冬 陽 (十壱) 血の気の無い青い顔に、二度と開くことなど無いかのように固く閉ざされた瞼が、現(うつつ)にある全てを拒む決心が、どれ程強いものなのかを物語っているようだった。 だが田坂はその眠りを断ち切る為に、容赦なく浩太の名を呼び続ける。 幾度目かに、肩を大きく揺すった時、声にはならないが唇だけが何かを言いたげに動いた。 「浩太っ」 その僅かな兆候を見逃さず、田坂は更に強くその名を呼んだ。 導かれるように遂に開かれた瞼から覗く眸は、己の置かれた状況が把握できないのか、まだぼんやりと虚ろいでいた。 「・・・雄之真・・さま・・」 無意識に漏らした言葉は、闇の中にあっても主を案じている浩太の心そのものだった。 「浩太、俺だ、俊介だ。雄之真は何処へ行った」 辛抱強く、一言一言区切るようにゆっくりと怪我人の耳元で問う声に、漸く浩太の視線が意志を持ってその方向に向けられた。 「・・・俊介・・さま」 「そうだ、俊介だ」 それでも暫し幻を見る風にしていた浩太だったが、記憶は突然に蘇ったようだった。 俄かに眸に険しい色が湛えられ、咄嗟に体を起こそうとした瞬間低く呻いた。 「無理をするな、傷口が更に開く」 諌める声に首を振り、それでも浩太は田坂の手を借りて半身を起こした。 仰臥している時は分からなかったが、体を縦にして初めて自分を取り巻いている人間達に気付き、浩太は一瞬目を瞠ったが、すぐに視線は田坂に戻された。 「俊介さま、雄之真さまをお止め下さいっ」 それは言葉というよりも、悲壮な叫びだった。 「雄之真はどこへ行った」 「藩邸です・・膳所藩の京都藩邸です・・早く行かねば・・」 浩太は説明する間すらもどかしげに、立ち上がろうとしたが敵わず、すぐに方膝をついた。 「何故藩邸に?」 田坂に助けられる浩太を見ながら、それまで成り行きを見守っていた八郎が沈黙を破った。 八郎が向けた問い掛けは土方、田坂にとってもそのまま疑問だった。 「・・・今日の夕刻、京に膳所藩江戸家老の内野左佐衛門が着くのです。瀬口さんはきっとその家老を斬るつもりで藩邸に行ったのです。・・・すべての筋書きが、その内野の企てによるものだと・・・川瀬太宰を助け出そうとしている人達が事を起こす前に、その計画自体が内野による自分の出世の為の策略なのだと、そう知らしめる為に、瀬口さんは藩邸に向かったのです」 一瞬言うを躊躇う浩太に代わって、応えたのは総司だった。 土方に支えられてやっと身体を起こしているような状態だったが、強い声音は怒りの為か微かに震えていた。 「・・・内野左佐衛門が?どういうことだ」 田坂が不審気にその名を呟いたのと、浩太が弾かれたように顔を上げ、総司を見たのとが同時だった。 「沖田さんは、雄之真さまから・・・」 憤りと哀しみが交互し、未だ定まらぬ感情に流され揺れる浩太の眸に向かい、総司はゆっくりと頷いた。 「何もかも瀬口さんが話してくれました。・・・そして浩太さんを置いて行かねばなない理由も・・」 「・・・私を置いてゆく?」 「瀬口さんはご病気なのです。もう自分の寿命は長く無いと知って・・だから浩太さんをこれ以上巻き添えにはできないと思ったのです。大切な人間だからこそ、生きて欲しいと・・・そう願ったのです・・」 「馬鹿なっ」 浩太の悲鳴のような短い言葉は、自分を置いて行った主への、ぶつけようの無い怒りだったのかもしれない。 「田坂さん、瀬口さんを止めて下さいっ。十四年前、田坂さんのお兄さんを陥れたのは、内野という家老の策略だったのです。そしてその本当の目的は田坂さんのお父上の失脚を狙ったものだったのです。それに瀬口さんのお父上が脅されて係わった事で、瀬口さんは今までご自分を責めて生きて来られた。・・・・だから今度こそ内野の同じ策略に手は貸さないと・・・。止められるのは田坂さんしかいない。早く、早くしなければ、間に合わないっ」 ともすれば前のめりに崩れ折れそうになる身体を叱咤しながら、息をも継がず繋げた総司の言葉が終り切らない内に、八郎が立ち上がった。 「駕籠を呼んでくる。浩太さん、あんた行くのだろう?」 「行きますっ」 間髪を置かずに応えた太く力強い声は、すでに大きな傷を負っている者のそれではなかった。 「伊庭、俺がゆく。お前は総司を頼む」 出てゆこうとする八郎の背を、土方が制した。 「・・・私も」 縋るように見る総司に、土方は首を振った。 「自分で無理な事は分かっている筈だ。待っていられるな?」 諭すように掛けた言葉には、だが有無を言わせぬ厳しい響きがあった。 「伊庭、総司を頼む」 土方は腕にある総司を委ねるように八郎を見上げた。 「分かった」 それが決まりごとのように、八郎は総司の身体を土方から受け取った。 「浩太立てるな?」 総司の口から紡がた真実を、ただ無言で聞いていた田坂が浩太に声を掛けた。 「はい」 脇を支えられて立ち上がると、浩太は自分の刀を杖に焦れるように前に進もうとした。 「雄之真を連れ帰る」 浩太に手を貸しながら、田坂は見上げて自分を追う黒曜の瞳に笑いかけた。 微塵も揺るがぬ双眸が、言葉よりも激しく強い決意を物語っていた。 頷くだけで、総司もその先は言わなかった。 「先に行って駕籠を拾って来る」 土方が身を翻し、縁から庭に飛び降り走り去った。 それに浩太と田坂が続いた。 その姿が視界に小さくなりやがて消去っても、これから三人が行くべき先に幸いあることを、あらゆる神仏に祈り総司は凝視していた。 庭を照らす冬の陽が、低い潅木の影をその背よりもずっと長く地に延ばし、残酷な時の移ろいを刻んでいた。 八坂神社の北側に位置する膳所藩京都藩邸の屋敷前は、一瞬にしてそれが異様に思われる、不気味な静けさに包まれていた。 焚かれている松明だけが、焔を弾かせる音をさせている。 まだ消しようのない殺気と、血の匂いに隆起する群集の息遣いとが創りだす緊迫感が、三人の男達の逸る足を止めた。 それが凄惨な修羅場のなれの果てだと分かるのに、思考する間はいらなかった。 血走らせた目を剥くようにして、必死に主を探す浩太の眸が、闇の中で地よりも僅かばかり浮き出た一際濃い色に止まった。 倒れている人の形は、それが伏しているのか、仰向けているのかも分からない。 ともすればよもやの恐怖に駆られ、歩みを止めようと竦む己の足を罵倒しながら近づいた視界に入った血の海に投げ出された腕に、切り刻まれすでに襤褸(ぼろ)のようになって巻きついていた着衣に見覚えがあった。 そしてその微かにも動かぬ様が、すでに腕の持ち主はこの世の者ではないと無いと告げていた。 松明の灯りの届かない其処を、月輪だけが仄かに照らし、その中に瀬口雄之真の凍てついた面が浮かんだ。 よろけながら更に近づいた主の亡骸には、幾つかの矢が折れて突き刺さり、夥しい数の斬り傷がざっくりと口を開いているのが夜目にも分かる。 「・・・雄之真さま」 恐る恐る呼んでも、瞼は開かない。 「応えなされ・・雄之真さま・・」 ゆすって求めても、いつまで経っても応えは無い。 主は二度と自分に声を掛けないのだろうか・・・ 開かぬ眸は、決して自分を映さないのだろうか・・ 突然内から起こった震えが、浩太の全身を雷(いかづち)のように貫いた。 獣の咆哮のような叫びが、地響きのように辺りにこだまし、唸りとも付かぬ声を迸らせながら、突然浩太が走り出した。 事切れて間もないのだろうか。 瀬口雄之真の体から流れる血は未だ止まらない。 それを呆然と見る土方の裡に、一瞬にして絶望と憤りの二つの感情が刻まれた。 同時に脳裏を過(よ)ぎったのは、自分に縋るように向けた想い人の瞳だった。 が、感傷は瞬時に打ち捨てなければならなかった。 「浩太っ」 叫び声に向けた土方の目に映ったのは、敵の囲みに突進して行こうとする浩太を、後ろから羽交い絞めにしている田坂の姿だった。 全ての理性をとうに失くしている浩太の憤怒の炸裂は、田坂を圧しようとする。 咄嗟に走りよって共に止めようとした土方と二人掛かりでも、手負いの獅子のように浩太の力は緩まない。 「当屋敷は近江膳所藩が京都藩邸っ、狼藉致すならば即刻手打ちに致すっ」 浩太の勢いに呑まれて引き腰だった集団の内から、漸く威嚇する声が響いた。 「お前たちが雄之真様を斬ったのかっ」 それは全てをかなぐり捨てた浩太の絶叫だった。 「狂乱者の狼藉を罰したまで」 顔の見えない相手の声は、人の群れの中から聞えた。 「触れるなっ」 瀬口の亡骸を片付けようと近寄った男達に、田坂の激した声が飛んだ。 最早本能だけで、目の前の者達に襲い掛かろうと抗う浩太の動きを封じながら、田坂の怒号は其処に居た者達の手を一瞬にして止めるに十分だった。 「これは俺の患者だっ、貴様らが寸分たりとも触れることは許さん、許さんっ」 頬に流れるものは無い。 声に湿るものも無い。 だが浩太を止めながら、斬りかかろうとしているのは、田坂自身なのかもしれないと土方は思った。 そう錯覚させる程激しい、田坂の感情の迸りだった。 「この者は当藩藩士、瀬口雄之・・・」 「瀬口雄之真は病死したと聞き及んでいるっ」 それでも尚上から抑えつけるように抗う相手の言葉を制したのは、土方の鋭い一声だった。 「それがしは新撰組副長土方歳三っ、先般新撰組において遠藤主計という者の横死について尋ねた際、貴藩京都藩邸用人小田殿より瀬口雄之真は昨年病死したと、そう答えを頂いているっ」 相手を怯ませるような峻厳な声が、張り詰めた緊張を裂いた。 「嘘だったとは、言いますまいな」 鋭利な双眸で睨みつけた土方の一喝が、闇の向こうで集団の動きを威圧した。 「この者は、生前此処にいる田坂俊介医師の患者。狼藉致したのは狂人故とお見受けした。よってこの詮議、新撰組が預かるが異論はござらんな」 黙した群れに念を押す低い声が、凍てる空気に白い息と共に響いた。 「・・・しかし、当方では江戸家老が深手を負わされ、止めようとした藩士数名も落命した」 それが精一杯の攻撃なのか、相手の声が硬く強張っていた。 「それについては近日中に膳所より来られる、国家老鳴滝重吾殿に新撰組がご相談させて頂く」 思いも寄らぬ鳴滝という名を挙げられ、俄かに動揺が起こった。 「・・・何故鳴滝殿が・・」 「京都藩邸では遠藤主計は知らぬ人間との答えであったが、膳所藩に今一度使者を遣わせた処、鳴滝殿より確かに遠藤主計は膳所藩藩士との返事を頂いた。その身元の確認に見えられるとの事。貴藩としても江戸家老殿が通りすがりの狂人に傷を負わされたとあっては、聞こえが悪いと思われるが」 最後の止(とど)めを刺すような土方のひと言に、ざわめきは闇に同化するように鎮まった。 宙に映える月も、透きとおった冷気も、そこにある全てが一人の男の為に時を止めたかのように気配を殺した。 浩太は温もりを失った主を抱えて、その体に覆いかぶさるようにして動かない。 近づく者は何人たりともを寄せ付けない殺気すら感じさせて、雄之真の亡骸をいだく浩太の傍らに膝を付いたのは田坂だった。 「・・・俺はお前の声を聞かなかったぞ」 静かに骸(むくろ)に語りかける田坂の声音だけが耳に届いたのか、浩太が微かに身じろぎした。 「お前が話してくれる事ではなかったのか・・・」 応えぬ相手に問う声は、乾いた空気に不釣合いな程にくぐもっていた。 「何故俺を見ない・・」 閉ざされた瞼に触れた冷たさが、すでにこの者が同じ世に息していないのだと言う事実を、初めて田坂の内に狂気のような戦慄とともに駆け抜けさせた。 「目を開けろっ、雄之真っ」 短い声に迸る憤りは、幾ら待っても眸を開かぬ友へのものだった。 「・・・畜生っ」 田坂の慟哭が、沈黙の中で見守る土方の胸に闇を劈(つんざ)いて響いた。 それに呼応するかに漏れた浩太の嗚咽が、やがて天空までをも震わすような唸り声となって、其処を取り巻いていた静寂(しじま)を破った。 総司は先ほどから何も言わない。 八郎と共に屯所に戻ってから、言葉にすることで何かが壊れる事を怯えるように、頑なに口を閉ざしている。 無防備に投げ出された、肉付きの薄い手指に巻かれた白い晒が痛々しい。 「無茶な事をしたものだな」 その手を夜具の中に仕舞ってやりながら、八郎は誰に言うとも無く呟いた。 「・・・他に縄を解く方法がなかったから・・」 切欠を与えられ、つられるように応えた声は、長い沈黙の果てに少しばかり掠れていた。 「お前も一応は剣士だろう」 「一応・・?」 可笑しそうに小さく笑った瞳が、無理をした挙句上がった熱のせいで潤んで揺れる。 「こんな馬鹿な事をする奴は、お前くらいなものだろうよ」 「そうかな・・・」 「そうさ。筋を傷つけて刀を握れなくなったらどうするつもりだった?」 「あの時は・・・そんな事など考えもしなかった」 八郎に言われて改めて、総司は仕舞ったばかりの両手を夜具から出して見た。 確かにあの時自分は必死だった。 自由を奪う身体の戒めを解き、瀬口を追わなければならないと、それだけしか考えていなかった。 八郎の言うとおり、もしも刀を握れなくなったら、自分はもう新撰組には居られなくなるだろう。 そしてそれはそのまま、土方の傍らに自分を置くことができなくなるということだった。 突然背筋を襲った震えは、熱を持つ身体からの遣り過ごすことの出来ない悪寒だったのか、それとも一つ間違えれば置いて行かれてしまう狭間に居たのだと知った恐怖だったのか・・・・。 けれどあの場でこの事を思い浮かべても、自分はきっと同じ行動をとっただろう。 どうしても瀬口雄之真の命を助けたかった。 それしか考えていなかった。 だが今は土方に任せるしか動けない己の不甲斐なさに、総司は静かに瞳を閉じた。 「昔・・・瀬口さんに小僧と呼ばれた事がある」 ふいに語り出された、思い出話というにはあまりにてらいの無い八郎の口調が、総司に今一度瞼を開かせた。 ゆっくりと視線を動かすと、其処に八郎の静かな眼差しがあった。 「・・・八郎さんが?」 「確かに元服も前の餓鬼だったがな・・・。だが瀬口さんとて家禄を継いだばかりでまだ若かった。二十歳になるかならぬか・・・そんな人間から小僧と呼ばれて・・・」 「怒ったのですか?」 「怒ったよ」 揶揄するような黒曜の瞳を見とめると、八郎は仕方無さそうに苦笑した。 「忘れられないひと言さ」 だが声には怒りの欠片も無く、ただ懐かしい昔を思い出すように穏やかだった。 「俺は剣術が嫌いだった」 その名残のように呟いた言葉にあった、初めて聞く八郎の心情に触れて、総司が驚いたように瞳を瞠った。 「いや・・・、嫌いというのは当てはまらないだろうな。剣術は物心付いたときから一つ皮膚のように常に俺の傍らにあった。周りは長子の俺が道場を継ぐものと思っていたようだが、どうにも俺は臍曲がりだったらしい」 「・・・そんなに小さな時から?」 総司の声音に忍び笑いが含まれていた。 「生憎生まれた時からさ」 八郎は仏頂面を作って、端正な横顔を見せた。 日頃こういう感情をあまり表に出さない八郎だが、内に宿すものは決して屈しない剛なる精神の持ち主だと言うことを、総司は長い付き合いで知っている。 「どういう事情か知らないが、ある日瀬口さんがふらりとやって来て、養父と手合わせをした後、独り道場に残っていた。たまたま通り掛かった俺に、稽古はしないのかと聞いてきた。多分その時俺の手にあった幾冊かの書物に目を止めたのだろうな」 「八郎さんは剣術よりも学問の方が好きだったと、前に聞いたことがある」 「そんなことも話した事があったか?」 視線を戻した八郎に、総司が可笑しそうに頷いた。 「学問が好きとだと言い張っていたのは嘘さ」 「・・・うそ?」 「剣術から逃れたかったのかもしれないな」 訳が分からず怪訝に見上げてくる瞳に、八郎は今度こそ低い笑い声を漏らした。 「最初からあてがわれた境遇に反抗してみたかった・・誰でも一時あることだろう」 だが総司は応えない。 困ったように目を瞬いて、見上げるだけだ。 その理由にすぐに八郎は気づいた。 総司には選択の余地がなかったのだ。 又それを望みもしなかったのだろう。 幼い頃に預けられた試衛館は、総司にとって唯一進むべき道であって、還るべき処でもあった。 それを総司は不思議とも思わねば、我が身の不幸と天を恨むことも無く過ごしてきた。 そこに居ることが当然だった総司に、自分の問い掛けは通じない。 八郎はその事を思い起こし、今更口に出した己の愚かさを胸の裡で苦笑した。 「与えられたものではなく、己の力で手に入れたいと、生意気にもそんな事を思っていた」 「だから剣術よりも学問を・・?」 「今にして思えばその学問とて逃れた先にすぎなかった。俺はただ天からの定めと言う奴に抗ってみたかっただけなのかもしれんな」 「・・・私には分からないけれど、そういう事もあるのだろうか・・」 顎のあたりまで掛けられた夜具の端を、幾重にも巻かれた晒から少しだけ覗かせた指の先で掴んで、総司は呟いた。 「ちょうどそんな時さ。瀬口さんと会ったのは・・・・。瀬口さんの問い掛けに、俺は学問の道に進むつもりで剣術には興味がないと言い切った。どうしてそんな事を、ほとんど見ず知らずの人間に向かって言ったのか、俺自身にも未だその時の心が分からない。 が、そんな俺に向かってあの人は、今から稽古をしたいが相手になって欲しいと言った。瀬口さんの技量は、幾度かの立合しか見ていない俺の記憶にすら刻み込まれる程のものだった」 「それで八郎さんは立ち合ったのですか・・・?」 仰臥して瞳だけを向けていた総司が、いつの間にか身体を横に倒していた。 「打ち据えられて打ち据えられて・・・気づいた時には竹刀が床に落ちていた」 「・・一度も踏み込めなかったのですか?」 総司の瞳が見開かれた。 自分が初めて会った頃、すでに伊庭の小天狗と字(あざな)されていた八郎の剣の才は、生まれながらのものだ。 数え切れず立ち合って、総司は身を持ってそれを知っている。 その八郎が例え少年だったとは言え、まさか一本もとれず、まして相手に踏み込む事もできなかったというのは、総司にとって俄には信じられない事だった。 「・・・技量というよりも」 八郎が何かを思い出すように、目を細めて遠くへ視線を移した。 「位負けか・・・」 「くらいまけ?」 「相手の気迫に負けたのさ。俺に同じ気迫があれば、あるいは対等とまでは行かぬが、少なくともあれ程打ちのめされはしなかった」 総司は八郎の次の言葉を、沈黙の中で待っている。 穏やかに昔を語りながら、八郎の眸にはまるでその時の情景を、今この場で蘇らせているような厳しさがあった。 「俺にも多少の・・・いや、身に過ぎる自信があったらしい。呆然と立ちすくんでいた俺に瀬口さんが笑いながら、又やろう小僧・・・そう言った」 懐古する口調は柔らかい。 それが八郎にとって決して不愉快な過去では無いのだと、総司は察した。 「その時から八郎さんは、剣術の稽古を熱心にするようになったのですか?」 「いや、もっと色々他に切欠はあった。・・・が、未だにあの時の瀬口さんの声は耳から離れない。なんのてらいも気負いも無い、どちらかといえば楽しそうな口調だった」 「・・・楽しそう?」 「からかっていたのでも無い・・・上手く言えないが、強いて言葉にするならば、俺とまた立ち合うのを楽しんでいるような、そんな風だった。今にして知れば、あの時は瀬口さんも辛い頃だったのだろうが、素振りからは一欠けらも感じさせなかった。結局あれから瀬口さんとは一度も会わずに終わった。それがまさかこんな頃になって又名を聞くとはな。・・・またやろう小僧、確かにそう言った」 独り方頬を緩める八郎は、今少年の時に還っているのかもしれない。 「・・・もう一度聞いてみたいものさ」 それは此処に居ない人間に向けられたものなのか・・・ 呟きは白い息と共に、空(くう)に呑まれた。 人の世の縁(えにし)の不可思議さを、八郎も又思っているのだろうか。 田坂に詫びていたと伝えて欲しいと自分に言った瀬口雄之真の顔が、今総司の脳裏を過ぎる。 あの時も、微塵の翳りも無かった。 だからこそ自分は瀬口の決意の固さを知った。 もうあれからどの位の時が経つのか。 瀬口は無事なのだろうか・・・・ 総司は瞼をきつく閉じた。 そうでもしなければ、現(うつつ)にあって瞳に映る、底の無い暗い幻影に怯えそうだった。 「・・・来たようだな」 ふいに耳に届いたそれまでとは違う硬い声に、頑なに瞑っていた瞳を開けて見上げると、八郎が閉ざされた襖の向こうを見ていた。 聞こえ来る気配が土方のものだとはすぐに知れた。 身体を起こそうとして、八郎がその肩を制して止めた。 「寝ていろ」 それに首を振ることで、否と応えた。 だが傷だらけの両手は身を起こすを支えるのに、何の役にも立たない。 八郎の手がごく自然にそれを助けた。 「すみません・・」 詫びたときに、足音が止まり、同時に外の冷気と共に焦れるように待っていた姿が、総司の視界に映し出された。 弾かれるように見上げて土方の面を捉えた瞬間、黒曜の瞳の奥が激しく揺れ動いた。 ・ ・・・瀬口雄之真はすでにいない。 それが総司に容赦なく突きつけられた真実だった。 「伊庭、すまぬが田坂さんの処へ行ってはもらえぬか」 総司の唇がわななき、何か形を結ぼうとする前に、土方が八郎に視線を向けた。 「分かった」 土方のひと言で、全てを承知した八郎の応えだった。 「新撰組の者を三人程つける。腕は立つ。何も仕掛けては来ないだろうが念の為だ」 立ち上がった八郎に、土方は殊更抑揚を押さえた声で告げた。 「相手は膳所藩か」 「そうだ。田坂さんの処に運ばれた瀬口雄之真の亡骸と、水梨浩太の身を守ってやって欲しい」 その刹那、息を詰めるような総司の短い声が聞こえた。 「頼む」 土方の視線を受けて八郎は確かに頷くと室の外に出、開けてあった襖を静かに後ろ手で閉じた。 想い人の、血の色と言うものが何処にも見当たらぬ蒼白な頬と、見開いたまま凍りついたような瞳にあって、土方はその傍らにゆっくりと腰を下ろした。 「間に合わなかった」 たったひと言が、総司を更に残酷な現実へと追い詰めた。 一瞬土方の姿が視界に揺らいた。 このまま覆いかかってくる闇に己を葬れば、目覚めた時にはすべては振り出しにもどっているのだろうか・・・。 そんな詮の無い思考だけが、今総司の薄れ行く意識が縋れる唯一の糸だった。 事件簿の部屋 冬陽(十弐) |