暮色の灯 (十七・終章) 年明けから好天が続き、或いはこのままぬくい季節を迎えるのではないのかと、誰もが戯れの恵風に心を緩めたその隙を突いて、ここ三日ほどは、打って変わったようにどんよりと厚い雲が天を覆い、時折は白いものもちらつく冬ざれに戻っていた。 だがそれもどうやら昨夜で又一旦仕舞いを見せるようで、今日は再び春を思わせる陽気に戻り、障子を通して差し込んだ明るい陽が、畳の上に溜りを作っている。 ――岩村藩江戸家老沢井市郎兵衛は、早朝に京に入ると使いを寄越した。 だとしたらこの道中はさぞ雪に難儀しただろうと、そんな事を思いながら、次第に近くなってくる複数の足音に、近藤は居住まいを正した。 「近藤はん、お待ちの御客はんが来はりましたえ」 声が掛かり、人影が映ると同時に白い紙の砦は開かれ、この寺の住職称全和尚と、その後ろに、旅装も解かず直に此処へ駆けつけたらしい、そう大柄でない初老の武士が立っていた。 だが中に端座する近藤に向けられた視線は鋭い。 「ほなゆっくり話をされなはれ」 何やら含むような笑みを浮かべると、室に入る事無く、和尚は敷居の際で背後の客に一度軽く頭を下げただけで立ち去った。 「岩村藩江戸家老、沢井市郎兵衛でござる」 「新撰組局長近藤勇と申します。沢井殿が国元に戻られていると伝え聞き、早飛脚で文を差し上げたご無礼をお許し頂きたい」 畳一枚の間を置いて座し、互いに正面に向かい合いながら、近藤は相手の視線を逸らさず静かな口調で切り出した。 「実は先般、脱走した植田と云う元隊士を捕縛する折に、それを邪魔だてしようとした者がおりました。その者は直ぐに捕えられ、現在は新撰組が身柄を拘束しております。・・が、いくら問い質しても、何故植田を庇おうとしたのか頑なに口を割らず、流石に監察方も困り果てておりました。ところが数日前に突然、岩村藩御家老沢井殿に目通しを許されれば、全てを其処で語ると言い出し申した」 厳(いかめ)しいと思わせる顔(かんばせ)を僅かに緩め、ほとほと困ったと云う風に苦笑を浮かべた近藤を、沢井は硬い表情のまま凝視している。 「尾高周蔵と名乗るその者と貴藩とが、どのような繋がりがあるのかは存じかねるが、このままでは当方としても埒があかず、無理を承知で沢井殿に文を差し上げた次第でござる」 「いや尾高周蔵は、当藩の藩士。此方こそ迷惑をお掛けした」 頭を下げかけた近藤を制して、沢井が漸く会話に踏み込んだ。 「あの者は、岩村藩藩士であられたか」 疾うに承知している筈の事を、今更仰々しく問う近藤への忌々しさに、無言で頷く沢井の顔が渋く歪められた。 「では尾高周蔵は植田の件に関して、新撰組には語れぬ何かを、沢井殿に報告せねばならぬ事情があったのでござろうか?されば今まで、監察方の容赦無い責め苦にも口を割らず、極秘を貫いた忠義の志はあっぱれと云わなければならぬ処でしょうが、生憎新撰組もそう悠長に構えてはおられませぬ。・・・実は今此処に、尾高を連れて来ております」 云い終えるや否や立ち上がった近藤が襖を開いた其処に、身じろぎもせず平伏している者の姿を認めた時、驚愕に見開かれた沢井の眸の中で、その尾高周蔵がゆっくりと顔を上げた。 「御家老には御足労をお掛け致しました段、平に御容赦願います」 「・・その方も、苦労であった」 息を呑み、つられて応える沢井の声が乾き、強引に止められた時にある己を、直ぐには取り戻せずぎこちない。 「記録書は、確かに奪い返しました」 目の前の相手をしかと見据え、更に淀みなく続けられた尾高の言葉が室に響いた寸座、沢井は顔を強張らせ、次の瞬間その目は近藤を見遣った。 「これなる尾高周蔵は、新撰組の捕らえし者。さればそれがしも、監視の役を怠る事ができませぬ。此処を離れられぬ事、御承知頂きたい」 激しい警戒の視線を向けても尚泰然と構える近藤を、沢井は硬い面持ちで見ていたが、相手に座を外す気が些かも無いと知るや、内心諦めの吐息と共に、再び正面に顔を戻した。 が、それを待っていたように、尾高が己の脇に置いてあった分厚い綴りを前へ差し出した。 「義兄、尾高助左衛門が植田に奪われた、藩が異国に陶器売り捌き、利を得ていた詳細を綴った記録書です」 臆することの無い明瞭な声音が伝え終えるや、沢井が僅かに口を開きかけたが、しかしそれは言葉になる事は無く、その分鋭く細められた双眸が、睨むように尾高に据えられた。 これから語られるであろう一部始終を近藤に聞かせる事は、即ち岩村藩の存続に係る大事と結びつくだけに、翁と称するに近い年齢ながら、剛毅な面魂の容貌にも流石に逡巡が走る。 暫し。 室に満ちる明るい陽とはおよそかけ離れた、互いの出方を探るような張り詰められた静寂の時が流れたが、それも時に計れば然も無い間の事で、やがて沢井の唇が笑みの形を象(かたど)りつつ歪められた。 「どのような脅しを掛けられるのかと、構えを崩せずにいたが、結局どうしたところでわしの負けらしい」 尾高の双眸にある苛烈とも思える光りに、何を排しても己を貫き通す意志の強靭さを見取っての、それが沢井の覚悟を決めたいらえだった。 そして同時に、近藤がこの場を動かぬ事は、自分を通し岩村藩そのものに駆け引きを強いているのだと、この老生は判断した。 だとすれば、それは藩があってこそ成り立つ約束事。 ならばこの取引に応じる限り、少なくとも近藤には、岩村藩取り潰しの画策に動く考えは無いと、沢井は結論つけた。 「尾高、遠回しをせずにはっきりと申すが良い」 尾高を見る沢井の面が、諦めの憂鬱を孕みながらも、漸くそれまでの硬さを解いた。 「ならば申しあげます。尾高田鶴、修平母子、そして田鶴の兄徳左、この者達を即刻我が手にお返し頂きたい」 「徳左も、か」 「左様、ひとりも譲る事は出来ませぬ」 射るよりも鋭い視線が、真っ直ぐに沢井に向けられた。 「これなる記録は、密貿易に係る十年の歳月を綴りしもの。そして同時に、この中には数多(あまた)の人間の、藩によって捻じ曲げられた来し方も封じ込められております。ですが私は、もう其れをさだめと受け容れる訳には行かないのです」 「恨みの言葉か」 「いいえ、恨みではございませぬ。恨みは人を過去に踏み止めさせるだけで、其処から解き放つ術を持ちませぬ。私はただ自分の行く末を、己が手で奪い返したいだけなのです」 一言一言を己自身に刻むかのように、力強くゆっくりと、言葉は尾高の引き締まった唇から語られた。 障子を通し斜めに射し込んでいた陽が、畳の藍の上に光りの筋を置き、その端が室の中央まで伸びている。 束の間、沢井は無言でそれに視線を留めていたが、やがて静かに顔を上げ、正面でいらえを待つ者を視界に捉えた。 「尾高、わしは確かにそち等の運命(さだめ)を摘み取ったのであろう。その事に言い訳するつもりは無い。そしてそれを、後悔してもいない。岩村藩三万石松平家は三河以来の譜代。如何に逼迫しているとは云え、断じて潰す訳にはゆかぬ。その方が己がさだめを己が手で奪い返そうとするように、わしも岩村藩を潰そうとするものは、例えそれが天の下されたさだめであろうと、この手で封じて見せると決めている」 確乎不抜として云い終えて、沢井は近藤に視線を向けた。 「近藤殿、貴殿はこたびの件に係る岩村藩のこの顛末を、幕府に進言なさるおつもりだろうか」 いらえを促す声には、静謐な、だがそれだけに厳しいものがあった。 「沢井殿にはまだ話しをしておりませんでしたが、実はそれがしは尾高殿に、この首差し出してもまだ足らぬ恩を受けております。それ故我が身は、恩人の言に従う事しかできませぬ」 「ほお、尾高に・・・」 「左様。他には代えられぬ者の命、尾高殿に助けて頂き申した」 近藤の双眸が、穏やかに細められた。 「他に代えられぬ命、でござるか。・・・ならばそれがしにとっても、岩村藩は何にも代えられぬもの。尾高、記録書の半分を、此処で千切ってわしに寄越せ」 突然の言葉に、その真意を測りかね、尾高が伏せていた目を上げた。 「取引は、互いにより信頼の出来る状況で為された方がよかろう。わしも全く証を持たずに国元に帰る訳にはゆかん。三人がそちの手に戻りし時、引き換えに残りの半分を貰う。交換は同時じゃ。その節は近藤殿、貴殿に後見を務めて頂きたいが・・」 「それがしなどで、良いのでしょうか」 「貴殿に、務めて頂きたい。幕府に暴けば得になろうに、わざわざこの酔狂に付き合うには、それなりの考えがあるとお見受けした。・・・力関係で岩村藩を新撰組の後ろ盾にしようとの魂胆ならば、きっと尾高に約束を果たさせてくれる筈」 低い笑い声が、初めて沢井の口から零れた。 「どの様な経緯だったのかは知らぬが、近藤殿にとってかけがえの無い者の命を救った事が、その方が天のさだめを、己が手で変え行く切欠だったらしいの」 尾高に向けられた沢井の目が、しかしその奇遇こそ、自分にとっては負けの始まりだったのだと笑っていた。 「さて、早々に又国元に戻り手筈を整えねばならぬ。・・・近藤殿、立ち会って頂くのは十日後、場所はやはり此処で宜しかろうか?」 「しかと、承知致しました」 近藤の太い声が、確かないらえを返すのを聞きながら、頭(こうべ)を低く平伏した尾高の手の甲を、茜に変わりつつある光の筋が、更に遠くへと伸びる勢いで越えて行った。 「・・・香が、いつもと違うようだが」 無言の会釈だけで終わるの筈が、すれ違いざま、意外にも土方の方から声が掛かった。 そう広くも無い廊下で立ち止まり振り向き、互いに相手を見る目には、寸分たりとも油断は無い。 「先刻室で香を焚いていた処。が、香りの違いまでをも言い当てるとは、副長殿は中々の風流人らしい」 「単に鼻が利くと云うだけのこと。生憎そんな雅な趣味は持ち合わせていない」 うっすらと笑みを浮かべた白皙に、素っ気無さ過ぎるいらえが返る。 「宇治の三木殿があのような事になり、香を買う店を変えてみたのだが、・・しかしまさかあの三木殿が、貴方が云われた通り、植田の一件に係っていたとは驚いた」 不意に話題を変え、伊東はあたかも心外そうに土方を見た。 「どう驚こうと勝手だが、あんたも自分のしくじりには気をつける事だな」 「はて、どう云う意味か・・」 「親切の意味だが」 伊東の強かに動ぜぬ視線を撥ね退けて、土方の双眸が僅かに細められた。 その様は、整いすぎた造作の顔(かんばせ)だけに、向けられた相手には、時に冷酷な嘲笑とすら映る。 「ならばその親切、徒にならぬようせいぜい肝に銘じて置こう。時に近藤さんの姿が見えないようだが、今日は何処かに?」 だが応じる伊東の鷹揚な物言いも、裡に逆巻く憤怒を、些かも表に出すものでは無い。 「親切をしに行っている」 「ほお、親切を・・ねぇ」 唇の端だけを歪めて皮肉に笑った顔が、土方を面白げに見遣った。 「幸いな事に、徒にはならない親切だ」 「これは手痛い。私と違って無駄働きはしないと云う事ですかな」 「そうとって貰えれば有難い。尤もあんたの場合は、無駄だけで大人しく終わってくれれば良いが」 辛辣に言い切る口調はあくまでも平坦で、面からは表情と云うものが僅かなりとも読み取れ無い。 「さて、何の事か」 自分よりも上背のある相手を見上げ、伊東の顔(かんばせ)に浮んだ笑みは消えない。 「参謀が、指揮を違えたではすまされぬと云う事だ。植田の件での失態、二度目は無いと、これだけは肝に銘じておくことだな」 眉ひとつ動かさず、感情と云うものを置き忘れたように淡々と、しかしだからこそ聞く者を震撼させるに足る冷たさで言い終えると、後はもう一瞥もくれず、土方は伊東に背を向けた。 「土方君」 だがすぐさまその後姿を呼び止める声が掛かった。 「私は自分にとって必要なものならば、手に入れる為に手段は選ばない。・・それも、其方の肝に銘じておいてくれ」 ゆっくりと振り向いた土方に、常とは代わって低く太い声が、伊東の薄い唇から発せられた。 「それが、鈴木大蔵の信念か」 「そう云う事だ。父の失策を手本に、必ずや頂点まで上り詰めると決めた、今は伊東甲子太郎の、決して揺るがざる信念だ」 「譲るものなど、ひとつも無い」 「譲ってもらうさ。あんたの大事な者の、息の緒と引き換えにしてもな」 返したいらえと共に、伊東の面に、酷薄な笑みが浮かんだ。 「そうなる前に、その首を貰う」 憎悪を剥き出しにした、嘗て無い激しい応酬は、しかし互いに一度も声を荒げるでも無く静かに交わされ、中庭の日溜りにある穏やかさすら破りはしない。 「せいぜい、三木の弔いをしてやることだな」 言い捨てて、今度こそ土方は、二度と振り向く意志の無い広い背を伊東に向けた。 それに一瞬刺すような冷淡な視線を送り、伊東も又土方とは逆へと歩を踏み出した。 ――亡き尾高助左衛門の妻子と徳左の三人が、いよいよ岩村藩江戸家老沢井市郎兵衛と共に京へ上って来ると云う前日、八郎と総司は、尾高が身を預けている誓願寺へと連れ立って出かけて来た。 だが目当ての姿は其処にはあらず、尾高はかねて見学を願い出ていた、五条坂にある京焼の窯元からその許しを得られたので早朝から出かけているのだと、目尻にふたつづつ、深い皺を刻んだ相好を崩し、称全和尚は教えてくれた。 今日は一のつく日で、田坂の所へ診察を受けに寄るつもりでもあったから、そうなれば診療所に近い窯元まで足を伸ばすと決めたのは、総司にとってはごく自然な事だった。 着いた時、尾高は丁度窯を見せて貰う処で、それに八郎と総司のふたりが相伴すると云う格好で、思いもかけぬ多人数の見学と相成った。 ひと月近くも窯の火を消さず焚き続けるのだと云う話に、総司は驚き瞳を瞠り、八郎は焼きあがった陶器の色の妙を面白そうに見、そして尾高は土の質と火の具合等を熱心に問うていた。 それらも漸く終わり、懇ろに礼を言って黒い門の家を辞した時には、早日も傾きかけていた。 ふたりより少し前を行く総司の足が、下り坂のせいばかりでなく段々に早くなるのは、田坂の診療所に行かねばならない事を、八郎に云われるまですっかり失念していた為らしい。 その清水寺から東大路へと続く坂は、かなりの勾配がある。 慣れぬ者には息が切れる上りよりも、自ずと増す勢いを、足の脛に力を入れて踏ん張り調整しなければならない下りの方が難儀する。 「上手いものだな」 先ほどから一定の規則を保ち、乱れぬ足の運びに気付いた八郎が、感心したように横に並ぶ尾高を見遣った。 「岩村の城は山の頂にあり、この程度の坂ならば、私にとっては平らな道と同じ事」 「そんなに、山の上なのですか?」 苦笑して応える声を聞いて、身ひとつ先に行っていた総司が歩を止め、振り仰いで問うた。 「左様。さっき見た登り窯の勾配。あれなど坂の内には入らぬ」 尾高の目が楽しげに、後ろに陽を背負って立つ総司に向けられた。 「山の傾斜を、砦として利用しているから櫓とて要らない」 「堪らんな」 櫓をも不要とする険しい地形にある城への登城を、一瞬頭に思い描いたのか、些かうんざりと八郎が呟いた。 「徳左と私が寝起きしていた居は、城の近くであったから、やはりこうした急峻な場所に作られていた。・・・眼下に広がる城下の景色は、あまりに遠いものだったが、薄闇が覆うようになると、ぽつりぽつり仄かな灯がともる。不思議なもので、昼間と距離は違わないのに、そうなるとそれが酷く近しいもののように思えた」 語る尾高の目には、金色(こんじき)の陽を通して、故郷の夕景が映っているのかもしれない。 見上げている総司にそんな風に思わせる、和らいだ眼差しだった。 「私はこの何年か、日暮れが早くなる季節を、我知らず待ち望むようになっていた」 「灯ともし頃が、早くなるからかえ?」 「どうやらそうらしい」 頷いた顔に、照れ隠しのような笑みが浮かんでいた。 「義兄の家のある方角を見遣って、其処に溜まる灯りを見る。日が長くなればともるに遅くなり、短くなれば早くなる。が、そうなれば人々は寒気を厭い戸を閉じてしまうから、灯を見る事の出来るのは、いつも僅かばかりの限られた時だった。だがやがてそれは、欠かしてはならない、毎日の決まりごとになっていた。義兄も、田鶴も、修平も今日も無事にいると、そう徳左と確かめて一日を終える。・・・そして暮れ色にともる灯の在り処は、私にとって、いつか必ず還るべき場所だった」 視線を遠くに投げやって、まるでその来し方の光景の中に自分を置いているように、尾高の言葉の最後は低い呟きになった。 「必ず、・・還るべき処か」 尾高につられた振りをして、先へと向けた八郎の視線が、かの人物を見上げているひとりの姿に留められた。 茜色の陽が、総司の後ろから射し込み、細い身の線を朧なものにしている。 それは手を伸ばせば難なく触れられそうでいて、その実、陽炎の見せる幻にも似て酷く心許ないもののようにも思える。 掴めそうでいて掴めぬ苛立ちに、幾度己の諦めの悪さを罵倒したことか。 だがそれでも、自分は追い続ける手を少しも緩めはしない。 恋情の焔は、奪えぬ焦燥と嫉妬を糧として、もう誰にも鎮められぬ際まで燃え盛る。 還る処は―― 其処ひとつと決めてしまった、それが己のさだめなのだと、八郎は陽の眩しさを装い、今一度想い人の像を視界に捉えて目を細めた。 「沖田はんなら、さっきお見かけしましたえ」 玄関先で、立ち話のような恰好でしていた男達の声は、知らぬうちに辺りを憚らぬ大きさにまでなってしまったようで、外から帰って来たキヨが、非難を籠めた目で、二人を交互に見上げて告げた。 「何処でだろうか?」 「五条の坂の手前ですわ。伊庭はんとご一緒に上らはるとこでしたわ。えろう急いではるようで、沖田はんや、思うて声を掛けようとした時には、もうあっと言う間に離れてしもうて・・けど今日は一のつく日ですよって、帰りにはうちに寄らはれます。せやし、松浪屋はんのお菓子、仰山こうてきてしまいましたわ」 勢い込んで聞く相手に、総司達は必ず此処へ来るのだと、事も無げに断言したキヨは、手にしていた菓子の包みを嬉しそうに土方の目線まで持ち上げた。 ――昼過ぎに、大坂に下る八郎を送りがてら、田坂の処に行くと言い置いて屯所を出たからには、下手をすれば入れ違いになるかもしれないと、黒谷からの帰りの足を急がせて来てみれば、当の本人はまだ姿を見せていないと、これも田坂が眉根を寄せた。 八郎と一緒だとすると、もしや尾高の居る誓願寺へ先に寄ったのかと、二人でそれを話していた最中だった。 「どうしてあいつは・・」 人の気も知らずとは、流石に土方もこの場で口には出来ず、その忌々しさの代わりに、せめて渋い顔を作った。 「いや、せんせ、何処行かはれますの?」 束の間そんな思いに気を取られている暇も無く、キヨの声に土方が視線を戻せば、田坂が三和土にあった下駄を、気軽に突っ掛けているところだった。 「あの連中が来るのを待っていたら、キヨ自慢の菓子がいつまでも食えそうに無いからな」 だが透けた世辞を悪びれる風も無く云う長身に先駆けるように、土方の方が一瞬早く踵を返した。 「キヨさん、又後ほど」 「土方はんっ、せんせもっ・・」 「直ぐに戻る」 呆気に取られているキヨに、遅れを取るまいと後を追う田坂の背が、およそ応えにならぬ言い訳をした。 「尾高さんの兄嫁は、国元に残ると云ったそうだな」 幾つか小路を曲がり終え、やっと体躯の良い男二人が並んで歩ける道幅になった時、田坂が横の土方に声を掛けた。 「尾高の子と知りながら、全てを承知で受け容れてくれていた男への、それが贖罪だと思っているのだろう。だがそれとて、所詮己の満足に過ぎない」 「あんたにかかっては敵わないな」 相変わらずの辛辣さに、田坂が低く笑った。 「本当の事だ。真実欲しいものが何かを知ってしまった人間が、とことんそれを追い求める己を止める事など出来はしない。田鶴と云う女は、自分が還るべき処を疾うに決めている」 「それが尾高さんか」 夕暮れ近い往来で、慌しく今日を仕舞う人々の喧騒の様を視界に入れながら、共に前を向いたままの会話は、次第に早くなる足にも係らず、息ひとつ乱さず続けられる。 「だがその踏み込む気持ちを躊躇させているのは、違えて暮らした歳月を、どう取り戻して良いのか分らぬ心の怯えだ」 「女心には、殊の他詳しいな」 「ぬかせ」 田坂の揶揄を一言でかわし、大路の向こうに坂が見えてくると、土方の歩が更に早まった。 田鶴と云う女性(にょしょう)の心情を語りながら、しかし土方は、己とひとつ魂の者の心を、それと重ね合わせていた。 想い人の心は、どんなに強くその身を抱(いだ)いても、今も置き去りにされる恐怖と隣り合わせにある。 それは求め続けてきたものをやっと手にし、だからこそ、今度は失う事を怯える総司の哀しい性(さが)だった。 そしてその責は、自分にあると土方は承知している。 長いこと、どれ程長い時を、自分は総司の心を知ることなく過ごして来てしまったのか。 その歳月を、一足飛びに取り戻す事は出来無い。 だが総司こそが唯一の者だと知った時、自分は還るべき場所を同時に見つけた。 魂が何処に行こうと、肉体が何処にあろうと、還る処は総司ひとりだと。 それを、どうしたら伝える事が出来るのか―― らしくも無く思案にくれ続けている己の不甲斐なさを、土方は田坂に分らぬように唇の端だけを歪めて苦く笑った。 還るべき場所―― それを掌中にしていると隠さぬ恋敵の自信を、自惚れと変えてやる時が来るのだろうか。 だが己のその弱気を、田坂は即座に打ち砕いた。 例えそれがどのような険峻な砦に阻まれようと、もう振り返る事はしない。 欲するものを奪うまで、止まる事もしない。 想いの丈の滾るままに、求め続け、欲し続け、唯一還るべき処は、きっとこの手で奪うと決めている。 さだめは己で掴むものだと、もうとっくに承知している。 「・・還るべき場所、か」 呟いた語尾が、黄昏の陽の中に溶けて消えた。 「尾高さん、あの・・」 ゆっくりとした歩みで下って来て横に並んだ尾高に、総司が躊躇いがちに声を掛けた。 「何だろうか?」 八郎も片側に並び、丁度二人に挟まれる形になった総司の唇は、しかし先を続けるのを戸惑う風に、言葉を途切らせたままなかなか開かれようとはしない。 「聞きたいのは、田鶴が国元を離れる意思の無い返事を寄越した事だろうか?」 尾高の方から言い出されて、総司の瞳が驚きに瞠られた。 亡き助左衛門の妻田鶴は、沢井市郎兵衛を通し、実子修平と兄徳左は託すが、自分だけは国元に残ると、尾高に伝えてきた。 が、此れは藩と尾高との取り決めと言い含め、田鶴は連れて来るとの約束も又、一緒に届いた沢井の書状には認められていた。 その事を土方から聞いてから後、尾高の心中を思う総司の憂慮は、日々膨らみを増すばかりだった。 「田鶴は修平を、我が子として育ててくれた義兄を、これ以上裏切る事が出来無いのだろう。だがそれは、私とて同じ事だ」 「けれどそれでは尾高さんは、田鶴さんと一緒には・・・」 思わず勢い込んで問う総司に、尾高の柔らかな眼差しが向けられた。 「其れが田鶴の望みならば、共に暮らそうとは思わぬ」 淡々と語られる意外ないらえに、何と応えて良いのか思いあぐね沈黙にいる総司の横を、視線を前に置いたまま、会話の邪魔をせぬよう八郎も無言で歩く。 「八年は長くもあり、短くもあった歳月だった。それを一気に手繰り寄せ、元に戻そうとは思わぬ。暮れ色にともる灯に、己の還るべき処を見つけた時から、それは決めていた。還るべき確かな場所さえあれば、私は幾らでも田鶴を待っていられる。例えそれが、この世で果たせなくともだ」 「還るべき場所さえ・・あれば?」 「そう、それが何処と知れば、もう迷うことも恐れることも無い」 言い切って笑った顔の衒いの無さが、言葉よりも強い、想いの丈を物語っていた。 逆光の眩しさの中で、尾高の面差しをよりはっきりさせようと、瞳を細めた総司の裡に、唯一無二の声音が蘇る。 土方は云った。 未来永劫、来し方も行く末も、自分は土方の傍らにあるのだと。 何処に在っても、自分の還る処は土方の元だけなのだと。 その理(ことわり)は、誰にも変える事が出来ないのだと、力強い眼差しはそう云った。 だが何よりも確かに、総司自身が知っている。 土方の傍らにしか存在出来ない自分を。 そしてそれが、自分に下された、唯一のさだめなのだと。 土方と別つ時を怯え恐れる思いは、これからも些細な棘ひとつで、大きく心を揺るがすだろう。 けれどそれらを超えて、きっと自分は、いつの時も土方の元へ還る事が出来る―― 「きっと・・」 届くか届かぬか・・その小さな呟きを聞きとめて、怪訝そうな視線を向けた尾高に、屈託の無い笑い顔が振り返った。 「尾高さんの事を、きっと田鶴さんは待っているのです」 「だと良いがな」 破顔した尾高につられて、総司の面輪にも更に笑みが広がった。 自分の想いを、田鶴の心に置き換えて隠した狡さを、少しだけ後ろめたい思いで視線を逸らせたその時、横の八郎が、不意に眉根を寄せるのが気配で分った。 「見たくも無い奴等が来たぜ」 物憂そうな声に促されて見遣った先に、暮れ色の中に広がる陽を背負い、違う筈も無い影がやって来る。 それに驚きの瞳を瞠り、だが今度はすぐさま煩い程に打ち始めた胸の高鳴りを、総司は一度息を深く吸い込んで鎮めた。 還るべきところは、土方ひとりなのだと―― 自分の足が、その場に縫い付けられたように止まったままなのも知らず、総司はみるみる視界に大きくなる人の姿を見つめていた。 2004.3.31 暮色の灯 了 |