冬 陽 (十) 「飯を食うか?」 何時の間に目を覚ましていたのか、或いは眠ってなどいなかったのか、瀬口雄之真は壁際から立ち上がって総司の傍らまで来ると、膝をついて覗き込んだ。 それに唯一自由になる首を振って、否と応えた。 閉め切った室内の僅かな隙から入り込む光の明るさが、すでに日中で一番陽射しの強い頃だと告げている。 もう昼になるのかもしれない。 「昨夜から何も食ってはいないだろう、腹が空いてはいないか?」 「瀬口さんこそ・・・」 それは雄之真も同じだと、総司は微かに笑みを浮かべた。 「食べんと体に悪い・・・少しは熱が引いたようだな」 額に触れられた手の冷たい感触が心地よく、総司は一瞬瞼を閉じた。 「瀬口さん、痛みは・・?」 ふと気づいたように見上げて問う瞳に合って、今度は瀬口が苦く笑った。 「俺は大丈夫だ」 いつの間にかそんな風に互いの体を労りあっている有様に、総司が可笑しそうに声を立てて笑い始めた。 「気楽な人質だな」 瀬口の声音も屈託ない。 「・・・浩太さんは?」 まだ笑いの余韻を残しながら、総司は顔を動かして、浩太の方へと視線を投げかけた。 「昨夜無理をしたから傷口が開いたようだ。先ほどもう少し眠らせる薬を飲ませておいた。・・・又目を覚ますと煩い」 だが苦笑交じりに言う瀬口のその言葉こそが辛い嘘だと、総司には容易に知ることができた。 瀬口は浩太の眠っているうちに、何処かへ行こうとしているのだ。 一瞬の内に戻された現実は、総司を容赦なく闇の深淵へと突き落とした。 「胸の痛みは治まったか?」 そんな総司の思惑など知る由も無く、声を掛けられて伏せた瞳を上げた先にあった瀬口の眼差しが、真摯に身体を気遣ってくれていた。 「・・・もう、どこも痛くはありません」 「そうか。ならば良いのだが」 瀬口は脇に置いてあった盆の上の急須を掴むと、やや乱暴に湯呑みに残っていた茶を注いだ。 それは湯呑みの半分までをも満たさなかったが、終いまで絞りきると、総司の背に腕を回し、ゆっくりと身体を起こして口元にあてがった。 「腹は減らなくとも、喉は乾いただろう。飲むといい」 口調は決して押し付けがましいものでは無かったが、どこか否と逆らえぬ強さもあった。 確かに熱に侵されている身体は、水気を失くして乾ききっている。 唇を少し開いて、好意を受け止めるという意志を示すと、すっかり冷えた茶は少しづつ流し込まれ、間を置かず甘露となって総司の喉に伝わった。 最後のひと雫まで飲み終えると、貪欲に潤いを求めていた唇から、安堵ともつかぬ息が漏れた。 「すみません・・・」 「ひどい事をしているのは俺だ。謝る事は無い」 今一度畳の上に身体を横たえてやりながら、瀬口は自嘲するように笑った。 「・・・もう、昼なのでしょうか?」 「とっくに過ぎているだろう。あと一刻もすれば夕方になる」 「そんなに・・・」 閉ざされた世界では闇の濃淡だけが時の経過を知る唯一の手がかりだが、長い事外部と隔てられていれば、それもすでに当てにはならない。 瀬口に囚われて、じきにまる一日が過ぎようとしている。 土方は今頃居なくなった自分を探しているのだろうか。 総司の胸を堪えきれない寂寥感が通り過ぎる。 会いたい・・・・ その名を口にすればもっと心は駄々をこね、主の言うことなど聞かなくなるだろう。 きつく唇を噛み締めたのは、想いが迸るのを耐えるためか、或いはそんな己の情けなさを叱咤するためか・・・ そのどちらなのかも、総司には分からなかった。 「俊介の顔だけを今一度遠くから見ようと近くまで行った折に、あいつの家から出てくる貴方を初めて見た時には一瞬我が目を疑った」 なんの連脈も無く、だがごく自然に語り始めた瀬口の物言いは、その時の情景の記憶を手繰っているように、ゆっくりとしたものだった。 「・・・私が田坂さんの兄上に似ていたからですか・・?」 伏せていたのを上げた瞳が怪訝そうだった。 「そうだ」 頷いて視線を総司に遣った瀬口の眼差しが、その人物を懐古するように柔らかだった。 「だがその後ろから出てきた俊介の顔を見た時には、もっと複雑なものがあった」 「・・・複雑?」 「最初に驚いて、そして衝撃を受け、・・・最後に喜んだ。それを一瞬の内に思った」 瀬口の唇の端から、低い笑い声が漏れた。 それは決して自嘲とういうものではなく、むしろ楽しげに軽いものだった。 「俺は俊介はまだ兵馬さんの幻影から逃れられず、苦しんでいるのだと思っていた」 「田坂さんは今も苦しんでいる・・・自分のせいで兄上を追い詰めてしまったと・・」 「・・・そうだろうな。あいつはそういう奴だ。だが俊介は立ち直ろうとしていた。いや、すでに立ち直っていた。むろん受けた傷が癒えたとは到底思わん。だがそれを抱えて尚強く、あいつは地を踏みしめて前を向いていた・・・とっくにな」 織り成される言葉の意味するものが何を指しているのか判じかね、総司はただ瀬口を見上げている。 「俊介は過去に背を向け、すべてを葬り去ろうとしていると言っているのでは無い。あいつはちゃんと全ての事柄を、自分にあった現実のものとして受け入れ、更にそんな辛苦を超えて今生きている・・そう思ったのさ」 黒曜石に似た深い色の瞳を瞬きもさせず、まだ訝しげに自分を見詰めている総司に、瀬口は求める応えは返さず、幾分削げて、しかしそれが精悍にも見える頬にただ穏やかな笑みを浮かべた。 親友は、見れば苦しい思いだけに苛まれる筈の、嘗ての想い人の面影を色濃く宿す若者に恋をし、全てを乗り越え新しい土地で強く生き始めていた。 猜疑心だけを持って懸念していた自分の思い上がりを、瀬口はこの時知った。 自分が案じているよりも、親友はずっと強い人間だった。 貴方に俊介は想いを寄せているのだと、この若者にそう告げることは容易い。 だが多分あの様子では、まだそれは俊介の胸の裡だけに秘められた想いなのだろう・・・・ 真っ直ぐに生きることだけしか出来ない不器用な親友の想いを、せめて目の前の若者に伝えてやれない事を、この世の名残とも思い、またあの世の楽しみとするか・・そんな思考に瀬口の眸が和んだ。 「つまらぬお喋りをしてしまったようだ・・・」 昔語りの名残もそのままに、音もさせず静かに瀬口が総司の後ろに回った。 あまりに自然な振舞に、一瞬油断したその隙を突かれて、突然口元が何かに覆われた。 拘束された身体を必死に動かしての抗いは、何の役にも立たちはしなかった。 「またひとつ酷い事をするが許して欲しい。だが一刻もすれば助けがくる。貴方に起こしてしまわれると、又浩太は追いかけて来そうだからな」 口元を封じられたのは何かの布らしかった。 瞳を瞠り身を捩る総司に、瀬口は申し訳なさそうに頭を下げた。 声を出そうにも形にもならない。 そんな総司の様子を瀬口は暫く見ていたが、やがて時を惜しむかのように立ち上がった。 「血気の盛んな若い連中が川瀬奪取の為に焦っている。もう少しの猶予も無い。たった一人の野心の為に、あたら若い命を犠牲にする事は無い。・・・今日の夕刻に内野が江戸から京に着く。俺はそれを狙い、内野を襲い、奴の策略を暴露する」 黒曜の瞳が、凍りついたように見開かれた。 「・・・・俊介に、俺が詫びていたと、そう伝えて欲しい」 立ったまま総司を見下ろして一言告げると、瀬口雄之真は今その内に有していた全ての感情を断ち切るかのように、無言で背を向けた。 それを追おうとして敵わず、動かぬ身体と封じられた声に苛立つように藻掻く総司の視界が、突然白い光一色で覆われた。 そのまぶしさに目が眩み細めた瞳が、開け放たれた襖の向こうに去って行こうとする瀬口の影を唯一の像として映し出した。 だがそれも一瞬のことで、すぐに世界は再び闇に沈んだ。 渾身の力を振り絞って微かに漏れた呻きは、今はもう見えない瀬口の背に向けて放った、総司の悲愴な叫び声だった。 なす術無く囚われた侭に、助けを待っている間は無かった。 闇と言っても外が明るければ、閉ざされた室内にあっても、物の形くらいは辛うじて判別することができる。 総司は畳の上を這うようにして、茶器が乗っている盆のところまで身体を動かした。 たった数尺動いただけで、額には玉のような汗が浮き出る。 目に入るそれを拭うこともできず、瞬きを繰り返すだけでやり過ごし、後ろ手で触れる物が急須の形だと確かめると、固く瞳を瞑り、その上から覆いかぶさるように身体を落とした。 陶器が割れる乾いた音が耳に届くその前に、戒められている両の手首に火箸を当てられたような熱さが走り、すぐにそれは焼け付くような痛みに変わった。 割れた破片が手指を傷つけたのだろう。 一瞬仰け反るようにしてその痛みを堪えようとしたが、まだ芯に残っていた胸の鋭痛で吐く息すら己のままにはならず、額から零れ落ちる冷たい汗が顎から首筋へと伝わった。 幾度か薄い胸を大きく上下させ、それによって少し痛みが和らぐと、もう一度痺れるような手首を動かしてみた。 が、今度は縄が擦れて食い込む。 その辛さに再び瞳を閉じ、それでも止める事無く動かしていると、やがて縄が切れる鈍い音と共に、ひとつのように縛られていた両手首が僅かに離れた。 幾重かに巻かれていた縄の何処かが、先ほどの割れた陶器の鋭い切先に漸く触れ切れたのだ。 それが総司を絶望の淵から救った。 滑(ぬめ)るのは戒めから解かれようと、足掻いた代償に手指から噴出した血だろう。 だがそれすらも、今の総司にはどうでも良いことだった。 こうして切れぬ縄に焦れるこの一時の間にも、瀬口は手の届かない処に去り行こうとしている。 例え皮膚が破れ、肉が千切れようとも、瀬口を追うためならば、襲う痛みなど辛苦の内ではなかった。 時折鋭利な凶器となった陶器の欠片で新しい傷を作りながら、どのくらいそうしていたのか、ふいに解放された手の勢いで横臥していた姿勢から、身体が前にうつ伏せに投げ出された。 その瞬間、微かに見えていた光を更に確かなものとするように、総司の瞳が大きく見開かれた。 重なり合っていた手を二つに別つて肘をつき、それで身体を支えるようにして起き上がると、口の戒めを解き、足の自由をも得る為に手を伸ばした刹那、筋を切るような鋭い痛みに眉を寄せた。 両手を視界の内に持って来て改めて見れば、手首から指先までが朱に彩られているのが暗い中でも良く分かる。 きっと創った傷は数え切れないものだろう。 だがそれに目を止めていたのも束の間で、己を拘束していた自由を全て取り戻すと、総司はよろめく身体を叱り付けながら立ち上がった。 が、一歩踏み出した足は、砂に潜るかのように力なくして、すぐに片膝を畳に付かなければならなかった。 長い間縛られていた足首は痺れて、主の意志を嘲笑うかのように動かない。 それでも浩太の傍らまで這うようにしてゆくと、青い顔で眠る大きな体に手を掛けて揺すった。 「浩太さん・・浩太さん」 声を大きくしても浩太の眠りは深く、固く閉じられた瞼は微かにも開こうとしない。 瀬口は眠らせる薬を使ったと言っていた。 だとしたら浩太の覚醒を待つには時がなさすぎる。 浩太の意識を取り戻す事を諦めると、総司は何とか再び立ち上がり、そのまま壁を支えに伝うように歩き、漸く閉ざされた襖まで辿り着き、桟に手を掛けた。 そこを力の限り押し開くと、闇に慣れた目には痛いばかりに目映い光が、待っていたかのように一斉に溢れ出した。 それに僅かに瞳を細めただけで目は瞑らず、ふらつく己の身体の頼りなさを叱咤しながら、総司は日輪の照らすの外へと一歩を踏み出した。 土方には確信にも似た勘があった。 その自信が何処から来るのだと問われれば、明確に答える術はない。 小川屋から得た情報と、遠藤の死から今まで自分が推測してきた事柄を結び合わせれば、六角獄舎と四条大宮を結ぶ線の周囲に総司は囚われているという信念は、最早土方の裡で微塵も揺るがぬものだった。 東西に走る四条通りと南北に貫く大宮通りの交差する辻は、ふだんは夕暮れが近づくこんな頃合には人影はめっきり少なくなる。 が、冬とはいえ師走も押し迫れば、流石にまだ往来に人の姿は多い。 だがこれからの日は急速に暮れる。 暗くなれば当てなく探すのは困難を極める。 賑わいを極める町とは違うが、それでもぼつぼつ民家だの商家だの、軒を連ねる家々は多い。 細い路地に入ればその数は更に増える。 思いどおりに進まぬ探索に、土方の胸の裡もまた千々に乱れる。 一つ一つをしらみつぶしにしてでも、探し求めねばならぬ決意に動こうとしたその時、ふいに足が止まった。 「あんたもこの辺りだと目星をつけたか」 声を掛けられる前に振り返った視線の先にあったのは、やはり八郎の姿だった。 「この数軒先にしもた屋がある」 笑った顔が逆光に邪魔されて、その本当の表情までは読み取れないが、八郎の声はこの男にしては珍しく苛立ちと焦りを隠しもしていなかった。 「・・・周囲に聞けばまだ主は健在で、別の場所で店を構えているそうだ。が、もう其処しか探す処は無い」 「お前こそどうしてこの辺りを・・・」 土方の声が、もしやを予想して低かった。 「水梨浩太が居なくなった」 瞬時に強張った相手の顔を見ても、八郎は眉一つ動かさずに淡々と語る。 「居なくなる前にキヨさんに、堀川への道順を聞いていたそうだ。それと遠藤という人間との事件を照らし合わせて追った先がこの辺りだった」 「田坂さんはどうした」 「一緒だ。今裏の小路を探っている。が、そろそろ来るだろう」 田坂の徒労を意味していた八郎の言葉の終わらぬ内に、その人よりも先に、伸びた長い影が二人の男の視界に入った。 田坂は土方を見ると一瞬目を瞠ったが、すぐに納得したように駆け寄ってきた。 「この先のしもた屋、狭いのは間口だけだ。途中から広く巾を取っていて奥行きは裏の小路まで続くほどにある。ちょっとした屋敷にも劣らない」 何を言うまでも無く、田坂は開口一番に見てきた事柄だけを伝えた。 だがすでに自分達の捜し求めているものは其処にしかないと、強い口調は断言していた。 「表から入ることはできるか?」 土方の問いに八郎が首を振った。 「表口は板を打ち付けて、全く入れないようにしてある。だがどこからか出入りできる処があるはずだ」 「ずっと見てきたがそれらしきものはなかったが・・・しかも裏に回っても巡らされた塀に裏口というものは無かった。妙と言えば妙だ・・」 田坂が自分の見てきた状況を、今一度思い出すように目を細めた。 「・・・そういえば」 形にすることで記憶の断片を手繰り寄せようとしているのか、田坂の声はまだ誰に告げるともない呟きのように小さなものだった。 だが土方も八郎も息を殺すようにして、その田坂を見ている。 「・・・裏の小路には民家が連なっていたが、その屋敷の一軒おいた隣りが神社になっていた。その神社もやはり奥に広がっていて、丁度社の裏手の雑木林辺りが、屋敷の一角と壁を隔てて隣り合わせになっているようだった」 その時に感じた朧な疑惑は、言葉にして初めて確かなものになったようだった。 「そこに出入り口があるかもしれない」 次に二人に届いた声は、今度は確信と決め自信に満ちていた。 「裏の神社だなっ?」 確かめるのももどかしい土方が、鋭い声と共に身を翻した。 それに少しの差もおかず、八郎も田坂も続いた。 まだ芯から熾る熱は身体の自由を奪い、戒められていた足は更に言うことを聞かず、引きずるようにして歩いても、数える程歩を進めただけで酷く息が乱れる。 その苦しさについ深く吸い込めば、途端に胸に鋭い痛みが走る。 壁に朱にまみれた片手を置いて、それでようよう身体を支えて立ち止まり、今自分を苛むもの全てをどうにか遣り過ごすと、総司は覚束ない足取りで又歩き始めた。 一刻も早く田坂に知らせなければならない。 瀬口雄之真を死なせる訳にはゆかないのだ・・・・ ただその思いだけが、辛うじて総司に意識を保たせている。 だがこの屋敷といって良い広い建物の中は迷路のようになっていて、先ほどから総司は出口を見つけられずに焦っていた。 次々と室を開けるたびに外への扉を塞がれる絶望感は、体力の限界がもたらす混濁した意識を、ともすれば闇の淵に引きずり込もうとする。 それに呑まれまいと気丈に頭(かぶり)を振り、何度目かの深い息を吐いた時、ふと目をやった中庭の向こうに、こんもりとした茂みがあった。 冬というのに色を落さないそれは針葉樹なのだろうか・・・ だがぼんやりと映し出されたその光景が、総司の内に突然新しい息吹を与えた。 建物の中から外に出るのではなく、庭から外にでることはできないのだろうか・・・。 ふいに芽生えた思いを深く考える間も焦れるように、気づいた時にはそのまま素足で縁から庭に降り立っていた。 瞬間踏みしめた地は、全身を震わすに十分な冷たさだったが、それが返って虚ろになりかけていた意識を少しだけ覚醒させたようで、総司はよろめく足を木立の方角へと向けた。 が、数歩も行かぬ内に歩は止まり、次の瞬間、今度は身体中のありとあらゆる神経が一瞬の間に、触れれば弾く糸のように張り詰められた。 自分の行こうとしている先に誰かがいる。 それは総司の中に常に眠る、剣士としての本能だったのかもしれない。 刀は無い。 丸腰でどうやってこれから姿を見せるであろう相手に対峙するか・・・ 総司の視線は気配のする、庭に植えられた潅木の向こうに縫いとめられ、思考はそれだけを繰り返す。 幾つ息を数えたのか・・・・ 鼓動が耳に障る程に大きくなり、遂に緊張は極みに達し、刀を持つ時と同じように無意識に左を開けて構えを作った刹那、茂みを手で払うようにして現れた人の姿に、総司の瞳が大きく見開かれた。 そこに居る筈の無い人間が、足を止めたまま動けぬ自分に走り寄って来る。 誰よりも包んで欲しかった腕が真っ直ぐに伸ばされ、何よりも聞きたかった声が自分の名を叫んでいる。 きっとこれは都合の良い夢なのだ・・・ そう自分に言い聞かせたその時、視界の中の全ての像が揺れ、意識は吸い込まれるように闇に呑まれた。 遠くでまだ自分を呼ぶ声が聞こえる。 夢はまだ醒めやらないのだろうか・・・・ それでも応えねばならないと薄く瞼を開けた瞬間、隙を狙って射し込んだ光の眩しさに思わず目を瞑ろうとすると、更に近くで違(たが)えることの無い声が、やはり自分を呼んで身体を揺すった。 抱かれている胸の温もりの主を自分は知っている。 この中にあってこそ、自分はやっと安らぐ事ができる。 そんな思いに駆られて、ひとつ安堵の息が漏れた。 「総司」 今一度強く呼ばれて、漸く開いた瞳に映ったのはやはり土方その人だった。 幻を現(うつつ)のものにするように、おずおずと伸ばした指を掴まれた途端、開いた傷口からの痛みが全てを覚醒させ、総司の脳裏に瀬口の幻影を映し出した。 「・・・瀬口・・さんが・・」 わななくように唇が動いたあと、やっと紡がれた声が掠れていた。 「雄之真がどうした?」 土方の反対側から掛った覚えのある声に、いま少し瞳を上に向けると、そこに片膝をつき、殆ど朱に染まった手首を取って、脈を診ていた田坂の険しい顔があった。 「・・・・瀬口さんを、止めて下さい」 「瀬口さんは何処へ行った?」 上半身をかかえるように支えてくれていた土方の腕から、更に身体を起こすと、総司はもうひとつの声の主である八郎を見上げた。 「・・・分からない。・・・けれど瀬口さんは死ぬつもりなのです・・だから」 立ち上がろうとした身体が力を無くし前のめりに倒れ、それを受け止めるた腕に強い力で抱き込まれた。 「ばか、動くな」 土方の低い声が、驚くほど耳元近くで聞こえた。 「浩太さんが中に・・・浩太さんなら・・知っている筈です・・」 だが叱咤する胸元に指を這わせ、崩れそうになる自分を何とか支えながら、総司は顔を上げて必死に訴える。 「・・・早く・・・早く、しなければっ」 悲鳴のような懇願に、建物に向かって走り出したのは田坂だった。 その後に八郎が続き、やがて総司の薄れ行く視界から二つの影が消えた。 「総司っ」 一瞬手放しかけた意識の中で、土方が大きく呼んだのを、まるで己の耳に届くものではないように遠くに聞きながら、返した筈の応えは声にはならず、唇が微かにその形を結んだだけだった。 が、それでも総司は土方に縋って立ち上がろうとした。 「動くなと言っているのがわからんのかっ」 一度離せば他愛なく崩れ落ちそうな体を咄嗟に支えて、土方の厳しい声が飛んだ。 それにうつろに視線を彷徨わせて、総司はやっと土方の顔を捉えた。 「・・・浩太さんの処に、・・行かなければ」 動かぬ土方に焦れるように、黒曜の瞳の奥に強い色が宿った。 「・・浩太さんに・・・伝えなければ・・、瀬口さんが浩太さんを置いて行ってしまった訳を・・」 血のりが乾いた指が、もどかしそうに土方の襟を掴んだ。 「訳を・・・浩太さんに話さなければならない」 瞬きもしない瞳と対峙し、しかし先に視線を逸らせ、負けの息をついたのは土方だった。 仕方なくそのまま膝を掬って身体ごと抱きかかえようと手を伸ばした時、総司が微かに首を振った。 「・・・歩いてゆけます」 「無理だ」 「大丈夫です」 言い切って見上げた瞳が、自分の意志を貫き通そうとする揺ぎ無い信念を湛えていた。 今この腕に抱かれその温もりに包まれてしまえば、きっと自分は我が身を苛む全てを闇に放り投げてしまうだろう。 だがまだ駄目だ。 まだ倒れることはできない。 浩太に全てを語るまでは、自分は現にいなければならない。 総司は残っていた気力の全てをひとつに集めて、支えている土方の腕から渾身の力を振り絞って立ち上がった。 待っている時はひどくゆっくりと流れてゆく。 時には夜明けから日の入りまでの短さを、神様も意地が悪いと思う自分が、今日はその長さを恨めしくも思うのは何と勝手なことか・・・ 溜息混じりに、キヨはゆっくりと腰を上げた。 もう今日になりかかっていたと言っていい時刻に、田坂は八郎と共に浩太を追って飛び出して行った。 キヨにはまだ総司の件は伝わっていない。 ただ居なくなった浩太を探して戻らないのだと、キヨは信じている。 「若せんせいはきっと浩太はんを連れて帰ってきはる」 キヨは弱気になる自分を励ますように呟いた。 そして戻ってきた時には、きっと腹を空かせているに違いない。 だからいつものように夕餉の支度をして待っていよう。 そうすればきっとそのうち二人で帰ってくる。 ふと気づけば、もう夕暮れの色が辺りを染め始めている。 遠くで物売りの声が聞こえる。 何を商っていたのか、明るい内に売り切れなかったものは青菜だろうか・・・・ 客を求めて掛る声が、黄昏に混じって何とはなしに胸に切ない。 「残りもんのお菜買うたら、神さまが誉めてくれはるかもしれへんなぁ・・」 子供じみた思いに笑いながら小さく首を振りはしたが、それでもキヨは引出しから巾着を取り出すと表口に小走りに向かった。 それが徳となるなどとは微塵も思ってはいない。 だがそうすることが田坂と八郎、そして浩太の無事を祈る、せめてもの自分への慰めだと、キヨは物売りを追う足を急がせた。 玄関の戸を閉めるのと、門の外からこちらを覗くように立っていた侍の視線と、目が合ったのは同時だった。 「・・・患者さんですやろか?せやったらほんまに申し訳無いんですけど、今日は先生が・・」 「いや、失礼した。あまり鮮やかな色なのでつい目を止めてしまっていた」 不審気に問うキヨに、男は屈託無い笑い顔を向けた。 男の視線の先に目を遣って、キヨもやっと納得したように笑った。 「大先生が植えられはった万両ですわ」 キヨの声が男への警戒を解いて、和らいだ。 「大先生・・・と言われると、ここの診療所の主であられるか?」 男のささやかな好奇心に、キヨは首を振った。 「大せんせいはもう亡くなられはって・・・それで今は若せんせいが此処の主ですのや」 「ほお。若先生と言われるならお若いだろうに・・・」 「へえ。お若こうて、せやけど腕は確かどす」 自分では気づいていないのだろうが、キヨは少しだけ胸を反らせた。 それを楽しそうに男は見ていたが、もう一度落ちかけた陽だまりの中に紅の色を見事に浮き出す実に目を移した。 「千両と並んで、めでたいものだというが・・・」 「へえ。お正月には千両と一緒に少しだけ枝を切って、部屋の中で目を楽しませて貰ろうてます」 「千両もあるのですか」 男の顔にも楽しげな笑みが浮かんだ。 「千両は万両よりも強いことあらしまへんのや。陽のあたる庭に置いてやらんとあきまへん。その代わり万両は強おて・・・・、木ぃはあんまり大きいこと育たんけど、どこでも必ず花を咲かせて実をつけますのや。やっぱり名前の位(くらい)勝ちですやろか?」 少し小首を傾げるように思案するキヨのふくよかな顔を見て、今度こそ男は笑い声を漏らした。 「いや、失礼。あまり面白い事を言われるのでつい・・・」 不思議そうに見るキヨに、まだ声音に笑いを含みながら、男は軽く頭を下げた。 「謝らんでおくれやす。うちもお侍はんとお話させて貰ろうたら何かこう、えらい気が落ち着きましたわ・・・」 「何かご心配事がおありだったのだろうか?」 「・・・・大したことやおへんのです。ただ・・・」 「ただ?」 男の言葉はキヨに先を促すものではあったが、決して強引さはなかった。 「待っている時は・・・冬の陽かて長ごうおすなぁ・・・」 笑った顔が、夕暮の色に溶け込んでしまうかと思うほど寂しげだった。 「先ほどここの先代の方が植えられたと言われたが・・・」 男はキヨに一度頷いただけで、また話題を紅い実に戻した。 「へぇ。若せんせいが此処の診療所にご養子に来はった時に、大先生が厄除けの代わりに植えはったんですわ。例え実ぃを鳥に啄ばまれても、その運ばれた先でまた地から芽ぇを出して大きゅうなって、やがて花も実もつける・・・。そないに強い人間になれ、言わはって・・」 キヨの眸が遠い昔を懐古するように、穏やかに細められた。 「・・・ここの主は貴方を始め、良い人達に恵まれておられる」 「どうですやろ・・・。けど自分が相手に何かしてあげられたらええなぁ・・思うんは、相手が自分にそうしてくれているからやないですやろか。自分が相手を大事に思うたら、相手も自分を大事に思うてくれはる・・・そう思いますんや」 翳り出した西日がつくる残照は、辺りを瞬時に茜色に染め上げてゆく。 キヨの視界の中で、男の顔にも横から射す陽が翳を作った。 「・・・・相手も自分を大事に思う・・・か」 呟いた声は確かに耳に届いたが、キヨが一瞬顔を見上げる程に哀しい響きが籠もっていた。 「あの・・・差し出がましいこと言いますけど、もし邪魔やなかったら切りますさかい、少し持って行かれませんか?」 「この万両の実を・・?」 「へぇ。めでたい実ぃどす。きっとお侍はんにもええことがあります」 先程よりも冷たくなった北風に、少し頬を紅くそめてキヨは笑いかけた。 どうしてそんなことを言ったのか、それはキヨにも分からなかった。 ただこの目の前の侍にも、無事に新しい年を迎えられる事を喜んで欲しかった。 それが自分の感情の何処から来ているのか、キヨは分からなくても良いと思った。 顔を見るまでは、ともすれば不安の淵に浚われそうになる自分に、安らぎとも思える一時をくれた人物に、ただ感謝したいと思った。 あるいは夕暮れ時の寂しさが、自分の心を少しだけ人恋しくさせているのかもしれない・・・ そんな風に思って小さく笑いかけた。 「いや、遠慮をしておこう。枝を切るのは正月の為だけにしておいた方がいい」 「ほな、お正月の間際にもう一回来てくれはりますか?その時にお侍はんの分も切っておきますよって」 「約束はできぬが・・・・」 「今年でなくても構ましまへんのや。来年でも、再来年でも・・・そのまたずっと先でも」 「えらく気の長い話だな」 白い歯を見せて笑った顔が、何のてらいも無かった。 「何時とは決めないお約束は、果たしてもらえるまで破られしまへん」 丸い優しげな指を口元に持って行って笑うキヨを、男は暫し目を細めて見ていたが、やがてゆっくりと口を開いた。 「ここの主殿に伝えて欲しいのだが・・・」 「へぇ」 見ず知らずの人間が知らない筈の田坂に何の用なのかと、キヨは怪訝に応えた。 「いつか万両の話を聞いてみたいものだと・・・」 「そないなこと・・、いつでも若せんせいはお待ちしてます」 笑いながら言いかけたキヨの耳に、物売りの声が近づいた。 一瞬そちらに流れた視線を、男はすぐに気づいたようだった。 「申し訳ない。用事があられたのだろう・・・・すっかり足を止めてしまった」 「うちかてお侍はんの足を止めてしもうた・・・おあいこですわ」 「では」 「お約束、お待ちしてます」 隙の無い所作で一礼して向けた背に掛けられた言葉に振り向く事無く、男は物売りの呼び声とは反対の方向へと歩き出した。 その後姿にキヨは小さく頭を下げると、前に伸びた自分の影を追うように、また急いで駆け出した。 事件簿の部屋 冬陽(十壱) |