冬 陽 (参) 日の落ちた後の真冬の廊下の板張りの冷たさは、骨の髄まで染み込むように、身体にある全ての神経を震えあがらせる。 遠くから賑やかな声が聞こえて来る夕餉の終わる今頃は、屯所の中で一番活気ある頃合だった。 明るい声が響く其方の方向には背を向けて、総司は音を忍ばせるようにして歩き出した。 だが自室を出て暫く行った処で、縫い付けられたように足が止まった。 この先には土方の室がある。 今から田坂の処に行く事を、できれば土方には知られたくは無い。 昨日も黙って出かけ、心配をかけさせてしまったばかりだった。 また同じ事を繰り返すのは本意ではないが、断って行くには些か気が重かった。 八郎は田坂の過去を知っていた。 けれど土方はまだ知らない。 それが総司を躊躇させていた。 暫くそこに立ちすくんだまま、どうにも纏まらない思考を巡らせていたが、やがて決めたように踵を返すと、総司は縁から中庭に降り、土方の室の前を通らずにそのまま屯所の裏口へと向かった。 五条にある田坂の診療所に着いた時には、すでに辺りを覆う闇が人の顔貌(かおかたち)を判らなくする程に濃くなっていた。 足を急がせたせいか、少しばかり乱れて吐く息が白く濁る。 「どなたはんですやろ」 まだ開いていた門を潜り玄関の戸を遠慮がちに叩くと、すぐにキヨの声がした。 「沖田です・・・夜分に申し訳ありません」 総司が応えの全てを言い終わらない内に、すぐに中から閂(かんぬき)を外す音が聞こえ、引き戸が開けれられた。 「沖田はん、どないしはりました?」 昨日の早朝といい、今日のこのすっかり日暮れてからといい、総司にしては二日続けての珍しい時刻の訪問に、キヨは何事かあったのでは無いかと、顔に浮かべた憂いを隠しもしなかった。 「巡察を終えて来たらこんな頃になってしまって・・・。あの、田坂さんは居ますか?」 「さっさと上がれよ。そんな寒い処では風邪をひくぞ」 申し訳なさそうにそこを動かず立っている総司に、キヨの応えよりも先に後ろから声が掛った。 暗い廊下の奥にあっても、いつもと変わらないように見える田坂の様子に、やっと総司は安堵の息を漏らした。 「で、どうした?」 茶を運んできたキヨが去ると、田坂はまだ湯気が立っている湯呑みを口に持ってゆきながら、先ほどから言葉少ない総司に問い掛けた。 それでも何から話して良いのか分からずに、総司はまだ思案の中にいる。 「遠藤さんのことだろう?」 殊更気負う風でもなく田坂が発した一言に一瞬たじろいだが、すぐに観念したかのように小さく頷いた。 「遠藤さんのことを、膳所藩ではそんな人はいないと、そう言っているのだそうです」 「・・・いない?」 ぽつりぽつり語り始めた総司の話に、田坂が驚いたように聞き返した。 やはり田坂は知らなかったらしい。 端正な顔が不審気に曇った。 「一昨日此処に来た時、遠藤さんは脱藩したとかそんなことを言っていましたか?」 「いや、一言も。・・・・が、おかしいな」 そのまま何かを考え込むかのように、田坂は黙してしまった。 その高い鼻梁の反対側に、言葉無い主の心を映すかのように行灯の淡い灯りが影を落とす。 「・・・田坂さん」 重い沈黙に耐え切れず、総司が躊躇いながらも声を掛けた。 「遠藤さんは誰と会う事になっていたのでしょうか?」 「それは俺にも分からない。いや、あの人にしては珍しく言いたくなさそうだった。俺も話のついでに聞いただけだったから、別段気にも止めなかった」 「このことで膳所藩は田坂さんに何か言ってきましたか?」 「何も言っては来ない。遠藤さんの横死についても小川屋が知らせてくれなければ知らなかった・・」 そこまで言いかけて、ふと気づいたように田坂が総司を見た。 「もしかしたら、気に留めているのか?」 「・・え?」 「俺が膳所藩と、又係わりを持つようなことになりはしないかと」 「そんなことはない・・」 余計な節介だと言われても仕方の無い自分の本心を言い当てられて、総司は正直に狼狽した。 「膳所藩に対してもう何の拘りも持たないといえば、確かにそれは嘘になる。が、俺の中ではすでに打ち捨てた過去だというのも又真実だ。例えこの先膳所藩が何を言ってこようとも、俺にとっては関係が無い。心配は有難いが俺は大丈夫だ」 力強い声音に促されるように伏せていた瞳を上げて見た先に、自分を見る田坂の深い眼差しがあった。 その眸に真っ直ぐに射抜かれて、総司は慌てて又俯いた。 田坂は自分よりも遥かに強い精神の持ち主だった。 支えられているのはいつも自分の方だった。 辛い過去を、もう誰にも触れさせたくは無いという、ひとりよがりな思いに捉われすぎて、もしかしたら自分は田坂の矜持を傷つけたのだろうか。 考えてみれば、とんでもない思い上がりをしていたのかもしれない。 「・・・すみません。出すぎた事をしました」 詫びる声の小ささに、総司の田坂への申し訳なさと、不甲斐ない己への憤りが籠められていた。 「いや、嬉しいと思うよ」 そんな総司を慰撫するだけではない、どこか自嘲するような田坂の低い苦笑だった。 この黒曜の瞳が自分だけを映す時を焦がれて待っている己を、田坂は嫌という程知っている。 そしてそれはこうして我が身を案じてくれる配慮からではなく、自分を欲する想いから来て欲しいと望む心を止められない。 溢れる想いは僅かばかりの隙を狙って迸り、時に田坂自身をも苛む。 こうして目の前にうな垂れた総司の姿を見ていれば、幾重にも土を盛った筈の堤はいとも容易く崩れそうになる。 それを田坂は辛うじて押し留めた。 「もう納得しただろう?早く帰った方がいいな。また土方さんが心配しているだろう」 少し邪険に言い切ったのは、そうでもしなければ今感情の赴くままに走り出しそうになる自分を、到底止める事ができそうになかったからだった。 そんな急な様子の変わり方が分からず、総司は暫く戸惑ったように見ていたが、それ以上物言わぬ田坂に、やがて小さく頭を下げて立ち上がった。 「・・・また来ます」 それでもまだ室を出るのに心を残したように其処を動かないでいた総司が、田坂を見て遠慮がちに声を掛けた。 どこか気弱そうに自分を見る瞳に合えば、きっと今度こそ辛抱はできない。 「気をつけて帰れよ」 それでも顔を上げて無理に作った笑い顔を向けてやると、やっと安堵したように総司は笑みを返した。 去ってゆく静かな足音を聞きながら、田坂は両腕を頭の後ろで組んでそのまま冷たい畳の上に仰向けに体を倒した。 ぼんやりと行灯が照らす天井の木目を睨むように見ながら、このまま後を追いかけ腕を掴んで振り向かせたい衝動を、固く目を瞑って堪えた。 独り残された室に、我知らず漏れたのは遣る瀬無い溜息だった。 もう何処にも想い人の気配は無くなっても、起き上がる気にもなれず体を横に倒そうとしたとき、突然表の方で鈍い音が聞こえた。 一瞬の間も置くことなく咄嗟に身を起こし、勢いのまま室を出て廊下を走る急(せ)く心に足が追いつかずに焦れる。 漸く玄関に近いところで、キヨを後ろに庇うようにして立っている薄い背が視界に飛び込んだ。 田坂の気配を察してはいるのだろうが、総司は表口に視線を止めて振り向かない。 木の戸の向こうには確かに誰かがいるのだろう。 「誰だ」 その総司よりも一歩前に出て、抑えた口調で外にいるらしい人物に声を掛けたのは田坂だった。 だが問い掛けにも、外に入る筈の人間は無言のまま全く動く気配が無い。 更に前に出ようとする田坂の腕を、総司が掴んで止めた。 それに目顔だけで大丈夫だと応えたが、それでも総司は手を離さず首を振ると、そのまま促すように後ろのキヨに視線を送った。 キヨを危険な目に合わせる訳にはゆかなかった。 暗黙の中で、総司の瞳は田坂にキヨを遠ざけるように訴えていた。 「キヨ、奥に行っていてくれ」 囁くような田坂の低い声にも、キヨは暫し躊躇うように其処を動かなかった。 が、今一度強い視線で促すと、やっと小さく頷ずいて背を向けた。 こちらを気にしつつ、幾度も振り返ったその姿が廊下の奥に見えなくなると、田坂の動きの方が総司よりも一瞬早かった。 素足のまま玄関の三和土(たたき)に飛び降り、まだ緊急の患者の為に鍵をかけずにおいた小さな潜り戸を開けた。 入り口は人一人が腰を屈めて漸く出入りできる程の狭さだから、例え開けた瞬間に襲い掛かられても、それを防ぐことができる。 計算され尽くした田坂の行動だった。 が、外にいる人間は、そんな物音を聞いても身じろぎする気配も無い。 総司が後に続いて土間に降りると、田坂は身構えながら更に外に身を乗り出した。 暗さに慣れた田坂の視界の中に、玄関の板戸にもたれ、うずくまるようにして動かない人の形があった。 そこに殺気というものが無い事を瞬時に確かめると、田坂はおもむろに歩み寄った。 一見無防備かとも思えるその後ろ姿には、しかし仕掛ける隙というものがどこにもなかった。 こんなときにあって総司は、八郎の父伊庭軍兵衛が往年、少年だった田坂の太刀筋を誉めていたという話を思い出した。 だがそれよりも総司を驚かせたのは、次に田坂が其処にいる人影に掛けた言葉だった。 「浩太か?」 冷気に凛と響くような声に、影は初めて顔を上げ、人の言葉を発した。 「・・・お久しぶりでございます。俊介さま」 声に力は無かったが、ひとつひとつ区切るようにはっきりと、浩太と呼ばれた男は応えを返した。 田坂は男の横に行って膝を折ると、うずくまったまま前かがみになっていた体を起こした。 「怪我をしているのか」 「大したことはありません・・・かすり傷です。一度は塞がったものが、また開いただけです・・」 「雄之真はどうした」 「・・・雄之真さまとは・・はぐれてしまいました。それで私は無礼をも省みず、ここまで・・・申し訳ありません。少し休んだら帰りますので・・」 言葉の終わらぬうちに、浩太は低く呻いた。 「馬鹿なことを言うな。傷は浅くは無い筈だ。立つ事ができるか?」 田坂の問いかけに、浩太は頷いて自分で立ち上がろうとしたが、膝を立てようとしたその途端に体は力を無くして崩れ落ちた。 見れば支える田坂の腕を通して、血が滴っているのが夜目にも分かる。 総司は躊躇い無く田坂の傍らに来ると、怪我人のもう片方の脇に入り込み、共に支えて運ぶのを手伝おうとした。 「大丈夫か?」 総司の耳に届いたのは、田坂の少しばかり不安気な声だった。 「このくらい手伝えます」 応えた時には、田坂と力を合わせて怪我人をどうにか立ち上がらせていた。 「ほら見ろ」 からかうような田坂の口調が、緊張すべき筈の空気を緩ませた。 田坂が浩太と呼んだ男を、どうにか奥の座敷に運び込んで、キヨが手早く敷いた夜具の上に寝かせると、総司は玉のように浮かんだ額の汗を手の甲で拭き取った。 怪我人は良い体格をしており、流石に此処まで連れてくると乱れた息を隠し様もなかった。 「すまなかったな、あとは俺がやる。今晩は此処に泊まって行ってくれ。遅くまで足を止めてしまった。夜道の危険を考えればその方がいい。土方さんには使いをやろう」 「大丈夫です。帰ります。・・・・けれどこの人」 総司は目の前に横たえられて、もう口を利く気力も残っていないのか、青い顔をして瞼を閉じたままの男に視線を遣った。 「俺の古い知り合いの家に仕えていた男だ。水梨浩太という。傷は浅くはなさそうだが心配は無いだろう。それよりも君にそんなに汗をかかせて、その上その格好で帰らせる訳には行かない。すぐにキヨに言って風呂を用意させる」 言われて初めて自分の右の肩口から脇にかけて、着ているものが所々が広範囲に朱に染まっていることに気付いた。 紛れも無く、怪我人の血だった。 浩太は先ほど再び開いた傷だと言っていた。 それを証とするように身に着けているものは、既に乾いて黒く変色している滲みと、新しい鮮やかな朱にまみれている。 田坂は殊更大事なさそうに言ってはいたが、この出血から案外に傷は予断を許さないものなのかもしれない。 見れば田坂はすでに厳しい顔をして、怪我人の傷口を丹念に探っている。 「・・・田坂さん。それでは今晩はお世話になります」 少しの間黙ってそんな様子を見ていたが、振り向かない田坂の背に、総司は邪魔にならないように小さく告げた。 土方には又何も言わずに出てきてしまった。 それを思えばすぐにでも帰りたい。 だがその総司の心に勝ったのは、ふいに現れた田坂の古い知人というこの客が、自分の胸をどこか落ち着かなくさせる存在に思えたからかもしれなかった。 そしてもうひとつ。 今晩は夜通しこの知故の怪我人の手当てにあたるだろう田坂の、せめて何かの役に立てればと願った、掛け値の無い思いからだったに他ならない。 案内された室で、キヨはすぐに総司に血で汚れた着衣を脱がせると、新しい夜着を用意してくれた。 仕立おろしたばかりのそれは、本当は田坂の為に縫われたものなのだろう。 横も縦も余る中に、総司の身体は浮くように頼りない。 「堪忍しておくれやす」キヨはそんな総司を見て、ふくよかな頬を緩めた。 「私に何か手伝う事はありませんか?」 炭を熾して十分に温まった室に夜具を敷いてやり、風呂の支度をする為に立ち上がったキヨに総司は声を掛けた。 「若せんせいお一人で大丈夫ですやろ。血ぃはたんと出てはりましたが、傷はそう深いもんでもなさそうやし・・・」 キヨは先ほどの浩太の様子を思い出すように、ゆっくりと言葉を紡いだ。 「あの人、田坂さんのお知り合いなのですか?」 「実はうちもそれを知らんのですわ」 キヨがそれだとばかりに、一度上げた腰を又総司の前に下ろした。 「知らないって・・・キヨさんが?」 正直に驚く黒曜の瞳に、キヨは大きく頷いた。 「あのお人・・・浩太はん・・とか、若せんせいは言ってはりましたなぁ。キヨも初めて聞くお名前ですのや」 「キヨさんが知らないなんて・・・それでは江戸にいた頃の?」 キヨは又、ふっくらと二重になった顎をひいて頷いた。 「・・・・沖田はんは若せんせいのご事情を、知っておいでですやろ?」 今度は総司が無言で頷く番だった。 「キヨも若せんせいが江戸においやした頃のお話は、あまり聞いたことがありませんのや。あの浩太はんと言わはるお人も江戸の言葉を使わはりましたやろ?」 「そういえば・・」 浩太は短い会話の中に訛の無い、どちらかと言えば切れの良い江戸言葉を使っていた。 「キヨには江戸にいた頃の若せんせいの事は、あまりよう分かりませんのや・・」 灯りが像を映し出す障子に、少し俯いて吐息したキヨの影が寂しげに揺れた。 どんなに目を瞑って眠ろうとしても、そうすればそうする程頭の芯は冴え渡る。 もう数えることもできぬほど打った寝返りの幾度目かに、総司は遂に身体を起こした。 薄い夜着一枚では何の防寒にもならず、すぐに刺すような冷気に震え、キヨが用意してくれてあった綿入れの在り処を手を伸ばして探った。 指に触ったそれを手繰り寄せ、肩から羽織ると急いで立ち上がり、音を立てぬように神経を張って廊下に出た。 板張りの冷たさに素足の指先を少し丸めるようにして進める歩の行き先は、きっと夜通し怪我人を看ているであろう田坂の元だった。 闇の中にひとつだけ障子を通して淡い灯りが漏れる室の手前で、総司は立ち止まった。 やはり田坂は今夜は寝ずに怪我人の様子を見守っているらしい。 だが総司はその様を見ても、次の一歩を踏み出せずにいた。 ここまで思いのままに来てしまったが、田坂に会って自分はどうするつもりだったのだろうか。 いくら浩太と呼んでいたあの怪我人が気に掛るとはいえ、それがどういう縁の者かと問う事は、田坂の過去に土足で踏み込むのと同じではないのだろうか。 後先を見ずの行動を起こした愚かな自分を侮りながら、総司はまたしても己の浅慮に吐息した。 諦めて踵を返そうとしたとき、急に姿勢を変えたのが悪かったのか、小さな咳が零れそうになった。 咄嗟にそれを堪えようと口元に手を当てたときに、その肘が柱に当たったらしい。 物音はしなかったはずだが、背中で障子の開く音がした。 「これ以上夜通し看る病人が増えるのは御免だ」 総司だという事を半ば予期したような、田坂の少々厳しい口調だった。 躊躇いがちに振り返った総司を、田坂は中に入るようにと言葉ではなく仕草で促した。 「・・・怪我をした人、浩太さん・・でしたか、大丈夫なのでしょうか?」 忙(せわ)しい息を繰り返し、目の前で仰臥している男の顔を見ながら、総司は田坂に問うた。 怪我人の様子から先ほど田坂が自分に言っていた事よりも、やはり症状はずっと重いのだと知れた。 「傷は負ってから一両日は経っているものだが、無理をしたと見えて開ききっていた。度重なる出血と、怪我からの高熱もあるから今夜の所はあまり油断はできない」 もう隠しても仕方が無いと思ったのか、応える田坂の声も憂慮を含んで重かった。 「・・この人、誰かとはぐれてしまったって・・」 田坂を振り向いて、総司が先ほどから気になっていた事を言葉にした。 「俺の幼馴染の瀬口雄之真という男と、はぐれてしまったらしい」 言いながら田坂は総司の為に、火鉢にある炭に細く息を吹きかけて、いま少し強く暖を取ろうとしてくれている。 「田坂さんの幼馴染・・・?」 「俺に居ては不思議か?」 慌てて首を振った総司に、田坂が苦笑した。 「ちゃんと袖を通しておけよ。どうせ寝ろと言ったところで言う事は聞かないのだろう?」 言われるままに、肩に羽織っただけだった綿入れに素直に手を入れた。 袖を通して前を合わせただけで、ずいぶんと寒さを遣り過ごすことができる。 「だいたい俺のものでは身体が浮くだろう」 言われてみて、今身につけているものが田坂のものだと思い出した。 「そういえばキヨさんが笑っていた」 「もう少し身体がしっかりとできると良いんだがな。それを言ったところで仕方が無いか」 総司の骨格の細さは持って生まれたものでどうしようもない。 だがこの者の内にある宿痾に少しでも抗し得る身体を、どうして天は授けてはくれなかったのかと、田坂は時折憤りを感ずることがある。 そしてそれはすでに医師としての自分ではなく、己を捉えて離さない想い人への恋慕からなのだと言う事も、田坂は又苦しい程に承知している。 自分を案じてくれ眠ることができず、廊下の凍てる冷たさを素足に踏みしめながら総司はやって来たのだろう。 それを思えば、一度は鎮まった想いがまた滾る。 「ではその田坂さんのご友人、きっとこの人を探しているのではないかな・・」 そんな田坂の思いなど知る由も無く、総司は真摯な瞳を向けた。 「・・・多分・・そうだろうな」 ふいに言葉を掛けられて、他所に置いていた心を慌てて現(うつつ)に戻しての、一瞬間を置いた田坂の応えだった。 「多分って・・」 総司の声が訝しげだった。 「いや、他意は無い。この浩太の主人で俺の幼馴染という奴は、案外に暢気なところがあるから、はぐれてしまっても鷹揚に構えているのではないかとそう思っただけだ」 咄嗟に己の想いを隠したにしては情ない言い訳に、田坂は呆れて心裡で自嘲した。 どこか承知できない常とは違う田坂の言葉に、総司は沈黙することで更に応えを求めたが、それ以上は叶わないと知ると、諦めたように浩太に又視線を戻した。 この怪我は確かに刀傷だ。 浩太は誰かと刃を合わせて傷を負ったのだ。 主人とはぐれてしまったというのは、その時の事を言っている筈だ。 「・・・田坂さんのご友人と言う方は、大丈夫なのでしょうか・・・怪我をされてはいないのでしょうか?・・もしかして遠藤さんの事と・・」 暫し迷ったが、やがて躊躇いを捨てて総司は田坂に問いかけた。 それはずっと胸を重く占めていた遠藤の横死とこの浩太の怪我が、もしや関係があるのではとの思いが、昏々と眠る怪我人を見ている内に、堪えようが無く大きくなって行く不安を、田坂自身に否定して欲しかったからかもしれない。 田坂の幼馴染と言うのならば、きっと膳所藩の人間であろう。 遠藤と少しでも繋がりのある人間がまた一人、同じ頃合にこうして傷を負っている。 偶然と打ち消す事の方が、あまりにも不自然すぎる。 まだ何ものにも形を変えていない暗い予感を払拭してくれる言葉を、総司はただ待った。 だが怪我人に視線を止めたまま、応えを返さぬ田坂の表情が、紛れも無く総司の不安を是と認めていた。 田坂も自分と同じ思いに、今思考を捉われているのだろうか・・・ 「・・・田坂さん」 呟いた声と共に零れた白い息が、仄かな灯の中にぼんやりと浮かんだ田坂の険しい横顔に届くまでもなく、まるで先の見えない霧の中に入り込むかのように透けて散った。 事件簿の部屋 冬陽(四) |