめを自分の手で変えようとしている。・・・藩を脅して大切な人を取り戻して、自分と、そしてその周りで翻弄され続けてきた人達の先をも、奪い返そうとしている」

――顔は伏せたままに、ぽつりぽつり語り出した深い色の瞳の主は、今どんな思いで言葉を紡いでいるのか・・・
土方には、総司の心にあるものが、遣り切れない程に痛く切ない。
泣き言も、弱音のひとつも吐かずに受け入れてきた過酷なさだめに、本当は狂い出しそうな孤独の中で、総司はそれに負けまいと必死に抗っていたのかもしれない。
それだからこそ、尾高が己の将来(さき)を、己が力で奪い取ろうとするその強さの中に、自分も一縷の希(のぞみ)を見いだそうとしたのかもしれない。
今切望にも似た思いで、総司の唇から語られようとする全てを、ひとつも残さず聞きとってやりたいと、土方は願う。

「・・・人は、その人に下されたさだめを、本当に変える事が出来るのだろうか」
漸く顔を上げて、自分をいだく腕(かいな)の主を捉えた瞳が、否と拒まれる事に怯え揺れていた。
凝視している双つの瞳から視線を逸らさず、土方は暫し無言でいたが、やがてゆっくりと形良く引き締まった唇が動いた。
「俺はさだめなど、変えはしない」
一瞬の内に白い面輪に浮かんだ翳りが、絶望の淵の闇色へと変わるその前に、しかし再び唇は開かれた。
「さだめは、俺が作る」
今度こそ驚いて見開かれた瞳に、土方の強い視線が据えられた。
「俺が、俺のさだめを作る。だからお前は俺の傍らにいる。そしてその理(ことわり)は、決して変えられる事は無い。違うか?」
語り掛ける声音こそ静かだが、否と抗う言葉を撥ねつける峻厳さで、土方は総司にいらえを求める。
「来い」
身を引く暇(いとま)も無く腕を掴まれ、今一度胸の内に浚われ寄せた総司の片頬に、土方の心の臓の音が響く。
「お前は、俺の傍らにいる」
規則正しい刻み音(ね)は、さだめは己が手で作ると言い切る強さにも似て、張り詰めていた神経を緩やかに解いて行く。

いずれこの世で別つ日が来る事を承知しながらも、もしかしたらこのまま傍らに居つづける事が出来るのではないのかと・・・
そんな愚かしい錯覚を、土方は事も無げに真実だと言う。
そう信じて良いのだと、叶う筈の無い希はまことになるのだと、当たり前のように告げる。
そしてこの先も、更にその先も、果てる事無く自分は土方の傍らにいるのだと、拒むことを許さず命じる。

「お前は、俺といる」
低い、弛まぬ強い声が、総司の裡を、うねる波より激しく揺さぶる。
繰り返される言葉を更に現のものとするように、伸ばされた手が、確かな温もりを求めてきつく絡みついた。
「・・・背中が」
広い胸に、今一度顔を伏せたのは、それ以上の言葉を紡ぐ自分の勇気を奮い立たせる為だった。
「背中が、痛いのです・・」
やっと搾り出された声は、呟きよりも小さく酷く聞きづらい。
「・・けれど、伏さっては・・」
更に続けられた言葉は語尾が震え、あまりに不鮮明で、聞き取ろうとする努力が無ければ判じる事すら難しい。
だがそれが目一杯の限界だったのか、遂にその先を紡げぬまま、総司は沈黙へと自分を閉じ込めてしまった。

――寄せ合う身をしかと抱きしめながら、土方はどうしようもない愛しさの中で、応える言葉を捜しあぐねている。
背中を痛めた総司に、褥を共にするとの約束を、伏さって眠る事はしないと云う言葉に隠して、強引に言わせしめたのは自分だった。
だが今それを、総司は自ら口にした。
時折小刻みに震える背は、羞恥の際を越えてしまった代償なのだろうか。
更に続きを求めれば、総司の心は今度こそ砕けてしまうのかもしれない。
だがだからこそ聞きたいのだとの思いを、土方は今呆れる程必死に堪えている。
壊して、そうして封じ込め、この者の身も心も全てが自分のものであると、天に地に人に、あらゆるものに知らしめたい衝動を、辛抱の限りで堪えている。
だがいらえを返さないのを、意地の悪さだと決め付けた唯一の者は、せめて縋る腕に力を籠める事で、ささやか怨みを伝える。
それでも想いの丈を、滾りを、他のどんな容(かたち)にも置き換えられず、土方は困惑の無言を抜け出せない。


「背中が・・」
沈黙の時に耐えかねて、遂に悲鳴にも似た短い声を漏らした時、不意に両肩を掴まれ、胸に伏せていた顔を強い力で引き離された瞬間、隠れどころを失った瞳が、自分を真摯に捉えている土方の双眸を映し出した。
「だから伏せては?」
囁くように応えを促す顔(かんばせ)は、今度はあの時のように逃げ道を与えてはくれそうにはない。
だが逸らす事を許さぬ強い眼差しは、哀しいまでに優しい。
「・・・眠りたくない」

聞き取れるか取れないか――
それ程微かな呟きを紡ぎ出した唇は、しかしすぐさま何かを怯えるように堅く噤まれた。
その刹那、総司の視界の中で、全ての像が、ゆっくりと後ろへ流れた始めた。
抱かれたまま仰け反るように倒され行く感覚に、縋る腕に思わず力が籠もる。
背中が確かなものに辿り着く前に、声を発するのを禁じるかのように唇を唇で塞がれ、静かに閉じた眦から雫がひとつ、露が葉を滑るように零れ落ちた。
それが意地をされた悔しさからなのか、ただ土方を欲する切なさからなのか、もう分からない。

重なる身から伝わる人肌の温もりに全てを任せ、束の間淵に漂い、やがてたゆたうように、総司は安寧の淵へと堕ちて行った。












事件簿の部屋  暮色の灯(十七・終章)